「な、な、何!?気持ち悪い!」
あまりにストレートな悪口を緑色の化け物にぶつけるが、言葉が分からないのか化け物はニタニタと気色悪い表情を浮かべてジッと紫音を見つめる。
手に薄汚れた棍棒を持ち、背丈は紫音の腰にかかるかどうかという程度。
しかしながらあまりの気持ち悪さに紫音はその場から動けなかった。
「来ないで!気持ち悪い!」
「ギギギ……」
紫音の気持ちなどどこ吹く風か、化け物は一歩、また一歩とゆっくり紫音へと近づいていく。
明らかにワザとであるのは紫音も理解していた。
そして化け物が自分を害そうとしているという事も。
手を伸ばせば届く、そんな距離まで近付いた化け物はニタニタ笑いながら棍棒を持った腕を高く上げる。
――殺される。
そう思うと同時に紫音は両目を強く瞑った。
数秒目を瞑ったまま震えていると棍棒が振り下ろされなかったのか、身体に痛みを感じなかった紫音はゆっくりと目を開いた。
そこには緑色の血を撒き散らしバラバラになった化け物と思われる残骸が転がっていた。
「ヒッ――」
声にならない悲鳴を上げた紫音はすぐそばに人の気配を感じそちらへと視線を向ける。
そこには紫色のコートを着た男が佇んでいた。
「え……?」
何が起きたかも分からない紫音の頭の中は混乱していた。
ただその男の片手が緑色に汚れており、自分を助けてくれたのだとそれだけは分かった。
「あの……助けて、くれてありがとうございます」
「…………
家を飛び出たのはいいが、アカリの所在が分からない。恐らく近辺に住んでいるだろうけど、闇雲に探すにはあまりに範囲が広すぎる。どうしたものかと足が止まってしまった。「どこに行けばいいだろう……あ、そうだ。喫茶店レーベ」記憶が完全に引き継げていないのか朧気ながら喫茶店レーベという名前が浮かんできた。確かレオンハルトさんだったはず。それすらも薄れた記憶だが、こっちの世界での名前は何だったかな。「ん?」レーベの近くまで来ると見慣れた顔の男性が丁度喫茶店へと入っていくのが見えた。なんとなくだが、多分今の人がレオンハルトさんに違いない。鐘の音をカランコロンと鳴らしながら扉を開けるとまばらに人がいた。レオンハルトさんはカウンターで一人座っている。僕が隣の席に座るとちらっとこちらを見た。多分、店はガラ空きなのにどうして自分の真隣に座るのかと思っていることだろう。「ご注文は?」「コーヒーを一つお願いします」注文を終えると店員さんがバックヤードへと入っていく。よし、今がいいタイミングだ。意を決して僕は隣の男性へと話し掛けた。「あの……レオンハルトさん、ですよね?」「ッッ!?」僕が名前を呼ぶと同時に勢いよくこちらを振り向いた。その顔色には驚愕の色が見える。「貴様……何故その名前を知っている」「話せば長くなりますが、ええっと……確か宿り木?まで案内してもらえませんか?」「なんだと?宿り木まで知っているのか&h
目を開けると見慣れた天井が視界に入ってくる。ここは僕の部屋だ。見渡すと机と参考書、それに散乱している研究結果の紙の束が無造作に置かれている。すぐに机の上に置いてあったスマホに手を伸ばし、電源を入れる。『2042年9月2日、7時45分』論文発表会当日の朝だ。ここで僕は初めて自身の研究成果を発表した。見ていた者は殆どが失笑、もしくは眉を顰め苛立った様子だったのを覚えている。「記憶が……残ってる」さっきまで世界樹の中にいたはずだ。足元から光に包まれていき、次第に視界が白に染まった。次に目を開けた時には僕は自分の部屋にいた。「時が戻ってる……」誰に聞かせるでもなくついつい独り言を呟いてしまう。あまりに一瞬の出来事で実感が湧いていなかった。パジャマから私服へと着替えると僕はリビングへと足を向ける。この時間なら姉さんは起きていない。仕事始まりは9時からだと言っていつもギリギリまで寝ていたなと、随分昔のことのように感じて思い出し笑いが溢れてしまう。今日、僕が論文発表会に出なければあの未来はなくなるだろう。ただ、その代わり卒業論文をどうするか考えないといけないが。そんなものこの世界に魔族を呼び寄せることに比べれば大したことではない。まあ、最悪の場合は留年するだけだ。そんな事を考えているといつの間にか時計の針は8時30分を差していた。2階の部屋からドタバタと慌てたような音が聞こえてくる。時間ギリギリまで寝ているせいで
「できない……ですか……」『一人の記憶をそのままに時間を戻す事すら容易ではない。ましてや三人もの記憶をそのままなど、不可能である』「では僕だけなら、可能でしょうか?」せめて僕の記憶だけは引き継がせて欲しい。また同じ悲劇を繰り返さない為にも。それにアカリやアレンさんとはまた仲良くなればいい。しかしそれも全て記憶がなければ、そもそも会ったことすらなくなってしまうのだ。『一人だけ……そなただけならば何とかなるかもしれん。しかし断片的に記憶は消えるだろう』ちょっと忘れてしまっている事だってあるかもしれないということか。それはもう仕方がないと割り切るしかない。少なくとも魔神の存在とアレンさん達の事さえ覚えていれば何とかなる。「それでも構いません。記憶が少しでも残るのなら」『それではこれより時空を超える御業を使う。時が戻ればもう会うこともないだろう。そして魔神が生きている時間軸へと戻る。だからこの場で伝えておく。この時間軸での魔神を消滅させてくれて感謝する』僕の頑張りも全てはあの日に戻るため。魔神を倒したこともこの世界で様々な人と交流したことも何もかもなかったことになる。一抹の寂しさを覚えたが、それは恐らくアカリも同じだろう。横を見るとアカリの目が若干潤んでいた。「誰も死んでいないあの時に、カナタが研究の成果を発表するあの日に戻るの?」「多分ね。僕の記憶が残っていれば二度と異世界ゲートなんて作りはしないさ」「でも……もしかしたらカナタ以外の人が作るかもしれないじゃない。五木さんだっけ?あの人ならいずれは作るかもしれないよ?」「その時は……その時だよ。それまでにアレンさん達を見つけて対
「扉が……勝手に開いていく、だと?」世界樹の入口が勝手に開くなど、ヨハネさんも初めて見た光景なのか目を見開いて驚いていた。「まさか……この三人を呼んでいる、とでも言うのか?」「そうに違いないだろうね。行かせてあげたほうがいいんじゃないかな?ほら、世界樹の精霊に逆らうわけにもいかないだろう?」「……いいだろう。行け」ペトロさんの後押しもあってかヨハネさんは渋々ながらも三人で入ることを許可してくれた。恐る恐るながら、世界樹の中へと入ると扉は勝手に閉まっていく。閉まる瞬間ペトロさんが手を振っていた。「またいつか会えたなら、今度は君の世界を案内してほしいな」そんなような事を言っていた気がする。閉まる直前だったから完全には聞き取れなかった。扉が完全に閉まると暗闇が僕らを包み込む。僕は二回目だから驚くこともなかったが、姉さんとアカリは狼狽えていた。目で見えているわけではないけど、ワタワタと手足を動かしているのが分かったからだ。「こ、ここ世界樹の中なの?どこにいるのカナタ!」「いるよすぐ横に」「きゃあっ!急に喋らないでよ!ビックリするじゃない!」じゃあどうしろというのだ。アカリは黙って僕の服の裾を掴んでいた。でも警戒しているのだけはわかった。何となく、アカリから放たれる殺気のようなものが僕の肌に突き刺さっていた。しばらく騒いで落ち着いてきたのか姉さんも静かになった。それを見計らってか突然目
ペトロさんと合流した後、僕らは世界樹の下まで移動した。姉さんは世界樹を見るのも初見だ。あまりの大きさに口をポカーンと開き雲を突き抜けて天まで伸びる天辺を見上げていた。「すっっごい大きな樹だね!これが世界樹?」「そうなんだ。あの幹のところに入口があって中に精霊がいるんだよ」「精霊かー、この世界に来て色んなものを見てきたけど精霊は初めてかも!」姉さんもしかして一緒に中に入るつもりか?世界樹の精霊が許してくれるだろうか。世界樹の幹までくると、そこには前回結界を解いてくれた使徒が勢揃いしていた。今回もまた結界を解除してもらわなければ中には入れない。「来たか……まさかこれほど早く戻って来るとは思わなかったぞ」ヨハネさんが最初に僕を見て口を開く。「久しぶりーカナタ!魔神を倒すなんてなかなかやるじゃない!ん?そっちの女の子はなになに?」「お久しぶりですアンデレさん。こちらは僕の姉です」「し、紫音です!」やはりアンデレさんは女性ということもあって、最初に姉さんが気になったらしい。僕の姉だと分かるとアンデレさんはニパッと花が咲いたように笑顔を浮かべた。「へぇ〜!別世界のそれもカナタの身内だなんて!私はアンデレよ、よろしくね!」「は、はい!よろしくお願いします!」何をよろしくするのか分からないが、まあ二人が仲良くお喋りするぶんにはいいだろう。どうせ元の世界に戻ったら二度とアンデレさんと会うことはないだろうから。「まさかほんとに魔神を倒してくるとは……人間の力も侮れませんね」トマスさんは感心したように頷いていた。僕だけの力ではないんだけど、わざわ
「やぁカナタ君。まさかこれほど早く会うとはね」入るやいなやペトロさんが僕の数メートル手前に現れそう声を掛けてくる。扉を開けた瞬間はかなり離れた位置にある椅子に腰掛けていたけど。僕が頭を下げたのを見て隣りにいた姉さんも同じように頭を下げていた。「ふむ……君がカナタ君のお姉さんかな?」「は、はい!城ヶ崎紫音です!」ちょっと緊張しているな。一応ここに来るまでに使徒とはなんたるかを説明しておいたからかな。使徒は僕ら人間など足元にも及ばない神に等しき力を持った者だ。神族の方々ですら圧倒的な力を持っているのにも関わらずへりくだっている。「なるほど紫音君だね。それでここに戻ってきたということは世界樹の精霊からの願いを全うしたということかな?」「はい。魔神はこの世から消滅しました」「そのようだね。魔神の気配が微塵も感じられない。どうやら本当にこの世にいないみたいだ」ペトロさんが言うには、突然禍々しい気配がなくなったらしく、魔神が倒されたのだとすぐに察したようだ。「人間の身で魔神を倒すとは……恐れ入るよ」「いえ、みなさんの協力があったからです」「ふむ……部屋を出て待っていてくれるかい?紫音君。少しだけカナタ君と二人きりで話したいことがあってね。ほら、分かるだろう?男同士の話さ」「え?は、はい分かりました!行こ、アカリちゃん」いきなりペトロさんがガブリエルさん含む三人を部屋から追い出すと、僕の目の前にテーブルと椅子が現れた。「積もる話もあるだろう?まあまずは掛けなよ」「はい、ありがとうございます」何となくペトロさんの次の言葉が理解できた。多分邪法のことだろうな。「もう私が聞こうとしている内容は分かっているんだろう?」「邪法、ですよね?」僕はいつの間にかテーブルの上に置かれていた紅茶のカップを取ると乾いた口を潤してから切り出した。