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第2話

Author: ぴったり
「……本当に、それでいいのね?」

電話の向こうで、五條夫婦の声は未だに信じられない様子だった。

三年前、私は彼らにきっぱりと言ったのだ。――私は、愛のない結婚なんて望まない。

五條家に戻るということは、自分自身の幸福を切り捨てること。

家同士が選んだ政略結婚は、たしかに双方にとっては最適な選択かもしれない。

五條夫人がため息をついたあと、静かに、けれど重みのある口調で続けた。

「安心して。たとえ政略結婚でも、あなたは私たちの大切な娘よ」

私は窓の外に目をやって、そっと涙を拭った。夜の帳が、静かに町を包み始めていた。

「……お父さん、お母さん。こっちの後始末に、あと一週間ほどください」

「分かったわ。お兄さんたちとも、きちんとお別れしておきなさい。結婚式の準備は私たちに任せて。どんな時も、五條家はあなたの味方よ」

瞳が熱を帯びる。あのときと同じように、悠真と湊も、こう言ってくれた。

「心音、怖がらなくていい。これからは、僕たちが家族だ」

「何があっても、ずっと君のそばにいるよ」

あの時、施設の管理人・林さんも彼らを笑顔で見ながら、こう言ったものだった。

「お兄ちゃんたち、妹ちゃんを守ってあげなきゃだめよ?男の子の約束は、絶対なんだから」

そのとき、湊は頬を赤く染めて私を見て言った。

「僕、お兄ちゃんなんかやだ!大きくなったら心音をお嫁さんにするんだ!」

――その一言が、私の心を動かした。

それからはずっと、悠真は本当の兄のように私を気遣い、一方、湊は、何かいいことがあるたびに一番に私を思い浮かべ、喜んで差し出してくれた。

彼らは、私の家族であり、恋人だった。

だからこそ、実の両親が現れても、私は彼らに何も伝えなかった。

名家には、誠実な愛は望めない。そこにあるのは、争いと計算ばかり。

それに比べて、私たちのささやかで温かい日常は、なによりも手放しがたい幸せだった。

――けれど。

北川望結が現れたとき、私はやっと、自分がいかに思い違いをしていたかを思い知った。

彼女は、家で働いていた北川さんの娘だった。幼くして父を亡くした。その北川さんも、一昨年、病でこの世を去った。

その年の正月、私たちは彼女の身を案じ、家に招いて一緒に年を越した。

……それ以来、彼女はいつのまにか我が家に居着くようになり、それどころか悠真と湊と、どんどん親しくなっていった。

私はある日、彼女を呼び出してやんわりと伝えた。

「もうすぐ湊と結婚するの。だから、ちょっと距離を考えてくれると嬉しいな」

思いもよらなかったが、彼女はそれに応える代わりに、一通の手紙だけを残して、ひとりで海外に行ってしまった。

その手紙には、私への羨望と、みんなへの名残惜しさが綴られていた。

そして――湊はその手紙を読んで、すぐに顔を曇らせ、私に怒りをぶつけた。

「……心が狭すぎるんじゃないか?少しぐらい、許してやれよ!」

悠真もまた、失望の目を向けて私に背を向けた。

「心音……お前ってやつは、ほんとに自分勝手だな」

彼らは信じて疑わなかった。望結のほうが、私よりも愛を必要としているのだと。

だから、彼らは私が注いできた愛を、何のためらいもなく彼女に渡した。

今回の結婚式は、私の夢だった。

ウェディングドレスも、指輪も、招待状の模様ひとつまで、すべて自分の手で作り上げたものだった。

私は目を閉じた。

結婚式場の中心にひとり立ち、無数の視線を浴びながら、さっきまで保っていた冷静さは、あっけなく崩れ去った。

「……なんなの、結婚式、途中で中止?」

「新郎、逃げたってこと?」

「新婦の親族まで帰っちゃったよ」

「自業自得なんじゃない?なにか後ろめたいことでもやったんでしょ」

「……顔見りゃ分かる、なんか信用できない感じだもん」

悪意と中傷の言葉が、洪水のように私を飲み込んでいく。

「一生、守ってあげる」――そう言った彼らは、今や、私の心臓に突き刺さる二本の刃となっていた。
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