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第4話

Author: ぴったり
別れの前に、私が会っておきたい人は、たったひとりだけだった。

その人にきちんと挨拶ができれば、もう未練はない。

「お嬢さん、また林さんのお墓参りかい?」

霊園の管理人が私に気づき、笑顔で声をかけてきた。

毎年この季節になると、私は決まってここを訪れていた。

私は一束の白菊を林さんの墓前にそっと供えた。

「林さん……私、もう行くね」

風がやさしく吹き抜け、写真の中の林さんは変わらぬ微笑みをたたえていた。

霊園を出たあと、私はしばらく当てもなく街を歩いた。

ケーキショップの前を通りかかったとき、甘くて懐かしい匂いが鼻をくすぐった。

ふと、思い出した。昔、悠真と湊が買ってくれたバースデーケーキ。

安いホイップクリームだったけれど、あれほど甘く感じたものはなかった。

そのとき、スマホが震えた。

【誕生日おめでとう】

それは五條家からのメッセージだった。同時に、大きな額の送金通知が届いていた。

私が帰りたがらなくても、毎年こうして節目のタイミングには必ず連絡をくれる――それが五條家だった。

その数時間前、望結がSNSに投稿していたのは、新作映画のチケットの写真。三枚。

気がつけば、私はかつての児童養護施設の前に来ていた。

そこはもう取り壊され、いまは小さな遊園地に変わっていた。夜になっても、子どもたちの笑い声が響き、にぎやかさは尽きない。

「心音姉ちゃん!」

あの声が聞こえた瞬間、私は立ち止まった。望結が笑顔でこちらに駆け寄ってくる。

「こんなところで会うなんて!今日ちょっと気分が沈んでたんだけど、悠真兄さんと湊がどうしてもって言って、遊びに来たの」

望結が急に近づいてきたとき、私はなぜか本能的な違和感を覚えた。

その刹那、望結の表情に、一瞬だけ奇妙な笑みが走った。そして突然、私の手をつかんで、勢いよく後ろに倒れ込んだ――

直後、バイクが猛スピードで突っ込み、私たちを巻き込んだ。

悠真と湊の目には、私が望結を突き飛ばしたようにしか見えなかったはずだった。

彼らの顔色は、見る間に険しく変わっていった。望結の額と膝からは血が流れていた。

私のほうはというと、地面にうつ伏せに倒れ、右手が完全に感覚を失っていた。バイクのタイヤが直撃したその手は、もう自分の一部ではないようだった。

病院に着いたとき、看護師がこう言った。

「今日は当直医がひとりしかおりません」

すると湊が大声を上げた。

「望結の手術を先に!女の子なんだぞ、顔に傷が残ったら大変だろ!」

確かに、彼女の額や脚には痛々しい傷があった。しかし、よく見ればそれらは表皮の裂傷であり、命に関わるものではなかった。

看護師が私の腕を見て口を開いた。

「芹沢様、北川様の処置はこちらでも可能です。でもこの方は手の骨にかなり深刻な損傷が見られます。遅れれば後遺症が残るかもしれません」

しかし、湊と悠真はまったく取り合わなかった。

「望結の手術を優先して!」

その決断は、驚くほど即断だった。

私の顔から血の気が引いていく。この手を失えば、私はもう二度と筆を持てないかもしれない。

「……お願い、お兄さん、湊……

少しだけでいい、先に処置して……すごく、痛いの」

それでも、返ってきたのは怒声だった。

「心音!お前はなんで望結ばかりを目の敵にするんだ!

忘れたのか?お前は孤児だった!俺が育てなければ、路上で飢え死にしてたくせに!

今日から、望結は俺の妹なんだ。二度と彼女に手を出すな!

お前があの子を海外に追いやったから、病気が悪化したんだ!

自分は無傷のくせに、大げさに倒れ込みやがって!」

そして次の瞬間、私はその場に叩きつけられた。

湊の手が私の頬を打ち、その衝撃で視界が白くなった。血の気が完全に引き、身体の力が抜けていく。

床に投げ出された私の右手は、ありえない角度に曲がったまま動かなくなっていた。

ようやく、湊は違和感に気づいたようだった。

「……心音?大丈夫、か……?」
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