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第25話

Author: 天野琴
かつて、音は真恵子に頬を打たれて柱に頭をぶつけ、額を怪我したことがある。

それでも彼女は、その傷を隠すように髪を整え、一日中、何事もなかったように結婚式を完成させた。

真恵子は、昔から少しも変わっていない。

市役所で娘を殴ったあの日も、まったく同じだった。

――あんな母親を持つこと自体が、ひとつの不幸なのだ。

宗也は、その記憶を思い出した瞬間、生まれて初めて音に対してわずかな同情を覚えた。

彼は無言で、左手の薬指に光る結婚指輪を指先でつまむ。

しばし沈黙のち、母子の期待に満ちた視線の中で、デスクの電話をゆっくりと取り上げた。

「亮を呼べ」

その一言で、母子は顔を見合わせた。

――ついに小切手を切ってくれるのだと。

口元に抑えきれない笑みが浮かぶ。

だが、次の瞬間に告げられた言葉は、氷のように冷たかった。

「徹底的に叩きのめしてから、外に放り出せ」

「かしこまりました、藤堂社長」

亮は恭しく頷くと、携帯を取り出して素早く連絡を取った。

母子は一瞬、何を言われたのか理解できずに固まった。

やがて、事の意味を悟った真恵子が、顔面を真っ青にして叫ぶ。

「宗也
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長野美智代
音さんの母親と弟はどうしようもないクズ。 音さんに薬を盛って男に与え写真を撮らせ結婚を強要し金を要求。仕事をせず宗也に金を無心。そこには音さんの気持ちはなく利用価値が無ければ殴る罵る。 会社は潰れればいい。父親の面倒は見ても母親と弟は捨てていいと思う。
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