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第8話

Author: 天野琴
その夜、音は残業するつもりでいた。

だが、彩羽が突然彼女の腕をつかんで引っ張り上げた。

「行くわよ、気分転換に!」

「どこに?」

音はあまり乗る気ではなかった。

「今夜、川端通りで花火ショーがあるの。すっごく綺麗らしいわよ」

「それ、あなたが見たいだけでしょ」

「どっちでもいいじゃない。

ほら、行くよ!」

音は苦笑しながら資料をまとめた。

「......ようやく分かったわ。

なんであなたのスタジオが三年経ってもあまりうまくいっていないのか」

「ひどい言い方しないでよ。

仕事なんて人生のスパイスよ。

一番大事なのは、どう生きるか、どう楽しむかでしょ?

人生は一度きり。

楽しいほうを選ばなきゃ損じゃない?」

「はいはい、ごもっとも」

音は肩をすくめて頷いた。

――本音を言えば、少し羨ましかった。

彩羽は裕福な家庭ではないけれど、温かい家族がいて、自由に好きなことをして、嫌になったら休める。

生活に困らず、自分のペースで生きていける。

結婚さえしなければ、今の暮らしがずっと続く。

そんな、当たり前で穏やかな幸せ。

しかし音にとっては、一生届かない夢のようなものだった。

彼女の人生には、病弱な父と、利己的な母と弟、そして——愛してくれない夫と、遠い存在の息子。

胸の奥に重たいものが沈んでいて、花火の光さえ色褪せて見えた。

彩羽は隣で興奮気味に言う。

「この花火ショーね、ドローンと連動してるんだって。

前代未聞らしいよ!」

周囲では歓声が絶えない。

だが音には、それがただの光の散り際にしか見えなかった。

一瞬だけ咲いて、すぐ消える。

どんなに綺麗でも、所詮は消えるだけの光。

それでも、彩羽の楽しげな顔を見ていると、白けた顔をするのが申し訳なくて、彼女は無理やり微笑んだ。

花火がクライマックスに達したとき――

背後から、あの懐かしい声が聞こえた。

「はな......きれい!

美咲ママきれい!」

群衆の歓声にまぎれていたのに、音にはすぐに分かった。

――悠人の声だ。

思わず振り返る。

そこには、宗也が悠人を抱き上げ、隣に美咲が立っていた。

三人並んで立つ姿は、まるで絵に描いたように美しく、理想の家族のように見えた。

その幸福そうな光景は、夜空の花火よりもまぶしかった。

「悠人くん、花火が好きなのね?

じゃあ、パパにお礼言わなきゃ。

連れてきてもらったんでしょ?」

美咲が微笑んで言う。

「ありがと、パパ!」

悠人は宗也の頬に、ちゅっとキスをした。

宗也は思わず笑みをこぼした。

――たった一週間会っていないうちに、少し丸くなった気がする。

きっと、美咲がよく面倒を見ているのだろう。

上手に、幸せそうに。

音との間に四、五列の人垣があった。

彼らは、彼女の存在に気づいていない。

見なかったふりをしようと思った――

だが、ほんの一瞬、宗也の視線がこちらをとらえた。

次の瞬間、夜空に大輪の花火が咲く。

一瞬で辺りが昼のように明るくなり、互いの目の奥にある感情が、光の中であらわになった。

冷ややかな彼。

傷ついた彼女。

時間が止まったかのように、ただ見つめ合う。

頭上では花火が次々と咲き、悠人が笑い、美咲も笑っていた。

幸せそうに、何の疑いもなく。

「......ちょっと!」

腕を引かれて、音は我に返る。

隣の彩羽が、怒りに満ちた顔で言った。

「待ってなさい。

あの女の手、今すぐ引きはがしてあげるわ」

音は彼女の視線の先を見る。

美咲は悠人の小さな手を握り、まるで本当の母親のように寄り添っていた。

「やめて」

音は慌てて彩羽を引き戻した。

「あなた、私にあんな男のことなんて忘れて、仕事に集中しなさいって言ってたでしょ。

今、私が忘れようとしてるの。

なのに、あなただけ怒ってどうするの」

彩羽は一瞬、言葉を失った。

音は小さく笑い、肩を押した。

「ほら、せっかく来たんだから。

あなたもちゃんと花火を楽しもうよ」
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