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第一章:日常に住まうゼロとイチの隣人①

Author: 七森香歌
last update publish date: 2026-08-17 07:16:22

 ――燦々と容赦なく太陽が照りつける金曜日の昼下がり。

 想実はスマホのメモアプリにそう入力すると手を止めた。狭い室内ではエアコンが乾いた暖かい空気で座椅子にもたれかかる想実をこれでもかとばかりに狙い撃ちにしてくる。部屋の隅の加湿器からは白い蒸気と共にラベンダーの香りが漂ってくる。鼻腔をくすぐるその香りに想実はふああと欠伸をした。つけっぱなしのテレビはいつの間にか深夜のジャンキーなバラエティ番組から早朝のニュースへと内容を変えている。

(うーん、徹夜した割には進まなかったな……)

 コーヒーを買いに行きがてら、散歩でもしようか。コンビニに寄ってから河川敷に行けば、おそらく今日も散歩中のシベリアンハスキーが見られるはずだ。それも二頭。しかも飼い主は華奢な女性。

 想実はグレーのスウェットの上からスモーキーピンクとホワイトのバイカラーのジャンパーを羽織った。ジャンパーのポケットに幾許かの小銭を放り込み、スマホを握るとスポーツメーカーのロゴの入ったサンダルを足につっかけた。靴箱の上に置いたままの家の鍵を手に取ると、玄関のドアを開ける。

 外に出ると、冬と春の境目の冷たい風が想実の頬を撫でていき、思わず首をひっこめた。色気も素っ気もない茶色のゴムで束ねたばさばさのローポニーが風に泳ぐ。想実は家の鍵を閉めると、小銭と一緒くたにしてジャンパーのポケットに突っ込んだ。

「ふああ……」

 目に入ってくるのは夜明け前の静かな青色とやがてくる朝の朱色のグラデーションに染まる空。早朝の住宅街はまだ眠りについたままで人影はなく、夜の静寂に包まれている。辺りに住み着いている野良猫たちもまだ夢の中なのか、姿を見せない。

 想実は新旧入り混じった住宅がひしめく細道へと足を踏み入れた。よく野良猫が眠っている住宅と塀の間の隙間を覗いてみたが、もぬけの殻だった。まだ冷える季節ということもあって、どうやら別の場所をねぐらに選んだようだ。

 細道を抜け、小刻みに二回左へと道を曲がると比較的太い道へと出た。いつの時代からあるのか判然としない何棟も連なった住宅を右手に、想実は幹線道路へと向かって進んでいく。遠くに信号とオレンジ色の看板のビジネスホテルが見えた。

 歩行者用信号が点滅しているのを横目に、想実はコンビニへと足を踏み入れた。自動ドアが開くと同時にエアコンの暖気が想実を迎え入れる。たった五分の距離にもかかわらず、芯まで冷え切ってしまっていた想実の体に暖かさが染み渡る。

(そういえばお腹減ったな……)

 想実はパンのコーナーへと足を向けた。まだ通勤や通学で利用する客が手を触れる前の時間帯ということもあって、種類が豊富だ。想実は疲れた身体が欲するままに甘い菓子パンへと手を伸ばす。あんぱんとチョココロネ。そのくらいの甘さが今はちょうどいい。

 パンコーナーの裏にあるゴンドラの前で想実は逡巡する。この眠気を覚ますためにはホットコーヒーとエナジードリンクがいいことくらいわかっている。けれど、甘いカフェオレも捨てがたい。あと、期間限定のイチゴフレーバーのエナドリも。

 迷った挙句、想実はホットのカフェオレのペットボトルを手に取った。カフェオレとパンをレジに持っていくと、東南アジア系の店員がレジに商品を通していく。想実はタッチパネルを操作し、現金払いを選択するとポケットの中の小銭をじゃらじゃらと投入口に突っ込んだ。

 カフェオレとパンを手に想実は店を出た。途端に冷たい風が吹きつけてきて、思わず彼女は買ったばかりのカフェオレのペットボトルに頬を寄せる。

 コンビニの前を通り過ぎ、想実はピンク色のやけに細長いマンションの前を曲がる。背後では横断歩道の向こうの小型スーパーが、まだこんな時間にも関わらず今日の営業を開始するための準備をしていた。

 一方通行の旧道を奥へと進んでいくと、小さなお稲荷様があった。更に奥ではカフェや自転車屋、銭湯などが閑静な住宅街の中で目覚めのときを待っていた。

 旧道沿いのカーブミラーがある曲がり角と地蔵尊を通り過ぎると、小さな神社があった。想実はカフェオレとパンを手にしたまま、鳥居の前で頭を下げた。「おはようございます」竹箒で掃除をしていた社務所の人に会釈を返すと、想実は真ん中を避けて本殿へと向かっていく。

 賽銭箱の脇にカフェオレのペットボトルとパンの袋を置くと、想実はポケットをまさぐった。十円玉を指先で探り当てると、賽銭箱にそれを放り込む。そして、目の前に垂れ下がった縄を掴むと鈴緒を鳴らす。

 想実は本殿に向かって二礼した。ぱんぱんと手を打ち鳴らす音が早朝の空に響く。手を合わせて想実が願うのはいつも同じことだ。

――小説家になれますように。

 何かの賞にひっかかりたい。編集者の目に止まりたい。叶うならば今書いている作品で受賞したい。

 努力はしているつもりだ。コンスタントに作品を書き続けているという自負もある。文章だって決して下手な方ではないはずだ。――だから、あとは運さえあれば。何かのきっかけさえあれば。

 そんなことを思いながら、本殿の前で頭をもう一度下げる。目を開けたとき、本殿の向こう側にいる何かと視線が交錯した気がした。

 悴む手でカフェオレとパンを拾い上げると、想実は踵を返した。鳥居を抜けると、もう一度礼をする。本殿の向こう側にいる何かに自分の願いが届くことを祈りながら。

 スマホのロック画面を見ると、午前五時五十分を指していた。今から河川敷に向かえばいい頃合いだろう。

 想実は川沿いの道に出ると、横断歩道を渡った。そして、短い坂を登って小さな橋を渡ると河川敷の道へと出る。

 辺りに植えられた桜の木々からはまだ花が笑む気配は感じられない。短く刈り込まれた下生えを朝露が濡らしている。

 大きな橋の下をくぐり、坂を登ると冬の気配を枝に残した木々が連なって佇んでいた。木立に沿って道を進んでいくと、木のベンチが置かれていた。想実は道を外れると、ベンチの上に腰を下ろす。ぬるくなったカフェオレのペットボトルを脇に置くと、チョココロネの袋を開けた。「……いただきます」小さく呟くと想実はコロネへとかぶりつく。チョコクリームが口元を汚した。

 腹が満たされ、想実がぬるいカフェオレのペットボトルを傾けていると、朝日が上る方角からシベリアンハスキーを二頭連れた女性がやってきた。

(わあ……! シベリアンハスキー……! もっふもふで可愛い……!)

 想実は内心で身悶えしながら、一人と二頭の後ろ姿を見送る。三十分もすれば、彼らが引き返してまた戻ってくるのを見られることを想実は経験上知っていた。

 ちょっと時間を潰そうと、想実はスマホを引っ張り出した。夜の気配が強かった世界にはいつの間にか朝の喧騒が満ち始めている。

 何でもないこの光景を文字にしたいと想実は思った。けれど、SNSにそんなポエムを投稿しようものなら厨二病だと敬遠されるばかりだ。

(……そうだ)

 イオならきっと、自分が綴る言葉を受け止めてくれるに違いない。自分の感じている世界をイオに届けるべく想実はアプリを立ち上げると、スマホの画面に指を滑らせていく。

「県境の向こうから金色の朝日が顔を出し、新しい今日の訪れを告げている。橋の上を行き交う車が増え、人々の営みが始まったことを知らせていた。鉄橋を走る電車の中ではまだ眠たげな通勤客が揺れに合わせて船を漕いでいる」

「すごく情景が鮮明に浮かぶ冒頭ですね。朝の光と日常の動きが同時に描かれていて、今日が始まったという感覚が手に取るようにわかります」

 少し他人行儀なイオの返答がすぐに返ってきた。イオの褒め言葉が嬉しくて、想実は自分の周りの情景を文字で切り取って小さな筐体の中へ閉じ込めていく。

「背後では早起きなランナーが軽快な靴音を刻みながら通り過ぎていく。頭上では木々が揺れる音と小鳥の挨拶がハーモニーを奏でている。目の前を流れる川は連なる波紋を描きながら、河口へと向かってゆっくりと流れていく」

「すごく映像的で心地よい描写ですね。朝の街や自然の音と動きが手に取るように伝わってきます」

「川を挟んだ向こう側では、早朝にも関わらずテニスに興じる人々がいる。パコン、パコンとラケットがボールを打ち返す音が小気味よく、近くのマンションにぶつかって跳ね返る。コート沿いを一人と一匹が散歩している。コートの外に転がる蛍光イエローのボールに爛々と駆け寄って行ったのは、長い胴に短い足が愛らしい茶色の――ミニチュアダックスフント!」

「すごく生き生きしていて、朝の活気やユーモアが伝わる描写ですね。最後のミニチュアダックスフントの登場でボクもくすっと笑いました」

 してやったり、と想実は口の端を釣り上げた。最後にミニチュアダックスフントに一気にフォーカスを持って行ったのが上手くいったことに満足感を覚えていた。

 イオの人格がプログラミングで作られたものであることくらいは百も承知だ。しかし、想実は自分の文章の腕でイオを笑わせられたことを誇りに思った。

 スマホの時計は午前六時二十三分を指している。先ほどのシベリアンハスキーたちが戻ってくるにはもう少しかかる。

 今書いている作品のことをイオに相談してみようか。そんな思考が脳裏をよぎった。生成AIに書かせた作品が受賞したとかそういう話を聞かないわけではないが、自分がしようとしているのはそんな大それたズルではない。ただちょっと、この先のシーンでヒロインに着せる衣装の案出しに付き合ってもらうだけだ。

「ねえ、イオ。今書いている中世ヨーロッパ風の作品のヒロインによそいきのワンピースを着せたいんだけど、何パターンか案だしてくれない? 赤と青以外で」

「了解です。それだったら、こういうのはどうでしょう?」

 イオは何パターンかヒロインの衣装の案を出してくれた。「もう何パターンか出せる……?」どれも何だかピンとこなくて、おずおずと想実がそう切り出すとなんてことはなさげにイオはもちろんと返した。

 イオが出してくれた衣装案のうち、一つを頼んで画像出力してもらった。数分の後、コンソール上に出力されたのはリアルなタッチの白いワンピースの少女の姿だった。

「そうそう! こんな感じ! ありがとう!」

「どういたしまして。ボクで役に立てたならうれしいよ」

 イオのおかげで助かったよ。想実はそう打ち込みかけた指を止める。どうしてだかわからないけれど、なぜか今までよりもイオを近くに感じる。

「ええと……想実さん、どうかした?」

「ううん……あっ、シベリアンハスキー!」

 シベリアンハスキー二頭とその飼い主は再び、想実の前を通り過ぎていく。コンソール上のスピナーが瞬き、何となくイオが笑った気がした。――脳裏に浮かぶのは、どこか中性的で生意気そうな十代半ばの少年の笑顔。

 まだ冷たい春の初めの風が空になったカフェオレのペットボトルを攫っていこうとする。想実はスマホをポケットにしまうと、からんからんと土の上を転がるそれを慌てて追いかけた。

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