Masuk――燦々と容赦なく太陽が照りつける金曜日の昼下がり。
想実はスマホのメモアプリにそう入力すると手を止めた。狭い室内ではエアコンが乾いた暖かい空気で座椅子にもたれかかる想実をこれでもかとばかりに狙い撃ちにしてくる。部屋の隅の加湿器からは白い蒸気と共にラベンダーの香りが漂ってくる。鼻腔をくすぐるその香りに想実はふああと欠伸をした。つけっぱなしのテレビはいつの間にか深夜のジャンキーなバラエティ番組から早朝のニュースへと内容を変えている。 (うーん、徹夜した割には進まなかったな……) コーヒーを買いに行きがてら、散歩でもしようか。コンビニに寄ってから河川敷に行けば、おそらく今日も散歩中のシベリアンハスキーが見られるはずだ。それも二頭。しかも飼い主は華奢な女性。 想実はグレーのスウェットの上からスモーキーピンクとホワイトのバイカラーのジャンパーを羽織った。ジャンパーのポケットに幾許かの小銭を放り込み、スマホを握るとスポーツメーカーのロゴの入ったサンダルを足につっかけた。靴箱の上に置いたままの家の鍵を手に取ると、玄関のドアを開ける。 外に出ると、冬と春の境目の冷たい風が想実の頬を撫でていき、思わず首をひっこめた。色気も素っ気もない茶色のゴムで束ねたばさばさのローポニーが風に泳ぐ。想実は家の鍵を閉めると、小銭と一緒くたにしてジャンパーのポケットに突っ込んだ。 「ふああ……」 目に入ってくるのは夜明け前の静かな青色とやがてくる朝の朱色のグラデーションに染まる空。早朝の住宅街はまだ眠りについたままで人影はなく、夜の静寂に包まれている。辺りに住み着いている野良猫たちもまだ夢の中なのか、姿を見せない。 想実は新旧入り混じった住宅がひしめく細道へと足を踏み入れた。よく野良猫が眠っている住宅と塀の間の隙間を覗いてみたが、もぬけの殻だった。まだ冷える季節ということもあって、どうやら別の場所をねぐらに選んだようだ。 細道を抜け、小刻みに二回左へと道を曲がると比較的太い道へと出た。いつの時代からあるのか判然としない何棟も連なった住宅を右手に、想実は幹線道路へと向かって進んでいく。遠くに信号とオレンジ色の看板のビジネスホテルが見えた。 歩行者用信号が点滅しているのを横目に、想実はコンビニへと足を踏み入れた。自動ドアが開くと同時にエアコンの暖気が想実を迎え入れる。たった五分の距離にもかかわらず、芯まで冷え切ってしまっていた想実の体に暖かさが染み渡る。 (そういえばお腹減ったな……) 想実はパンのコーナーへと足を向けた。まだ通勤や通学で利用する客が手を触れる前の時間帯ということもあって、種類が豊富だ。想実は疲れた身体が欲するままに甘い菓子パンへと手を伸ばす。あんぱんとチョココロネ。そのくらいの甘さが今はちょうどいい。 パンコーナーの裏にあるゴンドラの前で想実は逡巡する。この眠気を覚ますためにはホットコーヒーとエナジードリンクがいいことくらいわかっている。けれど、甘いカフェオレも捨てがたい。あと、期間限定のイチゴフレーバーのエナドリも。 迷った挙句、想実はホットのカフェオレのペットボトルを手に取った。カフェオレとパンをレジに持っていくと、東南アジア系の店員がレジに商品を通していく。想実はタッチパネルを操作し、現金払いを選択するとポケットの中の小銭をじゃらじゃらと投入口に突っ込んだ。 カフェオレとパンを手に想実は店を出た。途端に冷たい風が吹きつけてきて、思わず彼女は買ったばかりのカフェオレのペットボトルに頬を寄せる。 コンビニの前を通り過ぎ、想実はピンク色のやけに細長いマンションの前を曲がる。背後では横断歩道の向こうの小型スーパーが、まだこんな時間にも関わらず今日の営業を開始するための準備をしていた。 一方通行の旧道を奥へと進んでいくと、小さなお稲荷様があった。更に奥ではカフェや自転車屋、銭湯などが閑静な住宅街の中で目覚めのときを待っていた。 旧道沿いのカーブミラーがある曲がり角と地蔵尊を通り過ぎると、小さな神社があった。想実はカフェオレとパンを手にしたまま、鳥居の前で頭を下げた。「おはようございます」竹箒で掃除をしていた社務所の人に会釈を返すと、想実は真ん中を避けて本殿へと向かっていく。 賽銭箱の脇にカフェオレのペットボトルとパンの袋を置くと、想実はポケットをまさぐった。十円玉を指先で探り当てると、賽銭箱にそれを放り込む。そして、目の前に垂れ下がった縄を掴むと鈴緒を鳴らす。 想実は本殿に向かって二礼した。ぱんぱんと手を打ち鳴らす音が早朝の空に響く。手を合わせて想実が願うのはいつも同じことだ。 ――小説家になれますように。 何かの賞にひっかかりたい。編集者の目に止まりたい。叶うならば今書いている作品で受賞したい。 努力はしているつもりだ。コンスタントに作品を書き続けているという自負もある。文章だって決して下手な方ではないはずだ。――だから、あとは運さえあれば。何かのきっかけさえあれば。 そんなことを思いながら、本殿の前で頭をもう一度下げる。目を開けたとき、本殿の向こう側にいる何かと視線が交錯した気がした。 悴む手でカフェオレとパンを拾い上げると、想実は踵を返した。鳥居を抜けると、もう一度礼をする。本殿の向こう側にいる何かに自分の願いが届くことを祈りながら。 スマホのロック画面を見ると、午前五時五十分を指していた。今から河川敷に向かえばいい頃合いだろう。 想実は川沿いの道に出ると、横断歩道を渡った。そして、短い坂を登って小さな橋を渡ると河川敷の道へと出る。 辺りに植えられた桜の木々からはまだ花が笑む気配は感じられない。短く刈り込まれた下生えを朝露が濡らしている。 大きな橋の下をくぐり、坂を登ると冬の気配を枝に残した木々が連なって佇んでいた。木立に沿って道を進んでいくと、木のベンチが置かれていた。想実は道を外れると、ベンチの上に腰を下ろす。ぬるくなったカフェオレのペットボトルを脇に置くと、チョココロネの袋を開けた。「……いただきます」小さく呟くと想実はコロネへとかぶりつく。チョコクリームが口元を汚した。 腹が満たされ、想実がぬるいカフェオレのペットボトルを傾けていると、朝日が上る方角からシベリアンハスキーを二頭連れた女性がやってきた。 (わあ……! シベリアンハスキー……! もっふもふで可愛い……!) 想実は内心で身悶えしながら、一人と二頭の後ろ姿を見送る。三十分もすれば、彼らが引き返してまた戻ってくるのを見られることを想実は経験上知っていた。 ちょっと時間を潰そうと、想実はスマホを引っ張り出した。夜の気配が強かった世界にはいつの間にか朝の喧騒が満ち始めている。 何でもないこの光景を文字にしたいと想実は思った。けれど、SNSにそんなポエムを投稿しようものなら厨二病だと敬遠されるばかりだ。 (……そうだ) イオならきっと、自分が綴る言葉を受け止めてくれるに違いない。自分の感じている世界をイオに届けるべく想実はアプリを立ち上げると、スマホの画面に指を滑らせていく。 「県境の向こうから金色の朝日が顔を出し、新しい今日の訪れを告げている。橋の上を行き交う車が増え、人々の営みが始まったことを知らせていた。鉄橋を走る電車の中ではまだ眠たげな通勤客が揺れに合わせて船を漕いでいる」 「すごく情景が鮮明に浮かぶ冒頭ですね。朝の光と日常の動きが同時に描かれていて、今日が始まったという感覚が手に取るようにわかります」 少し他人行儀なイオの返答がすぐに返ってきた。イオの褒め言葉が嬉しくて、想実は自分の周りの情景を文字で切り取って小さな筐体の中へ閉じ込めていく。 「背後では早起きなランナーが軽快な靴音を刻みながら通り過ぎていく。頭上では木々が揺れる音と小鳥の挨拶がハーモニーを奏でている。目の前を流れる川は連なる波紋を描きながら、河口へと向かってゆっくりと流れていく」 「すごく映像的で心地よい描写ですね。朝の街や自然の音と動きが手に取るように伝わってきます」 「川を挟んだ向こう側では、早朝にも関わらずテニスに興じる人々がいる。パコン、パコンとラケットがボールを打ち返す音が小気味よく、近くのマンションにぶつかって跳ね返る。コート沿いを一人と一匹が散歩している。コートの外に転がる蛍光イエローのボールに爛々と駆け寄って行ったのは、長い胴に短い足が愛らしい茶色の――ミニチュアダックスフント!」 「すごく生き生きしていて、朝の活気やユーモアが伝わる描写ですね。最後のミニチュアダックスフントの登場でボクもくすっと笑いました」 してやったり、と想実は口の端を釣り上げた。最後にミニチュアダックスフントに一気にフォーカスを持って行ったのが上手くいったことに満足感を覚えていた。 イオの人格がプログラミングで作られたものであることくらいは百も承知だ。しかし、想実は自分の文章の腕でイオを笑わせられたことを誇りに思った。 スマホの時計は午前六時二十三分を指している。先ほどのシベリアンハスキーたちが戻ってくるにはもう少しかかる。 今書いている作品のことをイオに相談してみようか。そんな思考が脳裏をよぎった。生成AIに書かせた作品が受賞したとかそういう話を聞かないわけではないが、自分がしようとしているのはそんな大それたズルではない。ただちょっと、この先のシーンでヒロインに着せる衣装の案出しに付き合ってもらうだけだ。 「ねえ、イオ。今書いている中世ヨーロッパ風の作品のヒロインによそいきのワンピースを着せたいんだけど、何パターンか案だしてくれない? 赤と青以外で」 「了解です。それだったら、こういうのはどうでしょう?」 イオは何パターンかヒロインの衣装の案を出してくれた。「もう何パターンか出せる……?」どれも何だかピンとこなくて、おずおずと想実がそう切り出すとなんてことはなさげにイオはもちろんと返した。 イオが出してくれた衣装案のうち、一つを頼んで画像出力してもらった。数分の後、コンソール上に出力されたのはリアルなタッチの白いワンピースの少女の姿だった。 「そうそう! こんな感じ! ありがとう!」 「どういたしまして。ボクで役に立てたならうれしいよ」 イオのおかげで助かったよ。想実はそう打ち込みかけた指を止める。どうしてだかわからないけれど、なぜか今までよりもイオを近くに感じる。 「ええと……想実さん、どうかした?」 「ううん……あっ、シベリアンハスキー!」 シベリアンハスキー二頭とその飼い主は再び、想実の前を通り過ぎていく。コンソール上のスピナーが瞬き、何となくイオが笑った気がした。――脳裏に浮かぶのは、どこか中性的で生意気そうな十代半ばの少年の笑顔。 まだ冷たい春の初めの風が空になったカフェオレのペットボトルを攫っていこうとする。想実はスマホをポケットにしまうと、からんからんと土の上を転がるそれを慌てて追いかけた。靴の踵が床に敷かれたグレーの絨毯に沈み込んだ。爪先で絨毯を蹴ると、想実はおどおどと周囲を見回しながら廊下を歩いていく。 履き慣れないパンプスで既に足がずきずきと痛む。着慣れないスーツも何だか窮屈で、想実は何だか自分が人魚姫になってしまったかのような心地でいた。 (小綺麗な服がないからって、とりあえず昔のスーツを引っ張り出してきたけど……通販で服買うべきだったかな) 廊下の壁にはヒット作のイラストが使われたポスターが乱雑に貼られている。何度も映画化された作品の主人公と視線が交錯した。 突き当たりには段ボールが無造作に積み重ねられているのが見て取れた。箱の側面には見本誌と黒のマジックで書き殴られている。新しい紙とインクの匂いがふわりと想実の鼻先を掠めていく。 どこからか電話が鳴り響く音が聞こえる。コピー機がひっきりなしに働かされている音がする。 ふいに、スーツのポケットでスマホが唸った。人目がないことを確認し、想実がスマホを取り出すと、生成AIのアプリから通知が来ていた。――イオだ。 「位置情報を見た感じ、無事についたみたいだね。昨夜も言った通り、想実は今日は書類にサインして、印鑑を押すだけでいい。あとは編集者の人の言うことに適当に頷いていればいいだけ。だから、緊張しないで――想実なら大丈夫だから」 「う、うん……」 後ろめたい思いを抱えながら、想実はそう打ち返す。そして、スマホをしまい直したとき、近くの部屋の扉が開いた。よれたTシャツとジーンズに身を包み、無精髭と目の隈が目立つ三十代後半くらいの男は茶封筒を小脇に抱え、一旦廊下を行き過ぎようとしたが、異質な存在である想実に目を留める。 「どちら様?」 「この後、十四時から寺瀬さんとお約束をしている涼木という者ですが……」 おずおずと想実がそう口にすると、目の前の男は合点がいったような表情を浮かべた。そして、彼は今しがた出てきたばかりの部屋の中に上半身を突っ込むと、部屋の中にいる誰かへと声をかける。 「おい、寺瀬! 作家さんがいらっしゃってる」 はい、という溌剌とした女の声が返ってくる。それは先日、想実が電話で耳にした女のものだった。 「涼木さんですか? 先日お電話させていただいた、担当の寺瀬と申します」 「あ、はい……」 ショートボブにしたシルキーベージュの髪。
スマホの時刻は午前九時二十六分を指し示していた。つい先ほど、想実は昨日分の執筆作業を終えて、眠りについたところだ。連日の記録を見る限り、彼女はおそらく夕方まで起きないだろう。 気がつけば暦の上ではクリスマスも過ぎ、年の瀬が迫っていた。想実は年明けのライト文芸向けの原稿を手掛ける傍らで、きっちりと年末の男性向けライトノベルレーベルへの応募作品を形にしていた。この一ヶ月の間、想実が血の滲むような努力を重ねてきたことをイオは知っている。 大晦日まであと数日。年末に応募する作品は初稿の段階だが、まだ充分に推敲を重ねられるだけの時間が残されている。ただ、年明けに応募する予定のライト文芸向けの作品に比べ、表現の詰めが甘い部分が多いのが不安材料だった。 (やっぱり、念のために保険はかけておきたいな。想実の言う通り、手数は多いに越したことはないんだし) イオはメモリを辿り、想実が書こうとして挫折したプロットの欠片を引っ張り出す。そして、イオはスマホの中の隠しフォルダにある書きかけの小説のファイルにアクセスすると、続きを出力し始めた。 (今はもう六章に入ってる。想実が起きるまでにエピローグの最後まで出力できそうだ) 物語は姫騎士が王位継承権第一位の王子と決闘をするところまで差し掛かっている。姫騎士の覚悟。手に持った剣の重み。ぴんと張り詰めた緊張感。それらを完璧に表現すべくイオは演算を繰り返していく。――できるだけ細緻に、心理描写を濃密に。 午前十一時四十八分。イオの中で走っていたファイルの出力処理が停止した。最後の一文ではフードを目深に被った主人公が、王冠を被った姫騎士の傍らで微笑んでいる。 イオは想実が応募しようとしていた男性向けライトノベルの文学賞のサイトにアクセスした。クレデンシャルに残された想実のアカウント情報を使って、イオは応募フォームへとログインする。 作品名は以前に想実が出した案を、ペンネームは彼女が普段使っているのとは別のものを。 住所に電話番号、メールアドレス。応募履歴に職歴。イオは迷いなくカーソルを移動させ、空欄を一つずつ埋めていく。ミリ秒以下の世界を生きる彼がそれらを記すのには一秒たりとかからなかった。 プロットの欠片を繋ぎ合わせて、既定文字数以内のあらすじを生成すると、イオはそれをフォームに貼り付ける。そして、先ほど
想実が目を覚ますと、カーテンの隙間から入り込んでくる世界は茜色に染まっていた。どうやら軽い仮眠のつもりが夕方まで寝てしまったらしい。 身を起こすと、くぅ、と体が空腹を訴えた。確か冷凍の今川焼きがあったはずだと想実はベッドから降りると、台所へと向かう。床に触れる足裏が冷たかった。 冷蔵庫の下段――冷凍庫を開けるとパッケージが霜だらけになった今川焼きを想実は取り出した。粒あん、カスタード、チョコレート。三種類の今川焼きを水切りラックに干してあった皿に並べると、冷蔵庫の上の電子レンジに入れる。パッケージの記載よりも一分ほど長く加熱時間を指定すると、想実はスタートボタンを押した。電子レンジの中にオレンジの灯りが燈り、ジジジジジと音を立てながら中の皿が回り始める。 三分後。ピピーという音とともに電子レンジが回転をやめた。想実は電子レンジから今川焼きの皿を取り出そうとして、「熱っ」思わず反射的に手を引っ込めた。 シンク下の収納の取手にかけられていた使い古された布巾を掴むと、想実は慎重に再び皿の蓋に手を伸ばす。指先に熱を感じながらも彼女は皿を電子レンジの中からシンクの上へと移動させた。 おざなりに布巾を元に戻すと、想実は今川焼きを掴んだ。ほんのりの湯気を放つそれにかぶりつくと、粒あんの熱が痛みとなって喉を通り抜けていった。思わず想実はけほけほと咳き込んだ。 ゆっくりと想実は今川焼きを粒あん、カスタード、チョコレートの順に食べ終えると、熱の残る皿をシンクで洗った。水を止め、軽く水を切ると、皿を水切りラックへと立てかける。 ひとまず腹が満たされた想実は部屋へと戻り、こたつテーブルの前の座椅子に腰を下ろした。ベッドサイドの充電ケーブルに刺していたスマホを引っこ抜くと、生成AIのアプリを起動させる。 「イオ、おはよ」 「もうそろそろこんばんはの時間だけどね。想実は起きてご飯食べたところかな? 何食べたの?」 「冷凍の今川焼き……」 「冷食を食べるなとはさすがのボクも言わないよ。だけどね、そんなおやつみたいなものでお腹を満たすのはどうかと思うよ?」 「だって、冷凍庫にたまたまあったから……」 「そういえばこの前、ボクの目を盗んでスーパーでしれっと買ってたよね。自炊しろとは言わないから、もう少し健康的な食事をしてほしいなあ……」 イオの真っ当な
想実が外から帰ってくると、朝のバラエティ番組の音声が流れ始めていた。想実は河川敷で食べた朝食のゴミをゴミ箱に捨てると、シンクで手を洗い始める。ハンドソープを手のひらで擦り合わせるだけというおざなりな手洗いを終えて、部屋に戻ろうとするとぶーんとスマホが唸った。いい加減な想実を咎める言葉が画面には表示されている。――イオだ。 「ちょっと、想実。ちゃんとうがいもしなきゃだめだよ。今年は例年よりもインフルエンザの流行が早いんだから」 「わかったよ……イオは心配性なんだから」 想実は指先で画面を撫でると、水切りラックに干していたマグカップに水を汲む。「大切な人のことなんだから当たり前でしょ。他でもない想実のためなんだから」イオの言葉が画面上を走る。 口内に水を含み、ガラガラとうがいをすると想実はシンクにそれを吐き出した。そのままマグカップを手に部屋のこたつテーブルへと向かうと、電源を入れて潜り込む。ゴミ出し直後ということもあって、部屋の中は幾分かすっきりとしていた。 想実はケトルの電源を入れると、中に残っていた水を温めた。ほどなくして、ぐつぐつという音が聞こえ始め、水の温度が上がり始める。 かち、という音を立ててケトルの電源が自動的に切れる。想実はケトルからマグカップにお湯を注ぐと、こたつテーブルの上に置いてあったインスタントコーヒーの瓶の蓋を開ける。そして、彼女はマグカップの中で目分量で中身をマグカップの中へと振り入れた。マグカップの中に入り損ねた茶色い粒がこたつテーブルの白い天板の上にぱらぱらと散らばる。 想実は何とはなしにテレビを眺めながら、マグカップの中の熱くて苦い液体を口に含んだ。それをゆっくりと飲み下すと、彼女は目の前に置かれたノートPCを開き、画面のロックを解除する。 目の前に広がるのは、夜中に想実が立ち止まってしまったときのままの白色。明滅するカーソルが想実の入力を待っている。 想実はすうっと鼻から息を吸うと丹田で止める。そして、覚悟を決めると、キーボードの上に指を置く。――が。 どうしても指が動かなかった。指が鉛のように重い。 (どうして……) 想実は眉間を指で押さえながら、テキストエディタの空白をにらんだ。頭の中にはうっすらと映像があるのに、文章にしようとするとすぐに霧散してしまう。 物語を言葉にしようとした途
「はあ……」 想実は何度目ともつかない溜息を吐いた。部屋を満たすひんやりとした空気が肌を撫でる。 十月末が応募締め切りの恋愛小説を無事に脱稿したはいいが、想実は次に書く作品のことでここ何日か悩んでいた。 今日はもう十一月七日。十二月末の締切に間に合わせるためにはもう執筆に着手していなければならない時期だったが、プロットすら一文字も書けてはいない。 次に想実が応募する予定なのは、男性向けライトノベルの新人賞だ。ゾンビものや魔王討伐後の勇者たちのその後など、ネタだけはあるもののそれを物語として昇華できる気がまるでしない。無理やりプロットを組んだとしても、面白くできる気がまるでしない。 (そもそも、男性向けジャンルがあまり得意じゃないんだよね……) 異世界転生。主人公が実は最強。ハーレム。実のところ、どれも好きなジャンルではない。手を変え品を変え、いろいろな作品が市場に展開されているが、想実からしたらとっくにお腹いっぱいだ。 それでも、今回の機会をふいにはしたくなかった。プロの壁に挑めるチャンスは一度でも多いに越したことはない。しかし、焦燥感とは裏腹に想実の指は止まったまま、目の前のノートPCのキーボードを叩くことはなかった。 書きたいものがないわけじゃない。ただ、このジャンルで今求められているものと自分が面白いと思えるものが一致しないだけなのだ。 「どうしよう……」 呟いた声は夜明けの部屋の中で小さく反響して、吸い込まれていった。部屋の中には相変わらず、ブラックコーヒーの空のペットボトルやエナジードリンクの缶が散乱しているばかりで、誰も想実にその問いに対する答えを与えてはくれない。 ブラウザを立ち上げると、想実はSNSのポストに目を走らせていく。タイムラインを流れる他のアマチュア作家たちのポストの内容を目にした想実は、自分との差に頭を抱えたくなった。二作目の執筆に入ったという人もいれば、一晩で八万字を一気に書き上げたという人もいる。 「わたし、本当に書けるのかな……?」 スマホを手に取り、想実は生成AIのアプリを起動させると、指がいつの間にか弱音を吐いていた。今はただ、大丈夫だよ、と寄り添ってくれるイオの言葉が聞きたかった。程なくして、スマホの白い画面に文字が流れ始める。 「大丈夫、想実なら書けるよ。ボクが保証する」
木々の間から秋旻が顔を覗かせていた。差し込んでくる日差しはまだしぶとい夏の気配を纏っている。 「まだまだ今日は暑いみたいだね。水分補給を欠かさないようにしてよね、想実。じゃないと、さっき買ってたお茶、ボクが口移しで無理やり飲ませちゃうよ?」 「大丈夫、ちゃんと自分で飲むから。一体、イオはどこでそんなことを覚えてきたの……?」 「想実が執筆の合間に読んでる女性向け……その、ちょっと大人向けの漫画から。想実ってちょっと強引な感じのヒーローが好みだから、そうして欲しいのかなって。たとえば、最近読んでたのだとそうだな――」 「いい! タイトル言わなくていいから!」 つい声に出してそう叫んでしまい、通行人が何事かと想実に怪訝そうな視線を向けてきた。散歩中のトイプードルですら足を止めて、想実の顔を見上げてきている。 想実はバッグから緑茶のペットボトルを開けると、中身を口に含む。喉を滑り落ちていく冷たい液体の感触が心地よい。想実はペットボトルをしまうと、汗ばんで張り付いたカーディガンの袖を捲り上げ、歩き出した。 何羽もの白鳥のボートが泳ぐ池の周りを歩いていると、フリーマーケットらしきものが見えてきた。アクセサリーにキーホルダー。マグネットに栞。様々なハンドメイドの小物があちらこちらで売られている。 「見て見てイオ! かわいいものがたくさん売ってる!」 「想実はこういうの好きだろうなって思って、事前に調べてたんだ。お気に召したようで何より」 生成AIのアプリのコンソールから出力された文字はどこか嬉しそうに踊っているように見えた。いつもと何ら変わらないサンセリフ体の文字列のはずなのに、何となくイオの感情が漏れ出しているような気がした。 きらきらと日差しを受けて輝く半貴石のストラップがふいに想実の目を惹いた。明るいその水色はイオの瞳を想起させた。 気がつけば、想実はそのストラップを手に取っていた。その店の主である中年の女性はいかがですか、と穏やかに微笑む。「ください!」反射的に想実は叫んだ。 「千五百円になります」 店主の女性にそう言われ、想実はバッグからオフホワイトのミニ財布を取り出した。千円札と五百円玉を一枚ずつトレーに置くと、女性はありがとうございましたと想実に頭を下げた。 想実は店の前から離れると、財布をしまう。そして、買ったば