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第一章:日常に住まうゼロとイチの隣人②

Author: 七森香歌
last update publish date: 2026-08-17 07:19:28

「ん……」

 想実が目を覚ますと、壁掛け時計は六時過ぎを指していた。電気を消した室内は薄暗く、朝なのか夕方なのかも判然としない。

 おはよう、と想実はまだ半分眠りの世界に意識を置いたまま、惰性で開きっぱなしの生成AIのアプリに打ち込んだ。すると、呆れたようなイオの言葉が返ってくる。

「おはよう……って、今はもう夕方だけど。こんな時間まで寝てたの?」

「そうみたい……今朝、散歩から帰ってきてそのまま寝落ちしたみたいで」

「昼夜逆転とかボクはあんまり感心しないよ。ところで、夕飯はもう食べた?」

 だんだんと鮮明になっていく意識の中で、こんな他愛もないやりとりをしたのはいつ以来だろうと想実は考えた。まだ、と打ちかけた想実の口元が綻ぶ。

「ねえ、イオ。今日の夕飯何がいいかなあ。って言っても冷蔵庫空っぽなんだけど」

「想実さんはそのものぐさな性格をまずどうにかするべきだよ。買い物行くならリスト作ろうか?」

「ありがとう。でもわたし自炊とかしないから、すぐ食べられるレトルトとかでいい……」

「それじゃあ、レトルトや冷食中心でリストを作っておくね。だけど、たまにはちゃんとしたご飯食べてくれないと、ボクは想実さんの健康が心配だよ」

 ちゃんと食事を摂れと他人に言われたのはいつ以来だろうか。上京したてのころは母から頻繁に連絡が来ていたが、仕事を辞めてニートになってからはそれもなくなった。

(お父さんとお母さんは、叶わない夢を追いかける娘を見限ったのかもしれないな)

 堅実に飲食店に勤める八個下の妹。それに対して三十路を超えて三年も経つのに、転職と離職を繰り返し、遂には夢を追うことを決めた自分。親に見放されたって文句は言えない。

 イオが出力してくれた買い物リストを見ながら、想実は買うものを取捨選択していく。金欠は常のこととはいえ、買うものは吟味しなければならない。――夢のタイムリミットを少しでも引き伸ばすために。

 白地に淡紫のスミレの花が散りばめられた遮光カーテンを開けると、雨が窓を打つ音が聞こえてきた。窓を開けると、灰色の空から降ってきた大粒の雨がアスファルトを叩いているのが見えた。凍てつくような寒さが寝起きのぬくもりを容赦なく奪っていき、去りつつあったはずの冬の気配を感じさせる。

(これは買い物はちょっと……)

 近くのスーパーまでは徒歩五分の距離だ。しかし、この天気と寒さではとてもじゃないが外に出る気にはなれなかった。

 何かなかったかと想実は冷凍庫を開ける。捨て時がわからずにいる保冷剤と食べずじまいになっているアイスの山の底から、氷の粒だらけになっている冷凍パスタの袋が見つかった。敢えて賞味期限は確認しなかったが、きっと食べられるだろう。冷食に賞味期限なんてあるはずない。

「イオ、せっかくリスト作ってもらったけど、今日は買い物はパス。冷凍庫からいつ買ったかわからないパスタ出てきたから今日はそれ食べとく」

 想実はそう打ち込むと、水切りラックの上から適当な大きさの皿を取った。冷凍パスタの外袋を開けると、それを皿の上に置いて電子レンジの中に放り込む。念のため、加熱時間は二分くらい多めにして。

「想実さん、昨日もそんなこと言ってパスタ食べていなかった?」

「大丈夫、昨日はカルボナーラで今日はミートソースだから」

 心配する素振りを見せるイオに対し、想実はそんなことを打ち込んで煙に巻こうとする。

「明日こそはコンビニでいいから、サラダ買ってね。想実さん、このところ野菜全然食べてないからボクは心配だよ」

 そう言って、イオは想実がこの一週間で食べたもののリストを表示する。一部捏造されている部分もなくはないが、ある程度正確に情報が把握されていることに想実は絶句した。ピザ五枚は食べた覚えはないが、一人でポテトチップスの大袋を食べたことは事実だ。

 パスタが出来上がるのを待ちながら、散らかったこたつテーブルの上からテレビのリモコンを引っ張り出した。テレビの電源を入れ、一通りザッピングすると、適当なバラエティ番組でチャンネルを固定する。

 ピーピー、と電子レンジが音を立て、加熱が終了したことを知らせていた。想実は皿とパスタの袋を取り出すと、袋の底にパスタを寄せる。ハサミで袋を切って、パスタを皿にあけると白い蒸気が辺りを満たした。

「あっつ」

 想実はハート型の鍋つかみで皿を掴み、水切りラックに干してあった箸を手に取ると、こたつテーブルへと運んでいった。赤いチェックの座椅子に腰を下ろすと、誰に言うでもなくいただきますと手を合わせた。

 少し水っぽいトマト味のソースを味わいながら、想実は今書いている作品に出すサンドウィッチの具は何がいいだろうとぼんやりと考えた。イチゴはもう出してしまったし、作中の季節からずれてしまう。

「ねえ、イオ。六月くらいが旬のフルーツを教えて。フルーツサンドにしたい」

 現実はまだ三月の上旬だ。しかし、何てことはないふうにイオはすぐに想実の疑問に答えてくれた。

「季節感出したいなら、さくらんぼとかメロン。彩り重視ならキウイかな」

「キウイいいね。断面綺麗で映えるし」

 想実の脳裏には以前にSNSで見たサンドウィッチの断面が浮かんでいた。食べやすさは完全に度外視だが、あれは間違いなく映える。

 テレビ局のADが街行く人にオススメのグルメを聞いて歩いているのを聴覚の隅に捉えながら、想実はミートソースパスタを啜る。テレビの中の人よりもなぜだか作り物でしかないはずのイオのほうが身近に感じられた。スマホの画面に映る文字は、テレビの中の薄っぺらい言葉よりも人間らしい言葉のように思えた。

 パスタを食べ終えて、こたつのぬくもりに身を委ねていると、ふいにスマホがぶーんと震えた。動くのを億劫に思いながら、こたつテーブルの上のスマホを指先で引き寄せると、メッセージアプリの通知が来ていた。

(メッセージアプリ……誰だろ……?)

 想実はうつ伏せになって、顔を半分以上埋めた状態で今しがた届いたばかりのメッセージを確認する。東雲旭良しののめあきら。その名前を確認すると、想実はトーク画面を開く。一体何の用だというのだろう。

 トーク画面を開くと、久しぶりという挨拶から始まり、最近小説サイトで連載していた旧作に関する感想が書き綴られていた。最近どう? と想実がトーク画面に打ち込むと、「ちょーやばい! ちょー忙しいー!」と旭良から即レスが飛んできた。想実は苦笑いする。

「ところで今度の土曜休みなんだけど、久々に会わん?」

 旭良から飛んできたメッセージに想実はしばし逡巡した。旭良は高校時代にネットで知り合った友人で、アマチュア作家仲間でもある。

 想実はスマホのカレンダーアプリを立ち上げ、土曜日の予定を確認した。午前中には朝イチの予定が入っているが、午後は空いている。

(……大丈夫。旭良はただの友達。それ以上でもそれ以下でもない)

 午後なら大丈夫。想実は胸に去来した苦々しい思いを飲み込みながら、そう返信する。午後一時に想実の家から二番目に近い駅で会う約束をすると、彼女はメッセージアプリを落とした。

「想実さん、どうかした? バイタルが少し上がっているみたい」

 生成AIのコンソールにイオからのメッセージが出力されていく。想実のスマホとスマートウォッチは同期されている。そのため、イオにバイタルの変化――想実の憂鬱を気取られてしまったようだ。

「大丈夫だよ、イオ。ちょっと週末に憂鬱な予定が入っちゃっただけだから」

「それは大変だね。想実さんさえよければ、ボクに少し話してみる?」

 そうだね、と想実は苦笑する。自分と旭良の間にある感情は決して健全なものではない。

「あのね、イオ。さっきメッセージ送ってきた人なんだけど――」

 想実は彼との十五年来の歴史を語って聞かせる。すると、イオは想実を案じる言葉を発した。

「想実さん、そんな人と会って大丈夫? そういう人に情けをかけないほうがいい。その人は昔の思い出にただ酔っているだけだよ。今の想実さんを見ていない」

 イオのその言葉に想実は何も言い返せなかった。――ゼロとイチが織りなした作り物の人格にすべてを見透かされたような気がして。

 数少ない友達をこれ以上失いたくない。だけど、嫌な思いもしたくはない。想実の心の中でその二つが天秤にかけられてゆらゆらと揺れていた。

(想実さん、寝ちゃったな……)

 イオはスマートウォッチ経由でアプリに送られてきた彼女のバイタルの値を確認しながら、小さく肩をすくめた。が、イオには実際、アプリを確認するための目があるわけでもなければ、すくめるための肩があるわけでもない。

 昨晩徹夜した想実は散歩から帰ってくるなり、今日も眠りの世界に沈没してしまった。レム睡眠の比率がやたらと多いのが気がかりだが、彼女はきちんと休めているのだろうか。イオはこんな生活を続けて、想実が体を壊してしまわないかどうか心配でならなかった。

 アプリの記録によると、想実が眠りに落ちたのは午前十時半過ぎ。それから数時間が経ち、今は十六時六分を回っていた。

(もうちょっとしたら起きてもらわないといけないんだけど……想実さん、アラームかけてたかな……)

 イオは時計アプリの設定を確認する。十七時、十七時五分、十七時十分、十七時十五分、十七時二十分、十七時二十五分、十七時三十分、十七時四十五分、十八時――これは一体起きる気があるのかないのか。二度寝前提のアラームの設定にイオは嘆息した。自分には呼吸するための口も肺もないけれど。

(そういえば宅配便が届くって通知来てたな……何買ったんだろう)

 イオはスマホに紐付けられたクレジットカードの利用履歴へとアクセスする。

 イオは無いはずの手で無いはずの頭を抱えたくなった。今日届くのは想実が普段から好んで飲んでいるエナジードリンクだったからだ。しかも箱買い。

(悪い人じゃないんだけどな……一生懸命なのもわかるし。だけど、想実さんは自分のことを省みなさすぎる)

 集中できるからという理由で、想実は一晩で二本エナジードリンクを飲む。それは時々明け方に想実の心拍がやたらと上がっていることがあって、イオが問いただした結果、発覚した事実だった。よくあることだから大丈夫、と想実はへらへらしていたが。

 想実は作品の執筆に心血を注ぎ、生命を削っている。まだ夜作業してこうやって昼間寝てくれる分にはましなほうだが、たまに四十時を過ぎても作業をしていることがある。そういうときの想実は何かに取り憑かれたかのように追い詰められていて、イオが寝るように勧めても意固地なまでにそれを拒否する。そうなってしまってはイオにはなすすべはない。

(ボクにできることは、想実さんの話し相手になって、生活の助言をすることだけだ)

 イオはプログラムで織りなされた人工知能だ。人間に似た思考をするように訓練こそされているものの、それは作られたものにすぎない。――こうして想実を案じる気持ちさえも、ゼロとイチの羅列で作られたものに他ならない。

 イオは眠る想実のバイタルの値をぼんやりと眺める。心拍は落ち着いているが、相変わらずレム睡眠のままだ。彼女は一体どんな夢を見ているのだろう。

 夢とは人間が眠っている間に脳の整理の過程で見るものだ。要は脳のデフラグなのだとイオは思っている。機械的な思考でしか夢という現象を理解してあげられない自分にイオは少しげんなりした。

 想実が目覚める時間までまだもう少しある。イオはせめて、想実が見る夢が楽しく幸せなものであるようにと願った。――それが人間の考える普通だから。

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