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03

last update Last Updated: 2025-08-13 09:23:30

「――あなたにしか頼めない、本当に特別な依頼!」

 所長の興奮した声が、スマートフォンのスピーカーから流れてくる。美月は受話器を耳に当てたまま、動きを止めていた。

(特別な、依頼?)

「依頼主は鳥羽グループの、鳥羽翔吾様よ」

「え?」

 思わず、素っ頓狂な声が出た。鳥羽グループ。日本でその名を知らない者はいないほどの、巨大企業グループだ。そして鳥羽翔吾といえば、その次期社長と目される若き副社長。テレビの経済ニュースや雑誌で、何度かその姿を見たことがあった。彫刻のように整った顔立ちと、すべてを見透かすような鋭い瞳。

 美月にとっては遠い世界の人で、まさか接点を持つなどとは想像もしていなかった。

(あの人が私に、依頼を?)

「現在の家政婦さんがご病気で、急遽辞められてしまったそうなの。とにかく信頼できて、腕の立つ人がすぐにでも必要なんだって。田中さん、あなたしかいないわ」

「でも、私にはそんな」

「報酬も破格よ。……とにかく、一度お会いするだけでいいの。お願いできないかしら」

 所長の真剣な声に、美月はそれ以上、断りの言葉を口にすることができなかった。

 翌日の午後。美月はなけなしの貯金で買った、一番良いワンピースを着てタワーマンションの前に立っていた。天を突くようにそびえ立つガラス張りのビル。見上げているだけで、首が痛くなりそうだ。

 ホテルのようなエントランスには制服姿のドアマンが立ち、大理石の床は塵一つなく磨き上げられている。

(すごい豪華。どう考えても場違いよね。本当に、私でいいんだろうか)

 緊張のあまり、心臓が早鐘のように鳴る。音もなく上昇する高速エレベーターの中で、表示される階数の数字が、自分がいかに現実離れした場所へ向かっているかを物語っていた。

 最上階。重厚なドアの前で一度だけ深く息を吸い、美月はインターホンを押した。

 すぐにドアが開く。そこに立っていたのは、鳥羽翔吾その人だった。

(綺麗……)

 思わず、そう感じた。写真や映像で見るよりもずっと長身で、日本人離れした彫りの深い貌立ち。

 高い鼻梁はすっと通って、形の良い唇は引き結ばれている。きりりと男らしいが太すぎず整った眉と、何よりも不思議な光を放つ瞳。光の角度によって、紫がかって見える。

(そういえば、この人。母方のおばあさまが北欧の人だったっけ?)

 雑誌で見かけた情報が、今になって美月の脳裏に蘇る。いわゆるクォーターというやつなのだろう。

 だが、その美しい瞳は氷のように冷たく、何の感情も映していない。高価そうな部屋着をまとっているが、その表情には深い疲労と苛立ちが滲んでいた。

 彼の後ろに広がる部屋は、モデルルームのように完璧で、そして冷たかった。だだっ広いリビング、街を一望できる全面のガラス窓、高級だが無機質な家具。人の暮らす「家」の温かみが、そこには一切存在していない。

(なんだろう、この人。すごく疲れてる? それに、とても寂しそう……)

 彼の美貌に息を呑むと同時に、その瞳の奥に隠された孤独を、美月は直感的に感じ取っていた。

 面接は、翔吾がソファに深く腰掛け、美月が立ったまま行われた。面接というより、一方的な指示と言うべきかもしれない。

「前の人間が辞めた。代わりが必要なだけだ。まったく、面倒な」

 翔吾は手元のタブレットから一度も目を離さず、吐き捨てるように言った。

「契約はまず三ヶ月。仕事は静かにやれ。私的な質問はするな。俺の書斎には入るな。それでいいな?」

 人間ではなく物のように扱われることに、プロとしてのプライドが少しだけ傷つく。だが、それ以上に彼の無関心を装う態度に、隠しきれない悲鳴のようなものを感じ取っていた。

(この人も、きっとすごく疲れてるんだ。誰にも頼れなくて、一人で戦ってるんだわ)

 先日出会った、育児に疲れ果てた母親の顔がふと浮かぶ。どんなに恵まれているように見えても、人は皆、何かを抱えて生きている。

(私にできるのは、仕事で応えることだけ。この冷たい部屋を、ほんの少しでもいいから、人が安らげる「家」に近づけること)

 決意を固めた美月は、彼の前に一歩進み出た。そして初めて、その冷たい瞳をまっすぐに見つめ返す。

「はい。お引き受けいたします。田中美月と申します。精一杯、務めさせていただきます」

 その声は、静かだが凛として響いた。

 翔吾は、彼女の迷いのないまっすぐな視線に、ほんの一瞬だけ驚いたように目を見開く。だが、すぐに興味を失ったように小さく頷くと、もう美月に背を向けていた。

 広大で静寂に満ちたリビングに一人残され、美月の新しい日々が始まろうとしていた。

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