翌日の昼過ぎ、美月は派遣会社の事務所を訪れて、昨日の業務報告書を提出していた。所長は報告書に目を通しながら、人の良さそうな満面の笑みで顔を上げる。
「田中さん、昨日のお客様、朝一番でお電話くださったのよ。『田中さんのおかげで、久しぶりに人間らしい時間が過ごせた』って。涙声で、本当に感謝していたわ。これからもぜひ田中さんを、ってお願いされちゃった」
「そうですか……。よかったです」
(よかった。少しでも、あの人の力になれたんだ)
美月はにっこりと微笑んだ。
自分の仕事が誰かの救いになった。その事実が、胸を温かいもので満たす。これこそが、この仕事の一番のやりがいだった。「田中さんは、いつもお客様からの評判がいいのよね。仕事は真面目で、腕もいい。これからもよろしくね」
「はい、もちろんです。こちらこそよろしくお願いします」
その日の午後に訪れたのは、都心で働く単身のキャリアウーマンの部屋だった。 部屋はミニマルでよく片付いているが、どこか生活感に乏しい。今回の契約には、掃除と洗濯に加え、「簡単な食事の作り置き」が含まれていた。 キッチンを確かめると、ゴミ箱に捨てられたコンビニの容器が山盛り。顧客の多忙な生活を物語っている。冷蔵庫の中も、栄養ドリンクとミネラルウォーターがほとんどを占めていた。(これでは、体を壊してしまう。契約は『簡単な食事』だけど、少しでも栄養のあるものを食べてほしいな)
祖父母の健康を気遣っていた頃の癖で、つい相手の体のことを考えてしまう。美月は顧客のライフスタイルを想像し、最適なメニューを頭の中で組み立てていった。
(温め直すだけで美味しく食べられて、野菜がたくさん摂れるもの。何がいいかしら)
買い物を代行した新鮮な野菜と、冷蔵庫にあった冷凍の鶏肉を使い、手際よく調理を始める。鶏肉の照り焼き、彩り野菜のきんぴら、ひじきの煮物。甘辛い照り焼きの香ばしい匂いが、殺風景だったキッチンに温かい生活感をもたらしていく。
完成した料理を、美月は一つ一つ保存容器に詰めていく。容器には、料理名と温め方を書いた小さな付箋を丁寧に貼り付けた。 冷蔵庫に綺麗に並べられた数々の作り置き。単なる「仕事」として作られたものを超えて、食べる相手の健康を願う美月の温かい心が形になったものだった。 仕事帰り、美月は公園のそばを通りかかった。夕暮れの優しい光の中、仕事を終えたらしい父親が、幼い子供を抱き上げている。隣では、母親が幸せそうに笑っている。どこにでもある、温かい家族の風景。 その光景に、昨日の顧客である母親の言葉がふと心によみがえった。『美月さんにも、誰かにこうやって優しくしてもらえる、温かい場所があればいいのに』
(温かい場所)
美月は空を見上げる。一番星が小さく瞬いていた。
(私にも、いつか見つかるのかな……)
一瞬、寂しさに胸が締め付けられる。だが、すぐに唇をきゅっと結んだ。
(ううん、まずは自分にできることを一生懸命やらなきゃ。おじいちゃんもおばあちゃんも、きっとそう言うわ)
彼女の心には、いつも確かな芯が一本通っている。
アパートに帰り着き、一人分の夕食の準備をしていた、その時だった。 静かな部屋に、スマートフォンの着信音が鋭く鳴り響く。画面には、派遣事務所の所長の文字。こんな時間にどうしたのだろう。不思議に思いながら、美月は通話ボタンを押した。 電話の向こうから、所長の興奮した、弾むような声が聞こえてくる。「美月さん!? 今、大丈夫!? 大変よ、すごい話が来たの! あなたにしか頼めない、本当に特別な依頼!」
「え……?」
美月は受話器を耳に当てたまま、動きを止めた。キッチンの換気扇の音だけが響く静かな部屋の中で、自分の人生が大きく変わる予感に、ただ立ち尽くすのだった。
まだ薄暗い中で、美月は目を覚ました。 一瞬だけここがどこかわからなくて、すぐに思い出した。 ここは鳥羽翔吾のペントハウス。美月は昨日から住み込み家政婦として、寝泊まりすることになったのだ。 慣れないベッド、しんと静まり返った空気。家政婦用として与えられた部屋は清潔で機能的だったが、彼女のアパートにあったような手作りの温かみはない。 窓の外には、朝焼けに染まり始めた空と、宝石のようにきらめく都心のビル群が広がっている。息を呑むほど美しい、しかしどこか現実感のない景色だった。 美月はぱりっと糊のきいた制服に着替え、鏡の前でぎゅっと唇を結んだ。(今日から、ここが私の職場であり、家になる。大丈夫、いつも通りやればいいんだわ) プロとしての矜持が、彼女の不安を打ち消していく。失敗は許されない。でも、私の仕事は家を綺麗にして、住む人が心地よく過ごせるようにすること。それは、どこでも同じはずだ。 リビングに出ると、家はまだ静寂に包まれていた。翔吾の気配はない。 美月はまず、家全体の空気を入れ替えるために、そっと窓を開ける。ひんやりとした朝の空気が流れ込んできた。 キッチンカウンターの上には、一枚のメモが置かれている。翔吾の筆跡であろう、無機質で美しい文字。『朝食はブラックコーヒーのみ。夕食は不要。掃除と洗濯は必要に応じて』。 広いキッチンは最新式の調理器具が揃っているが、使われた形跡はほとんどなかった。冷蔵庫を開けると、その中身はミネラルウォーターと高級なコーヒー豆、そして栄養補助食品の類が数本だけ。生活の匂いが全くしない。(本当に、ここで生活しているのかしら。家というよりも、要塞みたい) そのあまりの無機質さに、美月は胸が詰まる思いがした。(夕食はいらない、か……。ちゃんと、食べているのかしら) つい、彼の健康を心配してしまう。 メモの指示は最低限のものだったが、美月は自分の仕事をそれだけで終わらせるつもりはなかった。(ただ言われたことをやるだけじゃ、プロの家政婦とは言えないわ。お客様の心を汲み取ってこそ) 翔吾が起き出す前に、美月は指示通りに完璧なブラックコーヒーを淹れた。そして、ほんの少しだけのおせっかい。小さなガラスの器に彩りよくカットフルーツを盛り合わせ、そっと添えておく。 翔吾が起き出してきた。「おはようございます」 挨拶
「――あなたにしか頼めない、本当に特別な依頼!」 所長の興奮した声が、スマートフォンのスピーカーから流れてくる。美月は受話器を耳に当てたまま、動きを止めていた。(特別な、依頼?)「依頼主は鳥羽グループの、鳥羽翔吾様よ」「え?」 思わず、素っ頓狂な声が出た。鳥羽グループ。日本でその名を知らない者はいないほどの、巨大企業グループだ。そして鳥羽翔吾といえば、その次期社長と目される若き副社長。テレビの経済ニュースや雑誌で、何度かその姿を見たことがあった。彫刻のように整った顔立ちと、すべてを見透かすような鋭い瞳。 美月にとっては遠い世界の人で、まさか接点を持つなどとは想像もしていなかった。(あの人が私に、依頼を?)「現在の家政婦さんがご病気で、急遽辞められてしまったそうなの。とにかく信頼できて、腕の立つ人がすぐにでも必要なんだって。田中さん、あなたしかいないわ」「でも、私にはそんな」「報酬も破格よ。……とにかく、一度お会いするだけでいいの。お願いできないかしら」 所長の真剣な声に、美月はそれ以上、断りの言葉を口にすることができなかった。 翌日の午後。美月はなけなしの貯金で買った、一番良いワンピースを着てタワーマンションの前に立っていた。天を突くようにそびえ立つガラス張りのビル。見上げているだけで、首が痛くなりそうだ。 ホテルのようなエントランスには制服姿のドアマンが立ち、大理石の床は塵一つなく磨き上げられている。(すごい豪華。どう考えても場違いよね。本当に、私でいいんだろうか) 緊張のあまり、心臓が早鐘のように鳴る。音もなく上昇する高速エレベーターの中で、表示される階数の数字が、自分がいかに現実離れした場所へ向かっているかを物語っていた。 最上階。重厚なドアの前で一度だけ深く息を吸い、美月はインターホンを押した。 すぐにドアが開く。そこに立っていたのは、鳥羽翔吾その人だった。(綺麗……) 思わず、そう感じた。写真や映像で見るよりもずっと長身で、日本人離れした彫りの深い貌立ち。 高い鼻梁はすっと通って、形の良い唇は引き結ばれている。きりりと男らしいが太すぎず整った眉と、何よりも不思議な光を放つ瞳。光の角度によって、紫がかって見える。(そういえば、この人。母方のおばあさまが北欧の人だったっけ?) 雑誌で見かけた情報が、今になって美月の
翌日の昼過ぎ、美月は派遣会社の事務所を訪れて、昨日の業務報告書を提出していた。所長は報告書に目を通しながら、人の良さそうな満面の笑みで顔を上げる。「田中さん、昨日のお客様、朝一番でお電話くださったのよ。『田中さんのおかげで、久しぶりに人間らしい時間が過ごせた』って。涙声で、本当に感謝していたわ。これからもぜひ田中さんを、ってお願いされちゃった」「そうですか……。よかったです」(よかった。少しでも、あの人の力になれたんだ) 美月はにっこりと微笑んだ。 自分の仕事が誰かの救いになった。その事実が、胸を温かいもので満たす。これこそが、この仕事の一番のやりがいだった。「田中さんは、いつもお客様からの評判がいいのよね。仕事は真面目で、腕もいい。これからもよろしくね」「はい、もちろんです。こちらこそよろしくお願いします」 その日の午後に訪れたのは、都心で働く単身のキャリアウーマンの部屋だった。 部屋はミニマルでよく片付いているが、どこか生活感に乏しい。今回の契約には、掃除と洗濯に加え、「簡単な食事の作り置き」が含まれていた。 キッチンを確かめると、ゴミ箱に捨てられたコンビニの容器が山盛り。顧客の多忙な生活を物語っている。冷蔵庫の中も、栄養ドリンクとミネラルウォーターがほとんどを占めていた。(これでは、体を壊してしまう。契約は『簡単な食事』だけど、少しでも栄養のあるものを食べてほしいな) 祖父母の健康を気遣っていた頃の癖で、つい相手の体のことを考えてしまう。美月は顧客のライフスタイルを想像し、最適なメニューを頭の中で組み立てていった。(温め直すだけで美味しく食べられて、野菜がたくさん摂れるもの。何がいいかしら) 買い物を代行した新鮮な野菜と、冷蔵庫にあった冷凍の鶏肉を使い、手際よく調理を始める。鶏肉の照り焼き、彩り野菜のきんぴら、ひじきの煮物。甘辛い照り焼きの香ばしい匂いが、殺風景だったキッチンに温かい生活感をもたらしていく。 完成した料理を、美月は一つ一つ保存容器に詰めていく。容器には、料理名と温め方を書いた小さな付箋を丁寧に貼り付けた。 冷蔵庫に綺麗に並べられた数々の作り置き。単なる「仕事」として作られたものを超えて、食べる相手の健康を願う美月の温かい心が形になったものだった。 仕事帰り、美月は公園のそばを通りかかった。夕暮れの優しい光の
若い夫婦が住む、モダンなマンションの一室。ここが田中美月の今日の仕事場だ。 美月は、リビングの床に散らばったベビー用のおもちゃを、音を立てないように一つ一つ拾い上げていく。ぬいぐるみ、プラスチック製のラッパ、小さな絵本。それらを手際よく収納ボックスに収めながら、隣の寝室へと意識を向けた。 少しだけ開いたドアの隙間から、母親と赤ちゃんの穏やかな寝息がかすかに聞こえてくる。(よかった、お二人ともぐっすり眠ってる。今のうちに、できるだけ家事を進めないと) 掃除機をかけようと思ったが、音がうるさくて起こしてしまうかもしれない。代わりに固く絞った布でフローリングを丁寧に拭き上げることにした。彼女の動きに一切の無駄はない。 家事代行の顧客である若い母親は、夫が激務で、ほとんど一人で育児をしているのだという。昨晩も眠れなかったと、美月が来たときに疲れ切った顔で話していた。少しでも長く休んでもらいたい。その一心だった。 リビングの片付けと掃除を終えると、美月はキッチンに立つ。今日の依頼は家事全般と、簡単な食事の作り置きだ。(温めるだけですぐに食べられるものじゃないと。自分の食事は後回しになっちゃうって言ってたから) 冷蔵庫にある人参、玉ねぎ、じゃがいも、それから鶏肉。美月はそれらの食材を使って、根菜がたっぷり入ったポトフを作ることにした。コトコトと鍋を煮込むうち、コンソメと野菜の優しい香りが部屋に満ちていく。 この香りを嗅いだら、少しは元気になってくれるだろうか。食べる相手を思う気持ちが、彼女の料理には常に込められている。 依頼終了の時刻が近づいた頃、寝室のドアが静かに開いた。料理の香りで目を覚ましたのだろう、母親がそっと顔を出す。彼女は綺麗に片付いたリビングを見回し、目を丸くした。「すごい……あんなに散らかってたのに。いつの間に」「起こしてしまってすみません」 美月が言うと、母親は力なく首を振った。「ううん、お料理のいい匂いで目が覚めたの」「温かいポトフ、できていますよ」 そう声をかけると、母親の目にじわりと涙が浮かんだ。 母親は、美月の作ったポトフをひとくち食べた。「おいしい……」と呟き、ぽろりと涙をこぼす。「こんなに温かくて美味しいもの、いつぶりに食べたか分からない……」。 母親は涙を拭うと、美月の手をそっと握った。「田中さんが来てく