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瑞々しさを失った木々の葉の間から覗く空が、今にも雨が降り出しそうなどんよりと重たい灰色に塗り固められていた。水の匂いをはらんだ風が、辺りに生の殺気と鉄錆の入り混じった香りを辺りに立ち込めさせる。
背後に複数の足音と怒声が迫ってきていた。いい加減、疲労で動かすのが億劫になってきていた重い足をどうにか動かし続けながら、彼は背後を振り返る。武器を携えた田舎っぽく垢抜けない出で立ちの男たちの姿が、紅に光る彼の双眸に映り込む。泥で汚れ、あちこちが擦り切れた黒い外套のフードの下で、彼は眉間に皺を寄せ、皮肉げに口元を歪めると、嫌そうにちっと舌打ちをする。 彼は”人喰い”だった。”人喰い”とは、大地の穢れと人々の悪意が交差する場所に生まれ落ちるという、人間に酷似した姿の化け物である。鋭く発達した牙と童話の妖精のように先端が尖った長い耳を持つ彼らは、男女問わず総じてひどく美しく、老化がゆっくりだとされている。しかし、何より彼らが人間から忌避され、恐れられる理由は、肉食獣が弱者を捕らえ、その肉を貪るように、人の肉を食らい、血液を啜って生きるその生態にあった。 ”人喰い”は定期的に人間の血肉を喰らわなければ、生きていくことができない。口にする対象は生きているか死後間もない人間である必要性がある。 彼らは生き繋ぐための糧を口にすることができなければ、飢えによる渇きによって、身内が灼かれるような痛みやひどく重苦しい倦怠感に苛まれるという。そのままの上体が続けば、そのままの状態が続けば、”人喰い”は身の内が灼けるような苦しみを味わった挙句、衰弱して、やがて死に至るとされている。そのため、彼らは定期的に優れた身体能力をもって人を狩り、命を繋ぐための糧としていた。 ”人喰い”の中には必要最低限の”食事”としてしか人間を襲わない者もいる一方、快楽として人間を屠っては喰い散らかす残虐な性質の者もいる。絶望で泣き叫ぶ顔が見たくて、生きたまま嬲るように人間を”喰う”ことを好む者もいる。 そういった一部のサディスティックな者たちの存在が、彼ら”人喰い”という種に対する人間の嫌悪感に拍車をかけていることは言うまでもなかった。彼は今日の昼下がり、近くにある朴訥とした田舎町――ノルスを訪れていた。前回の”食事”から少し日が経ち、全身が飢えによる渇きを訴え始めていた。
もっさりと垢抜けない雰囲気の三歳ほどと思われる幼い少年が細い路地へと入っていくのを目にし、気づかれないように彼はその後を尾けた。人目がなくなったのを確認すると、彼は少年へ背後から忍び寄って襲いかかり、首の骨をまるで小枝を折るかのように軽々とへし折って殺害した。その後、彼が少年の死骸に鋭い犬歯を突き立てようとしていたところ、偶然、その現場を通りがかった町の人間に見咎められ、騒ぎとなった。瞬く間に武器を持った町の自警団の男たちが集まってきて、彼――”人喰い”の青年は彼らに追われることとなった。 自警団の面々に剣で切りつけられ、矢で射られた彼は、少し北上したところにある鬱蒼とした森――エフォロスの森へと逃げ込み、今ここにいた。しばらく食事を摂れていなかったせいで本調子でない上に、手傷を負わされたために満足に動けない彼を自警団は執拗に追ってきていた。 (まったく……あいつら、いつまで俺を追ってくるつもりだ……? こっちはいい加減ぼろぼろだというのに……) 彼は木の陰に身を隠し、荒くなった呼吸を整えると、傷が広がるのも構わず、左肩に深々と刺さった矢を力任せに引き抜いた。矢の返しが傷口を裂き、溢れ出した生暖かい血液が外套の左肩をぐっしょりと濡らしていく。矢を抜いたことで出血が増えたが、追われている今、いざというときに動きが鈍るよりはましだった。彼は矢を無造作にその場に放り捨てる。 先程、ノルスでせっかくの”食事”を邪魔されたこともあって、身体が限界に近かった。 一瞬、視界が暗くなった。欲しい。欲しい。そんな本能的な欲望が彼の思考を染め上げていく。 欲しい。肉が、血が、欲しい。脂がほんのりと甘い人間の柔肌に牙を突き立てたかった。彼らの全身を巡る赤い液体を一滴残らず飲み干してしまいたいという本能的な生への激しい衝動が、己の獣性を満たす快楽への渇望が彼を駆り立てる。自分を追ってきている奴らを今すぐに殺し、血の一滴すら残さずに”喰って”しまいたくて仕方なかった。 自分のことを探している自警団の男たちの姿を木の陰から確認すると、彼は赤い舌をちろりと覗かせる。赤く光る目を細め、舌なめずりをするその様は、”人喰い”特有の容貌も相まって、どこか淫靡な美しさがあった。 かさり、と乾いた葉が擦れる音を立てて彼が姿を現すと、思い思いの武器を携えた男たちの警戒と怯えでどよめいた。彼は悠然とした態度で人間たちと対峙する。 自分を見、武器を構える十人近い男たちの姿に、青年はふっと口元を緩め、不敵な笑みを浮かべた。この状況でなお、余裕めいた態度を見せる彼へ向けられた人間たちの視線は次第に困惑の色が濃くなっていく。 あまりにも多勢に無勢に過ぎるにもかかわらず、自分への虞れを隠せずにいる人間たちに、彼はある種の可笑しみすら覚えた。”人喰い”は人間に比べて力が強く、身体能力に優れてはいるが、この人数が相手ではあまりに不利だ。それでも人間たちは、彼へ一切の隙を見せることなく、間合いを測るように武器を構え続けている。 ふう、と息を吐くと、彼は手近にいた男へと急速に距離を詰めた。「……ッ!?」あまりに自然で予備動作のない”人喰い”の体捌きに、男は反応できなかった。”人喰い”の青年は男の手から、手に持ったサーベルを叩き落とす。信じられないといった表情を浮かべたまま、男はその場に尻餅をつく。 カランカラン、と音を立てて地面を転がったサーベルを拾い上げると、彼はそれを正眼に構える。あまり手入れされていないのか、赤茶けた錆が浮き、ところどころ刃こぼれしていたが、素手で彼らと戦うよりは多少はましかもしれなかった。 サーベルを奪われた男は腰を抜かして、立ち上がれないままがたがたと震えている。爛々と光る赤い双眸でそれを見下ろす青年の喉の奥から、くつくつと忍び笑いが漏れる。ボロ同然の黒い外套のフードの下からは、狂気にも近い、抑えることもできなければ抑える気もない獰猛な食欲が見え隠れしていた。 武器を奪われた仲間の後ろで、恐怖を顔に張り付かせながら棍棒を握りしめる壮年の男と視線が交錯した。ひぃぃ、と情けない悲鳴を上げる男を視線でねっとりと舐りながら、今日の食事はこいつにしようと彼は決める。ノルスの町外れで仕留めた子供に比べ、美味しくはなさそうだったが、今はこれで妥協するしかない。それに、目の前で仲間を食われれば、恐怖でこいつらも退散していくに違いないと彼は当たりをつけていた。 標的を定めた”人喰い”の青年は薄い唇の間から鋭く尖った犬歯を覗かせる。それを合図にでもしたかのように、男たちの集団が、それぞれの武器を振りかざして彼へと襲いかかってきた。 自警団の男たちの動きは、青年への恐怖も相まって固くぎこちない。明らかに訓練されたものではない腕っ節だけの素人じみた動きを見切った彼は、叩きつけるようにガラクタ同然のサーベルで男たちを薙ぎ払っていく。 彼はサーベルを上段に構えると、勢いをつけて壮年の自警団員が持つ棍棒を無理やり叩き切った。衝撃で男がよろめく。恐怖のあまり目を閉じた男の顔が視界に映り、極限まで張り詰めた欲しいという感情に青年の喉がひくついた。ただそこにあるのは本能的な生への渇望のみだった。男の喉元へ手を伸ばそうとする青年へと他の自警団員たちの打撃や斬撃の雨が熱い痛みを伴って降り注いだが、青年は気にもとめなかった。 彼は素早く距離を詰め、ボキリと小枝でも折るかのように男の首を容易く折ってみせると、鋭い牙をその首筋に突き立てる。鼻腔を満たしていく、芳醇な血の香りに官能に近い感覚を覚えていると、彼の右股にどんっと重い衝撃が走った。 「おい、仕留めたか!?」「でも、シュデスが!」 怯えた表情を張り付かせたまま事切れている男――シュデスの頭部を首から引き千切り、地面に投げ捨てると、彼は自身の右股へと視線をやる。ナイフが刺さっているのが視界に入ったが、意に介したふうもなく、彼は棍棒だったものの切れ端を握りしめたままのシュデスの右腕を食いちぎっていく。生ぬるい体温の残る腕を咀嚼する度に、ぼきぼきと骨が砕けていく音がやけに大きく響いた。彼は唇に付着した赤黒く生臭い液体をまるでソースでも舐めるかのように無造作に舌で舐め取る。普通だな、という明らかに普通ではない感想を独りごちながら、死んだ男の胴へと彼は覆い被さる。 この歳の男の肉は臭いし、脂(あぶら)もぶよぶよとしているだけで旨味には欠ける。やはり、先程、ノルスで仕留めた子供を喰い損ねたのはもったいないことをした。そんなことを思いながら、彼はまるで獣のように男の身体へと齧り付き、咀嚼を繰り返す。何だかんだと文句はあるものの、鼻腔を突き抜けていく人間の血肉の香りはひどく彼にとって魅惑的だった。彼は、”食事”を続けながら、時折、嗚呼、という艶を帯びた切なげな吐息を漏らす。歓喜と官能に似た快感が麻薬のように全身を支配し、痛覚を鈍麻させていく。 青年によって無惨な姿の肉塊へと変えられていく、つい先程までの仲間の姿に、髭面の自警団員の男が手に持った斧を取り落とした。その手は哀れなほどに震えていた。無精髭に囲まれた恐怖に慄く唇から、言葉にならない声を喚き散らすと、男は森の出口へと向かって一目散に駆け出していった。それを皮切りに、シュデスの亡骸を置き去りにして、我先にと他の自警団員たちも彼の前から逃げ出していく。先程、青年にサーベルを奪われた男は次は自分の番だと気づいたらしく、人を震わせながら立ち上がる。 「死にたくない!! 死にたくないいいいいい!!」 涙と鼻水を撒き散らして叫びながら、男は自分を見捨てて逃げていった仲間たちを追って走り出した。恐怖で失禁したのか、男のいた場所にはつんと鼻を突くアンモニアの刺激臭と湯気の立つ黄色い水たまりが残されていた。 「……人間とは実に薄情な生き物だな」 彼は男の身体を髪一本残らず平らげると、外套の袖口で口元に付着した血液や人肉の食べかすを拭い、立ち上がった。重力に抗えずに血が身体を落ちていくのと一緒に、潮が引くように自分を支配していた高揚感が薄れていく。彼は一瞬、黒々とした闇に意識と視界が支配されるのを感じた。 「あいつらめ……」 彼は小さく毒づいた。自身の血をだいぶ失ったからか、まだ身体がふらふらとして頼りなかったが、今しがたの食事のおかげでもう少しは動くことができそうだった。 視界に森の景色が戻ってくると、彼は歩くのに邪魔なナイフを腿から引き抜いた。ナイフを無造作に放り捨てると、彼は鉛にでもなってしまったかのように重い体を叱咤し、半ば引きずるようにして歩き出す。外套の裾から滴る彼自身の赤黒い血液が、奥へと続く道に彼の足跡を残していく。 彼は自分の視界が霞んでいくのを感じていた。気を抜けば、その場でぷつりと意識が途絶えてしまいそうだった。自警団の面々に負わされた数々の傷を中心に、身体が熱を帯び始めていた。脂汗が滲み、彼の漆黒の細い前髪が外套のフードの中で額に張り付く。それでも、彼はどうにか気力を振り絞って自分を現実に繋ぎ止め、時折木の根に躓きながらも、血が伝い落ちる傷ついた足を動かし続ける。 どこかで水の音が聞こえていた。川が近い。傷や血で汚れた体を洗い、少し休めるだろうか。そんな思考に張り詰めていた意識の糸がぷつんと途切れ、彼の世界は闇に呑み込まれていった。 木々の間から覗く、空を覆う雲の色がいつの間にか夜の色に染まり始めていた。ざく、ざくと森の奥へと向かって、深雪の上に一人分の足跡が刻まれていく。獣たちの大半が冬の眠りについてしまっていることもあり、時折どこかで雪の落ちる音がする以外はひどく静かだった。 氷の花がきらきらと光るハギの茂みを抜け、見覚えのあるハゼノキの前まで来ると、ドゥーエは足を止めた。この場所は、かつて八年前にシュリが”人喰い”に両親を喰われたという場所だった。 彼女の遺体をあのままにしておくのは、あまりに忍びなかった。シュリがこの世を去った後、ドゥーエは自身の身体を少し休めると、彼女を弔うために最後の力を振り絞ってここを訪れた。この場所を選んだのは、彼女が一人で寂しくないようにと思ってのことだった。 ドゥーエは大切に腕に抱きかかえていた少女の亡骸を、葉が散ったあとのハゼノキの根本へとそっと横たえた。以前にシュリが両親へと手向けた白いアスターの花束が、水分を失ってからからに乾燥した姿を雪の下から覗かせていた。 ドゥーエは着ていた黒い外套を脱ぐと、雪の上で眠る少女の細い身体へと掛けてやった。矢で射られた彼の肩の傷には、止血のためにシュリの作ったハンカチが申し訳程度に巻かれている。彼女の亡骸の横に腰を下ろすと、ドゥーエは細く骨ばった手で愛おしげに彼女の短い黒髪を撫でた。「シュリ……」 愛しい人の名前が、吐き出された息と一緒に冬の沈黙の中へと溶ける。傍らの少女が返事をすることはなく、森の中に満ちる静寂が彼女はもうこの世にはいないのだという現実を痛いほどドゥーエに突きつけていた。 人間の風習では故人の亡骸を土の下に埋葬するのだということはドゥーエも知識として知っていたが、そんなことはできそうになかった。まだ生きているのが不思議なくらいに衰弱しきった今のドゥーエには、人間一人を埋めるための穴を掘るだけの力など残されていなかったし、何より冷たい土の下に彼女を埋めてしまえば今度こそ彼女と永遠の別れになってしまいそうな気がした。 だからといって、彼女が最期に望んだように、彼女を喰らい、生き延びるような真似は出来そうにもなかった。本能はそれを激しく渇望していたが、死に瀕してなお、心がそれを拒み続けていた。「どうするか……」 花でもあればよかったな、とドゥーエはぼんやりと思う。彼女にはどんな花が似合うだろうか。どんな花を贈れば、彼女は喜んでくれるだろうか。 しかし、雪
シュリの待つ家まであともう少し、というところでドゥーエはよろめき、倒れた。視界がぐるぐると回っていて気分が悪いし、もう一体どこが痛いのかわからなかった。 清冽な白色が視界に映る。腫れ上がった頬に触れる、溶融と凍結を繰り返して固くなった粗目雪の冷たさに、少しずつ思考が冷静になってくる。 (何をやっているんだ、俺は……) 彼女のことを思ってノルスに医者を呼びに向かった。しかし、結果はこの体たらくだ。医者も連れてこれず、こんなふうにぼろぼろになっただけで何もできなかった。俺は駄目だな、とドゥーエは自嘲で口元を歪める。 身体に力が入らなかった。元々”断食”の飢えによってひどく衰弱しているのを押してノルスに向かったのだ。そんな状態であのように一方的な暴行を受けた上でここまで帰ってこられたのは最早奇跡だといっても過言ではない。痣の出来た口の端を血の筋がつっと伝って、顎を流れ落ちていく。 ドゥーエは口元の血を拭うものはないかと、ぼろぼろになった外套のポケットを探った。「……ん?」外套のものとは異なる柔らかな布地が指先に触れ、ドゥーエは緩慢な動きでそれを引っ張り出した。 (あ……) 紺地に白と赤のバイアスボーダーが走った布地。赤いポインセチアの刺繍。丁寧に心を込めて作られたそれは、いつだったかシュリが縫っていたハンカチだった。 (俺は……どうして何もできないんだ) ドゥーエはぐしゃりと手の中のハンカチを無力感とともに握りしめた。 銀華を纏った木々の間から冴え冴えとした光が降り注いでいる。夜空に浮かんだ氷輪は南西へと傾き始めていて、もう夜も遅いことをドゥーエに知らせていた。 シュリはまだ待っていてくれているだろうか。そう思いながら、ドゥーエはずっしりと倦怠感で重い手足を動かし、雪の上を這って進み始めた。今の彼にはもう立って歩くだけの力は残っていなかった。 全身を雪まみれにしてどうにか家まで帰り着くと、ドゥーエはウォールナットの引手に手を伸ばし、どうにか扉を押し開ける。扉の隙間にぼろぼろになった痩躯を押し込み、ドゥーエは部屋の中へと転がり込んだ。 「ドゥーエ……?」 気配に気づいたのか、ベッドの上のシュリが彼の名前を呼んだ。ぜえぜえと苦しげな吐息にかき消されそうなか細く小さな声だった。 「来て」 ドゥーエは床を這って、ベッドへと
一体何時間経ったのだろう。そう思いながら、ドゥーエは重い瞼を押し上げた。見慣れた小屋の中の景色が網膜に像を結んでいくとともに、全身を絶え間なく苛む痛苦の輪郭が鮮明さを取り戻していく。 叫びだしたくなるほどに激しい全身の痛みと不快感と夜通し格闘したあと、日が昇るころになって眠気が訪れたことは覚えている。どうやらそのまま、シュリが眠るベッドに寄りかかって眠ってしまったらしかった。 今は何時だろう、とドゥーエは窓へと視線を向ける。淡い色の日差しの角度から、今は恐らく昼すぎだろうと彼はあたりをつけた。彼自身もひどく衰弱していることもあり、長く眠ってしまったようだった。 (そうだ……シュリ……!) はっとして、ドゥーエは背後のベッドに縋り付くようにして、眠る少女の顔を覗き込む。 「え……」 シュリの顔は血の気を失い、唇が青紫色に変色していた。眠っているのか、意識はないようだったが、浅く早い呼吸の合間を縫うようにして、時折痰の絡んだような湿った咳を漏らしている。 ドゥーエはシュリの額へと手を伸ばすと、表情を強張らせた。昨夜までずっとずるずると続いていた微熱は嘘のように引いていた。 しかし、それだけではなかった。ドゥーエが触れた彼女の肌からは、不自然なほど熱が感じられなかった。命の気配がひどく希薄になっているのだとドゥーエは思った。 ドゥーエは毛布の端から覗くシュリの右手を握った。血色を失った指先は紫色に染まっていた。 (駄目だ……これ以上はもう、見ていられない……) こんなこと、シュリは望んでいない。もしかしたら、このことによって、シュリに恨まれたり、憎まれたりするかもしれない。 それでも構わないとドゥーエは思った。彼女を死の淵からすくい上げられるなら、彼女にどう思われたとしてもいいと思った。 ふいに、すっと背筋を何かが駆け上ってくるような感覚があった。物凄く大きな何か――彼自身の”生”の衝動だった。どうしてこんなときに、と思う間もなく、圧倒的な欲望に意識が塗り潰されていく。弱りきった彼女は格好の獲物だと、”喰って”しまえば楽になれると頭の中でもう一人の自分が囁く声がする。 (呑まれるな……!) ドゥーエの赤い目がぎらぎらと異様な光を帯びていく。身体の中で暴れまわる激しい衝動に視界が霞む。 (このままでは抗いきれなくなる
森を覆う雪が深まり、日を追うごとにシュリは弱っていった。ぱんぱんに腫れた腕の傷口は皮膚がぶよぶよと柔らかくなって黒ずみ、滲出液(しんしゆつえき)には膿だけでなく血が混ざるようになっていた。傷口を起点に赤い水疱が彼女の二の腕に広がっていき、死臭にも近い、腐った肉の匂いが漂うようになっていた。 左腕の壊死の進行とともに、次第にシュリは眠っている時間が増えていった。定まらない意識の中で、心細げにドゥーエの名を呼ぶことも多かった。次の朝、目を覚ませば、シュリはもう息をしていないのではないかとドゥーエは毎日朝を迎えるのが不安で仕方がなかった。 シュリが弱っていく一方、ドゥーエもまた弱っていった。常に全身が刃物で刺し貫かれているような痛みに苛まれ、目の奥にまで及ぶ激しい頭痛や胃を抉り出してしまいたくなるような吐き気、指一本動かすのも辛いほどの倦怠感に襲われ続けていた。目の前の少女を喰ってしまえば、楽になれるとわかっていたが、ドゥーエは決してそうはしなかった。シュリの腕を”喰った”あの日に立てた『もう人を”喰わない”』という誓いを破りたくはなかった。 本能に自分が塗りつぶされてしまいそうになる度に、ドゥーエは自分の舌を噛み、手のひらに爪を突き立てて耐えていた。シュリとドゥーエは、助かる術がないわけではないというのに、二人とも互いを想い合うあまり、その選択肢を躊躇うことなく切り捨ててしまっていた。 ベッドに横たわるシュリの胸が苦しそうに浅く上下動を繰り返していた。汗で張り付いた彼女の黒髪をドゥーエはそっと撫でる。今この瞬間も、急速に迫りくる死の気配に抗うように命を燃やしている彼女が痛ましくてならなかった。 「……大丈夫か?」 ドゥーエが声をかけると、シュリは巣穴にこもる小動物のように毛布の中から顔を覗かせた。よほど身体が辛いのか、シュリは目を涙で潤ませながら小さく頷くと、 「ドゥーエ……ごめんね」 「なぜ、シュリが謝るんだ」 「だって……あたし、ドゥーエにひどいお願いしかしてない。ドゥーエが今、そんなふうに苦しそうな顔をしているのは、ドゥーエが人間を殺すのを見たくない、ってあたしが言ったからでしょ? だから、ドゥーエは誰かを食べれば楽になれるはずなのに、あたしを食べることもなければ、ここを離れることもできないでいる。あのときのあたしの言葉が、呪いみた
それから数日が過ぎたが、シュリの容態は一向に改善されてはいなかった。初日の夜の熱こそ今は微熱となってはいたが、腕の傷口は痛々しく腫れ上がり、薄膜の向こうからは膿混じりの透明な液体が滲み出していた。 朝食にドゥーエが四苦八苦しながら作ってくれた半分炭化した麦粥を彼に食べさせてもらった後、シュリは左腕の傷口の処置をしていた。シュリは良好とはいえない経過を辿っている傷口を観察しながら、冷静に所見を述べていく。 「うーん……これは悪い菌が入っちゃったかな。あたしみたいな素人の処置じゃさすがに無理があったかも」 「……大丈夫なのか?」 ドゥーエは不安げに顔を曇らせながら、抗菌成分の入った軟膏を掬ったへらをシュリへと手渡した。 「どうだろ。何にしても今は安静にして様子を見るしかないかな」 そんな顔しないでよ、とシュリは苦笑しながら、真っ赤に腫れ上がった傷口へとシュリは手早く軟膏を塗っていく。 「ドゥーエ、次、包帯取ってくれる?」 ああ、とドゥーエはシュリに言われた通り、ベッドの上に転がっていた包帯を手渡した。シュリは器用に包帯の端を口で咥えて引き出し、先端を失った二の腕へとあてがうと、 「ドゥーエ、そこの包帯の端、押さえてくれる?」 シュリは包帯の巻き始めを顎で押さえながらそう言った。ドゥーエは包帯へと手を伸ばし、端を押さえてやりながら、 「俺が巻こうか?」 「いいよ。ドゥーエ、あんまり得意じゃないでしょ? 昨日巻いてもらったとき、びっくりするくらいゆるゆるだったもん」 「……」 そう言われてドゥーエは沈黙する。昨日、ドゥーエが見様見真似でシュリの腕の包帯を変えてやったところ、あまりに出来がひどすぎて、結局、シュリが自分で巻き直すことになったのはまだ記憶に新しい。それを考えると、ドゥーエは自分がやるとは強く言えなかった。 シュリは慣れた手付きで左腕へと包帯を巻いていく。包帯の残りが少なくなると、シュリは端を口で加えて細く引き裂いた。 「ドゥーエ、手、離していいから、包帯の端を結んでくれる?」 ああ、と頷くとドゥーエは細く割いた包帯の先端の片方をぐるりとシュリの二の腕に沿って巻きつける。こわごわと壊れ物に触れるようにそっと、裂いた包帯の両端を結ぼうとしていると、 「ああもう、ドゥーエ。そんなんじゃほどけてきちゃうってば。あた
その夜、シュリは高い熱を出した。片腕を切り落としたことを思えば、無理もないことだった。 「寒い……」 ベッドの中でシュリは身震いをする。少し前から悪寒が止まらないし、体がだるくて仕方がなかった。 どれ、とドゥーエはシュリの額に自分の額を近づける。ドゥーエの涼やかな美貌が近づいてくる。憂いの色が濃い赤い双眸には、しっとりとした色気が揺れている。すぐ近くで聞こえるかすかな息遣いが、衣擦れや長い髪の揺れる音が、やけに生々しく淫靡に聞こえる。迫りくる甘やかな予感に、シュリは思わず目を閉じた。 「……どうした?」 「べ、別にっ」 またキスされるのかと思ったなどとは恥ずかしくて言えなかった。ふむ、と至近距離でドゥーエは目に面白がるような光を浮かべる。ぺろりと舌で唇の端を舐める仕草がやたらと婀娜っぽい。 「何か、期待したか?」 「……っ!」 思考を見透かされ、シュリは絶句した。ドゥーエはふっと柔らかく微笑むと、 「今は熱があるからな。熱が下がったらいくらでもしてやるから、今はきちんと休んでくれ」 今はこれで我慢してくれ、とドゥーエは少しぱさついたシュリの髪にキスを落とすと、顔を上げた。恋人じみたやりとりが恥ずかしくて仕方ないのに、彼のきれいな顔が離れていってしまうことをシュリは少し名残惜しく思った。まだもう少しこうしていたかったような気がするし、”その先”にあるものを知りたかったような気がした。 「もう他に毛布はないのか?」 ドゥーエはシーツの上から重ねたローズブラウンの毛布へと目をやりながら、そう聞いた。シュリは照れと熱で真っ赤な顔を小動物のようにちらりと覗かせると、 「裏の納屋にもう一枚あったはず。ずっとしまい込んだままで干してないから、かなり埃っぽいと思うけど」 「取ってきてやる」 ないよりはマシだろう、とドゥーエは踵を返す。ありがと、とその背を見送ろうとしたシュリは、ふと思い出したことがあってドゥーエを呼び止めた。 「納屋に軽石がいくつかあったはずだからそれも持ってきてくれる?」 シュリの頼みにドゥーエは怪訝そうに振り返ると、 「構わないが……軽石など何に使うんだ?」 「軽石を暖炉で温めて、ベッドの中に入れるんだ。そしたら、何時間かあったかいから」 「なるほど」 疑問が解けると、ドゥーエは再び踵を巡らせる。







