LOGIN「片桐社長は、妻である私の母の名義を無断で使用し、借入書類を作成していました。母の実家から多額の資金を調達しながら、それを母個人からの貸付であるかのように処理していたのです。しかも母本人は、その事実を知らされていませんでした」紅の言葉に役員たちは顔を見合わせ、囁きあった。「何が悪いっ?! 咲子の実家はトオキ屋のために喜んで金を出した! 咲子の名前を借りただけだろうが! 俺は会社を守るためにやったんだ!」「実家の両親は、私のためを思って出してくれたんです。……政略結婚に近い結婚をした私を不憫に思って、少しでも私がつらい思いをしないようにって……」母の青白い頬に涙が伝い、役員たちの表情が沈む。紅は母に寄り添い、その細い手を握った。「……聞けば聞くほどカッコ悪い話ですね」神楽が薄笑いで父を見つめた。「他人の財産と妻の名義を利用しなければ維持できない会社を、ご自分の手腕で守ってきたとお考えですか。……実に興味深い経営哲学ですね」「なんだと?……きさま、娘を嫁に欲しいというなら、」「別にあなたのお許しはいらないと思いますよ?」「……くっそ……っ!」父がよろよろと神楽に近づき手を振り上げた。まさか手を挙げる気か……?紅はとっさに神楽をかばおうと前に立とうとした。ところが逆に神楽は紅を庇い、振り上げた父の手を難なく掴む。「こんなに強そうな腕をお持ちだったのに……妻も娘も守れないなんて、宝の持ち腐れですね?」「貴様……!人の会社で勝手なことを言いやがって……」「社長」光世の静かな声が、会議室に響いた。「ここはあなた個人の所有物ではありません。株式会社トオキ屋の取締役会です」「何を偉そうに……!」「議事を進めます」光世は父の言葉を遮り、役員たちを見渡した。「社長の長女、紅によって明かされた不正な資金調達とその責任については、資料をご確認いただいたとおりです。これ以上、現社長に経営を任せることはできないと考えます」光世は一呼吸置いた。「そこで、片桐社長の代表取締役解職を議案として提出します」父の顔から、みるみる血の気が引いていった。……そして力なく膝をつく。「……これが、あなたのやってきたことです。役員の判断を受け入れてください」母の体力の限界を感じた紅は、光世と視線を交わし、神楽に守られながら会議室を後にした。父は失脚を免れ
「……それでは、株式会社トオキ屋、臨時取締役会をはじめさせていただきます」光世が席を立ち、取締役たちに向かって丁寧に頭を下げた。その穏やかな態度が、昔から気に入らない。……毎回イライラさせられる。「……芹沢さんがまだ来てない。あの人は忙しいからな、到着まで待つぞ」「彼なら来ませんよ」こちらを見ずに手元の資料に目をやり、光世が軽い調子で言った。「何を言ってる……?今日は新会社代表取締役の、正式な調印も兼ねた会だろう?」「何か誤解なさっているようですが、それは違いますよ?」光世が手元のパソコンを操作してスクリーンに映し出したのは「トオキ屋海外事業の移管反対について」という文字。「残念ですが社長、本件については、すでに複数の取締役から反対意見が寄せられています。本日は正式に採決を行います」「どういうことだ?」立ち上がり、役員を端から睨みつけた。「海外事業の移管と芹沢さんが代表取締役になることは決定だ。トオキ屋本体に手を付けるわけではない。世襲制度だって守ってやっただろう」腹の底から声を張り上げ、大きな身ぶりで話せば……だいたいの役員は目を伏せ、従ってきたのに……「……っ!?」……誰ひとり下を向かない。それどころか、強い視線を返してくる。「海外事業の移管には反対します!」「新会社設立にも納得できない!」「世襲制度を守ればいいというものではない!」口々に上がる批判の声に耳を疑いながら、その声をかき消すよう声を張り上げた。「……黙れっ!社長である俺の言うことが聞けないのか?!」「反対意見とぶつかったところで、海外事業移管の承認について採決を行います」光世が静かに告げた。……ふざけるな。俺の意向を無視して、勝手に話を進めるつもりか。だが、俺の怒りなど意に介さず、役員たちが次々と反対の意思を示した。「……反対多数。よって、本件は承認されませんでした」「ちょっと待てっ!そんなことは許さんぞ?」「伯父さん、トオキ屋には定款も社内規程もあります。まさかご存じなかったんですか?お祖父ちゃんのあとを継ぐまで、勉強する時間は十分あったはずなのに」「生意気なことを言うなっ!これからは社長である俺の判断で経営していく!」「だったら改正案を出して議論しないと。トオキ屋は個人のものではありませんから」光世は立ち上がり、役員たちに言った。「
「紅」母の病室を出ると、そこに神楽が壁にもたれて待っていた。……白衣を着ていないところを見ると、今日の勤務は終わったのだと思う。でも、こんなに早く終わる予定だったか……「京香に、ここにいてやれって言われてさ。颯真にも早上がりを命じられたよ」紅は2人の配慮に感謝しながら、神楽の胸に頬を寄せる。……緊張していた糸が緩んだような感覚を覚えた。「……父の計画を止める方法?」「あぁ……ただし、確実に止められるかどうかは、これからの話次第だ」神楽の運転でトオキ屋本社に向かいながら、神楽は考えた方法をざっくり紅に説明した。到着した2人はトオキ屋本社の会議室で光世と3人で顔を合わせた。「これが、トオキ屋の社内規程です。……昼間連絡をもらって、コピーしておきました」「ありがとうございます。光世さん。海外事業をTOOKIコーポレーションへ移す件ですが、取締役会で正式に承認されたんですか?」「いえ、それはまだ……議案にも上がっていません。……そもそも私だって昨日の臨時役員会で初めて知ったくらいなので」「だったら、まだ間に合いますね。……そこで、この社内規程です」首を傾げる紅に、神楽は小さく笑った。「会社の重要な事業を他社へ移す場合、取締役会での承認が必要だと書いてある」「それって……社長が独断で進められる話じゃないってことだ」光世が資料を手に取り、目を細めた。「確かに……海外事業の移管となれば、相応の規模だ。社内規程の対象になるでしょうね」それにもうひとつ……と言いながら、神楽は次の資料を差し出した。「芹沢さんが代表取締役に就任する予定のTOOKIコーポレーションですが……まだトオキ屋との正式な事業譲渡契約は締結されていないようです」「えっ……?」「契約が成立していない以上、移管の手続きを止める余地がある」紅は思わず光世を見た。光世はじっと神楽を見つめ、確認するように言った。「つまり……今のうちに取締役会で移管を認めないと決めれば、少なくとも、社内での手続きは進められない可能性がある」神楽は静かにうなずいた。「ただし、取締役会で多数の賛成を得なければならない。そこは光世さんにお願いしたい」「……なるほど」光世は腕を組み、しばらく考え込んだ。「実は昨日、臨時役員会が終わってから、何人かの取締役に海外事業の話を初めて聞いたと詰め寄ら
「紅……あなた少し、痩せたんじゃない?」翌日。仕事を終えた紅は、母が入院する病棟へと足を運んだ。「全然……!それよりお母さんこそ、」顔色が悪い、と言いそうになってとっさに言葉を止める。「今日はね、お母さんに聞きたいことがあって来たの」どんなことを話すかについて、紅は事前に京香に相談していた。……それは、話を聞いて体調が悪くなったらどうしようという、紅の恐れからの行動だった。話を聞いた京香は反対はしなかった。けれどこう言ったのだ。「調子を崩すようであれば、責任を持ってフォローします」と……母にとって、心穏やかではない話なのはわかりきっている。……けれど。「どうしたの?お母さん、最近調子がいいのよ。どんなことを聞いても心配ないから、安心して言ってごらんなさい」「うん。あのね……トオキ屋、お父さんの会社のことなんだけど」やはり。青白い顔からさらに血の気が引いたとわかる。「……会社が、どうしたの?」「お母さんの実家が、資金援助していたって……知ってた?」「……」答えない様子から、知らなかったと受け取る紅。……だとすると、この先の話は母には酷すぎる。紅は母を巻き込むことを早々にあきらめ、やはり自分が母の盾になろうと決めた。「……そうみたいなんだけど、ごめん。変な話をしちゃった。……気にしないで」「紅、あなたはまた……1人で背負い込もうとして」「え、お母さん?」……紅は母の行動に驚いていた。話をやめて帰ろうとする紅の手を取り、ベッドから降りて、その細い体で紅を抱きしめたのだ。「お母さんは、そんなに頼りない?……これでも、少しは強くなったのよ」青白いながらも、母は優しい笑顔を向けてくれた。これまでに知った父の暴挙を思い出し、紅の目に涙が滲んでいく。「もしかしたら……とは思ってた」結局、父の不正らしき行動についてすべて打ち明けた紅。「あの人との結婚は、政略結婚に近かったのよ。……はっきり嫌だと言えなかった自分が悪いと思って、つらい結婚生活について両親に言えなかった。あの人はそれを利用したのね」母の話で、父は結婚当初に母に銀行口座を作らせ、それを自分で管理していたことがわかった。「資金援助を頼んだのなら、その口座が使われたんじゃないかしら。……両親も、私を無理に嫁がせたって……負い目があったのかもしれない。せめて私が少し
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」臨時の役員会議が始まった。この日冒頭の挨拶をしたのは……「役員の皆さまには何度かお目にかかっておりますが、改めて本日の進行を取締役より仰せつかりました。私、芹沢と申します。よろしくお願いいたします」役員からどよめきが起きた……当然だ。「他社の役員を務められている芹沢さんが、どうしてトオキ屋の臨時役員会に出席なさっているのでしょうか」「黙りなさい、光世」予想はしていたが、何の配慮も説明もなく一喝されてしまう。「そういうわけにはいきませんよ、我が社の内々の会議に部外者を入れるわけにはいきません」「今日の議題は、芹沢さんだ」「……は?」紅たちと話したことがよみがえる。……やはりこの人は、自分たちを裏切ってのし上がろうとしているのか。血のつながった伯父なだけに、さすがにそんなことはしないと思いたいが。「芹沢さんをうちに迎えるとか言うんですか?……だとしたら、さっき言ったように……」「光世さん、すみません……私はすでに、ミューゼルホールディングスの役職を離れておりまして」……悪夢が現実になりそうな予感。芹沢に変わり、社長が口を開く。「トオキ屋の商品を、海外で展開することになったのは、すでに報告したと思う。……そんなニュースは早くも海外セレブの耳に入っているようでな。前評判がかなり高い」立ち上がり、椅子から離れて窓際に向かう社長の椅子を、芹沢がさり気なく直した。……まるで夫婦だ。それほど信頼関係ができているとでもいうのか。「今回の役員会では、そんな新しい販路を提案、開拓する手伝いをしてくれた芹沢さんを、新たな役職に就けることを了承して欲しいと思う」「……新たな、とは?」「海外進出をより大きく、深くするための新会社『TOOKIコーポレーション」の設立だ。代表取締役に、芹沢さんを推薦する」「それで……他の役員の反応は?」「唖然としてたよ。正面から反対したのは俺だけ。それも、次の代から本格的に引きずり下ろすと匂わされた」臨時役員会を終え、光世は神楽の家にやって来た。そこで伝える話の数々に紅の表情が沈み、光世は申し訳なく思っていた。「ごめんな。まさかここまで一気に話が進むとは思わなくて。こんなことなら役員たちとしっかり意思確認して、一丸となって立ち向かうべきだった」「ううん……これまでの伝
「……芹沢専務」紅は神楽を見上げたまま口を開いた。それは神楽が父にとって都合のいい後継ぎがいるのでは、と口にしたとき瞬間的に思い浮かんだ名前だった。「芹沢を後継ぎ候補にしてるってこと?」「いやいや、それはないだろ。トオキ屋は代々、後継者の長男が後を継いできた。娘しか生まれなかった場合、兄弟の息子が後を継ぐ。そうやって100年以上家業を守ってきたのに、今さらそんな……」光世は笑顔を交えて否定した。……が、何か思いついたようだ。「海外進出に関する会議には、必ず芹沢を同席させている。外部のアドバイザーとして協力してもらってる……とか言ってたけど、あの人、今も別会社の専務だろ? それにしてはうちの経営に入り込みすぎてると思ってた」さらに光世は思い出したように続ける。「そういえばこの前、銀行との打ち合わせにも芹沢さんだけ連れて行ったらしい。銀行から確認の電話を受けて初めて知ったよ」父は光世に詳細を知らせないまま動くことも多くなり、対立するようになったと話した。「海外進出に関しては、芹沢を利用するのは不自然じゃない。でも銀行にまで連れて行くのはやりすぎだと思う。もし本当に後継者まで変えようとしているなら……何か理由があるはずだ」神楽の難しい表情に、紅はある人の名前が浮かぶ。「……さつきさん」「あぁ、家政婦に渡された封筒に入っていた写真か。芹沢とさつきさんって人が一緒に写った……」怪訝な表情でこちらを見る光世に、紅は家政婦の美沙に渡された写真を差し出した。「なんだこれ、おじさんの別荘だろ?懇親会なら、俺たち役員だって呼ぶべきだ」「そういう類の集まりじゃなかったってことよ。だってこれ……家政婦さんの隠し撮りだもの」「……そういうことか」美沙は以前から母と母の実家からのお金が不当に使われていることに気づいていた。けれど使用人の立場で面と向かって異議を唱えることはできず、紅に託した。芹沢とさつき。父とさつき。海外進出。母・咲子から会社へ流れた多額の金。これらが全部、別々の話ではなく、一本につながっているとしたら……すると光世が、思いがけない情報を口にした。「実は、海外進出用に新会社を作るって話が出てる」「新会社?今のトオキ屋の中で、海外展開はそんなに大きなことなの?」「リスク分散とか言ってるけど、新会社なんか作られたらいいようにされてしま
先に部屋を出た紅は、冷蔵庫を開け、冷えたミネラルウォーターをグラスに注ぐ。飲みきって息をつく紅の後ろに、部屋から出てきた神楽が近づいた。こういう時は……どんな態度を取ったらいいか。「あの、神楽さんも飲みますか?ミネラルウォーター……」「いや、いらない」肩からふわりと薄いショールがかけられた。「夜は少し冷えるからね」グラスをシンクに置いた紅の唇を、親指でひと撫でしてから手を取った神楽。……キスを拒んだのに、機嫌を損ねなかった?いや、面白くはないはず。寝室で見せた獣のような目を思い出し、紅はそっと笑った。「悪いな、遅くなった」「いいよ!神楽が最後に現れるのはいつものことだ
「英語は大丈夫だけど……」『じゃあ歌ってみる?ラバークラブMiAってガールズバーなんだけど』「うん。期間は?」『まずは一晩、2回ステージ。バラードを歌ってほしいみたいよ』亮子はクラブやBARの起ち上げやプロデュースをする仕事をしている。その関係で、こういうバイトの情報が早い。亮子が関わった店なら大丈夫だろう……その日の夕方、紹介された店に行ってみた。「亮子さんに聞いてます!まずは一曲、聞かせてもらえますか?」面接は歌のみ。難なく合格をもらった。手渡された衣装はシルバーグレーのシンプルなドレス。ヘアメイクはプロが入ってやってくれた。呼ばれるまで待機するよう言われ、若い女の子た
「君が契約結婚を引き受けたのは、俺への復讐か?香織と同僚だったってことは、当時から俺の話を聞いていた?」「香織さんは、別れた夫とセフレ関係になってつらいって言ってました。だから契約結婚を終えてからの相談ですね」「俺と出会ったのは偶然?……それとも探し出して、」ずいぶん話が意外な方向へ行くので……らしくもなく、動揺していた。それにまさか、梨沙子のことも知っているとは。「香織さん、夫の名前は伏せてましたよ。でもある日酔った勢いで「神楽」って名前と医者だって漏らして。あの料亭で出会ったのは偶然です。めずらしい名前だったからピンと来たんですよね」紅はソファから立ち上がり、携帯に表示される
「荷物、それだけだったか?」やがて、契約満了の日。見せつけるようにスーツケースを転がし、神楽の目の前に置く。「はい。このお宅にはすべてそろっていたので、ありがたく使わせていただきました」枕、毛布、シーツ、バスタオル、バスローブ……「引っ越し先の住所を教えてくれたら送るよ?使い慣れたものは手放したくないだろ?」「……あなたはそうかもね」使い慣れた契約妻を、今も時々美味しくいただいてる。「……え?」「……使わせてもらった枕、抱きしめて寝てくれません?私のことを思い出して」不思議そうな顔に作り笑いを返した紅に、今度は驚いた顔をするので、本気で吹き出してしまった。「冗談ですよ!