Masuk自分で仕掛けておいて、もしかしたら眠れないかもしれないと思ったわりに爆睡したようだ。翌朝、携帯の目覚ましで起きた紅は、玄関の警報装置を解除してドアを開ける。すると……そこに神楽は倒れていなかった。駐車場の車にも開けた形跡はなく、家の周りに誰かが歩いた形跡もない。もしかしたら、神楽は昨夜、本当に外泊したの?……あの若い女性と?深いため息をつきながら、おでこに手を当てる。帰ってきても入れないようにしたのは自分なのに、そのせいで外泊したのは明らかなのに、胸の痛みはズキズキと脈打ち血を流す。覚悟していたとはいえ、本当に女性との外泊なら……私はすぐにここを出ていこう。「もう、自分でマンションを買おうかな」仕事も辞めて、今度こそ神楽と距離を置こう。……亮子と恋人関係になったなら、芹沢専務に復職できるよう協力をお願いすることもできる。そこまで考えて出勤したのに……「神楽先生、緊急オペよ」坂谷さんが神楽からの伝言を伝える。「ご家族さまが到着したら、入院手続きのご案内、それから病状説明をするための談話室の確保……ですって」「わかりました。……あの、神楽先生は何時頃からオペに?」坂谷に変わり、通りがかった看護師長が答えた。「昨夜遅くにフラッと医局に来たのよ。そしたら救急の要請が来て、神楽先生が対応するからって、そのまま手術になったの」……思いきり自分を恥じた。つまらない嫉妬を拗らせて神楽を締め出して。彼にとって休む時間があればそれはチャンスで、私はそれをいたずら程度の気持ちで奪った。女性関係はクズでも、神楽は誠実な医者だ。……それは、自分でも認めていることだったのに。紅はユニフォームに着替え、神楽が言付けた仕事を始めた。手術を終えた神楽に、素直に謝罪しようと心に決めて。神楽が手術室から出てきたのは午後になってからだった。「あ、神楽先生……お疲れさまです」目の下にうっすら影が入って、疲れているのは火を見るより明らか。「ご家族さまは今、お食事に出られています。先生も少し、いかがですか?」病院近くのベーカリーで買っておいたたまごサンドを差し出す。「……飲み物がペットボトルのコーヒーで、」申し訳ない……と言おうとした紅の口を、神楽の胸が塞いだ。「……紅、昨日はごめん」素直に謝ると決めたのに、先に謝られて出ばなをくじかれた。「帰っ
「え……?!芹沢専務と?」約束の20時を少しだけ過ぎて、亮子と落ち合った2人の行きつけのバー。「うん。美味しくいただいたら、あちらが執着し始めて」「出た……小悪魔亮子!」いただいた、というのは関係を持ったということ。……まったく、私はつい先日はじめてを経験をしたばかりなのに、親友はこの上級者ぶり。「それで……?ちゃんと付き合う気あるの?」「そうねぇ……」聞いたのはもちろん、亮子を心配してのことだ。芹沢専務は落ち着いた大人ながら、女性関係は少し緩いようだから。「あちら次第ね。1ヶ月以内にプロポーズしてきたら、結婚してもいいかも」「え?そんなに本気で考えてるの?結婚はそんなに急いでしなくても……」「よく言う……!1年も契約結婚した人が!」余裕の笑顔で笑う亮子を見てなんとなくホッとした。結婚してもいい、なんて言って、主導権は完全に彼女が握っているようだから。そこへ、注文したチーズリゾットとシーザーサラダ、白身魚のフリットが運ばれてきた。ハイボールで乾杯し、しばらくお互いの仕事の話をしていたのだが……「紅はどうなのよ、その後神楽先輩とは」聞かれたくなかった質問が飛んてきて、思わずビクッと背筋が伸びてしまう。「ははぁ〜ん、その反応は……まさか、もしかして?」「デートしようとか言うから、海水浴に行こうって言ってやったの。それでその……いろいろあって、」素敵だな、と感じてしまったエピソードなど、恥ずかしくて口にできない。「ヤったね?」「ヤ……っ」「もう……!本当に紅は、悪女なんだか可愛いんだか、アンバランスがたまんないのよ!」ケラケラと笑いながら、亮子がおしぼりを投げてくるので、もちろんこちらも投げ返す!親友との他愛のない話は心を軽くする。……昼間食堂で見かけた神楽と若い女の子のやりとりも、紅はすっかり忘れることができた。2時間ほど飲んで、店を変えるか解散するか……という話になった頃、亮子の携帯が着信を伝える。紅に断って電話に出た亮子。……話しぶりから、芹沢専務からの着信のようだ。「迎えに来るって言って聞かない……」「いいじゃない。今からなら電車で帰れるから、解散しよう」きっと芹沢専務は車で来るだろう。そして私も一緒にいたら、送ると言い出すに違いない。そんな気を使わせることに少し気疲れを感じ、紅は店を出て早々に駅に向
「やっぱり、この病院を継ぐのは颯真先生なのね……それで神楽先生は政略結婚でもして、鳳凰総合病院へ行くのかしら?」坂谷に誘われてランチに行くと、なぜかうっとりした表情で聞かれて……困った。「さぁ、どうでしょう」神楽が見合い……京香との結婚がなくなり、両親は大病院の令嬢をあてがってきたというわけか。海への一泊デートから、神楽とはあまり会えないでいた。同じ家にいながら不思議ではあるが、それだけ自宅に帰れないか帰宅が遅いということ。仕事では専属クラークらしくそばにいることは多いが、話すことは業務に関わることばかりだ。要するに、私は神楽を支えるような行動はまったくしておらず、日々自分の生活をして仕事をしている毎日を過ごしているだけ……「興味ないの?片桐さんだって年頃じゃない!それに、神楽先生と仲良しのような気がしてたんだけどなぁ」ため息をついてから、ジュルっとカレーうどんを啜る坂谷。……金色の汁が、紅の制服に飛んだ。「あらやだっ!ごめんなさい!」「いえ……」制服は紺色だから汁が飛んでも目立たない。……それより頬に飛んできた小ネギのほうが気になる。「あの、看護師さんとランチするときは、カレーうどんは絶対にダメですよ?」「あらま、どして?」看護師さんのユニフォームは薄いピンク色だからだ。……飛んできたカレーうどんの汁は、確実にその色を残すだろう。いつの間にかうどんを食べ終わり、茶碗に盛られたご飯を汁にぶち込んでかき込む坂谷。……なんだか、坂谷さんは清々しいほど力強い人だ。紅は頬の小ネギを取りながら、実は手をつける気になれないキツネうどんを見下ろしていた。「きゃーっ!!たいへんっっ!」広い食堂に響き渡る女性の黄色い悲鳴に、紅も坂谷も視線を向けた。声を上げた女性は窓際のテーブルに座っていたらしい。立ち上がった姿は、白衣や職員の制服とはまったく違うフリルたっぷりのワンピースという格好。医師の誰かを訪ねてきて、一緒にランチをしているという場面だと思われるが……「やだ、あのフリフリ……神楽先生のお客?」「そう、みたいですね」同じテーブルの向かいに、まさに噂の張本人がいて、坂谷と目を合わせた。「ご、ごめんなさい!」きっとまだ若い……20代前半と思われる可愛らしい女性が、椅子から立ち上がって慌てている。周りの人は一瞬向けた視線を外しな
「……だから言ったのに」翌朝、ベッドから起き上がれない紅。初めて感じる下半身の重だるさに呻いた。「……だって、あんなにアクロバットな格好させられると思わなかったから」「……待て。アクロバットな格好なんてさせてないぞ?普通に足を開かせただけだろ」いや、膝を折って太ももの裏を押されて……なんて。……具体的な指摘は恥ずかしすぎて言えない。本当はさっと起きてカーテンと窓を開け、昨夜の色っぽい雰囲気を吹き飛ばして平常時に戻りたかった。なのに立たない腰が、嫌でも昨夜の行為を思い出させる。「紅……」加えて神楽が甘い……お互い何も身につけていない体が毛布のなかで触れ合い、首筋に触れた唇が、背中にまで下りていく。「あ……っあの、神楽さん……お腹すきましたね?!」「そうだな。……だからもう1回紅を食べて、」遊んでいるのか、からかっているのか……口づけた背中に舌が這う感覚に体を震わせる。「たっ……食べられません。私はもう、つかまって食べられちゃって骨と皮です!」高らかに宣言する紅に、神楽は子供のような笑顔を見せた。「……まだたっぷり美味しそうな肉がついてるみたいだけど?」ウエストに回った大きな手が胸元に上がってくる気がして、紅はガシッとその手を止めた。「私は目的を果たしたので満足なんです!」「目的って?」「一応、知らなかったことを経験したので……」止まった手がウエストに絡みついてギュッと抱きしめられた。「ってことは、食べられたのは俺か?」はぁ……可愛い、と吐息まじりの声。今の神楽は何を言っても甘い夢から覚めてくれそうにない。やっと起きて歩けるようになり、ホテルのレストランでブランチをいただいて、帰ることになった午後。家に到着しても自分のバッグひとつ持たせてもらえず、手を取られてエスコートされながら家に入った。「もう……1人で歩けるので」リビングに入っても手を離してもらえず、紅は自分からそう伝えた。すると神楽はソファに紅を座らせ、自分も横に腰掛けて言った。「昨夜は無理をさせてごめんな。できる限り自制したんだが、紅にはつらい時間だったかもしれない」そんなことはない……何度も、神楽先輩……と呼んでしまいそうになった。あの時の片思いが時を超えて叶った喜びは、不本意ながらちゃんと胸に湧き上がっている。「これからはもう……あんなふうにな
「部屋へ戻ろうか」その視線と口調が、これまでとまったく違うことに気づく。言うなれば……一気にたたみ込もうとしている気配。もし自分が神楽にとっての獲物だとするなら、こんなに時間をかけて狩るのは初めての経験だろう。すでにしびれを切らし、完全なるオオカミとして、私を見ている……「そうですね。……歩けます?」「あぁ、君につかまって歩くから大丈夫」腰に自然に回る手……耳元でささやく声が甘くまとわりつく。別に……たいしたことはない。人よりかなり遅いけど、自分にもそういう時が巡ってきただけ。美味しく食べてもらえるうちに食べてもらえばいい。……そうしたいと名乗りをあげる男に。神楽の理性はエレベーターの中で崩れ始めた。壁に追い込み、両手の自由を奪って、深く深く口づける。途中で誰かが乗ってきたら……なんていう心配は、紅の中からも一瞬で消え去った。それほど神楽とのキスは甘く、優しく、なのに激しいものだったのだ。ドアを開け、部屋の中に入った瞬間、神楽の理性は崩壊した。紅をドアに押しつけ、食べてしまいそうなキスをする。医師である神楽も見てきた紅にとって、この変化は少し恐ろしくさえ感じた。頬を包んでいた両手が、鎖骨をなで……肩から腕へと這っていく。指先まで落ちてきた手は、かたちを確かめるようにしてもどかしく指をからめ、やがてウエストから腰へとたどりついた。慣れている演技など、できなかった……一瞬頭をかすめた芹沢専務との夜。彼が触れた指先を思い出し、紅は消したい思いと共に神楽の首元に腕を回す。あの時とは違う胸の高鳴りを感じた。芹沢専務との時間は、怖い気持ちを感じないよう演技していた。でも今は……怖いのに離れたくない。触れられる喜びさえ感じている。「紅……遊びなんかじゃない」耳に届く声は、甘いだけじゃない重さを伴っていた。「この先、愛するのは君だけだから……」頼む、と……吐息のような声。熱い指先がショーツにかかり、隠された場所に外気が当たった。神楽は自分のスラックスのチャックをおろし、紅の片脚を持ち上げる。初めて感じる秘部に触れた神楽の熱……擦られて、自分でも驚くほどの水音に頬が染まった。「紅、愛してる……」やがて角度をつけて入ってくるモノに、恐怖より愛しさを感じるなんて……神楽、と声に出してしまいそうで、彼の胸に顔を埋めた。紅……
「……紅!」焦って立ち泳ぎをしながら、方向を見定めて泳ぎ出そうとした時、後ろから浮き輪につかまった神楽が声をかけた。何か言うのも待たず、浮き輪の真ん中に紅を入れてやる神楽。「……まったく。50メートル程度しか泳げないくせに、海で背泳ぎして目を閉じて流されるなんて危険すぎるぞ」「すいません……」その後は岸に戻ることに集中するも、自分のすぐ後ろに神楽がいて……紅はその距離の近さを意識してしまった。「サンデッキは片付けてもらって、部屋に行こうか」「あ……はい」岸に上がり、思わず波打ち際に座り込む2人。……ちょうど日が沈み始めて美しい光景を見せてくれたが、私のせいで悠長に鑑賞する気も失せたのかもしれない。……楽しかった1日が、自分のせいで台無しになったような気がする。神楽は立ち上がり、少し歩き出したところで、後ろを振り返って言った。「こんなの……紅がはじめてだよ」「はい……本当に、不愉快にさせてしまって、」「そうじゃない。……逆」思わず立ち止まる紅を見つめながら、神楽は先に少しだけ歩き、笑った。「紅を見失って心臓が止まるかと思ったけど、何ごともなく助けられてホッとしてる。……こんな気持ちでこの場所の夕日を見るのは初めてだ」優しい笑顔を向けられ、ドキっと高鳴る胸の鼓動と、同時に湧き上がる過去の女性の影……「ここで神楽さんと一緒に夕日を見た女性は何人くらいですか?」真顔で尋ねる紅を見て、みるみる顔色を変える神楽。慌てて唇の端を上げ、笑顔を作ろうとするも、引きつってとても笑ってるようには見えない。「……そんなこと聞くか?」「聞きますよ!……夕日が綺麗だのトロピカルカクテルのフルーツは去年より甘いだの、私は神楽さんが連れてきた何番目の女なのかなって、単純に気になります……あぁ、多すぎて忘れたなら、担当のスタッフさんに聞いてみます!」自分を通り越して先を行く紅を呆然と見つめ、神楽は深くため息をついた。そして自分の言動のマズさに後悔の念を募らせる……スタッフの案内で通された部屋は最上階の広い部屋だった。先にシャワーを浴びるよう促され、素直にそうさせてもらってから気がついた。……そういえば服の用意がない。こうなったら神楽に何か買わせようか。……泊まりを決めたのは彼だし、そんなことくらい多くの女性にしてやってるはずだ。……ところがシャ
「今夜の料理も美味いな」「本当ですか?嬉し……」「玉ねぎが入ってなきゃね。言わなかったっけ?俺、玉ねぎが苦手だって」ピリっと張りつめる空気……とても仲良し夫婦の夕食風景には見えない。射抜くように向けられた視線から逃れたくて、反射的に下を向いた。ガラスのダイニングテーブルは透明で……夫が足を組み替えたのが見える。「そうでしたね。……ごめんなさい」「いやいいよ。普通の男なら満足する味だ。……普通の男ならね?」頬杖をついて私に向ける視線は……確実に不愉快だと伝えている。「明日は必ず……満足していただけるように頑張ります。私、料理は得意なので、今度こそ」リベンジを誓う私を見つめ返
「英語は大丈夫だけど……」『じゃあ歌ってみる?ラバークラブMiAってガールズバーなんだけど』「うん。期間は?」『まずは一晩、2回ステージ。バラードを歌ってほしいみたいよ』亮子はクラブやBARの起ち上げやプロデュースをする仕事をしている。その関係で、こういうバイトの情報が早い。亮子が関わった店なら大丈夫だろう……その日の夕方、紹介された店に行ってみた。「亮子さんに聞いてます!まずは一曲、聞かせてもらえますか?」面接は歌のみ。難なく合格をもらった。手渡された衣装はシルバーグレーのシンプルなドレス。ヘアメイクはプロが入ってやってくれた。呼ばれるまで待機するよう言われ、若い女の子た
「紅か……?」神楽との契約結婚を終え、まず向かったのは実家だった。「……お久しぶりです」手を止めず、顔も向けずに返事を返す娘に、父はわかりやすくイラ立つ。「はんっ!久しぶりに来たと思えば……なんだ?泥棒のマネごとか?」「お母さんの服を取りに来ました。そろそろ暑くなるので」「お前は、口を開けば母さんのことしか言わないな?」……あんたが口にしないからだ。今日も、ギリギリのところで言葉を飲み込む。父と言い争ってスッキリした事など一度もない。むしろ逆……怒りと悲しみ、そして絶望。父は昔から、私にそんな感情しか教えなかった。「……多分、今回持ち出せば、この家からお母さんの私物はなく
「君が契約結婚を引き受けたのは、俺への復讐か?香織と同僚だったってことは、当時から俺の話を聞いていた?」「香織さんは、別れた夫とセフレ関係になってつらいって言ってました。だから契約結婚を終えてからの相談ですね」「俺と出会ったのは偶然?……それとも探し出して、」ずいぶん話が意外な方向へ行くので……らしくもなく、動揺していた。それにまさか、梨沙子のことも知っているとは。「香織さん、夫の名前は伏せてましたよ。でもある日酔った勢いで「神楽」って名前と医者だって漏らして。あの料亭で出会ったのは偶然です。めずらしい名前だったからピンと来たんですよね」紅はソファから立ち上がり、携帯に表示される