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2. 神楽の変化

Author: 桜立風
last update publish date: 2026-06-08 15:04:57

「契約期間は1年。親への挨拶はしなくていい。新築した家が都内にあるから引っ越してきてくれ。契約結婚にかかわるすべての経費はこちらで持つ」

車の中で行われた話はとてもスムーズで、簡潔だった。

「仕事関係者や交友関係に君を紹介することはない。ただ、結婚した事実だけが欲しい。婚姻届は出し、同居することで、実態を伴った結婚だったと後になって周りが認めればいい」

「……わかりました。私も両親とは距離を置いていますので、挨拶などの心配はいりません。ひとりっ子ですし」

「それは助かる。……あの料亭で働けるということは、それなりに信用のおける人物だと理解しているが、一応身分証を見せてくれるか」

求められるまま身分証を見せながら付け加える。

「父はトオキ屋という老舗和菓子メーカーの跡取りです」

「トオキ屋って、京都の有名な和菓子屋だね。東京にも進出してずいぶんになると思うが、それじゃ君は……」

「いえ、跡継ぎは男子に限られるので、従兄弟が継ぐと思います」

そんな話だけで、身分の心配は吹き飛んだようだ。

きっと後で調べられると思うが、嘘ではないので痛くも痒くもない。

「引っ越して来たら、すぐに婚姻届を提出したい。その日から1年後が契約満了の日。契約金は500万。……ただし」

タブレットを操作して、画面を見せられた。

「契約結婚の禁止事項だ。これらを破ったら、最悪途中で解消となる」

画面に表示されている文字を追うと、簡潔に3つのことを禁止事項にしているとわかった。

恋愛感情を持たない

部外者と接触しない

互いの部屋を行き来しない

言いたいことを想像して、つい笑ってしまった。

「……1年後に別れることが決まっている。恋愛感情や体の関係を持って、互いの心の領域に踏み込みたくない。部外者と接触しないというのは、外に恋人を作らないということだ。もちろん、契約結婚中は割り切った関係もなし」

「違反した場合は?」

即座に問う紅に、神楽は視線を向ける。

「……それは、心配があるということか?」

「そうではありません。でも……神楽さんはとても魅力的ですから、外で女性に会ったりしないか、少し心配です」

膝の上で両手を組んで、少し下を向く。……運転席からじっと見つめる視線を感じた。

「違反したら、まずは話し合おう。契約金をプラマイして調整してもいいが、できれば契約満了して、君に得をしてもらいたいと思ってる。それは忘れないでくれ」

「……わかりました。ありがとうございます」

ペコリとお辞儀をして、目を見て笑った。つられるように口角を上げる神楽。口元のホクロも少し動いた。

「部屋まで送るよ」

……車の中で話したのは、それが目的だろう。

私がどんなところに住んでいるのか確認したかったのだ。

なんの変哲もないアパートの前で降り、神楽の車が動き出したのは、私が部屋に入ってからだった。

……その後、私たちの契約結婚は、本当に自分たちで婚姻届を出すだけで始まった。

「うちはいろいろと複雑でね。家族は俺に関心がない」

「……私も同じです」

互いに多くは語らず、スタートした結婚生活。

あれから、早くも半年が過ぎた。

これまでずっと、神楽の様子を伺いながら偽装妻を演じてきた紅にとって、最近の彼の変化はわかりやすい。

けれど、契約では禁止事項に当たること。なのに彼は時折それを匂わせるようになった。

『手術が早く終わってね、今から帰るから、出かける用意をして待っていなさい』

「お出かけ……私もですか?」

『あぁ。前に買ってやったレースのワンピースを着て。靴も合うものを買ったよな?』

ある日の夕方、神楽から着信が入った。

はい……と返事をしながら、手に持ったケーキに目をやる。

「わかりました。髪は、下ろそうかしら」

『いや、上げた方がいいな。アクセサリーはつけないで。……香水も、俺が帰ったらつけるから』

「はい……」

着信が切れたのを確認して、残りのケーキを頬張った。

……メロンの生クリームケーキが、口の中で甘くとろけ、しばし目を閉じて味わう。

ケーキの箱は、ビニールに入れてゴミ箱の奥に押し込み、部屋中の窓を開けた。

甘い香りは残さない方が無難だ。神楽は生クリームやチョコレートなどの濃厚な甘さが苦手だから。

「美しいね。……さすが、俺が声をかけた契約妻だ」

帰宅した自分を出迎えた紅を見て、神楽は満足そうな笑みをこぼす。

薄紅色の総レースのワンピースは、体の線に沿って、女性らしいラインを浮かべている。

「少し痩せたか?」

「うふふ……神楽さん、わがままなんですもの」

「俺のせい?……ひどいな」

艶めいたメイクを施した紅に一歩近づき、背中に手を回しながら、見下ろす視線は妙に甘い。

「おいで……香水をつけてあげる」

夜の帳が下り始めたのに、間接照明しかつけなかった理由は……秘密。

神楽は自分の寝室に紅を招き入れ、ベッドサイドに置いてある小瓶を手に取る。キャップを開ければ、匂い立つ華やかな香り……指先にとって、紅の首筋をなぞった。

「あ……」

声を漏らしてしまい、恥じるように下を向き、口元を両手で押さえる。

その両手首を、神楽が掴んだ。

仄暗い部屋の中に、独特なムードが流れ、神楽の突き刺すような視線が自分に注がれているのがわかる。

まるでそうしなければならないかのように、紅はそっとうつむいた顔をあげた。

間近で目が合った神楽は顔をほころばせ、口元のホクロも相まって、ため息が出るほど妖艶だ。

顎に神楽の指先がかかり、上を向かせられる。これからどうなるのかなんて……言葉は無用。

角度をつけた神楽の顔が近づき、ふわりと、唇が触れた。

瞬間……弾かれたようにビクっと肩を震わせると、触れた神楽の唇が開くのがわかった。

「あ……あの、」

離れようと胸を押すと、心臓の鼓動が手のひらに伝わった。

ドキドキと、せわしなく動く神楽の秘めた鼓動。そして初めて見せる……男の表情。

「け、契約違反は……いけません」

「……ん?」

ハハッ……と笑い出す神楽。

「紅は真面目ないい妻だね。……せっかくのチャンスだったのに、自分からフイにするなんて、残念だ」

……残念なのはどっち?

まだ瞳の奥の欲望が、消えてないくせに。

そう思っていることはおくびにも出さず、紅は両手で頬を押さえ、神楽に背を向け寝室を出た。

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