LOGIN「明日、ドライブに付き合ってくれないか」「え……」「海辺の高級レストランで食事付き」朝食の席で、神楽にいたずらっぽい笑顔を向けられた。「もうひと声……ですかね」「はぁ?!……」呆れながらも、少し考える神楽。「ブランドショップでデートに着ていく服を買ってやる。……もちろん靴もバッグも」思わず眉をしかめて見上げてしまった……まさかこんな簡単に、金に物を言わせる案を出してくると思わなかった。……思わずため息が出る。「なんだよ?!俺はそういう方法でしか女を喜ばせたことがない。何か希望があるなら言ってみろよ?!」「デートに誘っておいてノープランですか。……一昨日おいでと言いたいところですが、仕方ないですね。アイディアを出してあげます。ぜひ、今後女性を誘う時の参考になさってください」「……今後誘うのは紅だけだから」「……っ!」聞こえないふりをして、まずは食べかけの朝食を平らげる。……ちなみに今朝のメニューは焼き鮭のお茶漬けと焼き鮭のおにぎり、そしてインスタント味噌汁。神楽は小さく「ご飯&ご飯……」と呟いていたが当然無視した。「海まで行くなら当然海水浴!」「……げ」「何ですかその反応?!」「俺の美肌が陽射しに耐えられるかどうか……」確かに男性にしてはキメの細かいお肌ではあるが、言い方が気にいらない。「今どきラッシュガードは当然だと思いますけどね。別にいいですよ、神楽さんはテントの番でもしていてください」紅はお茶碗を片付けながら席を立つ。「とりあえず、明日出かけるのはOKだな?」「……はい。別に、何も予定ないし」「よし!それじゃ早朝から出かけようか。そのつもりでいてくれ」嬉しそうな神楽の表情に少し落ち着かない気持ちになり、紅は先に玄関を出る。……そういえば水着なんて持ってたかな?!「……え?!海水浴の持ち物?」昼休み、紅は坂谷を捕まえて昼食に誘った。よくよく考えてみると、海水浴なんて子供の頃に行ったかどうか……?という曖昧な記憶しかない。「必需品とか、あると便利なものとか……ほら!坂谷さんならファミリーで散々行ったんじゃないですか?」「そうねぇ……確かに夏休みの我が家は毎週末海に行ってたけど……必需品といえばサメだったかしら」「サメ……」「空気を入れてパンパンに膨らませて、海に浮かべてかわりばんこに上に乗るわけ
「お忙しい中お時間をいただき、ありがとうございます」ここに来るたび、毎回思う。都内とは思えないほど静かな邸宅だが、高台にあるせいで歩いて来たら地獄だと。……この道を、中高の6年間通った。「そう忙しくはないよ。神楽先生が外科をまとめてくれてるから」院長は60代とは思えない姿勢の良さで、窓際に立っていた。家政婦がお茶を出すテーブルの前に、ゆったり腰掛ける母の姿。「神楽さん、颯真さんが帰ってだいぶ楽になったんじゃない?」「……そうですね」母にかけられた言葉は、逆らわず認めておく。実際は、外科をまとめている自覚も事実もないし、颯真も俺を助けるとか病院のためだと思って動いちゃいないだろう。……それぞれの仕事をしているだけだ。「この度は、院長……お義父さんのご心配も知らず、勝手なまねをしてすみませんでした」「3度目の結婚のことかな?」「はい。……それから谷村さんとの結婚をお義父さんは望んでいるようですが、私たちにそのつもりはないのでお伝えしたく参りました」窓を向いていた体をゆっくりこちらに向ける義父を見て、母がスッと椅子から立ち上がったのが見えた。視線をやった次の瞬間、頬に冷たい痛みが走る。「お義父さまのせっかくの好意を、あなたはどうしてそう無下にするのですかっ?!」頬に飛んでくる手は自分よりずいぶん小さくなったのに、痛みは子供の頃から変わらない。見上げてくる険しい視線を捉えながら、この人はいつもこんな目で自分を見ていたことを思い出す。……もう20年も前のこと。小さなアパートの一室で、父親の怒声が響いた。「……何だってお前は、そんなに勝手な事が言えるんだよ、」声だけで、涙が含まれていることを感じた。さっきまで一緒にボールを蹴り合っていた父親が、一足先に家に帰った時のこと。サッカーチームの仲間とアパートの前で別れ、昼ご飯を食べたらまた集合だと約束してボールを膝でコントロールしながら入った家の中はひどく冷たい雰囲気……「だって、このままこんな生活するなんて、私には耐えられないもの!」「普通に暮らせてるだろ?俺だって、休日は日曜だけにして、土曜日は出勤してる。その分貯金も増えて、神楽が中学生になったら家を買おうって話あったばかりだぞ?」「もう……チマチマ節約するような生活、嫌なのよ!」母親の金切り声がした直後、ガラスが割れるよう
「そ……そんなのすぐに無理っ!」正直に言えば、自分でも何を言っているのかよくわかってなかった。ただ、紅と一緒にいる空間が気持ちよくて、それを永遠に手に入れたいと思ったから……「今すぐってわけじゃなくて、そんな気持ちが芽生えたんだよ。紅とずっと一緒にいたいって」紅の反応は意外だった。顔を赤くして焦って……もっと余裕で受け流されると思ったのに。「こんな気持ちをどう呼ぶのかといえば、多分恋なんだろうな。……激しい気持ちじゃなくて、もっと優しい気持ちだから、もしかしてもう愛の領域に入ってるかも」「じ、人類愛……ってやつですか」「なんだよそれ。ちゃんと男女の愛だよ」「神楽さんはたくさんの人を一度に愛してきた博愛主義だったじゃないですか。だから、そういう中に私も入ったって報告ですよね?」どうしたらプロポーズをそういう意味に変換できるのか……紅は横を向いてしまった。「今までの俺を知ってるし、深く傷つけたこともあるから、信じられないのは仕方ないし覚悟してるよ」「そうですよ。……ちゃんと、クズでいてくれなきゃ困る」「……ごめん。愛に目覚めて」一瞬こちらを向いた紅。視線が絡み合ったものの、一瞬でブチ切るように、再び激しく顔を背けられた。「……急すぎたんじゃない?」食堂で出くわした京香にため息の理由を聞かれ、紅にまじめなプロポーズをしたことを打ち明けた。「そうかもな。でも、自然と言葉が出て、止めたくなかったんだよな……」「神楽の素直な気持ちか。確かにレアだね。真剣な気持ちを伝えたなら、少し落ち着いて見守るのがいいかもね」もちろんそのつもりだ。自分のやってきたことを思えば、すぐに信用しろと言っても無理な話。「これまで……考えたこともなかった事が頭に浮かぶんだよな」「……どういうこと?」焼き魚定食の塩サバを切り分け、京香は茶碗のご飯と共に大口を開けた。「一緒に出かけるとかさ?ドライブとか映画とか、なんかのイベントとか?」「それ……デートっていうんだけど?」「まぁ……そういうのをしたいっていうかさ」たとえば映画を観て、悲しい場面ではどんな表情をするのか……見晴らしのいい景色を見たら、どんな声をあげるのか。そんな健全な興味を抱いたのは紅が初めてだ。京香は言葉にしない俺の心の声が聞こえたかのように、笑いながらワカメの味噌汁に口をつけた。そ
「今日は突然お誘いしてごめんなさいね。神楽に話を聞いて、私からもちゃんと話をしておかなくちゃいけないと思って」先に来て待っていた紅のテーブルに到着するやいなや、京香は早速しゃべり出した。ここは病院近くの和風創作料理の居酒屋。……一本裏の路地を入ったところにあるからか、見知った顔はない。「神楽さんに、何か聞いたんですか?」「ええ。紅さんにプロポーズをしたって!」……あれは、本当にプロポーズだったのだろうか。「……冗談、かもしれません」「まさか!さすがの神楽もそんなことしないわよ!」「もしかして、まさかの契約結婚2度目のお誘いとか……」ちゃんと結婚しないか?という言葉はあまりにも自分たちにぴったりだと思った。ちゃんとしてない結婚をして、ちゃんと離婚したけど、ちゃんとした結婚は初めてで……何がなんだがわからなくなる。『そんなのすぐに無理っ!』あの突然の神楽の言葉に、とっさに飛び出した自分の答えがあまりにも正直で、カッと全身が熱くなった。「返事は保留にされてるって聞いたわ。……でね?私のことがネックになってたらいけないと思って、ちゃんと話しに来たの」「ネックだなんて……そんな」神楽には気の置けない幼なじみだと聞いていたが、確かに京香からの話も聞きたいと思ったことがあった。「神楽との結婚を言い出したのは院長。颯真が帰ってきて、その結婚話が具体的に進むかと思って覚悟したわ。でもね、実は私……先日院長を訪ねたの」「颯真さんと、ですか?」「あれ……神楽に聞いてる?やだ、恥ずかしい」手でパタパタと顔に風を送る京香。……いや、何も聞いていない。なぜなら突然のプロポーズから5日……意識してまともに顔さえ見れない状態が続いているから。「それで、院長はなんて?」聞かなくても話し合いがどうなったのか、京香の表情が伝えている。「結婚するのは……神楽じゃなくて颯真になったの。あっさり認めてくれたから驚いちゃった」「……それは!おめでとうございます!」「ありがとう。……紅さんのおかげよ。颯真、あなたの話を聞いて、いろいろ考えさせられたみたいだから」いつかの医局での話が頭に浮かび、苦笑いを浮かべる紅。「変な言い方だけど、自分が幸せになるとね、神楽のことが心配になるの。知ってるから言うけど、あの人今まで本当にクズだったから、本気のプロポーズをしたチ
颯真の言い方には、妙な信憑性があった。 院長は二階堂家でもこの病院でも絶対的な存在で、口にしたことは必ず実行するというが……神楽がそんな存在に屈するとか、ちょっと考えられない。 「2人が結婚したら、本院である二階堂総合病院とは完全に切り離して、神楽を分院の院長に置くらしい。……副院長は京香だ」 「……でも、外科はこっちにありますけど」 「神楽は経営に専念させる気だろ。実質的にメスを奪う気だ。……わが父親ながら、底意地の悪さが胸糞悪い」 院長がそこまで考えていることを、神楽は知っているのだろうか…… もし知っているとしたら、絶対に抵抗するはずだ。 「神楽は知らないよ。院長の思惑を」 「颯真先生はどうやって知ったんですか?院長が内密に打ち明けたということですか?」 「いや、神楽の母親……俺にとっての継母と話してるのを聞いた」 帰国して、颯真は両親が暮らす実家に身を寄せているという。そこで2人が話す会話を偶然耳にしたらしい。 ……そういうことなら十分考えられる。 「でも、まだまだ若いのに。……志を持って医者になったと思います。それなのにメスを取り上げられるなんて」 患者に接する神楽を見てきて、ひとつだけ確信を持ったことがある。 それは、たとえ女性関係はクズだったとしても、医者としての神楽は患者を思い、真剣に救おうとする信頼できる人だと。 「今回はさすがに、神楽もどうしようもないだろうな。……まぁ、京香が一緒にこの病院を背負ってくれるなら頼もしいし、それでいいと思う」 颯真の考えを聞いて、紅は深くため息をついた。 院長がどんな人なのか知らないが、30を過ぎた大の男が父親に歯向かえないなんて、情けないと素直に思った。 「それじゃ、京香さんは神楽先生のものになっていいんですね?」 「は……?それは、わざわざ言わないでくれるかなぁ」 「だってそういうことでしょ?神楽先生は百戦錬磨の遊び人だから、きっと京香先生は苦労しますね」 「君は、それでいいの?」 ……そう来ると思った。 紅は強い視線を颯真に向け、口を開く。……よく聞いとけ、と思いながら。 「すべては、神楽先生次第です。院長の意向に従って京香先生と結婚して、メスを置いて病院経営に回るというのなら……それだけの人だったということですよね」 「それ、嫌味?」 「別に、そう取っ
「おふたり、何かあったみたいですけど……颯真先生!話も聞いてやらずに拒否するんですか?それって絶対やっちゃいけないことですよ?」つい京香の肩を持ってしまう紅に、颯真はなかなか言い返せず、ツンッとした顔を向けるのみ。お互い腕を組み、がっつり向き合って睨み合いの状況だ。「あ、の……また出直すから、2人とも……」ふたりの間の見えない火花に、京香はなだめるように間に入ろうとした。「……あ、片桐ここにいたのか?!」ドアが開いて入ってきたのは神楽だ。「オペが終わるまでにカルテのデータ整理って言ったろ。……なぁに油売ってんだ?」「……いえ、あの……それはこのあとやろうと思ってて」「ダメっ!……颯真、片桐はもらうぞ」紅を連れ出しながら、神楽はそれとなく京香と目配せしあった。それに気づいた紅は、部屋にふたりにすることが目的だったのかもしれないと気づく。「私も、2人にしようと思ったんですよ?」「気づいてたのか」「タイミングが難しくて出ていけないでいたら、颯真先生のクソガキぶりに腹が立って……」言い方が面白かったのか、神楽はクスッと笑った。そして医局に入ると、紅の頭に手をやる。「クソガキ!……颯真はホント、そういうところあるんだよ。それにしても……後先考えずに喧嘩を売るのは君らしくていいな!」喧嘩してきた子供を笑うように、ポンポンと頭を軽く撫でていく大きな手。そんな手に、妙に意識が向く。「カルテ整理、はじめますね」「あぁ。まずはこの、中島太郎さんからはじめてくれ。来週オペを控えていて、経過を家族にも説明したい」パソコンの前に座る紅の後ろから、神楽は覆い被さるように一緒に画面を覗く。伸びてくる手がマウスを掴み、スクロールして該当する患者の名前をクリックした。……別にそんなことまでやってくれなくても自分でできるし。何なら後ろからの威圧感が不気味で集中できないんですけど。「……OK?」「か、かしこまりました」顔が赤くなってるのがわかる。……肩のあたりがガチガチに固まってる。あぁ……早くどっか行ってくれないかな。「神楽先生、長谷川さんが目を覚ましました」そこへ看護師が呼びに来た。「わかった。……痛みを訴えてる?」「はい。少しつらそうです」「それじゃもうひとつ痛み止めを落とそうか……」神楽は自分のデスクのパソコンを開き、患者のデータ
「英語は大丈夫だけど……」『じゃあ歌ってみる?ラバークラブMiAってガールズバーなんだけど』「うん。期間は?」『まずは一晩、2回ステージ。バラードを歌ってほしいみたいよ』亮子はクラブやBARの起ち上げやプロデュースをする仕事をしている。その関係で、こういうバイトの情報が早い。亮子が関わった店なら大丈夫だろう……その日の夕方、紹介された店に行ってみた。「亮子さんに聞いてます!まずは一曲、聞かせてもらえますか?」面接は歌のみ。難なく合格をもらった。手渡された衣装はシルバーグレーのシンプルなドレス。ヘアメイクはプロが入ってやってくれた。呼ばれるまで待機するよう言われ、若い女の子た
「紅か……?」神楽との契約結婚を終え、まず向かったのは実家だった。「……お久しぶりです」手を止めず、顔も向けずに返事を返す娘に、父はわかりやすくイラ立つ。「はんっ!久しぶりに来たと思えば……なんだ?泥棒のマネごとか?」「お母さんの服を取りに来ました。そろそろ暑くなるので」「お前は、口を開けば母さんのことしか言わないな?」……あんたが口にしないからだ。今日も、ギリギリのところで言葉を飲み込む。父と言い争ってスッキリした事など一度もない。むしろ逆……怒りと悲しみ、そして絶望。父は昔から、私にそんな感情しか教えなかった。「……多分、今回持ち出せば、この家からお母さんの私物はなく
「君が契約結婚を引き受けたのは、俺への復讐か?香織と同僚だったってことは、当時から俺の話を聞いていた?」「香織さんは、別れた夫とセフレ関係になってつらいって言ってました。だから契約結婚を終えてからの相談ですね」「俺と出会ったのは偶然?……それとも探し出して、」ずいぶん話が意外な方向へ行くので……らしくもなく、動揺していた。それにまさか、梨沙子のことも知っているとは。「香織さん、夫の名前は伏せてましたよ。でもある日酔った勢いで「神楽」って名前と医者だって漏らして。あの料亭で出会ったのは偶然です。めずらしい名前だったからピンと来たんですよね」紅はソファから立ち上がり、携帯に表示される
「荷物、それだけだったか?」やがて、契約満了の日。見せつけるようにスーツケースを転がし、神楽の目の前に置く。「はい。このお宅にはすべてそろっていたので、ありがたく使わせていただきました」枕、毛布、シーツ、バスタオル、バスローブ……「引っ越し先の住所を教えてくれたら送るよ?使い慣れたものは手放したくないだろ?」「……あなたはそうかもね」使い慣れた契約妻を、今も時々美味しくいただいてる。「……え?」「……使わせてもらった枕、抱きしめて寝てくれません?私のことを思い出して」不思議そうな顔に作り笑いを返した紅に、今度は驚いた顔をするので、本気で吹き出してしまった。「冗談ですよ!







