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第3話

Autor: レモンティー
だが、彼はすぐにその考えを打ち消した。

結婚前の健康診断で、鈴音が妊娠できる可能性は1%にも満たないと言われていた。だからこそ彼は、彼女と偽りの婚姻届を交わすことを選んだのだ。

それでも、鈴音が自分に黙って一人で病院へ行ったと知ると、きっと心配をかけたくなかったのだろうと思わずにはいられなかった。

その一方で、自分は優衣に付き添っている。

そう思った瞬間、章臣の胸には鈴音への愛しさが、ふいに込み上げてきた。

彼は優衣に向き直って言った。

「土曜日は家に帰って、鈴音と一緒に過ごすよ。もし一人でいるのが心細いなら、本邸へ戻るといい。母さんも喜んで君の面倒を見てくれるはずだ」

優衣が妊娠したと知って以来、母・伊藤美代子(いとうみ よこ)はすっかり機嫌が良くなっていた。

以前は顔を合わせるたびに「子供を産める女性を探しなさい」と口うるさく言っていたのに、今ではその小言もぴたりと止んでいる。

優衣は面白くなかった。

けれど、どれだけ章臣が今の自分を甘やかしてくれていても、彼の心の中にまだ鈴音がいることは痛いほど分かっている。

ここで鈴音への敵意を露骨に見せれば、章臣の気持ちは離れてしまう。

それだけは避けなければならなかった。

彼女は甘えるような声で言った。

「章臣の言う通りにするわ。でも、本当は離れるのがすごく寂しいの。一緒にお家へ帰って住んじゃダメ?」

章臣は眉をひそめた。

以前の彼にとって、優衣はただの遊び相手にすぎなかった。

たまに家へ連れて帰る程度なら問題はなく、優衣も余計なことは口にしないと分かっていた。

しかし今は違う。

婚姻届を出してからというもの、優衣は以前にも増して甘えるようになり、四六時中彼にまとわりついてくる。

そんな様子を鈴音に見られれば、疑われるかもしれない。

章臣はそれを恐れていた。

優衣も彼の不安を察し、慌てて言葉を重ねる。

「約束するわ。鈴音さんには、私たちのことを絶対に気づかれないようにするから。前だって一緒に帰ったことがあったけど、鈴音さんは何も気づかなかったでしょう?」

何度も懇願され、章臣は結局、頷くしかなかった。

……

土曜日の午後。

鈴音がフリマアプリで売れた高級ブランドバッグ二点を発送して帰宅したちょうどその時、章臣と優衣がスーツケースを転がしながら並んで帰ってきた。

鈴音の姿を見ると、優衣は猫をかぶったような大人しい口調で微笑んだ。

「鈴音さん、またお邪魔させてくださいね。両親が出張中で、一人で家にいるのが怖くて……しばらくこちらでお世話になってもいいかしら?」

この見え透いた言い訳を、優衣はこれまで何度も使ってきた。

以前の鈴音なら、二人の関係を疑うことなど一度もなく、優衣にも親切に接していた。

しかし今回は違う。

鈴音は冷たい視線を向けるだけで、何も答えなかった。

優衣は鈴音の考えが読めず、そっと章臣の袖を引いて助けを求める。

章臣は鈴音に疑われることを恐れ、優衣の手をさりげなくかわすと、鈴音のもとへ歩み寄った。

「鈴音、おかえり……じゃなかった、ただいま。本当に体調は大丈夫なのか?佐藤から聞いたんだ。この前は晴香の付き添いじゃなくて、お前一人で病院へ行ったんだろう?しかも旅行にも行かず、ここ数日はずっと家にいたそうじゃないか。何かあるなら隠さないでくれ。どんなことでも、俺と一緒に乗り越えよう」

里美がいなくても、章臣が裏でアシスタントの健に自分の行動を調べさせていたとは、鈴音も予想していなかった。

幸い、妊婦健診を受けたことが章臣に知られないよう、あらかじめ手を打っておいた。章臣が真実にたどり着くことはない。

鈴音は手のひらに爪が食い込むほど拳を握り、何事もないように答えた。

「体調が悪かったわけじゃないの。ただ少し風邪をひいただけ。病院で薬をもらって帰ってきたのよ。あなたが心配すると思ったから、言わなかっただけ」

章臣はさらに聞こうとしたが、鈴音はわざと話を切り替えた。

「もう、お説教はそのくらいにして。上着、預かるわ」

章臣は上着を脱ぎ、彼女へ差し出す。

鈴音はそれを受け取り、ハンガーに掛けようとした。

その瞬間、上着から優衣と同じ香水の香りがふわりと漂った。

胸の奥を針で刺されたような痛みが、じわじわと広がっていった。

どうしても、それを止めることはできなかった。

優衣は、鈴音が甲斐甲斐しく章臣の上着を掛ける姿を見て、面白くなかった。

思わず口を開く。

「あれ?里美さんはいないの?今日はお休み?じゃあ、夕飯はどうするの?」

章臣も鈴音に尋ねた。

「ここ数日ずっと家にいたなら、料理を作る人もいなかったんだろう?ちゃんと食事はしてたのか?」

鈴音は淡々と答えた。

「私、そこまで何もできないお嬢様じゃないわ。簡単な料理くらい自分で作れるもの」

優衣は目を輝かせた。

「鈴音さんってすごい!お料理もできるのね。私、ここにいる間、一度でいいから鈴音さんの手料理を食べてみたいな」

章臣の心は、すでに優衣のお腹にいる子供へと大きく傾いていた。

彼も笑って頷く。

「そうだな、鈴音。優衣は今まで料理なんてしたことがないんだ。時間があるなら、ついでに彼女の分も作ってやってくれ」

鈴音の表情は、すっと冷え切った。

これが、自分が五年間も愛し続けてきた男。

彼は偽りだらけの結婚生活を自分に与え、そのうえ妊娠した愛人を家へ連れてきて、自分に料理を作らせ、世話までさせようとしている。

いったい、自分を何だと思っているのだろう。

章臣から夫婦の共有財産を奪うことへの、ほんのわずかに残っていた迷いも、この瞬間きれいさっぱり消え去った。

妻として当然の権利である半分の財産は、何があっても必ず手に入れてみせる。

「いいわ。少し待っていて。すぐ作るから」

鈴音がキッチンで料理をしている間、章臣と優衣はリビングのソファでくつろぎながらテレビを見ていた。

鈴音が忙しく動き回っていても、章臣は手伝おうともしない。

料理くらい大した仕事ではない。

外で稼ぐ自分の苦労に比べれば、食事の支度など取るに足らないものだと考えていた。

どうせ鈴音は家で毎日暇にしているのだから、たまに料理をするくらい何でもない。

そう思っていた。

料理を終え、鈴音がリビングへ戻ると、ローテーブルの上は優衣がお菓子を広げ散らかしたままで、ポテトチップスやクッキーの食べかすがあちこちに落ちていた。

二人とも片づけた形跡はない。

鈴音がこだわって選んだオフホワイトのテーブルクロスには、飲み物をこぼした大きなシミまでついていた。

優衣はお菓子を置き、笑顔で言う。

「鈴音さん、お料理できたのね。食器を運ぶの、お手伝いするわ」

そう言って立ち上がると、ふらりとよろめいた。

章臣は慌てて抱き留め、その腹部へ視線を落としながら少し強い口調で言う。

「何をしてるんだ。無理に動かなくていい。座って待っていればいいんだ。この家で君に何かさせる必要なんてない」

優衣は舌をぺろっと出した。

「はーい」

そのやり取りを見ていた鈴音は、胃の奥から込み上げる吐き気を感じた。

食卓につくと、優衣はスペアリブや煮魚を一口食べたものの、どれも塩辛すぎて思わず顔をしかめた。

彼女はたまらず鈴音に尋ねる。

「鈴音さん、どうしてこんなに塩辛いの?」

鈴音は、自分の前に置かれた唯一塩加減が普通の青菜炒めを口へ運びながら、淡々と答えた。

「そう?塩を入れすぎちゃったのかもしれないわね」

だが章臣は笑って言った。

「俺は鈴音が作ってくれた料理なら、これでも十分だと思うよ。焦らなくていい。少しずつ作っていけば、きっともっと上手になるさ」

褒めて励ませば、鈴音の料理もそのうち上達する。

章臣はそう信じていた。

何より彼は、鈴音には仕事ではなく家庭に目を向けていてほしかった。

それに優衣は甘やかされて育った。子供を産んだとしても、きちんと育てられるかどうか分からない。

その点、鈴音は聡明で教養もある。将来、生まれた子供を鈴音に任せて育ててもらえば、教育面でも申し分ないはずだ。

どうせ鈴音は自分の子供を授かることはできない。

だからこそ、子供の存在を誰より求めるはずだ。

その時が来たら、優衣の子供を鈴音の子供同然に扱い、自然な形でこの家に住まわせればいい。

そんな都合のいい未来を、章臣は思い描いていた。

鈴音はそれ以上食べる気になれず、「ごちそうさま」とだけ言い残して部屋へ戻った。

優衣は鈴音の姿が見えなくなると、すぐ章臣へ甘えた声を出す。

「章臣、この料理、本当にしょっぱくて食べられないわ」

章臣は箸を置き、優しくなだめた。

「佐藤に何か美味しいものを買ってこさせるよ。少し待っていてくれ。俺は鈴音と少し大事な話をしてくる」

優衣は内心では不満だった。だが男の扱いをよく心得ている彼女は、ここでわがままを言って章臣の機嫌を損ねては元も子もないと分かっていた。彼女はすぐに聞き分けのいい笑顔を作って頷き、それ以上引き留めることはしなかった。

章臣は主寝室へ向かった。

バスルームの扉が閉まっているのを見て、そのままウォークインクローゼットへ入り、着替えようとする。

すると、クローゼットの中にあったはずの鈴音の服やバッグが、驚くほど少なくなっていることに気づいた。

胸の奥に、言いようのない不安がじわりと広がる。

やがて鈴音がバスルームから出てくると、章臣は思わず尋ねた。

「鈴音、お前の服やバッグ、どうしたんだ?」

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