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第2話

Author: レモンティー
車のエンジン音が耳元で響き、鈴音ははっと我に返った。慌てて男の腕の中から身を起こし、少し戸惑ったような声で礼を述べる。

「ありがとうございました」

男は彫りの深い端正な顔立ちに、すらりとした長身。仕立ての良いオーダースーツを身にまとい、気品と圧倒的な存在感を漂わせている。一目見ただけで、人の上に立つ立場の人間だと分かる風格があった。

鈴音は彼をちらりと見ただけで、なぜか胸が落ち着かなくなった。

雨宮巽(あまみや たつみ)は、彼女がしっかり立ち上がったのを確認すると、落ち着いた声で答えた。

「どういたしまして」

低く少しかすれたその声は独特の響きを持ちながらも、不思議と耳に心地よかった。

その時、男の後ろから恭しい声が響く。

「社長、お車のご用意ができました。このまま出発しませんと、次のフライトに間に合いません」

巽は鈴音へ軽く頷くと、ロングボディのロールス・ロイスへと歩き出した。

アシスタントの宮内駿(みやうち しゅん)がドアを開け、彼は長い脚を伸ばして車へ乗り込む。

車が静かに走り出してしばらくすると、アシスタントが口を開いた。

「社長、今回白羽市まで参りましたが、結局、川澄先生の跡継ぎは見つかりませんでしたね。引き続き捜索を続けますか?」

巽は疲れたように眉間を指で揉みながら答えた。

「探し続けろ。祖母の病気は、川澄家に伝わる伝統の整体術でしか治せない」

「かしこまりました」

鈴音が帰宅すると、家政婦の山下里美(やました さとみ)が近づき、バッグを受け取りながら気遣わしげに尋ねた。

「奥様、今日はどちらへお出かけだったのですか?先ほど旦那様からもお電話がありまして、もうお帰りになっている頃ではないかとおっしゃっていました」

鈴音は淡々と答える。

「大したことじゃないわ。友達と出かけていただけ。それより山下さん、近いうちに数日旅行へ行こうと思っているの。その間、あなたもお休みにしていいわ」

里美は驚いたように目を丸くした。

「ですが、旦那様は週末にはお戻りになりますよ?旦那様がお帰りになってから出かけられてはいかがですか?」

普段の奥様はほとんど外出せず、書斎で本を読むか、妊活のための料理を研究してばかりだった。

それなのに、今日はどういう風の吹き回しなのだろう。

里美はどこか引っかかるものを覚え、あとで旦那様に電話で報告しておこうと考えた。

何しろ旦那様は出張へ出かける前、「奥様のことをしっかり頼む」と何度も念を押していたのだから。

鈴音はその言葉を聞くと、表情をさらに冷ややかなものへと変えた。

里美は、この家で八人目の家政婦だった。

これまでの家政婦たちよりましだったのは、鈴音が若いからと侮って、仕事をサボったりしないことくらいだ。

だが彼女も結局は他の家政婦たちと同じで、誰よりも章臣の言葉を優先する。

鈴音の口調に、わずかに厳しさが宿る。

「数日旅行へ行くから、あなたにも休みをあげると言ったの。私の決定に、あなたの意見が必要かしら?荷物をまとめて、すぐ帰ってちょうだい。夕食も作らなくていいわ」

普段めったに強い口調を見せない鈴音に圧倒され、里美は不満を飲み込みながらも渋々頷いた。

「かしこまりました、奥様」

だが心の中では悪態をつかずにはいられない。

身分も低く、仕事もないくせに玉の輿へ乗って豪邸に嫁いだ女。それなのに子供一人産めないなんて。この先いつ追い出されてもおかしくない立場なのに、何をそんなに威張っているんだか。

部屋へ戻ると、鈴音は荷物の整理を始めた。

二人で過ごした五年間。

部屋のあちこちには、共に積み重ねてきた思い出が残されている。

分厚いアルバム、一緒に旅行した時のお土産、二人で作った陶芸作品。

それらを鈴音は迷うことなく、すべてゴミ箱へ放り込んだ。

彼から贈られた高級ブランドのジュエリーや洋服も持ち出すつもりはない。

だからといって優衣に安く渡す気もなかった。

一つひとつ写真を撮り、フリマアプリへ出品することにした。

そして、結婚前から持っていた私物だけをスーツケースへ詰め込んでいく。

さらに祖父が遺してくれた貴重な医学書を、すべて段ボール箱へ丁寧にしまった。

結婚前、鈴音は祖父の遺した貯金で、白羽市に小さなマンションを一室購入していた。

引っ越し業者を呼び、荷物をすべてそこへ運び終えてスマホを確認すると、章臣から十八件もの着信履歴が残っており、メッセージまで届いていた。

章臣からのメッセージにはこう書かれていた。

【山下さんから、お前が旅行へ行くって聞いたよ。どうしたんだ?外出は嫌いじゃなかったっけ?心配だからさ。やっぱり俺が帰ってきてから一緒に行こう?】

鈴音はその文面を眺め、自嘲するように目を細めた。

大したスケジュール調整能力ね。

妊娠中の優衣の世話をしながら、まだ自分を気遣う余裕まであるなんて。

突然帰ってこられて計画を狂わされるのも困る。

そう思った彼女は込み上げる感情を押し殺し、返信を打った。

【晴香の彼氏が浮気したみたいで、すごく落ち込んでいるの。お酒を飲みすぎて病院へ運ばれるほどで、近くの街まで気分転換に付き合ってあげたいのよ】

すると章臣からすぐ返信が届く。

【うん、分かった。お前は本当に友達思いだな。さすが俺の嫁だ。しっかり付き合ってあげて。お金が必要なら遠慮なく使ってくれ。俺に気を遣って節約なんかしなくていい。俺がお金を稼ぐのは、お前に使ってもらうためなんだから】

読み終えた直後、スマホには400万円の送金通知が表示された。

鈴音はこの三年間を思い返した。

彼は三日以上出張で家を空けるたび、何かと理由をつけて送金してきた。

金額も毎回大きく、少なくても200万円はあった。

今になってようやく分かった。

あれは罪悪感を埋め合わせるためのお金だったのだ。

鈴音は堪えきれず、彼へ問いかける。

【ねえ、男の人ってみんな新しいものが好きで、古いものには飽きてしまうの?章臣も、いつか私に飽きたら裏切るの?】

三分ほど経って、ようやく返信が届いた。

【俺は他の男とは違う。絶対に鈴音を裏切ったりしない。この俺、伊藤章臣が愛しているのは、川澄鈴音ただ一人だ】

鈴音はそのメッセージを見つめながら、スマホを握る手を小さく震わせた。

今回、病院で真実を知ることがなければ、夫がこれほどまでに嘘つきだったことなど、一生知らずに終わっていただろう。

男という生き物は皆そうなのだろうか。

口では甘いことを並べながら、裏ではまるで別人の顔を持っている。

だが、彼をこのまま見逃すつもりはなかった。

たとえ婚姻関係がなくても、彼の財産の半分は必ず手に入れてみせる。

この結婚生活で味わった苦しみを、章臣と優衣に何倍にもして償わせる。

売却予定のバッグや洋服、ジュエリーをすべてフリマアプリへ出品し終えた頃には、鈴音はすっかり疲れ切っていた。

妊娠してからというもの、体は以前よりずっと疲れやすい。

今日は荷物の整理に引っ越し、そして激しい感情の揺れも重なり、さすがに限界だった。

ベッドへ倒れ込むと、そのまま泥のように眠りについた。

翌朝目を覚ますと、章臣から十数件ものメッセージが届いていた。

鈴音は一つも開かず、そのまま無視する。

すると伊藤グループ研究開発部の副部長・岡本誠矢(おかもと せいや)からも二件着信が入っていることに気づき、折り返し電話をかけた。

誠矢はいつものように丁重な口調だった。

「奥様、現在開発中の処方に少々問題が生じまして……ぜひ一度、お力をお貸しいただけないでしょうか」

鈴音の祖父・川澄龍之介(かわすみ りゅうのすけ)は、東洋医学界でも名高い権威だった。

半ば引退した今でも、多くの要人や東洋医学界の著名人が彼を慕って足を運んでいた。

東洋医学の家系では、医術は子や弟子、その孫へと受け継がれていくのが普通である。

鈴音も幼い頃から祖父に学び、その才能は父や叔母をも上回っていた。

大学でも薬学を専攻し、卒業後は伊藤グループへの入社を希望した。

誠矢は昔、龍之介を訪ねた際、祖父の隣にいた幼い少女が鈴音だとすぐに気づき、その場で採用を決めたのだった。

研究開発部では常に重用されていたが、誠矢以外の社員たちは彼女を孤立させ、「コネ入社だ」と陰口を叩いていた。

その後、章臣と交際するようになると、噂はさらに悪意を帯びていく。

ある日、章臣は給湯室で鈴音の悪口を言っている社員たちを見つけ、その場でその社員を解雇したうえ、鈴音を名ばかりの研究開発部長に据えた。

章臣は、たとえ鈴音にその能力がなくても、彼女が喜ぶなら肩書だけ与えればいいと考えていた。

だが彼は知らない。

会社がここ数年で看板商品として世に送り出した慢性疾患向け漢方薬の数々は、すべて鈴音が中心となって開発したものだったことを。

会社を離れてからも、彼女は研究開発部を陰から支え続け、誠矢へ何度も処方や開発方針の助言を送っていた。

名誉のためでも利益のためでもない。

一人でも多くの患者を救い、健康を取り戻してほしい。

その一心だった。

鈴音はつわりをこらえながらパソコンを立ち上げ、誠矢から送られてきた処方を開いて問題点を探し始めた。

二時間後、ついに原因を突き止める。

それを聞いた誠矢は、目の前が一気に開けたような声を上げた。

「本当にありがとうございます、奥様!研究開発部にあなたがいないことは、会社にとって本当に大きな損失です!」

誠矢は時折、本気で思うことがあった。

鈴音が男だったなら、きっと研究開発部で活躍し続けられただろうに、と。

しかし彼女は女性だった。

家庭を守り、子供を育てる道を選ばざるを得なかった。

鈴音はマグボトルを開けて水を一口飲み、胃のむかつきを落ち着かせてから口を開く。

「私、会社へ戻って仕事を続けようと思っています」

これ以上、章臣に家へ閉じ込められ、会社のことを何も知らないままでいるつもりはなかった。

会社の現状をきちんと把握してこそ、章臣の財産を確実に分け取ることができる。

誠矢は喜ぶ一方で、不安も覚えた。

章臣は会社で優衣と公然と行動を共にしている。

もし鈴音がその姿を見たら――

だが、自分の上司は章臣だ。

本人の不始末を暴露するわけにもいかず、遠回しに伝えるしかなかった。

「奥様、一度、伊藤社長とご相談されてからの方がよろしいのではありませんか?」

鈴音には分かっていた。

誰もが自分を飾り物の奥様としか見ておらず、何をするにも章臣の許可が必要だと思っている。

だからこそ今回は、皆に証明するつもりだった。

自分は、ただ愛でられるだけの観賞用のバラではないのだと。

「いいえ。自分の決定には自分で責任を持ちます。以前、夫は言っていました。たとえ私が退職して家庭に入っても、研究開発部長の席はずっと残しておくと。だから私は新しく入社するのではなく、職場へ復帰するだけです」

夜になると、鈴音は仕事の資料を整理し始めた。

五年間出社していなかったとはいえ、学び続けていたおかげで、専門知識は少しも色褪せていなかった。

その時、章臣から電話がかかってきた。

うんざりしていたが、何事もないように電話へ出る。

章臣は優しい声で尋ねた。

「鈴音、この二日、友達と遊びに行ってちゃんとご飯は食べてる?」

鈴音は適当に相づちを打つ。

章臣はさらに続けた。

「岡本から聞いたよ。来週から会社へ出勤するつもりなんだって?どうして急にそう思ったんだ?」

鈴音は用意していた言い訳を口にした。

「家で妊活ばかりしていても結果が出ないから、お医者さんに環境を変えて気分転換した方がいいって言われたの。あまり焦らない方が、子供を授かれるかもしれないって」

章臣は思わず笑った。

「鈴音。たとえ子供ができなくても、俺のお前への愛は変わらないよ。仕事へ行きたいならもちろん構わない。研究開発部のみんなには、お前のことをちゃんと気にかけるよう言っておくからさ。仕事っていうより、遊びに行くくらいの気持ちでいてくれればいい」

鈴音は知っていた。

章臣は一度たりとも彼女の能力を信じたことがない。

会社へ貢献できるとも思っていない。

彼にとって自分は、家で大切に飼われ、退屈しのぎに愛でられるだけのカナリアなのだ。

鈴音は冷たく笑った。

「そう。あなたが反対しないなら、それでいいわ」

その時、受話口の向こうから優衣の声が聞こえた。

「章臣、髪乾かすの手伝って」

次の瞬間、電話は切れた。

鈴音はスマホを見つめ、皮肉げに笑う。

やっぱり、あの二人は片時も離れられないのね。

ほどなくして、章臣から再び電話がかかってきた。

だが、先ほどまでの落ち着きは消えていた。

「鈴音、今回の出張には優衣のお父さんも一緒でね。さっきホテルで仕事の話をしていたら、優衣がわざと邪魔しに来たんだ。ただ甘えてきただけだから、誤解しないでくれ」

鈴音は爪が食い込むほど拳を握り、吐き気をこらえながら言った。

「どうして私が誤解するの?優衣はまだ若いでしょう。あなたが浮気するとしても、あんな小娘を相手にするはずないもの。そうでしょう?」

章臣は後ろめたさを隠しきれず、乾いた笑いを漏らした。

「何言ってるんだよ。俺が浮気なんかするわけないだろ?」

そう言って一つ咳払いをする。

「この二日、仕事が忙しくてお前と一緒にいられなかったからさ。そうだ、あとでアシスタントにジュエリーを一つ競り落とさせるよ。埋め合わせのプレゼントだと思って受け取ってくれ」

鈴音は素っ気なく返事をした。

電話が切れると、章臣は隣でキャミソールのパジャマを着た優衣へ視線を向け、意味ありげに眉を上げる。

鈴音と付き合って五年。

彼女はベッドではいつも控えめで、章臣もそれを尊重していたため、どこか物足りなさを感じていた。

だが優衣は違う。若く情熱的な彼女との時間は刺激的で、肌の相性も格段に良かった。

それでも鈴音は、自分が初めて本気で恋をし、自ら追いかけた女性だ。

二人にはかけがえのない思い出がある。

だから今、優衣がいたとしても、鈴音を手放すつもりはなかった。

優衣は章臣が心ここにあらずなのを見て、不満そうに近づき、首へ腕を回す。

「章臣……」

その時、スマホの着信音が鳴った。

章臣は優衣のキスをかわし、健からの電話に出る。

「社長、お調べした結果が分かりました。奥様は昨日、ご友人の付き添いで病院へ行かれたのではなく、お一人で受診されていたようです。受診先は産婦人科でして……」

章臣は眉をひそめた。

まさか――鈴音が妊娠したのか?

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