彼女はただ静雄の意志に合っていたからこそ、そばに置かれていただけで、その立場は常に不安定だった。「わかったわ、もう二度と勝手なことは言わない。静雄、怒らないで。私には私にはあなただけなの」芽衣は静雄の腕にすがりつき、涙をぽろぽろと落とし、その瞳はひたすらに縋りつくような色を宿していた。その姿に、静雄の心も少し揺らいだ。彼は優しく彼女の涙をぬぐい、その手を取って一緒に部屋を後にした。技術部へ戻ると遥斗が深雪にコーヒーを差し出し、小声で言った。「みんなわかってますよ。この生活は誰にも奪えませんよ、深雪さん!」「私たちが技術の道を選んだその日から、栄誉も歓声も最初から私たちのものじゃなかったのよ」深雪は静かに笑った。「学生時代、先生が言っていたのを覚えてる。技術者はあまり表に出るべきじゃない。裏方は裏方に徹するもの。無理に前に出れば、待っているのは奈落の底だって」遥斗は芽衣の挑発に対して、深雪がこれほど冷静でいられることに驚きを隠せなかった。彼は深く息をつき、疑わしげに深雪を見つめて小声で言った。「でも深雪さんはただの技術者じゃない。松原家の奥様でしょう?あんな愛人まがいの女が威張ってるのを黙って見ているんですか?」「じゃあ何?飛び出して行って、頬を二発ひっぱたいて、髪をつかんで放り出せばいい?」深雪は思わず吹き出した。「それじゃあ、あの女に見せ場を与えるだけじゃない。どうせ一生表に出ることのない愛人ごときに、わざわざ舞台を用意してやる必要がある?」その言葉に遥斗は目から鱗が落ちたように腑に落ち、晴れやかな顔で深雪に親指を立てた。「すごい!本当にすごい!分かりました!」「くだらないこと言わないで、仕事に戻りなさい!私たちはまだ第一段階を突破したにすぎない。この先はもっと厳しいのよ」深雪は大きく息を吸い込み、パソコンを開いて作業に戻った。彼女は画面を見つめながら、拳を握りしめた。心の中ではすでに静雄が上高月興業へ赴く光景を思い描いていた。残念ながら自分は同行できず、その場を目にすることはできない。翌朝。静雄は芽衣を伴って上高月興業へ向かった。二人は深夜の飛行機で京市に飛んできたため、疲労の色が濃かった。鏡の前で化粧を直しながら、芽衣は緊張した面持ちで静雄の手を握った。これが二人にとって初めての京
静雄は芽衣の手を軽く叩き、穏やかにうなずいた。「技術部は今回よくやってくれた。今後もさらに努力して、絶対にお客様を失望させないようにしなければならない。上高月興業は今年度最大のプロジェクトだから、俺が直接交渉に行く。芽衣も一緒に来てもらう」静雄はもちろん芽衣の意図を理解していたので、彼女を同行させることにした。それまで和やかだった空気が一気に冷え込み、皆は信じられないというように静雄を見つめた。相手はこのソフトを作った人と会って、技術面をじっくり話し合いたいと伝えていたのに、行くのがまったく技術を理解していない二人だなんて?これでは本末転倒ではないか。一瞬で全員の視線が深雪へと向けられた。彼らの目には同情が浮かんでいた。明らかなことだ。芽衣の行為は勝利を横取りしようとしているにすぎなかった。深雪は周囲の視線を感じると、微笑んで淡々と言った。「おっしゃる通りだと思います。技術的なことは私たちが得意ですが、交渉となると私は不向きです。ですからお願いするしかありませんね」「では、みんな仕事に戻りましょう」深雪は手を叩き、皆を現実に引き戻すと、立ち上がって真っ先に外へ歩き出した。彼女は当然のように席を立てるが、残された社員たちは困惑していた。「社長、深雪さんはどういうつもりですか?あなたがまだ解散を告げてもいないのに先に出て行くなんて。まさか社長の業務方針に不満でも?」「不満があるなら、直接言うべきです。黙って席を立つなんて、意図的に分裂を招き、派閥を作ろうとしているのでは?」芽衣は立ち上がり、正義感ぶった口調で深雪を非難した。遥斗はその言葉に思わず激昂しかけた。自分の給料が松原商事に結びついていなければ、手にしたカップを彼女の顔へと投げつけていたことだろう。図々しい人間は見たことがあるが、これほどまでに厚顔無恥な人間は初めてだ。表に出せない関係の第三者が、ここで堂々と口を挟むなどあり得ない。「もういい、皆仕事に戻れ!」静雄は表情を引き締め、手を振って社員たちを解散させた。その様子を見て、芽衣は不吉な予感を覚え、小声で言った。「ごめんなさい、私は別に深雪さんを狙ったわけじゃなくて、ただ......」「今は会社が転換期にある大事な時期だ。彼女が必要なんだ。わかるか?」静雄は芽衣を厳しい
「やっぱり、これこそ俺が求めていたものだ!完璧だ!しっくりくる!」どうやら本当に腕が立つ人を雇ったようだな。ぜひこのサンプルの制作者に会いたい」健治はUSBをしまい、正男に指示を出した。「このサンプルを作った人を呼べ。今後の進め方について直接話がしたい」正男は喜びを隠せなかった。「それはつまり、松原商事との提携に前向きだと?」「そうだ。この案件はあの人物だけが作り出せる」健治はすぐにうなずいた。部下の間でどんな利権のやり取りがあるかなど関係ない。自分の欲しい成果を差し出せるのなら、それで構わなかった。まもなく松原商事にも朗報が届いた。大介は嬉しそうに総経理室へ飛び込んだ。「朗報です!技術部が出したサンプルに評価をいただきました。上高月興業のほうが大変満足されて、制作者を呼んで次の段階を相談したいと!このプロジェクト、我々のものになりました!」「本当か!」静雄は喜びに立ち上がった。「すぐに技術部を集めろ、会議だ!」これはまさに天からの恵みだった。この分野で転換に成功すれば、松原商事はもはや空っぽの殻となる。そうなれば祖父の遺言に縛られることもなくなり、名実ともに離婚でき、完全な自由を手にできるのだ。技術部にこの件が伝わると、大きな歓声が上がった。とりわけ遥斗は、飛び上がらんばかりに喜んだ。「やった!本当にやった!深雪さんって本当にすごい!」「そうだ、深雪さんは一番だ!やっぱり発想が的確だった!」「本当だな。やったぞ!これでボーナス倍増だ!」働く者にとって、最も気になるのは結局は給料と待遇。彼らの原動力もそこに尽きる。深雪の胸にも抑えきれない喜びが広がっていた。これは彼女が社会に戻って初めて得た確かな評価であり、しかも権威ある評価だった。家で過ごした数年があっても基礎は錆びていなかったのだ。恩師への顔向けも立つ気がした。「さあ、みんな気持ちを整えて。会議に行くわよ」深雪は口元を緩め、意気揚々と仲間たちを率いて会議室へ向かった。会議室では、大介が上高月興業からの評価をそのまま伝えた。「よくやった。全員に一か月分の給与をボーナスとして即時支給する」静雄は手を叩き、満面の笑みを浮かべた。まぎれもなく本気で喜んでいた。その言葉に、技術部は再び沸き立った。深雪はこれ
「いや。あいつにしっかり反省させろ」静雄はネクタイを結び直し、傲慢に鼻を鳴らした。その言い方は、まるで彼が深雪を冷遇すると決意したかのように見えただろう。だが実際に深雪は彼に一瞥もくれなかった。中子は黙って玄関の扉を開けた。「お気をつけてお帰りください」あからさまな追い出し方だった。静雄にそれが分からないはずがない。彼は低く伏し目がちな中子の態度を見て、ふっと笑った。やはり深雪は只者ではない。自分をまるで悪霊に取り憑かれたかのように変えてしまっただけでなく、周囲の人間まで別人にしてしまうのだから。静雄は足音も荒く家を出た。本来なら、自分の怒りは中子を怯えさせるはずだった。だが返ってきたのは恐怖ではなく、勢いよく閉められた扉の音だった。「無礼な......反逆も甚だしい!」玄関先で静雄は怒り狂って地団駄を踏んだが、誰も彼の怒声を気にかけず、彼の芝居を見てくれる者もいなかった。窓辺に立つ深雪はてんてんを抱きながら、その滑稽な姿を冷ややかに見下ろした。静雄はまるで子供のように振る舞う、幼稚な男だった。ようやくこの時になって深雪は過去の自分がいかに愚かだったかを痛感した。どうしてあんな男を選んで、寧々の父親にしてしまったのか。強がるばかりの子どもじみた男、傲慢で、大人になれない赤ん坊ではないか。そう思えば思うほど、可笑しくてたまらなかった。てんてんをベッドにそっと置いた深雪はすぐにパソコンを開き、仕事に戻った。サンプルはすでに送ってあり、まだ返事はないが、自分の成果に自信があった。今はより精度を上げ、完璧に仕上げることが肝心だった。【任せたデータの計算は、進みはどう?】深雪はグループチャットを開き、進捗を確認した。遥斗は返信した。【俺の部分はもう終わった。メールに送ってある】他のメンバーが返信しないままなのを見て、深雪はそれがまだ終わっていないことを即座に理解した。彼女は歯ぎしりしながら打ち込んだ。【効率をあげないと明日は全員残業になってしまうよ!】たちまちチャットはさまざまな表情のスタンプと悲鳴で埋め尽くされた。だが皆わかっていた。深雪は見た目は柔らかそうでも、言ったことは必ず実行する女だ。結局は腹を括って各自の作業を進めるしかない。深雪もまた、手を止めることなく全
深雪は軽蔑するように唾を吐き、冷ややかに言った。「まるで私が離婚を望んでいないみたいな言い方ね。はっきり言ってあげるわ。あんたと私の夫婦関係なんて、もうとっくに終わってる。なぜ離婚しないのか、あんたも分かってるでしょ。だから大人しくしてなさい。さもなきゃ、本当に追い詰められたら、共倒れになるだけよ」「俺をどうするつもりだ?」静雄の挑発に、深雪の表情はますます険しくなった。彼女はもう悟っていた。どうせ自分には失うものなど何もない。命一つしかないのなら、やってやるだけだ。「お前......どうしてこんなに変わった?芽衣の言う通りだ。お前には演技の才能があるよ!」「今すぐ金庫の鍵を渡せ。お前にはそれを持つ資格はない」静雄はそう言いながら、深雪に手を差し出した。彼女は冷笑しながら容赦なく静雄の手のひらを叩きつけ、自分の掌が痺れるほど強く打ち据えた。歯を食いしばり、鋭い視線で言い放った。「これはおじい様から私に託された遺産よ。あんたの物じゃない。絶対に渡さないわ。取りたいなら、私を殺してからよ!」そう言って彼女は、自らの額を静雄の目の前に突き出した。突如迫ってきた深雪の頭に、静雄は思わず後ずさり、足元がもつれてソファに尻もちをついた。狼狽えた様子で顔は驚きと困惑に満ちていた。従順で逆らうことのなかったあの女が、どうしてこんな恐ろしい女に変わってしまったのか。理解できない。それより、信じられない。そのみっともない姿を見て、深雪はむしろ胸がすっとした。「これは私の物よ。死んでも渡さない。欲しければ自分でこじ開ければいいじゃない。おじい様が残してくれた物は、必ず一つ一つ取り戻す。私を刺激しない方がいいわ。機嫌が悪くなれば、いつだって本宅を取り上げる。そうなれば、あんたはご両親の住む家を探し直さないといけないわよ!」吐き捨てるように言い残すと、深雪は踵を返した。去り際にはてんてんを抱き上げることも忘れなかった。ここでは到底、安らかに暮らすことなどできない。やはり静雄が知らない場所に移るべきだ。この男はまるでまとわりついて離れない蠅のように鬱陶しい。一人残された静雄は、呆然と座り込み、頭の中が真っ白になっていた。深雪のことを腹黒く、演技ばかりの女だと思っていた。だが、隠すことなく牙をむいた彼女の鋭さは想像以
中子は、深雪が寧々の話を口にするのを聞いて胸が締めつけられるように感じ、深く息を吸いこんで言った。「寧々はもういないんです。どうか、取り乱したりしないでくださいね」「私は寧々に約束したの。ちゃんと生きるって。だから大丈夫」深雪は穏やかに微笑み、壁に掛けられた寧々の写真を見上げた。「約束を破ることはない。私はきちんと生きていく」彼女がそう言えば言うほど、中子の心配は募るばかりだった。しかし余計なことを言って気を悪くさせてもいけないので、ただ黙ってうなずいた。「それならいいんです。本当に......あなたには幸せになってほしいんですよ」その時だった。突然ドアが開き、静雄が入ってきた。彼の視線が深雪の腕の中の小さな塊に向かうと、顔に露骨な嫌悪が浮かんだ。「なにこれ?汚らしい」深雪は反射的にてんてんを抱きしめ、眉をひそめて静雄をにらんだ。以前は頼んでも帰宅しなかったくせに、なぜ今さら厚かましく出入りしてくるのか。自分はもう家を出たはずなのに、彼はしつこく追いかけてきて、まるで命を狙うかのようだ。「静雄、どうしてまた来たの?」深雪はてんてんを抱いたまま立ち上がり、眉間にしわを寄せて問いただした。「俺はお前の夫だぞ。ここにいなくてどこにいろっていうんだ?」静雄はネクタイを乱暴に引き、苛立ちを隠そうともしない。彼女が小さな生き物を大事そうに守っているのを見て、さらに機嫌を損ねた。「会社に行くって言ってたのは口先だけか。やっぱりお前の性格は変わらないな。猫に注意を取られるなんて、お前の言う夢だのなんだのも、結局は口だけなんだろう」彼は椅子にどかりと腰を下ろし、上から目線で深雪を責め立てた。それはここ数年、二人が顔を合わせるたびに繰り返されてきた光景だった。静雄はもはや習慣のように彼女をけなし、見れば条件反射のように口から否定の言葉が出てしまう。心の底では違う思いもあるのに、口を開けば必ずこうなってしまうのだ。せっかくの一日が、その言葉を聞いた瞬間に台無しになった。深雪はてんてんをそっと子猫用ベッドに置き、静雄を睨んで吐き捨てた。「この数日、私は昼も夜もなく働いてきたのに、見もしないくせに。しかも今日は前もって休暇を取ったの。いつから松原商事の社長が部下の勤怠管理までするようになったの?」