紗雪は背中に込められた力を感じて、京弥が失ってまた取り戻した不安から来ているのだと勘違いした。彼女はそっと京弥の手を軽く叩き、安心させるように示した。京弥の心の中には、少し可笑しさがこみ上げた。紗雪が何を思ってそうしているのか、彼にはよく分かっていた。けれど、本当のところは彼にしか分からない。彼の胸の奥に潜んでいる恐れが何なのかを。もし、いつか自分の正体が明るみに出てしまったら――そのとき紗雪にどう説明すればいいのか。......いっそ、近いうちにふさわしい機会を見つけて、正直に打ち明けたほうがいいのかもしれない。京弥は心の底で深くため息をついた。一方で、彼の胸に抱かれている紗雪は、その温もりに包まれて安らかに眠りについていた。だが今この瞬間、安心している者もいれば、不安と恐れに苛まれている者もいた。別の場所では。一日中忙しく動き回った加津也は、初芽を探しに来たが、仕事場には彼女の姿がなかった。胸の奥で小さな違和感が膨らむ。このところ、彼女はやけに自分を避けている気がするのだ。いや、避けているのではなく――むしろ「逃げている」。それを加津也はもうはっきりと感じ取っていた。どこへ探しに行っても、初芽は必ず何かしらの理由をつけて会おうとしない。お腹が痛いとか、食欲がないとか、あるいは生理中だとか。とくに「生理だ」と言われたとき、彼は看病しに行こうと申し出た。だが、彼女はきっぱり拒んだ。そのとき加津也は、彼女の声に妙な息遣いが混じっていることに気づいた。不審に思って尋ねても、初芽は「暖房が強すぎて暑い」とか、「ヨガをして疲れただけ」と言ってごまかした。加津也にはどうしても腑に落ちなかった。そもそも二川グループを相手取るよう仕向けたのは初芽自身だ。ようやく成果が見え始めたというのに、なぜ一緒に喜んでくれないのか。そう考えると、胸の奥が重苦しく沈んでいった。彼は直接、初芽の家へ向かった。玄関に立つと、パスコードを入力して中に入ろうとした。ところが、何度試しても「パスワードが正しくありません」の表示。思わず、その場で動きを止めた。ドアの表示を見つめたまま、足をどう動かせばいいのかも分からず、呆然と立ち尽くす。「......どういうことだ?」思わ
彼がこれ以上言葉を重ねれば、それは紗雪にとって障害になってしまう。「そっか。わかった」京弥は真剣な声で言った。「でも、何かあったら俺に言ってほしい。俺はいつだって紗雪の味方だから」紗雪はその心意を悟り、彼が何を伝えたいのかも理解した。胸の奥が温かくなり、笑みがより柔らかく深まる。「うん、わかってるよ」こんな良き夫がそばにいるだけで、彼女はもう十分に満たされていた。望むものは多くない。ただ、二人が長く寄り添っていければそれでいい。それ以上は本当に何もいらなかった。ただ......未来に何が待っているのかは、誰にも分からない。そう考えた瞬間、紗雪はふと京弥を見つめて口を開いた。「京弥も、これから先、どんなことがあっても私に隠し事はしないで」その言葉に、京弥は思わず動きを止めた。なぜ急にそんなことを言い出すのか、理解できない。まるで何か関係があるような口ぶりだ。「どうして急にそんなことを......?」彼は手に力を込め、必死に表情を取り繕いながら感情を隠した。だが、誰も知らない。実際には彼の心中に大きな動揺が走っていたことを。紗雪がこんなことを言うのは、何かを知っているからに違いない――どうして今、そんなことを......彼自身にも分からなかった。紗雪は目を細め、美しい瞳で京弥の緊張した様子を見つめる。心の奥に、小さな疑念の種が落ちた。「ただ思いついて言っただけよ」そう笑みを浮かべながらも、問いかける。「緊張しているの?」京弥もまた口元に笑みを浮かべ、内心そっと安堵の息を吐いた。「別に。ただ急にそんなこと言われたから少し不思議に思っただけさ。わかってるよ、紗雪。何かあれば必ず君に話すよ」だが彼は自分の正体を口にしなかった。紗雪の期待に満ちた眼差しを受け止めながらも、時期が早すぎると感じたのだ。賭ける勇気もなければ、打ち明けた後に紗雪がどうするのかも分からない。すべてが未知で、彼の心を不安で満たした。だからこそ、その秘密は胸の奥に押し込めたまま。どう話せばいいのか、答えが出せなかった。だが紗雪は、彼の言葉を聞いて嬉しく思った。二人が互いに誠実でいられるなら、それはこれから長く歩んでいける証になる。その約束があれば、心はず
A国では、他人の支配を受けるしかない。しかも、気心の知れた人間もいない。今西は緒莉が口を閉ざしたままなのを見て、彼女が折れたのだと悟った。少し不思議には思ったが、結局それ以上は何も言わなかった。相手が選んだことだ。どうあれ、この件はひとまず終わったのだから。彼の任務もこれで一区切りだ。これ以上引き延ばしたら、他の任務に支障が出る。それでは時間の無駄になるだけだ。坂井も胸の内でようやく安堵の息をついた。もう緒莉と正面から向き合わなくてもいい。この女と対峙すると、頭が回らなくなる気がして仕方なかった。本意はこんなはずじゃなかった。最初はただ緒莉を少し好意的に見て、同情すらしていた。けれども、気づけば彼女の仕掛けた罠に嵌ったようで、思うように運ばないことばかり。もういい、さっさと送ってしまった方がいい。ここでこれ以上時間を無駄にするのは無意味だ。だが、その場の誰一人として気づかなかった。隅にいた辰琉の顔をかすめた陰鬱な影に。彼はゆっくりと拳を握り締め、憎悪を滲ませながら緒莉を睨みつけていた。絶対に、この女を許しはしない。こうして緒莉と辰琉は、二人揃ってK国の監獄へと送られ、現地の法律によって罪が裁かれることになった。......その頃。紗雪は京弥と共に、ようやく日常を取り戻していた。二人は別荘に暮らし、もう以前のように部屋を分けて寝ることもない。伊澄もいなくなり、今の紗雪には部屋の空気さえ澄んで感じられた。だが彼女は、帰国したことを母に告げてはいなかった。京弥は紗雪の肩を抱き寄せ、柔らかな声で尋ねる。「どうして美月さんに知らせなかったんだ?」彼にはその行動が理解できなかった。A国にいた時は、二人で話すことも多く、雰囲気は悪くなかったはずだ。だが紗雪はその問いには答えず、手元の資料に目を通していた。「私が二川グループを離れていた間に会社は大きく変わったの。今は早く追いつかないと」その言葉を聞いて、京弥は悟った。彼女が正面から答える気がないことを。仕方ない、無理に問い詰めることでもない。結局は紗雪自身の意思次第だ。ここで強引に迫っても、何の意味もない。何も変えられはしない。だが、それにしても紗雪はこんなにも早く会社に戻
「それは......」緒莉は仕方なく口ごもった。今西は背筋を伸ばし、先ほどまでの軽薄な笑みを消し、厳しい表情に戻った。声も冷え切っていた。「罪を償うかだ。でもお前たちはK国の人間、A国には管轄の権限がない。今は送り返すしかない。ちなみに、スマホの中の証拠は揃っている。そのアカウントの取引履歴は君と無関係じゃない。逃げられると思うな」「どういうこと?!」緒莉は思わず声を荒げた。「署長は?署長に会わせて!」こんな簡単に有罪扱いされてたまるものか。それに、あのアカウントだって、取引なんてほとんどなかったはずだ。彼らが仕組んで、自分に認めさせようとしているのか?「彼は会いたいと言って会える人物じゃありません」横で坂井が口を挟んだ。この人、まるで夢でも見ているかのようだ。さっきまではなかなか肝が据わっていると思ったが、今見るとただ虚勢を張っているだけにしか見えない。緒莉はそんな坂井を睨みつけ、強い眼差しで言い切った。「署長に会わせなさい」今西は緒莉の様子を見、それに気圧されている坂井の顔を見ると、心の中で舌打ちした。まったく情けない。こんなことで怯むなんて、何の役にも立たない。今西は坂井を庇うように前に立ち、緒莉を見据えた。「署長は多忙だ。一声で会えるわけがない」緒莉は、この頑固な男を前に頭が痛くなった。署長に会うには、彼を突破するしかない。しかし、この男は本当に頑として揺るがない。「副隊長も私の立場は分かっているはず」緒莉は顎をわずかに上げて言った。「私の言葉には耳を傾けるべきじゃない?でなければ、家族に話してしまうわよ」「その新しく手に入れた副隊長の地位、守れる自信はある?」それを聞いた今西は、鼻で笑った。「二川さん、冗談はよせ。俺の地位は自分の力で登ってきたものだ。家族に連絡したいなら勝手にどうぞ。ただ......その婚約者さんはすでに家族に連絡してあるのだが、結局何もなかったんだぞ」言葉は鋭く、刃のように突き刺さった。緒莉は二歩後ずさりし、顔に驚きの色を浮かべた。まさか、この男がここまで手強く、言葉も容赦なく突きつけてくるとは思っていなかった。何かを言い返そうとしたが、今西はもう聞く気はなかった。この二人を牢に入れると、彼
確かに、やり手だ。緒莉は話を本題へと戻した。「あのメッセージ、本当に私からだなんて証拠はないでしょう」緒莉は堂々と反問した。必死に心を落ち着けようとする。何しろ、辰琉のスマホに登録されていた番号には、自分の名前が残っていなかった。だからこそ、彼女は強硬手段に出て、徹底的に否認するしかなかったのだ。「いや、あるさ」今西は冷たく鼻を鳴らした。「発信元を特定した。背後の銀行口座も調べたが、すべて同じ人物に繋がっている」彼は耐えきれず緒莉に身を寄せ、耳元で低く囁いた。「さて、二川さん。この『同じ人物』って、一体誰のことだと思う?」その言葉に、緒莉の胸が一気に締め付けられる。「わ、私に分かるわけないでしょう」彼女は必死に笑顔を作った。大丈夫、証拠はそれだけ。自分が否定し続ければ、それで通せる。帰国さえできれば、母が必ず助けてくれる。A国でこんなふうに囚われ続けるなんて、母が許すはずがない――そう信じていた。そのとき、今西はとうとう辰琉をこちらに引き寄せた。近づいた瞬間、緒莉と坂井の鼻先を、何とも言えない異臭が突き刺す。緒莉は思わず鼻をつまみ、顔を上げる。そこにいたのは、真っ黒に汚れた顔の辰琉だった。かつての軽薄な色男の面影など完全に消え失せ、ぼんやりとした輪郭だけが残っている。だが、それでも一目で彼だと分かってしまった。そして次の瞬間、辰琉は反射的に動き、緒莉の首に手を伸ばした。その口からは、憎悪に満ちた叫びが飛び出す。「このクソ女!全部お前のせいだ!お前さえいなければ、俺がこんなふうになることはなかった!お前を、お前を呪ってやる!!」辰琉の言葉は、血を吐くように一言一言が突き刺さる。その目は緒莉を射抜き、まるで仇敵でも見るかのような殺気を放っていた。実際には、そこまでのことではないのに。彼の狂乱した姿に、緒莉の胸にも恐怖が広がる。思わず今西の背後に隠れた。「辰琉の精神状態はもうこんなです。これじゃ訊こうとしても、まともな答えなんて返ってこないでしょう?やめにしたほうがいいと思います」彼女に言わせれば、大袈裟にするほどのことでもなかった。だって紗雪だって、結局は何事もなかったのだから。あれこれ深読みすれば、かえって
この瞬間、緒莉は辰琉との関係を隠そうとはしなかった。あえて皆に、自分は後ろ暗いところなどない、堂々とした人間だと示すためだ。やましいことは何もない、調べられても構わない――そういう態度を示していた。今西は眉をわずかに上げる。心の中では、思わず緒莉に拍手を送りたくなる。まさかこの場面でも、これほどまでに動じないとは。この胆力は確かに見事だ。坂井もまた心の内で感嘆していた。自分でさえ今西を前にすれば口をつぐむのに、緒莉は堂々とやり合っている。しかも、真正面から今西と何度も応酬している。その光景に、坂井は軽く頭が混乱するほどだった。今日という日は、彼の中にあった緒莉への固定観念を根底から覆した。女は男に劣らず――まさにそれを体現している。この胆力、本気で感服せざるを得ない。少なくとも、恐怖に押し潰されないことだけは確かだった。今西は何も言わず、辰琉を手招きする。しかし彼の髪は草むらのように乱れ、顔も煤けて汚れている。A国の暑さの中、いまだに拘束された時のままの服を着ているせいで、体からは何とも言えない異臭が漂っていた。その様子に、緒莉は思わず鼻をひそめる。正直、もう辰琉とこれ以上関わりたくなかった。関わる理由などもうどこにもない。それに、ここまで事態が進んだ以上、今さら彼を気にかけても意味があるだろうか。辰琉は、今西の手招きに反応することもなく、焦点のない目で遠くを見ているだけだった。その様子に、今西は肩を落とし、仕方なく緒莉へと向き直った。「二川さん、彼に声をかけてやってくれ。何しろ彼は君の婚約者。こんな姿を見れば、胸が痛むだろ?」その言葉に、緒莉は小さく咳払いする。視線を逸らし、正直言って近寄りたくもなかった。本当に必要性を感じなかったのだ。彼女はふっと笑みを浮かべる。「言いたいことがあるなら直接おっしゃってください。もう隠し立てする必要はないでしょう?」細い眉をわずかに寄せ、内心ではすでに苛立ちが募り始めていた。自分はもう警察に連れてこられているというのに、彼らはまだ遠回しな言い方ばかりしている。核心を避けるように、余計なやり取りを続けている。その意味が彼女には理解できなかった。けれど、ここは自分の国ではない。下手に動く