紗雪は点滴のボトルを見上げた。まだ2~3本は残っている。これでは秘書にここで待たせるわけにもいかない、休む時間を奪ってしまうだけだ。「帰りなさい。これは命令よ。私は一人でも大丈夫。少し眠ればいいだけだし、何かあったらナースを呼ぶから」その言葉に、秘書はもう何も言えなかった。紗雪の真剣な表情を見れば、本気で言っていることが伝わってくる。「......分かりました。では、会長、明日の朝また来ます」紗雪は軽く頷いて応じた。彼女は分かっている。このお願いさえ聞き入れなければ、きっと秘書は今夜ずっとそばにいるつもりだったのだ。部屋を出ていく秘書を見送り、静まり返った病室には紗雪ひとりだけが残った。白い壁に掛かったテレビを見つめたまま、しばらく動かずにいた。いつの間にか、明るくて華やかだった顔には、疲れと影が浮かんでいた。紗雪は携帯を手に取り、通話履歴を確認した。だが、京弥からの着信はなかった。どうして?なぜ電源を切っている?何かトラブルでもあった?彼女の心には次々と疑念が浮かぶ。無意識のうちにSNSをスクロールしていた紗雪は、ある投稿で指を止めた。それはただの食事風景の写真が4枚。だが、その写真に写っていた男性を見て、彼女の視線が釘付けになる。あれは、京弥?まさかの人物だった。さらに驚くことに、その投稿をしたのは伊澄だった。投稿文にはこう書かれていた――「大切な人と、これからいっぱいご飯を食べるんだ〜!」紗雪のまつ毛がわずかに震え、唇をきゅっと結んだ。投稿時間を確認すると、それはちょうど自分が京弥に電話をかけていた時間だった。ということは、電話に出なかったどころか、電源を切ったのは......伊澄と一緒にいたから?彼女たちは一緒に食事をしていた。じゃあ、あのとき自分に言っていたことは何だった?全部、嘘だった?自分はただのバカだった?画面の中の2人、男は端正で女は可憐。確かに絵になるカップルだった。紗雪は必死に自分をなだめた。これまでの京弥の態度を思い返して、きっと何か誤解があるのだと。だから、彼にもう一度だけ、説明する機会を与えよう。そう心を決めて、彼にメッセージを送った。【今、どこにいるの?】しばらく待ったが
こうすることで、治療もさらにスムーズに進められるようになる。秘書が薬を持って病室に入った時、ちょうど紗雪が目を覚ました。「会長、大丈夫ですか?」紗雪は軽く首を振った。腕を支えて起き上がろうとしたが、秘書に止められた。「会長、まだ点滴中ですから、横になっていてください」その言葉を聞いて、紗雪は秘書の視線を追い、点滴のボトルがぶら下がっているのを見つけた。仕方なく、再び横になる。紗雪は喉を軽く鳴らして咳払いをしたが、その時初めて喉がひどく乾いていて、声もかすれていることに気づいた。「病院に運んでくれたのは、あなた?」秘書はうなずいた。「はい。医者によれば、急性胃腸炎とのことです。普段の食生活のリズムが原因だとか」「この前ご飯を買ってきたのに、食べてませんでしたよね?」紗雪は少しばかり気まずそうな表情を浮かべた。「忙しくて、つい忘れちゃって......」その言葉を聞いた瞬間、秘書は思わず声を荒げた。「『忘れた』って何ですか!忘れたからって仕方ないじゃ済まされませんよ、会長。これはあなたの身体のことなんですから、ちゃんと責任を持ってください!」「身体は自分のものだし、これからも一生付き合っていくんですよ?大切にしなきゃダメです!」そう言いながら、秘書の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。今にも泣き出しそうなその様子に、紗雪は微笑みながら慰めるしかなかった。「大丈夫よ、もう過ぎたことだし、私は平気だから」「ほら、今こうして元気にしてるじゃない」秘書は何か言いかけたが、その時、紗雪が軽く咳き込むのを見て、すぐに枕元の水を差し出した。「会長、熱いので気をつけてください」紗雪は満足げに頷いた。普段は目立たない秘書だったが、いざという時には本当に頼りになる。水を一口飲んだ後、紗雪は手を軽く振って「もう大丈夫」と合図した。そして秘書に向かって言った。「今日は本当にありがとう。こんな夜中に、わざわざ来てくれて......」その一言で、秘書の表情が一変した。不満そうな顔で紗雪を見つめる。「それは違いますよ」「......え?」突然語気が強くなった秘書に、紗雪はぽかんとした顔で見返した。自分、何か変なこと言った?どうしてこんなに怒らせてしまったのか分からな
彼女は唾を飲み込みながらも、心の中では怒りの炎が燃え上がっていた。あの女は一体何がしたいの?せっかく京弥と一緒に食事できてるのに、なんでおとなしくしてくれないの?「京弥兄、今日は私とのデートだよ?私たちの食事の時間に他人に邪魔されたくないわ」伊澄は邪魔されるのが嫌だった。今この瞬間の京弥は、自分だけのもの。それが彼女の願いだった。そう思った瞬間、彼女は迷いもなく京弥のスマホの電源を切り、そのまま自分のバッグに押し込んだ。「安心して、食事が終わったらちゃんと返すから」その後の口調には、わずかに怒気も混じっていた。「京弥兄だって、『正体』を、お義姉さんにバレるのは嫌でしょ?」京弥の唇はピンと張りつめていた。彼をよく知る者なら、今の状態が怒りの限界に近いことが分かるはずだ。拳を何度も握っては開き、ついには、伊吹の顔を思い浮かべ、ようやく手を出すのを踏みとどまった。これが他の女だったら、もうとっくに何百回も「死んでる」レベルだろう。「約束はちゃんと守れ」京弥はそう言い捨てて、ようやく箸を手に取った。紗雪のことは、あとで説明するつもりだ。その様子を見て、伊澄の顔にはようやく満足そうな笑みが浮かんだ。ほらね、京弥をコントロールするのなんて、案外簡単じゃない。そう思いながら、彼女はスマホを取り出して、パパッと操作を終え、作成したSNS投稿を即座に送信した。......一方その頃、紗雪は椅子にうずくまり、信じられないような顔で通話終了の画面を見つめていた。まさか、電話を切られるなんて。時間的に考えれば、京弥はすでに午前中に帰国しているはずだ。彼からのメッセージもちゃんと届いていたのに。額にかかる前髪は冷たい汗で濡れていた。体にはまるで力が入らない。彼女はもう一度電話をかけ直したが、今度は電源が切られていた。絶望的な気持ちの中で、紗雪は仕方なく、秘書に電話をかけて救急車を呼ぶよう頼んだ。その連絡を受けた秘書は、電話越しに飛び上がるほど驚いた。ついさっきまで普通だったのに、一体どうして!?「待っててください!すぐに行きます!」秘書は急いで車を走らせながら、同時に救急車を呼び、二川グループまで向かうよう手配した。現地に到着したとき、ちょうど看護師たちがス
大丈夫。どう言われようと、今の京弥は完全に自分のものだから。紗雪なんて、どこにいようが関係ない。好きなようにすればいい。「注文しろ」席についた京弥は、無言でメニューを伊澄の前に押し出した。どうあれ、彼は男性として最低限の礼儀はわきまえている。そういったことは、まるで箸の持ち方のように、骨の髄まで染みついている教養だった。「はーいっ!」伊澄は嬉しそうに笑い、やっぱり。と確信する。やっぱり京弥兄は自分のことを気にかけてくれている。じゃなきゃ、こんな風にメニューを先にこちらへ回してくれるはずがない。つまり、食事の好みも自分を優先してくれるってことだ。彼女はメニューに目を落としながら、近くの店員に声をかけた。「おすすめあります?」店員はとても丁寧に、看板メニューを一通り紹介した。「辛いのが大丈夫でしたら、当店の魚料理がおすすめです。今朝さばいたばかりの新鮮な魚を使っています」「それはダメ、別のにして。京弥兄、辛いの苦手ですからね」伊澄は当然のように答えながら、横目で京弥の反応をうかがう。けれど京弥は、そんな彼女の乙女心など気にも留めていない様子で、スマホをいじり続けていた。その姿に、伊澄の瞳には一瞬、失望の色が浮かび、メニューを選ぶ気も失せた。「もう、全部オススメのやつでいいです。ただし、辛いのは抜いて」「かしこまりました」店員は恭しく頭を下げて、静かに個室を後にした。だが、伊澄はすっかり興が冷めていた。水を一口飲んでから、また京弥に話しかける。乾いた唇を舐めて、彼女は話題を探した。「京弥兄、出張で何をしてたの?」スマホを持っていた京弥の手が一瞬止まる。そして数秒黙ったのち、冷ややかに一言だけを吐き捨てた。「余計な詮索をするな」まるで頭から冷水を浴びせられたような気分だった。伊澄の心の中で、さっきまでの温度が一気に下がる。それでも、まだ諦めたくない。せっかくの二人きりの時間を、ここで終わらせるわけにはいかない。気を取り直して話題を探していたその時、「失礼いたします、お料理をお持ちしました」店員がノックして料理を運び始めた。京弥は軽く頷いただけで、黙って料理が並べられるのを見ていた。その隙に、伊澄はこっそり京弥の写真を
この八木沢さん、まったく自分の立場がわかってない。目の前の男が誰だと思ってるんだ?よくそんな簡単に腕を取ろうなんて思えるな。大胆すぎる。二川さん以外に、このお方のそばに近づける人間がいると思ってるのか。匠は目をギュッと閉じて、これから起きることを直視できなかった。案の定、京弥の目が鋭く光り、伊澄の手首を無造作に掴んだ。その目つきは凍りつくように冷たく、言葉に鋭さを宿していた。「お前......一体何がしたいんだ」その問いとともに、男の手に込められる力はじわじわと強くなっていった。伊澄は痛みに顔を歪めながら、うめくように言った。「京弥兄、痛いよ......ごめんってば、離して......」その声を聞いて、匠はようやくほっと胸を撫で下ろした。これでこそ、彼の知っている京弥だ。まったく、間違いのない対応。もし誰にでも近づかせるような男だったら、F国へ行く必要がなかったはずだ。あの連中も、今ごろ無事に生きてるはずがない。匠は心の中でしみじみと感慨にふけった。まさか一介の社長秘書のくせに、こんなに心の中でツッコミしまくるとは。いや、自分自身、昔はこんなに頭の中で突っ込み入れる性格じゃなかったはずなんだけど。そう考えながら、彼は視線を京弥に移し、妙に納得した。......そうか。自分が前までこんなことをしなかったのは、たぶん「椎名社長に出会ってなかったから」だ。ああ、これで全部説明がつく。「この食事が終わったら、もう俺に付き纏うな」京弥はそう言い残し、さっさと前に歩き出した。匠はすぐにその意味を察し、無言で彼の後を追って高級車に向かいながら、手早くレストランの予約を入れた。一方の伊澄は、手首をさすりながらも、顔にはまだ満足げな笑みを浮かべていた。少し痛かったけど、結果として京弥兄との食事の約束が叶ったのだから、それで十分。駆け引きに多少の苦労はつきもの。ましてや相手が京弥ともなれば、少々の強引さも当然必要だ。好きなものは、自分から掴みに行かなければ手に入らない。そうでなければ、世の中に「両思い」なんて奇跡、こんなにたくさん存在するはずがない。少なくとも、伊澄はそういう夢物語は信じていなかった。実際、彼女と京弥の関係だって、もし彼女が執拗に食い下
「わかった。用事が済んだらドア、ちゃんと閉めておいて」紗雪は無表情でそう言った。その冷たい態度に、秘書はこれ以上何も言えなくなり、黙ってドアを閉めた。振り返ると、大勢の社員たちの視線とばっちり目が合った。皆の心配そうな顔に、秘書は軽く咳払いをして言った。「もう何もないから、みんな自分の持ち場に戻って。ここに立っていても仕方ないし」そう言われても、誰一人として安心した様子はなかった。というのも、きっと紗雪はまだ食事をしていない。もしちゃんと食べていたなら、秘書の表情はもっと違っていたはずだ。そして皆の予想は、案の定、当たっていた。紗雪は忙しく仕事をこなしていて、秘書が買ってきた食事には、ほんの数口しか手をつけなかった。仕事が山積みなうえに、母親の体調も思わしくないこの時期、考えることが多すぎて、自分のペースで行動できる余裕なんてなかった。だからこそ、紗雪は必死に働いていた。誰かに証明したいわけではない。ただ、母親の負担を少しでも軽くしたいという一心だった。それができれば、母ももう少し楽になるかもしれない。そう思えば思うほど、紗雪の中に闘志が湧いてくる。京弥が家にいないこの数日間、彼女はほとんど会社に泊まり込んでいた。どうせ一人なのだから、家に帰る意味もない。だったら少しでも仕事を進めたほうがいい。夜になり、外が暗くなってきた頃、紗雪の目の端にかすかな痛みが走り、そしてお腹もピクピクと痙攣し始めた。ビリッとした鋭い痛みに、彼女は思わず息を吸い込み、違和感を覚えた。こんなこと、今までなかったのに。どうして今日はこんなに?おかしいと察した紗雪は、お腹を押さえながら助けを呼ぼうとしたが、そのときようやく気づいた。もうみんな退勤していて、このフロアには彼女しか残っていなかったのだ。痛みに額から冷や汗がにじみ、全身から力が抜けていく。そんな中、紗雪の脳裏に最初に浮かんだのは、京弥の顔だった。彼女はかろうじて身体を支えながら、彼に電話をかけた。だがその頃、京弥はすでにF国から帰国していた。しかし、彼は今、伊澄に付きまとわれていて、身動きが取れない状態だった。「私はまだ納得してないよ」伊澄は彼の腕にしがみつきながら言った。「たった一食で済むような話じゃなかったで