LOGIN石橋にとって、初芽が海外へ行くということは、あの男と一緒に行くのと同義だ。彼からすれば、それはもう浮気と何が違うというのか。そんな石橋を前に、初芽はふっと笑い声を漏らした。「あなたがそこまで言うなら、私も無神経にはならないわ。離して。やることがあるの」あまりにあっさりした反応に、石橋は一瞬うろたえた。「え?何の話?」「行くのをやめたんだよ」初芽は露骨に白い目を向け、少しくらい察しなさいと言わんばかりだった。「最初にそう言ったのはあなたでしょう?」石橋は初芽と室内を見比べて、どこか引っかかるものを感じていた。「行かないって......信じていいの?」初芽はまたしても大げさに目を回す。「もちろんだよ、今からあの人にメッセージ送るわ。海外には行かないって」石橋は半信半疑のまま初芽を放した。戸惑いの色が目元からこぼれ落ちそうだ。「本当に......本気で言ってるんだよな?」「当たり前でしょ。あなたを騙す理由なんてないわ。そんなことしても意味がないもの」初芽の頭には、とにかくスマホを取って伊吹に助けを求めることしかなかった。この石橋は完全に常軌を逸している。今の彼女にはもう抑え込むことができない。この先、どんな行動に出るかも分からない。一人でここで足止めしているなんて、危険すぎる。それは嫌というほど理解していた。石橋はまだ全面的には信じていなかったが、今は他に方法もなく、信じるしかない気がしていた。さもなければ初芽は海外へ行ってしまう。だが彼女を力ずくで縛りつけたところで、スタジオはどうなる?金を稼ぐ存在がいなくなれば困るのは自分だ。「どっちも欲しい」思考ではあるが、それなりに打算は働いている。初芽はそっとスマホを手に取った。案の定、石橋は警戒している。彼女は素早く伊吹にSOSを送り、そのまま文章を打ち始めた。内容は──海外には行かず、国内でやっていきたい。家を離れたくない。特にこのオフィスには思い出が詰まっていて、離れがたい。海外での事業拡大はやっぱりやめる、というもの。石橋は隣でじっと睨みつけていた。文章にどこか引っかかりを覚えながらも、決定的な違和感は掴めない。最後には小さく頷き、「送っていい」と示した。初芽は胸の奥
「いつ?」初芽には石橋の言う意味がよく分からなかった。「初芽が内線をかけようとしたのを、本気で気づかないとでも思った?」石橋はずかずかと近づき、初芽の手首を掴んだ。瞳には露骨な独占欲が滲んでいる。「初芽、もう諦めたらどう?俺に折れてくれればいいじゃないか。俺は本気で初芽を愛してるんだ。安心してよ。初芽さえいいと言ってくれれば、このスタジオも一緒にやっていくから」さらに石橋は指を四本立てて誓った。「約束するよ。このスタジオは絶対に良くなる。そしたら俺たち夫婦で強力タッグってやつだ」石橋のニキビだらけの顔を見て、初芽は吐き気が込み上げた。まるで寝言だ。あの加津也みたいな御曹司すら彼女は捨てる覚悟をしている。まして目の前の石橋など、見た目も格も比べ物にならない。こんな状況で、石橋の申し出を受けるはずがない。それに、彼女はこれから海外へ行く予定なのだ。国内の仕事は、これまでの顧客への恩返しのために残しているだけ。本当なら国内事業なんてすべて手放すつもりだった。初芽が黙り続けているのを見て、石橋は胸の奥がざらつくような不快感に襲われた。じわじわと距離を詰め、無理やり押し通そうとする。「初芽、お願いだから俺に応えてよ。俺たち二人のためだと思ってさ」電話線が抜かれているのを確認して、初芽は本当に打つ手がないと悟った。出口までも距離はあるし、むやみに動けば逆に危険だ。つまり、この部屋に閉じ込められているも同然。落ち着こうと必死で自分に言い聞かせるが、どうやっても冷静になれない。今の石橋はもう、人の話など聞く状態ではない。ここでうまく宥めない限り、この部屋から出ることはできない。ネットで見た似たような事件の例が頭をよぎる。石橋は初芽を力任せに抱き寄せ、反抗する余地を与えなかった。「もうやめようよ、抵抗なんてさ。何度も言ったろ?初芽のことを大事にするって。どうしてそこまで拒むの?」石橋は見た目も冴えず、背丈も中くらい。そこに歪んだ表情が加わり、初芽には恐怖しかなかった。もう心の制御が効かず、思わず声が出た。「誰か!誰か──」「助けて」の三文字は喉奥でかき消えた。この部屋、そこまで防音でもないはず。外に聞こえれば誰か来る――そう期待していた。
こんな相手と理屈をこねたところで、そもそも話なんて通じない。それに、心の中で何を考えているのかも分からない。「はいはい、分かったよ。別の話をしよう?」石橋は引こうとせず、初芽のデスクまで数歩の距離しかないのに、ずっとその「遠すぎず近すぎず」の距離を保っていた。その間合いが、かえって初芽を不安にさせる。普段どこで石橋を怒らせたのか、それとも変な期待を持たせてしまったのか、見当もつかない。石橋は初芽の怯えなどまるで気にせず、勝手に話を続けた。「初芽がオフィスで奮闘してる姿、業者とやり取りする時の真剣さ、生地を選んだりデザイン画を描いたりする時の集中した顔......どれも俺を惹きつけてしまいました。色々一緒に乗り越えてきたのに、初芽はあのヒモ男のことばかり。俺は納得できません!」石橋の頭の中では、二人が最後まで一緒に行く未来がまだ描かれている。あるいは、このまま鳴り城で服飾デザイン会社でも立ち上げて、一生ここでやっていくのも悪くないと思っているのだろう。でも明らかに、初芽の野心はそんなところに収まるものではない。自分が何を求めているかをよく分かっているからこそ、こんな所で終わるつもりなんてさらさらない。石橋に関しても、初芽はすでに心の中で答えを出していた。今日うまくオフィスを出られたら、今後この男はもう使わない、と。初芽はやわらかな笑みを浮かべ、最大限の忍耐で石橋に向き合った。「石橋がずっと私についてきてくれたこと、ちゃんと分かってる。一緒に頑張ってきた時間も、息の合い方も気持ちの通じ方も、他の誰にも比べられないものよ」懐かしむような笑みを浮かべて続ける。「あの頃のことは、今でも忘れられないよ」その様子を見て、石橋も昔を思い出し始めた。あの時期は、彼にとっても一番幸せだった時間だった。苦しくて大変だったけど、それでも確かに楽しかった。初芽と一緒に成長できていたから。今みたいに、初芽が邪道に走って、仕事への熱も前ほどじゃないように見えるのとは違っていた。石橋は思い出話を始め、初芽の言葉に合わせて語り出す。けれどその後の話は、初芽はほとんど聞いていなかった。今の自分がしていることは、ただ時間稼ぎに過ぎないと分かっていたからだ。視線は常に石橋の動きを追いながら、適当に相
石橋は、情事のあとで機嫌の良さそうな初芽の様子を見て、何があったかすぐに察した。大人なら察するところは同じで、わざわざ口に出す必要もない。むしろ言葉にするほうが余計というものだ。それでも石橋には、どう切り出せばいいか分からなかった。あくまで自分は彼女の部下に過ぎない。しかし、このまま彼女があの男と一緒に海外へ行ってしまうのを、ただ黙って見送ることにも抵抗があった。初芽は、石橋が黙って突っ立ったまま決めきれずにいるのを見て、せっかくの機嫌をすっかり削がれてしまった。心のどこかにあった好意も、もうほとんど消えかけている。「何か言いたいことでもあるわけ?」初芽はうんざりした声音で言う。「ないなら出てって。こっちはまだやることがあるの」石橋は目を見開き、がっと顔を上げた。初芽がここまで冷たく出るとは思っていなかったのだ。少し前までなら、彼女はもう少し自分と言葉を交わしてくれていた。なのに今は、顔すら見ようとしないのか。「小関さん、話があります」石橋はしばらく迷った末、それでも言わなければと思い至る。彼女がこのまま堕ちていくのを、黙って見たくはなかった。これが本来の彼女ではないと知っているからだ。そもそも石橋が彼女について行こうと決めたのは、初芽が情熱的で、前に進もうとする意志を持っていたからだ。頭の回転は特別良くなくても、勝負を仕掛ける気概があった。だからこそ彼女の未来に期待できた。だが今の初芽は、男の腕の中に浸りきっている。まるで男に惑わされているように見えて、思わずため息までこぼれる。その様子を見て、初芽の気分は完全にしぼんだ。手を振りながら言い放つ。「その様子じゃ、大した用事もなさそうだね。もう出てってくれる?疲れてるの」「駄目です!」言い終えるか終えないかのうちに、石橋が強く言い返した。その目には明らかに未練と苛立ちが混じっていて、白目には血管が浮き、今にも裂けそうな勢いで初芽を見据えている。まるで自分が裏切られたと訴えるような目だった。初芽は無意識に唾を飲み込み、そっと視線をドアに向けた。扉はしっかり閉じられている。石橋が何かしら別の感情を抱いているのは明らかだ。ただ、それが何なのかまでは軽々しく判断できない。「言いたいことが
彼らは正しい相手についてきた。悩む理由なんてどこにもない。方向さえ合っていれば、社長が稼がせてくれる。なら、むしろ喜ぶべきじゃないか。それに、初芽は普段から彼らに対して悪い態度を取ったことはない。特に石橋に関しては、実力さえあれば必ず評価してきた。この点について疑った者は誰もいない。だからみんな彼女についていく気でいる。オフィスで何をしていようと、それをあれこれ言うつもりもない。あれはボス自身の問題であって、自分たちには関係のないことだ。給料をきちんと払ってくれるなら、それだけでいい上司。それこそ、彼女についていく価値がある。今回も、海外について来たい人がいればちゃんと面倒を見ると言っていた。結局信用できるのは古参の社員たちだからだ。とはいえ、石橋をここに残したのも、捨てたわけじゃない。ただ、彼の能力が高いからこそ、国内で管理を任せようと考えた。言ってしまえば、このスタジオを丸ごと彼に引き渡すようなものだ。彼にとっては、より大きな挑戦でもある。その点に異論を挟む者はいない。彼の実力は誰が見ても明らかだし、これは初芽からの評価と信頼に他ならない。当然、給料も一段上がるはずだ。だから今、石橋がこんな恨みがましい顔をしているのは、周りには理解できない。何をそこまで思いつめる必要があるのか。そこまで悩むことなのか。そんな中、伊吹がオフィスから出てきたときには、明らかに機嫌が良くなっていた。彼は最後に、真面目な顔で初芽に念を押した。「二川グループには近づくな。もう関わる必要はないし、相手にするだけ無駄だ。初芽じゃ太刀打ちできない」初芽は、またしても彼が真剣に言ってくるのを見て、事態の深刻さを改めて理解した。そしてきちんとうなずく。「分かった。この件はもう心配しないで。どうせ私はもうすぐここを離れるし。こんな意味のない面倒ごとに、これ以上首を突っ込む気もないわ」ここ数ヶ月の経験で、彼女は身を守る術をよく分かっている。命あっての物種というやつだ。実力さえあれば、ああいう連中なんて怖くない。彼女のその返事に、伊吹もかなり安心したようだった。「ならよし。俺も準備で忙しいし、お前の件も見ておかないといけないからな。そろそろ戻るけど、一人で動くと
「このところずっと疲れてたから、早く片づけてしまいたかったの。そうすれば海外に行けるし、早く伊吹と二人きりの時間が過ごせるでしょ?」初芽はそう言いながら、軽く相手の腕を揺らした。まるで人を惑わせる妖艶な女そのものだ。その様子を見て、ようやく伊吹の表情が和らいだ。正直に言えば、初芽の顔立ちは完全に彼のストライクゾーンだった。こういう女には、抵抗なんて最初からできない。それに深く関わるうち、この女が根っからの利己主義者だと分かってからは、むしろ征服してみたいという欲が湧いてきた。こういうタイプを屈服させて完全に自分に従わせたら......それはそれで相当面白いだろう。伊吹は初芽の腰に腕を回し、妖しく笑った。「初芽は、俺のことが好き?」初芽は目を細め、指先で彼の胸元を円を描くようになぞる。「もちろんだよ。わざわざ口に出して言わなきゃダメ?大人同士なんだから、察して分かることってあるでしょ」最後の一言は語尾が少し跳ね、眉に浮かぶ軽い挑発と相まって、まさに人を誘う妖精のようだった。今の彼女には、まだ伊吹が必要だ。このタイミングで怒らせる意味なんてないし、損にしかならない。ようやく納得したのか、伊吹は唇の端を上げ、彼女の腰を抱えてそのまま持ち上げた。何が起こるか、初芽には分かっている。拒む理由もない。むしろ最近、加津也の件で神経をすり減らされていたところだ。ちょうどいい気晴らしにもなる――そう思って身を任せた。流れはごく自然で、抵抗する間も理由もなかった。伊吹はその勢いのまま彼女を休憩室へ連れ込み、二人はそのまま深い「交流」に入った。その最中、石橋が扉を開けようと近づいたが、中から漏れる声を聞いて足を止めた。また始まったのだとすぐに分かる。この休憩室の防音は大したことがない。耳を近づければ、ある程度は聞こえてしまう。石橋には自分の気持ちがどういう状態なのか言葉にできなかった。ここへ残されたのは、つまり初芽に切り捨てられたということだ。彼女が海外へ行くと言ったときも、表向きはビジネス拡大のため。けれど実際はこの男と一緒に飛ぶつもりなのだろう。石橋から見れば、国内での発展は十分順調だった。地道に積み上げていくのが本当の前進で、そういうものこそ価値が