紗雪は視線をそらした。「言ってること、わかってるのくせに」「もうあの人、家に住んでるんだよ?それでも知らないとでも言うの?」やっぱり男なんて、誰でも同じ。ここまできても、まだとぼけるつもりか。京弥はようやく気づいた。紗雪が言っているのは八木沢伊澄のことだった。彼女が悩んでいたのも、このことだったんだ。だから最近、よく喧嘩になったのか。彼のさっちゃんは嫉妬してるみだいだ。そう思った瞬間、京弥の身体に力が戻った。それまでのだるさが嘘のように消えて、目が鋭く光った。「俺の初恋が誰なのか、君はちゃんと知ってるだろ?」その言葉に、紗雪は驚いた表情で京弥を見つめた。だが彼の瞳は笑みを含みながらも、何か計り知れない感情できらめいていた。紗雪はそっと唇を開き、不安そうに問い返した。「私が......知ってる?」彼女のあまりに愛らしい表情に、京弥は腕に力を込めてその身体を抱きしめた。額を彼女の額にそっと寄せて囁いた。「さっちゃんはほんとに......可愛いな」その言葉を聞いた紗雪の頭の中には疑問符が飛び交った。この人、一体何を言ってるんだ?いつもは冷静で理性的な紗雪だったが、この時ばかりは思考が追いつかず、頭がぼんやりしていた。「なんで褒める?話、ズレてない?」思わず問い返すと、京弥は彼女の期待混じりの視線を受け止めながら、優しくその柔らかい髪を撫でた。「もう寝よう、さっちゃん」紗雪はまだ何か言いたげだったが、彼の目に浮かんだ赤い血の筋に気づいて、言葉を呑んだ。彼が話している時の、その疲れきった様子は、見ればわかる。紗雪は唇をきゅっと結んだ。たった一、二日離れていただけなのに、どうして病気になる?この人、本当に自分のことを大事にしないんだから。京弥はすでに目を閉じていた。だからこそ、紗雪の目に浮かぶ怒りも見ることはなかった。最初、紗雪は彼が眠ったら、そっと腕の中から抜け出すつもりだった。二人で抱き合ってるなんて、そんな簡単に許すような女じゃないし。でも、結局眠気に勝てなかった。そのまま京弥に抱かれたまま、眠ってしまった。彼女の身体が力を抜いたことに気づいた京弥は、そっと口元をほころばせる。暗闇の中、二人は静かに寄り添い、夢の中へと沈ん
しかし翌日、部屋から一緒に出てきた二人を見た瞬間、伊澄の顔から笑みが消えってしまった。紗雪は彼女の驚愕した表情を見ると、内心ではおかしくて仕方がなかった。そして、上機嫌で挨拶をした。「おはよう、そんなに口を開けてどうしたの?」その一言に、伊澄は慌てて表情を取り繕った。彼女は焦って京弥の方を見た。案の定、彼は探るような目つきで彼女を見ていた。伊澄は気まずそうに説明した。「別に何でも......ここ数日お姿を見なかったから、てっきり怒って帰ってこないのかと......」この言葉を聞いた途端、京弥の目の奥は一瞬で冷たく凍りついた。せっかく彼が苦労して機嫌を取ったというのに、伊澄は何を言い出すんだ。そして案の定、京弥が彼女に向ける目はまるでナイフのように鋭かった。だが、伊澄は気にしない。彼女と京弥兄との長年の仲がある限り、最終的に退場するのは二川紗雪、この後から来た女に違いない。むしろ今、紗雪が怒って離婚届を叩きつけてくれたらどんなにいいか。京弥も緊張して紗雪の様子をうかがった。何か言おうとしたそのとき、彼女はふっと笑った。「伊澄ちゃん、お義姉さんの気持ちをそんなに気にかけてくれてたの?ありがと。じゃあ、ご飯食べましょう。これから会社に行かなきゃだから」そう言いながら、紗雪は一人で台所に向かった。昨日の出来事を経て、彼女はもう悟った。京弥の初恋が誰であろうと、それはもうどうでもよかった。今、重要なのは、正妻の座にいるのが自分であるという事実だけだ。それさえ分かっていればいい。たとえ相手が障害になろうと、困るのはあっちの方だ。紗雪は少し顎を上げ、伊澄の横を通り過ぎる。そのときの彼女の驚いた顔は、まるでサーカスの道化みたいに可笑しかった。紗雪の意図をすぐに悟った京弥は、すぐに気持ちを切り替え、彼女の後を追って台所へ入った。そこに残されたのは、居心地悪そうに立ち尽くす伊澄一人。台所で忙しそうに動く二人の背中を見て、伊澄は無意識に拳を握り締めた。あの女......なんでいきなり変わったのよ。今ごろ、怒って京弥兄に問い詰めるべきタイミングじゃないの?その時こそ、自分が彼にとって一番理解ある存在として輝くはずだったのに、紗雪の居場所なんて、どこにもないはずなのに。
一度や二度ならまだしも、回数が増えればやはりうんざりしてくる。彼にも彼の生活があるのだから、いつまでも彼女に時間を割いてはいられない。そんな必要はまったくない。朝食を終えると、紗雪は二川グループへ出社した。今回は自分で車を運転して行った。受付のスタッフはいつものように紗雪に挨拶する。「そういえば、会長、応接室に神垣さんがお待ちですよ」紗雪は軽く頷いた。「わかった」心の中では少し不思議に思っていた。デザイン案は三日間の約束だったのに、まだ二日しか経っていない。そんなに早い?それに気づいて、紗雪の期待も自然と高まっていった。応接室に入ると、果たして日向と千桜がそこに待っていた。紗雪は一歩踏み入れ、ヒールの音を聞いた千桜は最初少し怯えていたが、紗雪の姿を見てからは目に見えて安心したようだった。日向も紗雪を見て、顔の笑みが次第に大きくなっていく。「朝早くからお邪魔してすみません」紗雪は笑いながら否定した。「そんな他人行儀なこと言わないで。それに、今はちょうど出勤時間よ」日向はすぐに納得するようにうなずいた。「確かに」紗雪は軽く身をかがめて千桜を見つめ、手を伸ばして彼女の頭を優しく撫でた。今回は千桜も避けることはなかった。「今日の千桜ちゃんは可愛いお姫様のワンピースだね。でも......」紗雪の視線は千桜のぐちゃぐちゃの髪に向けられ、目の奥に浮かぶ笑みがじわじわと広がっていった。日向は気まずそうに咳払いする。もちろん、紗雪の言いたいことは理解していた。「今日は家に誰もいなくて、僕が髪を結ってあげたんだけど......あまり得意じゃなくて、その......」「とっても可愛いよ」紗雪は笑いながら言った。「日向は立派なお兄さんよ。千桜ちゃんもそれが分かってる」千桜は何も言わなかったが、小さな手でしっかりと日向の脚にしがみついていて、それだけで彼女の信頼が伝わってきた。その様子を見て、紗雪の笑顔はさらに深まった。「紗雪、髪......直してくれない?」日向は照れくさそうに鼻をこすった。実際、自分でもどうかと思っていた。でも、妹は文句を言わなかったので、そのまま連れてきたのだった。紗雪はにこやかにうなずき、手際よく数手で千桜の髪を整えた。す
「大人も子供も満足できる、一番理想的な生活。これは本質への回帰だ」その言葉に、紗雪の目がぱっと輝いた。「言えてる。私もそう思ってるよ」日向はそれ以上何も言わなかった。彼には分かっていた。紗雪がどんなデザインを好むのか。このデザインこそ、最も生活に寄り添ったもの。だからこそ、日向には自信があった。紗雪はきっと気に入ってくれるはずだ。「このデザイン案、会長にも見せるよ」紗雪の瞳には、日向への称賛の色が濃く映っていた。この才能、二川グループがどうしても手放してはいけない人材だ。母の言う通りだった。他所に行かせるなんて、絶対にダメだ。その後も二人はデザインに関するあれこれを話し合った。話せば話すほど、紗雪は日向に対する評価をさらに高めていった。日向もまた、心から楽しんでいた。こんなに波長が合う相手に出会ったのは、本当に久しぶりだった。思考にちゃんとついてこられる人間なんて、ほとんどいない。けれど紗雪だけは違った。彼女と話していると、自分の思考が一気に広がっていくのを感じる。紗雪は時間を確認して、言った。「もうお昼ね。よかったら、一緒にランチでもどう?」「邪魔にならないかな?忙しくない?」日向は少し遠慮がちだった。何より、妹を連れて来ている以上、あまり迷惑もかけたくない。紗雪は「大丈夫」と即答した。「午後は特に予定もないし、問題ないわ」それを聞いて、日向もようやく頷いた。紗雪は母親に簡単に報告を済ませると、日向と千桜を連れて昼食へ出かけた。もうこれ以上時間を無駄にはしなかった。日向は千桜を抱え、以前にも訪れたことのあるレストランへと向かった。今回は、紗雪も日向も何も言わないうちに、千桜が自ら椅子に座り、静かに料理を待っていた。紗雪は彼女の頭を優しく撫でて、笑顔で言った。「千桜ちゃんはいい子だね。しっかり食べようね」紗雪のその笑顔を見て、日向の胸はじんわりと温かくなっていった。「紗雪、午後って予定ある?」紗雪は千桜と遊んでいたが、その声に振り向いて返事をする。「特にないけど、どうかした?」日向はちょっと気まずそうに頭をかきながら、控えめに話し出す。「千桜に洋服を買ってあげたくて......ちょっとショッピングモールに寄りたい
日向はちょうどいいタイミングで口を開いた。「これが好きってことなんだ。この子は誰かを好きになると、ついじっと見つめ癖があるんだ」紗雪は口元に笑みを浮かべ、ぱっと手を振って、子供が好きそうなデザートをさらにいくつか追加した。日向は二人の様子を見ながら、心の中であたたかな感情があふれ出しそうになるのを感じていた。午後。三人は市内で最大規模の正大モールにやってきた。目的ははっきりしていた。真っ直ぐ三階の服飾フロアへと向かう。目の前に広がる色とりどりの服の数々に、紗雪は少し目が回る思いだった。日向は千桜を腕に抱えながら、紗雪の隣について歩く。「直接子供服売り場に行くのか?」「うん。このレディースコーナーを抜けたら、その先が子供服よ」「レディース?」その言葉に日向の目が一瞬光り、すかさず言葉を継ぐ。「どうせ午後は時間あるんだし、紗雪も自分の服見てみなよ」「いいのよ。もう十分あるから」紗雪は断ろうとした。今日のメインはあくまで千桜のための買い物だ。だが、日向はそれに納得しなかった。「女性の服は何着あっても足りないだって言葉、聞いたことがある?」その言葉を口にしたときの日向の瞳、そしてまっすぐに見つめてくるその視線に、紗雪はどう断ればいいのか分からなくなった。「でも今日は、千桜ちゃんの服を買いに来たんじゃ......?」日向は千桜を抱き直しながら軽く揺らし、にっこり微笑む。「大丈夫大丈夫。うちの千桜は急いでないよな?」千桜はぱちりと瞬きを一つしたが、特に何も言わなかった。二人は目を合わせるが、千桜からの返事は最初から期待していない。健康で元気にいてくれさえすれば、それでいいのだ。結局、日向の熱心な勧めに押されて、一行は先にレディースコーナーを見ることになった。紗雪は服を見ていたが、特に気が乗るわけでもない。彼女の服はいつも美月がデザイナーに直接オーダーして送ってくるものばかりだ。今回は、もしも目に留まるようなデザインがあれば......という程度の気持ちだった。「もう行きましょうか」「気に入ったのなかったのか?」服を選ばなかった紗雪に、日向は少し不思議そうに尋ねた。紗雪がうなずこうとしたそのとき、不意に隣から驚いたような声が飛んできた。「お義姉さん?
伊澄は目をそらしながら、紗雪の言葉が理解できないふりをした。「お義姉さん、何のことですか?私にはさっぱり......」紗雪は冷たく鼻で笑い、それ以上何も言わず、その女の演技を黙って見つめた。その演技はあまりにも稚拙で、少しでも察しのある人間なら誰だって騙されない。だが、残念ながら、本当に騙される者がいた。有紀は何も考えずに伊澄を庇い、彼女の前に立ちはだかって紗雪に食ってかかった。「伊澄をいじめないでくれる?彼女が何を言おうと、それは彼女の自由でしょ?あんたには関係ないわよ」「伊澄の身代わりにすぎないくせに」その言葉は紗雪の心を鋭く刺した。彼女の手は思わずぎゅっと握りしめられる。日向もそれを見て、黙って紗雪の顔に目をやった。紗雪の表情は酷く沈み、ただ黙って伊澄を睨みつけていた。やはりこの女、外で何を吹聴していたのか......京弥がいなければ、本性を隠そうともしない。これが京弥の妹の本性ってやつか?伊澄は有紀の腕を引き、少し不満げに言った。「もう、有紀、そこまで言わないで」「これは家の事情なんだから......お義姉さんを傷つけるようなこと言っても、意味ないでしょ」だが有紀はまったく引く様子がなく、真っ赤なネイルを光らせながら、紗雪を堂々と指差した。「こんな女がいたから、伊澄が上に立てたんでしょ?後から来たくせに、身代わりそのものじゃない」「有紀!」伊澄が叱るように声を上げたが、それ以上何の行動も起こさなかった。口では止めるようなことを言っても、実際は止める気なんて全くない。その態度が余計に有紀を勢いづかせ、次の言葉はもはや遠慮のかけらもなかった。「私、何か間違ったこと言ってる?身代わりって聞こえはいいけど、要するに泥棒でしょ?他人のものを奪った第三者よ」「それに、その隣の男......既婚者なんでしょ?この男と一緒にショッピングなんて、何が目的なの?この尻軽女!」さすがの日向も、これには聞いていられなくなった。止めに入ろうと一歩前に出ようとしたその時、紗雪が腕で彼を制した。彼は驚いたように紗雪を見た。こんな状況で、なぜ我慢する?彼女の性格からして、こんなの黙って受けるタイプじゃないはずだ。だがその次の瞬間、紗雪の行動が彼の思いを裏切った。彼女は
有紀は紗雪を指差し、信じられないといった表情で叫んだ。「あんた......」紗雪が少し眉を上げると、彼女はすぐに怯えて手を引っ込めた。それを見た伊澄は、心の中で舌打ちする。この役立たず。紗雪は満足そうにうなずいた。「言うことを聞かない人には、これくらいのしつけがちょうどいいのよ」「それにあなた、口が汚いからね。少しは他人のためにも躾けておかないと」そう言いながら、彼女はちらりと伊澄を見た。「次は、ちゃんと人として生きなさい。誰かの腰巾着になんて、ならないことね」こんなに明らかに人に利用されてるのに、それにすら気づかないなんて。こういうタイプには本当に呆れてしまう。大した力もないくせに、わざわざ彼女の前に出てくるなんて。伊澄は紗雪の言外の意味を察し、皮肉っぽく言い返す。「お義姉さん、そんなことして......京弥兄に話したら、どうなるか分かってるの?」すると紗雪は眉をひそめ、冷静に返す。「私のかわいい妹、これは私たち家族の問題よ?」「誰に話すかは、あなた次第。口はあなたのものだから」そう言って、彼女は日向と一緒にその場を離れた。さっきまでの良い気分は、もうどこにもなかった。日向は千桜を抱いたまま、足早に紗雪のあとを追う。すると、ようやく千桜が反応を見せた。日向そっくりの尊敬の眼差しで、パチパチと目を瞬かせながら紗雪を見つめている。後ろからは有紀の悲鳴が響く。「伊澄、手が痛いよ!病院に行かなきゃ......指が折れそうなの!」彼女は紗雪に賠償を求めることすらできなかった。だって、あのときの紗雪の顔、あまりに恐ろしすぎたから。あの一瞬、本当に指をへし折られるかと思った。伊澄は有紀の痛みに歪む顔を見て、内心うんざりしながらも、やはり自分の手下でもあるので、優しく声をかけた。「有紀、大丈夫よ。今すぐ病院に連れていくから」二人はバタバタと病院に向かった。だが診断の結果、有紀の指にはなんの異常もなかった。「そんなはずない!あのとき、すごい力だったのよ!?折れたかと思ったのに......!」有紀が叫ぶと、伊澄もすかさず加勢する。「そうです、先生。もう一度よく診てください。もしかしたら内部に損傷が......」その言葉に、医者は心の中で大きくため
有紀はとても優秀な腰巾着で、体裁を保つためにも、伊澄はしぶしぶ彼女の治療費を払うことにした。大した問題ではなかったとはいえ、この程度の医療費など彼女にとっては痛くもかゆくもない。だが、無駄にした時間と失った面子を思うと、人前に出るのも憚られる気分だった。有紀はずっと「手が痛い」と喚いていた。仕方なく、伊澄はイライラを押し殺してなだめる。けれど内心では、まったく役に立たないね、どうしてもっと思い切り指を折らせなかったのよ。これじゃ証拠も何も残らないじゃない。証拠がなければ、京弥兄のところに持っていくこともできないのに。有紀はただひたすら痛みを訴えるばかりで、伊澄の苛立ちには気づいていない。今は紗雪のことを思い出すだけで震え上がるほどだ。あんなに綺麗な顔をしているのに、手を出す時は本当に容赦がないなんて。結局、二人は不満げに病院を後にした。もうこれ以上ここにいても、意味はなかった。......日向は、まだ真剣に服を選んでいる紗雪を見ながら、千桜を抱く手にぎゅっと力が入った。ついには我慢できずに声をかけた。「なあ、紗雪、本当に大丈夫なのか?」「私が何かあったように見える?」紗雪はきょとんとした顔で首をかしげる。日向の言っている意味がわからない。その顔を見て、日向は少し気まずそうに説明した。「いや、別に......ちょっと心配になって。さっきの件で、気分悪くなってないかって......」紗雪はふっと鼻で笑い、唇を少し吊り上げた。「まさか。あんな人に左右されるなんて、時間の無駄よ」それを聞いた日向は感心したように呟いた。「......君の言うとおりだ」紗雪は軽く微笑み、それ以上何も言わなかった。彼女は千桜を見つめ、頭をやさしく撫でながら微笑んだ。「さ、どうでもいい人の話はやめにして、かわいい千桜のために服を買わなくちゃ」日向は、紗雪が本当に千桜を気に入ってくれていることを感じて、心が温かくなった。これほどまでに根気強く子どもと接する女性を見るのは、彼にとって初めてのことだった。しかもそれが偽りのない、心からの優しさであることが伝わってきた。紗雪が服を選ぶ姿を見つめるうちに、日向の中で何か名もなき感情が芽生えていくのを、彼はぼんやりと感じていた。二
「ちょ、ちょっと、紗雪!」紗雪はくすっと笑った。「まあまあ、仕事のほうが大事だよ。そんなに気にしないで」円は少し考えて、確かにそうだと納得した。ふたりが話していると、紗雪のオフィスのドアがノックされた。紗雪と円は同時にそちらを見た。ノックした社員は紗雪に向かって言った。「会長、美月さんがお呼びです」紗雪の目がすっと陰った。「分かった、すぐ行く」円は隣でなんとなく察していた。「今朝の件かな?」紗雪は「うん」と短く返した。「そうかもしれない。行ってみないと分からないよ」「行ってらっしゃい。私も仕事に戻るね」ふたりはそこで別れ、紗雪はそのまま会長室へと向かった。彼女はドアをノックしたが、中から返事があるまで少し時間がかかった。中に入ると、会長は机に向かって何かを書いていた。まるで彼女が入ってきたことに気づいていないかのように、ずっと手元の作業を続けていた。紗雪はしばらく待ったが、ついに口を開いた。「会長、私に何かご用でしょうか?」美月は相変わらず彼女に目もくれず、自分の作業を続けた。まるで紗雪の存在などないかのように。紗雪はすぐに察した。母は彼女をわざと無視しているのだと。仕方なく、彼女もソファに腰を下ろし、自分の仕事を片付け始めた。その様子を見て、ついに美月がため息をついた。彼女の娘は自分に似て、頑固な性格をしている。「私が今日あなたを呼んだ理由、分かる?」「会長が何も仰らなかったので、私から勝手に推測はいたしません」紗雪は丁寧に答えた。美月は席を立ち、窓辺に立って外の車の流れを見つめながら言った。「二川グループが長年この地位を保ってこられたのは、評判を何よりも大事にしてきたからよ」その言葉を聞いた時点で、紗雪は母が何を言いたいのかすぐに理解した。「でも今朝のあの騒ぎ、あなたと元カレの件。あれはあまりにも見苦しかったわ」最後の言葉は、明らかに語気を強めていた。紗雪は目を伏せ、どう答えていいか分からなかった。「ご心配なく。私が責任を持って対処します」少し考えた末に、彼女はその一言だけを返した。美月は娘のほうを向き、冷たく言い放った。「そう、ちゃんと対処してちょうだい。会社の評判は、私たちで好き勝手にできるものじゃな
加津也がそう言い終わった後、初芽はもう何も言わなかった。黙り込んでしまった。今は口では綺麗事を並べてるけど、さっき会社で怒鳴っていたのは、他ならぬこの人じゃなかった?やっぱり肩書きなんて自分で作るものなんだな。「弁当はもう届けたから、私は先に戻るね」そう言って、初芽は加津也に別れを告げた。彼も一瞬呆気に取られたが、それ以上は何も言わなかった。加津也は「海ヶ峰建築株式会社」に目をつけ、情報を集めるうちに「神垣伊澄」という人物の存在を知った。「神垣伊澄......?」秘書がここ数日で調べたことを、余すことなく加津也に伝えた。「はい。表向きには二川紗雪と仲が良いみたいなんですが、彼女は入社当初から二川グループと関係のあるプロジェクトを担当したがってたようです」「しかも多くの案件は、二川グループから奪い取ったものだとか。この会社、もともと二川グループとは犬猿の仲だったらしいです」その話を細かく聞き終わったあと、加津也の目は輝き始めた。この神垣伊澄って、まさに彼が探していた適任者じゃないか。しかも会社の条件も申し分ない。彼にとっては「運命の人」にすら見えてきた。「この神垣伊澄に連絡を取ってくれ。彼女の詳細が知りたい」秘書がうなずいた。「わかりました」秘書が部屋を出たあと、加津也はようやく仮面を外した。鋭い目つきで一点を見据え、心の中で呟いた「お前がそんな非情だというのなら、俺ももう容赦しないから」......その頃、紗雪は二川グループに戻っていた。朝の出来事を思い出すたびに、胸の奥がざわつく。加津也という男、どうしてああもしつこいのだろう。どこへ行っても、まるでストーカーのように現れる。今ではもう、あの三年間がただの冗談に思えてきた。それどころか、目まで曇っていた気がする。そこに円が報告に来た。けれど、紗雪の様子に気づき、クスッと笑った。「紗雪、どうしたの?朝からずっとぼんやりしてるよ。紗雪らしくないなぁ」紗雪は、ぼやけていた視線にようやく焦点を戻し、バツの悪そうな笑みを浮かべた。「ううん、何でもないよ。仕事の話、続けて。聞いてるから」円は不安げな表情を崩さず、慎重に尋ねた。「朝の件、気にしてるの?」「えっ。なんでわかった?」紗雪
彼女は思ってもみなかった。加津也が会社で「マネージャーをやっている」とは、こういう意味だったなんて。ただオフィスの椅子に座っていれば、誰かが企画書や資料を全部持ってきてくれる。そして彼がやることといえば、それに目を通してチェックを入れるだけ。その光景を見た初芽は、思わず眉をひそめた。これで偉そうにしてたわけ?一時は彼のことを「すごい人かも」なんて思っていた自分の審美眼が信じられなくなる。この男、本当に自分が選んだ相手?肩書きがひとつあるだけで、顔以外何も持たないこの男が?そのとき、加津也がふと顔を上げ、ドア口に立っている弁当箱を持った初芽に気づいた。すぐに姿勢を正し、真面目な顔で言った。「せっかく来たのに、そんなとこで突っ立ってないで早く入ってよ」「今度からは直接中に入っても構わない。俺のドアはいつだって君のために開いてるから」その言葉を聞いた社員たちは、すぐに空気を読んでそそくさと席を立ち、部屋を後にした。初芽は唇を引き結びながら、静かに微笑んだ。何も言わない。「昨日、かなり疲れたみたいだから。今日は加津也の好きな料理を作ってきたんだ。少しでも元気出るといいなと思って」加津也は弁当箱を受け取り、その笑顔はどんどん大きくなっていく。「さすが初芽、気が利くな」初芽は甘えるように微笑みながら、「こんなの当たり前だよ」と優しく返す。彼女はよく分かっていた。男がどんな女を好むか。だから、こういうやりとりも慣れたものだった。そして加津也は、典型的な女性差別のタイプ。こうして人前で「俺の女がこんなにも気が利く」と示されることが、彼にとっては最高の満足だった。部下たちは顔を見合わせながら、心の中で叫ぶ。時には目を潰して仕事した方が精神衛生にいいかもしれない。初芽は床に散らばっていた資料を拾い上げた。「焦らなくていいよ。ゆっくりやればいいんだから」「この資料、案外使えるかもしれないよ」加津也は眉をしかめ、少し不機嫌そうに言った。「もう全部目を通した。......使えるもんなんてなかった」「じゃなきゃ、俺がここまで頭を抱えてるはずないだろ」初芽は専門的なことは分からなかったが、彼が何に悩んでいるかくらいは分かった。彼女は手に取った資料を何気なくパラパラとめく
行動?いいだろう、見せてやるよ。どんな実際の行動を取れるかを。加津也は深く息を吸い、周囲を見回した。誰一人その場を離れていなかった。その光景に彼の中の怒りが一気に燃え上がる。「何見てんだよ、お前ら!やることがないのか!」「そんなに暇なのか!」その態度に、雇われたエキストラたちの我慢も限界だった。一人、また一人と彼の前に出てきて言う。「まだギャラもらってませんけど?」「そうだよ、最初に話した額、こっちはまだ一銭ももらってないんだぞ」「まさか踏み倒すつもりじゃないでしょうね?」その一言で、加津也は一気にブチ切れる。「踏み倒すわけないだろ!バカにしてるのか!」けれど、周囲の人々はその言葉に反応し、彼を見る目に疑念の色が浮かんでくる。最初は「あの男、ちょっと可哀想かもな」なんて思っていた者もいたが、今では完全に見方が変わっていた。どうやら、すべては彼のせいだったようだ。この男、同情する価値なんてなかった。そう思っているのはエキストラたちだけじゃない。道行く一般人も同じだった。今日、加津也の評判は地に堕ちた。しかも、それは一瞬のうちに、しかも大勢の目の前で。ここまで来ると、さすがに彼もギャラを払わないわけにはいかない。しぶしぶエキストラたちを連れて現場を後にし、その場には面食らったままの見物人たちだけが残された。最初は何が起きたのか理解できなかったが、冷たい風が吹き抜けたとき、ようやく現実を飲み込んだようだった。一方で、加津也は二川グループのビルの前を去ると、そのままエキストラたちのギャラを一括で支払った。彼らを片付けた後、ようやく落ち着いてこの数日の出来事を振り返り始めた。どうやら二川紗雪という人間は、自分が思っていた以上に厄介な存在らしい。別れた後、彼女に一体何があったのかは知らない。けれど、今の彼女はまるで別人のように冷酷で、容赦がなかった。あの紗雪が、なぜ変わったのか。以前の彼女は、こんな性格じゃなかったはずだ。彼はふと、紗雪に言われた言葉を思い出す。「言うだけなら誰でもできる。行動で示してみなよ」その言葉が脳内にこだまする。拳を握りしめる。血管が浮き出た手の甲は、今にも何かを壊しそうなほどに力が入っていた。毎回運よく危機
「前に俺が小物の嘘を信じたのが間違いだったんだ。今はもう完全に目が覚めた。今回来たのは、君に許してもらいたかったからだ」会社のビルの前で二人がこんな騒ぎを起こしているせいで、いつの間にか周囲には大勢の人が集まっていた。事情を知らない者たちは拍手をしながら囃し立て始める。「許してあげて。許してあげて!」歓声があちこちから上がり、加津也の顔にはますます満足げな笑みが浮かんだ。実は、この中には彼が雇ったエキストラも混じっていて、雰囲気を盛り上げる役目を担っていた。これだけ大勢の前で、世論の圧力を前にして、紗雪が断れるはずがない。それにここは彼女の会社の正面だ。これが会社の株価に影響するようなことになれば、それこそ損失では済まされない。紗雪の弱点を握っている自信があるからこそ、加津也はこんなことができたのだ。彼は賭けていた。紗雪は絶対にこんな場所で自分の顔を潰したりしないと。彼は紗雪の性格を熟知していた。気が弱く、誰かを怒らせるのを極端に嫌がるタイプだと。だからこれだけの人前で、彼女が拒否するはずがないと。そう、思っていた。しかし次の瞬間、その予想は盛大に裏切られることになる。しかも、本当に「顔面」を叩きつけられた。紗雪は一切迷うことなく、加津也の顔をビンタした。打たれた衝撃で彼の顔は横を向き、顔に残っていた笑みが固まったまま、彼が雇ったエキストラたちを呆然と見つめる。ちょ、これ、台本と違くないか?「お前、死にたいのか?」怒りに任せて加津也が手を上げ返そうとする。だが、紗雪は素早くその手首を掴み、完全に動きを封じた。周囲の視線が一斉に集まり、加津也は一瞬怯んだように顔を引きつらせる。「放せよ、紗雪!何するんだ!」声を抑え気味なのは、周りの人に聞かれたくなかったからだ。自分のイメージに関わる。だが、紗雪はそんな彼の声を無視して口を開く。「そのセリフ、こっちが聞きたいんだけど?」「......どういう意味だ」「エキストラと一緒にここで私を待ち伏せして、一体何がしたかったわけ?」そう言いながら、彼女は掴んでいた手を勢いよく振り払った。その力に押された加津也はよろけ、倒れそうになりながらなんとか踏みとどまった。その光景に、人々の表情が徐々に曇っていく。
匠は京弥の様子を見て、内心少し驚いていた。外でこんな姿の社長を見るのは初めてだったし、何とも言えない気分だった。普段彼が知っている京弥は冷静で強く、野心的で、感情を表に出すことはない人物。だから今回のことも、やっぱり二川さんが原因なのだろうか?「社長、ちょっと飲みすぎじゃないですか?今日はもうこの辺で......?」匠は思い切って、酒を控えるように進言した。だが京弥は黒い瞳を鋭く光らせて言った。「呼び出したのは無駄話をさせるためじゃない」そのままカウンターを指さす。仕方なく、匠はため息をついて、文句ひとつ言わずにまた強い酒を取りに行った。どうせ自分はただの雇われ人で、給料を出してるのは目の前のこの人なのだ。結局、匠はその夜ずっと京弥の隣で付き合う羽目になった。時折自分も一口飲みながら、「こんな社長の下でよく今まで生きてこられたな」としみじみ感じていた。京弥の心は鬱々としていた。紗雪の態度がどうしてこうも冷たくなったり熱くなったりするのか、まったく理解できなかったのだ。......翌日、紗雪は車を運転して会社へ向かった。一睡もしておらず、顔色はやや疲れ気味。今日は少しでも印象を良くするために、わざわざナチュラルメイクを施していた。会社のビルの下に着いたとき、彼女は大きなバラの花束を抱えている加津也の姿を見かけた。その姿を見た瞬間、紗雪の心には理由もなく苛立ちが湧き上がってきた。無視してそのまま通り過ぎようとしたが、彼はわざわざ彼女の目の前に立ちふさがった。ついに我慢の限界に達した紗雪は、語気を強めて言った。「何が目的?今から仕事なの。前に警察に突っ込まれて、まだ反省してないわけ?」その言葉を聞いた瞬間、加津也の顔から笑みが少し消えた。触れられたくない過去を思い出してしまったのだ。あの時、弁護士を通じて早く出られるはずだった。なにしろ父親にとっては大きな面汚しだったから。だが、なぜか警察は強硬に彼を二、三日勾留し、それからようやく釈放した。やっとの思いで出てきた後、西山父からは「二度と問題を起こすな」と何度も釘を刺された。西山家の顔に泥を塗るな、と。だが、加津也は違う考えだった。西山家の御曹司が警察に留め置かれるほどの力を紗雪が持っていたとした
「どきなさいよ!」紗雪は京弥を押しのけようとしたが、男女の力の差はあまりにも大きかった。どれだけ頑張っても、男は彼女の上にまるで根を張ったように動こうともしない。やがて紗雪は力尽き、抵抗の動きもだんだん小さくなっていった。その隙をついて、京弥は彼女の両手をひとまとめにして頭上へと押さえつける。紗雪は大きな瞳を見開いて、怒ったように言った。「何をするの!?離してよ!」京弥は紗雪の耳元で低く囁いた。「さっちゃんは、わかってるのくせに......俺たちは夫婦なんだよ?」「嫌よ、放して!」これから何が起きるのか想像するだけで、紗雪はますます激しく抵抗した。そんな彼女を見て、京弥の心に傷がつく。それでも、あまりに激しく暴れる紗雪を見て、彼女を傷つけたくないという思いから、仕方なく手を離した。「一体どうしたんだ......ちゃんと話してくれないか」この時、どれだけ彼が傷ついているか、戸惑っているか、紗雪には言葉の端々から伝わってきた。「何もないわ。もう出てって。疲れたの」紗雪はそのまま突き放すように言い、自分の気持ちを一切伝えようとはしなかった。彼女の胸の中には、ひたすら自嘲の念が渦巻いていた。どうせあの男は伊澄を家に連れ込んだんだから、何が起きてもおかしくないじゃないか。それにあの子は、彼の理想の初恋なんでしょう?だったら、今さら何を気に病む必要があるの?そう思い至ったとき、紗雪は自分をぶん殴りたいくらいだった。なぜそこまで意地になってしまったのか、彼女自身にも分からなかった。京弥は、何も言わず顔を背けた紗雪を見つめ、そのまま何も言えずに部屋を出て行った。男が出て行ったあと、女はまるで糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。さっきの出来事を思い返すたびに、胸の奥が震える。好きな人がいるなら、なぜ最初から自分と結婚なんかした?なぜ中途半端の優しさをくれるの?紗雪にはその答えがどうしても分からなかった。そして、誰にもその答えを教えてもらえなかった。京弥は部屋を出たあと、主寝室には戻らず、そのまま車に乗って屋敷を出て行った。客間で寝ていた伊澄は、車のエンジン音を聞いて、口元に満足げな笑みを浮かべる。「やっぱりね。紗雪、あんたはきっと我慢できないと思っ
どれくらいその場に立ち尽くしていたのか、自分でも分からないまま、伊澄は呟いた。「信じられない......私は絶対に、あの頃の関係に戻ってみせる。私たちこそが一番だってこと、証明してやるわ」「前はあんなに好きだったのに......どうして?なんで前みたいになれないの?一体何が変わったというの......?」伊澄の顔に浮かぶ表情は徐々に歪み、先ほどまで京弥の前で見せていた従順さは跡形もなく消え失せていた。彼女の全身には陰鬱な雰囲気がまとわりついていた。一方、京弥は部屋へと戻り、ゲストルームの前を通りかかった時、中から微かに物音が聞こえた気がした。彼はふと立ち止まり、何か違和感を覚えた。扉を開けると、案の定、中では紗雪がシャワーを浴びていた。その光景に男の目がすっと細くなり、喉仏が色っぽく上下に動いた。ただ、彼が中へと足を踏み入れようとしたその時、ふと、思い出してしまった。彼女は、昔の態度とはまるで違った。そもそも、どうして急にゲストルームで寝ることにしたんだ?考えれば考えるほど、頭の中には答えが浮かばない。ちょうどその時、シャワーを終えた紗雪が出てきて、リビングに立っている京弥の姿を目にした。彼女はバスローブを羽織ったまま、一瞬何が起きているのか分からずに固まった。「出てって。もう寝るから」その表情には何の感情も読み取れず、声も淡々としていた。京弥は眉をピクリと上げた。やっと分かった。これは間違いなく怒っている。「どうしたんだ、さっちゃん?昨日までは普通だったじゃないか」男は一歩、また一歩と彼女に近づいていく。その大きな体が天井の灯りを遮り、影が紗雪の頭上に落ちる。彼女の身体はより一層、小さく見えた。京弥の困ったような顔を見ても、紗雪はぴくりとも動じなかった。「おかしなことを言うね。私のことなんてもう放っておいて」冷ややかな視線で彼を見上げると、美しい白目をひとつくれてやり、ドライヤーを取ろうとした。もう、彼にかまう気はない。しかし、京弥は気を利かせたつもりで、ドライヤーを手に取ると「俺がやるよ、さっちゃん」と言いながらスイッチに手をかけた。その様子に、紗雪の表情はついに完全に冷えきった。「要らないって言ってるでしょ」「さっさと出てって。こんなことして
男は部屋のドアに背を向けていたため、紗雪が外に立ち、すべてを見ていたことに気づかなかった。伊澄は視界の隅で紗雪の存在に気づいており、目が一瞬光を帯び、褒め言葉のトーンがますます大きくなる。紗雪はゆっくりと拳を握りしめ、最後まで何も言わずその場を立ち去った。よく見れば、その目には冷たい光が宿っていた。伊澄の視線は常に紗雪の様子を探っており、彼女が去っていくのを確認すると、口元に浮かぶ笑みがゆっくりと広がった。京弥は不機嫌そうに言った。「プロジェクトの話をするなら、それだけにして。近づくな」そう言いながら、体を右にずらす。伊澄は目的を果たしたと感じていた。京弥が距離を取りたがるなら、それで構わない。さっきの様子を紗雪がすでに見ていたのだから。「次から気をつけるよ」伊澄は素直に答える。その従順さを見て、京弥は少し目を細め、逆に違和感を覚えた。だが、どこに違和感があるのか、自分でもはっきりとは言えなかった。「他にわからないところはある?」素直な態度に、京弥もこれ以上は何も言えなかった。伊澄は小さく首を振った。「もう大丈夫。ありがとう、京弥兄。全部わかったよ」京弥は「そう」とだけ返事をし、立ち上がって部屋を出ていこうとした。本来なら、彼は伊澄にこれらを教えるつもりはなかったが、相手がしつこく頼んできたため、仕方なく彼女の部屋に入り、プロジェクトの説明をすることになった。それに、以前に伊吹が頼んできたことも思い出した。なにせ彼女は唯一の妹だ。ここに来てまで冷たくあしらうのも気が引ける。もしこの件を伊吹に報告されたら、自分も説明がつかなくなるし、両方に気を遣わなければならない。そのとき、プロジェクトの内容をざっと見たが、特に難しいところもなく、軽く指導する程度で済んだ。それが、先ほどの出来事の発端だった。伊澄は京弥の背中を見送りながら、今回は特に引き止めなかった。彼女の目的はすでに達成されていたのだから。紗雪があの一幕を目にして、なお京弥との関係を続けようとするはずがない。以前のように仲良くできるなんて、あり得ない。伊澄はその点に大きな自信を持っていた。ここ数日紗雪と接してきたことで、彼女の性格がどんなものかも、ある程度掴めていた。伊澄は笑顔で言った。