清那は兄を気の毒に思いながらも、どうすることもできなかった。「兄さん......そんな顔してるってことは、紗雪、まだ目を覚ましてないの?」その言葉を聞いた途端、京弥の怒りは爆発しそうになった。国外で彼女を見守る間、彼は毎日、自分に言い聞かせていた。紗雪は必ず目を覚ます、もうすぐだ、大丈夫だ......と。だが、それはただの自己暗示に過ぎなかった。まさか清那が来て、いきなり彼の胸の一番痛いところを抉るとは。京弥の顔色は一気に険しくなり、もう清那に何も言いたくなかった。その横で、日向が口を開いた。「一体何なんだ。遠いところからわざわざ来たのに、入ることすら許されないのか」思い返すと、日向の怒りも抑えきれなくなった。こんなにも時間が経っているのに、京弥には一片の罪悪感も見えない。「最初は、紗雪のことはちゃんと面倒見るって言ってたよな?それなのに......この有様は何なんだ」冷たい表情の京弥を見れば見るほど、日向の怒りはさらに膨れ上がる。「この期に及んで、まだ一ミリも悪いと思ってないわけ?」その言葉が、京弥の怒りに火をつけた。「事情も知らないくせに、勝手なことを言うな」眉間に深い皺を刻み、日向の無神経な態度にますます苛立ちが募る。そして矛先は清那へと向けられた。「だから、こんな得体の知れないやつ連れてくるなって。何回言ったら分かるんだ?」声はどんどん大きくなり、病室の外には人だかりができ始めた。こんな修羅場、そうそう見られるものじゃない。しかも、日向も京弥も並外れて整った顔立ちをしているせいで、野次馬の興味はさらにかき立てられる。二人のイケメン、いったい何で喧嘩してるんだ?好奇心に駆られた人々は、病室の外をぐるりと取り囲んだ。データを調べていたジェイソンが外に出てきたとき、目の前の光景に完全に固まった。さっきまで我慢していた便意さえ、一瞬で吹き飛ぶ。どういうことだ?たった数分前まで静かだったのに、どうして外がこんなことに......?驚きで喉が鳴り、目を見開いたまま、次にどうすればいいのか分からなかった。京弥に怒鳴られた清那の胸には、さらに深い悲しみが広がった。家ではずっと姫のように大切にされてきた彼女。なのに、どうしてこんな扱いを受けなきゃならない
このわずかなプライドと体面を、京弥は細心の注意を払って守ろうとしていた。紗雪を、誰にも傷つけさせないために。京弥に即座に拒絶され、清那の胸はひどく痛んだ。遠くからはるばるやって来たというのに、親友の顔さえ見られないなんて。清那は目を伏せ、涙が瞳の中で揺れた。その姿を見た日向もまた、胸が締めつけられるように苦しかった。こんなに優しい清那に、なぜ京弥はそこまで冷たくできるんだ?ここまで遠くから来たのに、なぜ彼だけがこんな扱いを受けなきゃならない?そう思えば思うほど、日向の胸には苛立ちが募った。彼は清那の背後から一歩踏み出した。突然のことに清那は大きく目を見開き、慌てて首を横に振って合図する。衝動的にならないで。兄がどういう性格か、清那はよく分かっていた。だが、日向には京弥のこの横柄な態度がどうしても我慢ならなかった。皆が紗雪を心配して来ているのに、なぜこんな風に突き放されなければならないのか。「どういうつもりだ」日向がそう言い放つと、京弥はさらに苛立ちを露わにした。全身から荒々しい気配が溢れ出す。「まだ懲りてないのか?」遠慮もなく、清那の目の前でその一件を口にした。その言葉を聞いた清那は、信じられないという顔で日向を見つめた。どうして?前に会ったとき、こんなこと一言も言わなかったのに。もし知っていたら、絶対に日向を連れて来たりしなかったのに。なるほど、だから兄はこんなに怒っていたのか。二人の間に、すでに何かあったのだ。そう思うと、清那はひどく頭が痛くなった。どうして自分は、こういう厄介ごとにばかり巻き込まれるんだろう。正直、もう関わりたくない。心が疲れ切ってしまう。紗雪を見舞いに来ただけなのに。京弥の口から出ると、まるで騒ぎを起こしに来たように聞こえる。そう考えると、日向の胸中はさらに不快感で満たされた。とくに、京弥の得意げな顔を見ると、余計に腹立たしくなった。「お前は一体、何がしたいんだ?」日向の声も低く沈む。どれほど温厚な人間でも、京弥のように礼を欠いた態度を取られれば、さすがに堪忍袋の緒も切れる。二人の間に漂う空気は一触即発。その真ん中に立たされた清那は、耐えきれず叫んだ。「やめてよ!ここ病院よ?二人とも、いい
幼い頃の清那は、怖さのあまり、普段よりもう一杯ご飯を食べられるほどだった。大人たちはその様子を見て、ますます京弥を気に入るようになった。清那をきちんと叱ることができるだけでなく、勉強も成績優秀、あらゆる面で完璧だった。それだけではなく、容姿も抜群で、幼い頃から周囲の大人たちに好かれていた。大人たちの目には、京弥はまさに「理想の子供」であり、彼らの口から出る褒め言葉は、もはや神格化されるほどだった。長い年月が経っても、清那の心に刻まれた京弥の影は、日ごとに深まっていった。だからこそ、彼女は親友の紗雪のことを心から「勇者」だと思っていた。あの人と結婚するなんて勇気ありすぎる。しかも、あの京弥をここまで従わせるなんて。時には、本気で親友から秘訣を教わりたいと思うことさえあった。京弥の視線は鋭く、清那の挨拶にも「ああ」とだけ返した。一目見ただけで、日向がどうやってここまで来たのか察した。明らかに、清那という考えなしの子に付いて来たのだろう。京弥は遠慮なく問い返した。「そいつを連れてきて、何のつもりだ」清那は言葉に詰まり、泣きたい気持ちでいっぱいになった。兄さん、声が怖すぎる......どう答えればいいのよ......?日向がすっと前に出て言った。「僕が松尾さんに頼んだんだ。彼女を責めないでくれ」京弥は日向に一瞥すらくれず、冷たく言い放った。「俺はいま彼女に話してる。口を挟むな」京弥の冷たい態度に、清那も珍しく反発心を覚えた。どこから湧いたのか分からない感情が、一気に頭にのぼったのだ。「兄さん、この人は私の友達よ。紗雪を見舞いに来ただけ。私と紗雪は親友なんだから、問題ないでしょ?」清那は日向の前に立ちふさがり、その庇う気持ちは明らかだった。その様子を見て、京弥は逆に可笑しささえ覚えた。「まだ数日しか経ってないのに、もう俺よりそっちを庇うのか?」その言葉に、清那の顔は一気に真っ赤になった。さらに京弥は畳み掛ける。「どうしてもその『友達』と一緒に来たいなら、もう少しおとなしくしてろ」「友達」の二文字を強調し、ひときわ冷たい声で吐き出した。清那の目には涙が浮かんだ。兄はいったい何を言いたい?なんで日向にこんなに冷たい?不憫な清那は、二人の間に何があ
ジェイソンたちが事情を把握できなかったのも無理はない。なぜなら、普通の人間はあの薬の存在に結びつけることすらない。そもそもあれは禁止薬物であり、市場に流通するはずもない。それに、あまりにも残酷で、生きた人間に使われるなんて考えられないものだった。よほど深い憎しみでもなければ、ジェイソンがそこに思い至ることなどない。だからこそ、彼も彼のチームも、その薬のことなど最初から想定していなかった。そのせいで研究の進展や方向性はずっとずれたままで、成果もほとんど上がらなかった。京弥の表情が日に日に険しくなるのを見て、ジェイソンもまた頭を抱えていた。食事の時間ですら、京弥のそばには近寄らない。怒りの矛先が自分に向くのを恐れていたのだ。目を合わせることこそ避けたが、やるべき仕事は一切手を抜かず、紗雪のデータを一日中解析し続けていた。そうしていれば、たとえ京弥が怒りたくても、ぶつける相手はいない。ジェイソンの重圧は、すべて京弥の放つ気迫と視線から来るものだった。ここ数日で、どれだけ髪の毛が抜けたかも分からないほどだ。それでも研究は一向に進展せず、彼自身も焦りを募らせていた。これほど時間が経っているのに、なぜ解明できないのか。ジェイソンは、京弥が彼女を国外へ連れ出したことを後悔し始めていた。しかし、すでに口にした以上、簡単に撤回するわけにはいかない。自分が蒔いた種は、自分で刈り取るしかないのだ。京弥が紗雪のベッドのそばに付き添っていると、外からノックの音と聞き慣れた声がした。「ここで合ってるかな?」続いて男の声が響く。「僕にもさっぱり......」京弥の瞳が鋭く光った。この男、国外にまでついてくるとは。まったく、何て度胸だ。今までの警告を耳にもかけなかったということか。そう思うと、京弥の胸に苛立ちが込み上げた。この数日の怒りが、まるで発散先を見つけたかのように。外では清那が頭を掻きながら言った。「まあ......そうだよね。私ですら分からなかったもの」日向は清那の呑気さに呆れ、笑うに笑えなかった。飛行機を降りて病院まで来たというのに、まだ状況が飲み込めていないのか?京弥がドアを開けたとき、二人はまだ口喧嘩のようなやり取りを続けていた。清那は事前に考えて
しかし、彼の観察によれば、この二人の距離感はさほど親密でもなく、むしろ常に安全な間隔を保っていた。それにしても、駆け落ちカップルが、よりによって病院に来るというのか?運転手がさらに質問しようとする前に、緒莉と辰琉の姿はすでに消えていた。仕方なく、運転手は金を受け取り、この厄介な場所から車を出した。まあ、自分はただの運転手だ。道中の世間話にすぎないのだから、深入りする必要などない。そう思うと、彼の気持ちは一気に楽になり、来るときのような緊張や刺激はもうなかった。その頃、緒莉と辰琉はずっと張り詰めたまま、清那の後ろをぴったりついて歩いていた。一瞬でも気を抜けば、二人を見失ってしまうのではないかと恐れていたのだ。受付の女性は、この奇妙な四人組を見て心の中で首をかしげたが、何も言えなかった。特に後ろの二人は、前の二人をこそこそと尾行しているように見える。この四人、知り合いなのだろうか?緒莉はずっと辰琉の腕を引き、彼が迷わないように気を配っていた。もしはぐれたら、あとのことは全部自分一人でやらなければならないからだ。緒莉は隙を見て辰琉の肩を軽く叩き、目線で例の薬剤を持ってきたかどうかを問うた。辰琉はすぐにその意図を理解し、うなずいた。「ああ、持ってきた」それを聞いた緒莉は、ようやく胸を撫で下ろした。なぜだろう。紗雪が京弥に連れられて海外に行ってから、もう自分の目の届くところにいない。それ以来、彼女は不安と恐怖を覚えるようになっていた。おそらく、それはもう自分の掌から事態が離れつつあると感じているからだろう。そう考えると、緒莉の心には苛立ちが募った。そもそも、この京弥という男は一体何者なのだろう?紗雪の転院を決めたとき、彼は恐れなかったのか?そのせいで紗雪が二度と目を覚まさなくなるかもしれないというのに。だが緒莉の知らぬところで、京弥はむしろ紗雪が目を覚まさないことよりも、彼女を失うことの方を恐れていた。京弥は、紗雪の誇りを誰よりも理解していた。だからこそ、こんな手段を選んだのだ。ベッドに横たわることは、紗雪にとって生き地獄に等しい。かつて広い世界と輝く未来を知ってしまった彼女にとって、今のこの暗闇の中で眠り続けることは、未来を完全に失うのと同じだった。病
彼はその場で一気に気合いが入ったように言った。「心配するな。この件は俺に任せろ。すぐに追いつかせてやる」その言葉を聞いた緒莉の心は、ようやく少し落ち着いた。辰琉は崇拝するような目で緒莉を見つめた。まさか、この女が嘘をつくときに一度も瞬きもせず、しかも口を開けばすぐに出てくるとは思わなかった。そんな状況を思うと、辰琉はやはり少なからず衝撃を受けていた。彼は緒莉に肯定の視線を送ったが、相手は眉をひとつ跳ね上げただけで、特に何も言わなかった。しかし、それが辰琉への返答でもあった。もし後々、辰琉がまだ使えると思わなければ、緒莉は最初からこの男を連れ出すことなど絶対にしなかっただろう。肝心な時に、ことをこなせるのはやはり自分だけだ。だが、これから先の危険なことに関しては、辰琉に任せればいい。緒莉はすでに心の中でそう計算していた。その後、緒莉と辰琉は無事に日向と清那の後を追いついた。運転手は事情を詳しく知った後、まさに飛ばすように車を走らせ、先ほどのようにためらうこともなかった。彼の心にあるのはただ一つ――火の中にいる少女を救い出し、彼女を迷いから引き戻すことだった。なぜなら、彼にも娘がいる。こうした不良たちが今日女の子をさらったなら、明日には自分の娘が狙われるかもしれない。目的地に着いたとき、ちょうど緒莉は清那と日向が車から降りるところを見た。二人は紗雪に一刻も早く会いたいあまり、ホテルに寄ることすらせず、直接病院に来ていた。それは、まさに緒莉の思惑どおりだった。清那や日向だけではなく、彼女自身もまた、一刻も早く紗雪に会いたかった。その女は、できることなら以前のように眠ったままで目を覚まさない方がいい。そうなれば、みんなにとって万々歳だ。余計な心を砕く必要もなく、紗雪を再び眠らせる方法を考える必要もない。薬は一度分でも高価で、そのうえ注射しなければならず、リスクも大きい。今回、その薬がどれくらい持つのか分からないため、緒莉は必ず注射を打ち、ついでに紗雪の様子を確かめるつもりだった。たとえ実の妹であっても、行く手を阻む者は皆、死ぬべきだ。長年の間に、緒莉は完全なる利己主義者に成長していた。誰一人として、この信念を打ち砕くことはできない。だからこそ、彼女はずっと