そのことを理解した秘書は、再び自分の仕事に取り掛かり始めた。彼がこんなにも気を使っているのを見て、京弥は心の底から一抹の喜びを感じた。どうやら、この秘書は少しは分別があるようだ。部屋にいる紗雪は、秘書か他の社員だろうと思い、あまり考えずに口を開いた。「入って」声を聞いた京弥は、迷うことなくドアを開けて入った。デスクにいる秘書と円は、顔を見合わせて好奇心から疑問に思った。この時間に、京弥が紗雪を訪ねてきたのは一体何のためだろう。とにかく、しばらく見かけなかった京弥が自ら積極的に紗雪を訪ねてくるなんて、驚きだった。京弥が入ってくると、紗雪は机に向かって急いで何かを書いていた。彼が入ってきたことにも気づかず、頭をあまり上げることなく言った。「何か用事があるなら、直接言って」紗雪は足音を聞いて、その人物がすでにオフィスに入っていることを察知したため、こう言った。京弥は意図的に黙っていた。紗雪がいつ気づくかを待っていた。紗雪はしばらく待ったが、誰も何も言わないことに少し不思議に思った。オフィスに入ってからこんなに経っているのに、何も言わないなんてどういうことだろう。疑問を抱えながら顔を上げ、ついに見覚えのある顔を見て、眉をひそめた。「どうしてあなたがここに?」その言葉を聞いて、京弥は眉をひとつ上げた。彼は紗雪がどんな反応をするかいろいろ考えていたが、まさかこんな反応が返ってくるとは思っていなかった。この反応には本当に驚かされた。「それがどうした?」京弥はゆっくりと紗雪に近づき、腕を紗雪の両脇に押し付け、身をすっぽりと彼女の前に立てた。後ろから見れば、まるで彼女を抱きかかえるような形になっていた。「俺がここにいるって、そんなに驚くことなのか?」紗雪は後ろに体を反らせ、二人の距離を引き離した。「別に、ただ、突然来るのはちょっと意外だなって」紗雪は意図的に距離を取って言った。「それに、あなたには他にもやるべきことがあるんじゃないの?どうして急に二川グループに来たの?」紗雪はあの日、椎名のことをどうしても思い出してしまった。あの男の冷たい態度が、今でも深く心に刻まれていた。他の人たちが見ていたにもかかわらず、目の前のこの男は、彼女に一切の配慮も示さなかった。
京弥は何も言わず、ただ一歩一歩紗雪へと近づいてきた。紗雪が異変に気づいたときには、すでに彼女はオフィスチェアと京弥の間に閉じ込められていた。逃げ場などどこにもない、まるでまな板の上の魚のように、なすがままだった。紗雪は手を伸ばして京弥の胸を押しとどめた。「何をするつもり?」「ここはオフィスよ、ふざけないで」京弥は手を伸ばして彼女の手首を掴んだ。大きな手にすっぽりと包まれた小さな手が、紗雪をますます小さく、愛らしく見せた。「俺がどうしてここにいるか、一番分かってるのは奥様の方だろ?」紗雪は頭の中が疑問符でいっぱいになった。京弥が何を言いたいのか、さっぱり分からない。「どういう意味?」京弥は紗雪の耳元に顔を寄せ、甘い吐息を吹きかけながら囁いた。「俺がさっちゃんに会いたかったからだよ」「さっちゃん、俺たちもうずっと......」その先は言葉にしなかったが、彼の手は自然と紗雪の腰に回り、彼女が倒れないように支えた。細い腰を抱き寄せると、二人の距離はさらに縮まる。特に、タイトなビジネススーツに身を包んだ紗雪の胸元の柔らかな感触が、京弥の硬い胸板に押し付けられる。その柔らかな感触に、京弥は思わず息を詰めた。どうやら、彼の身体は紗雪をさらに求めているらしい。紗雪の頬にもほんのりと赤みが差した。「は、放して、何するの......」「ここはオフィスなのよ、まさか......」自分でも信じられない思いでそう問いかけた。本当にこんなことをするつもりなのか。「そうだよ、君が思ってる通りだ」その一言で、紗雪の瞳が大きく見開かれた。京弥は紗雪を抱き上げるそぶりを見せた。入ってきた時から、このオフィスに休憩室があることには目をつけていた。なら、問題ないだろう。だが、紗雪は抵抗した。あの日、彼が冷たかったことを思い出したのだ。今日こうして迫ってくるのは、あの日の埋め合わせのつもりなのか?彼女の頭は混乱して、答えを出す間もなく、京弥に担がれるようにして休憩室へと連れて行かれてしまった。「本気なの?」紗雪の問いに、京弥は低く「うん」と答え、瞳はさらに深く暗く染まった。今回こそ、彼女に自分の気持ちを証明してみせる。ここまで来ても、まだ冗談だと思うなんて、やっ
この瞬間の紗雪は、何も考えず、ただ目の前の男だけを見つめていた。認めざるを得なかった。京弥は、彼女の美的感覚に完璧に刺さる存在だった。もし相手が別の誰かだったなら、きっとこんなにも自然に受け入れることはできなかっただろう。京弥は紗雪の感情の変化に気づき、さらに情熱を込めて動きを強めた。二人の心が乱れ、空気が甘く色づき始めたその時。突然、鋭いベルの音が空気を切り裂き、甘美な雰囲気を打ち壊した。京弥は驚いて体を震わせ、紗雪の瞳にも一瞬にして冷静さが戻った。彼女は京弥を見やり、明らかに不機嫌さを滲ませた声で言った。「電話、鳴ってるよ」京弥はかすれた声で答えた。「放っておけ」電話はしばらく鳴り続けた後、ようやく切れた。二人はほぼ同時に、ほっと安堵の息を漏らした。京弥は再び続きをしようとした。だが、またしてもベルが鳴り響いた。さすがに二人の興が大きく削がれてしまった。京弥は眉間に不快感をにじませたが、着信相手を見て、仕方なく電話を取った。「......ああ、わかった。あとで教えるから」紗雪は隣で横たわりながら、電話越しに聞こえてくる声に耳を澄ませた。その声は、あまりにも聞き覚えがあった。八木沢伊澄。間違いない。相手が誰か分かった瞬間、紗雪の心に苦い痛みが広がった。結局、彼女は京弥にとって何なのだろう?こうして二人の関係の最中に、他人からの電話に遮られるような間柄で。この先も、同じようなことが繰り返されるのではないか。そんな不安が、紗雪を深く蝕んでいった。彼女が思考に沈んでいる間に、京弥は電話を切ろうとしていた。「とりあえずそういうことで。あまり心配するな」彼は適当に慰めの言葉をかけると、電話を一方的に切った。そしてまた紗雪に手を伸ばし、続きを始めようとした。だが、その時にはもう、紗雪の心はすっかり冷めていた。彼女は男の手を振り払うと、不機嫌そうな顔で体を起こした。その目に映った京弥の整った顔立ち。そして思い出したのは、伊澄のあの挑発的な笑みだった。紗雪は深く息を吸い込んだ。だが、それでも胸の痛みはどうしても拭えなかった。どうして。自分はもう悲しまないと、あんなにも誓ったのに。なぜ、こんな感情がまだ湧き上がってくるのだろう?
ただ今、紗雪は、自分の心の中で何かが確かに変わってしまったことを、認めざるを得なかった。だからこそ、京弥を見るたびに、どうしても感情を抑えきれなくなる。人間とは本来そういうものだ。感情を抑えきれないからこそ、欲しいものがどんどん増えていく。紗雪は必死に自分に言い聞かせた。彼にはすでに初恋がいる、自分はただの道具にすぎない、と。なのに、どうして無駄に本気になろうとするのか、と。感情というものは、そもそも大勝負だ。先に本気になったほうが負けなのだ。加津也の一件で、まだ学ばなかったというのか?そう思うと、紗雪は自分の目を潰したくなるほどだった。彼女は込み上げる不快感を必死に抑え、目の前の書類に意識を集中させた。土地の件もまだ進展がないのに、感情ごときでつまずいていられない。京弥が服を整えて部屋から出てきたとき、紗雪はすでに書類に目を通していた。彼女は無表情で、縁なしのメガネをかけ、精緻な小さな顔には感情の起伏が見えず、ただ真剣なだけだった。京弥は薄い唇を引き結び、紗雪ときちんと話す決意をした。せっかくここまで来たのだ、何も得られずに帰るわけにはいかない。「さっちゃん、さっきは......」声をかけた途端、紗雪は顔も上げずに遮った。「椎名さん、特に用がないなら、お帰りください」「さっちゃん、お願いだ。ちゃんと話し合おう?」椎名さん。その呼び方は、鋭く京弥の心を刺した。以前の紗雪なら、絶対にそんなふうに呼ばなかった。その言葉に、紗雪もようやくパソコンから顔を上げた。鋭い視線で京弥を見据え、冷たく言い放つ。「椎名さん、同じことを言わせないで。私の時間は限られてる。さっきのことは、互いに同意の上、正式で合法的なもの。これ以上蒸し返さないで」「他のことにも興味はありません。忙しいので」それだけ言うと、再びパソコンの画面へ視線を戻した。その頑なな態度に、京弥もこれ以上居座ることをためらった。紗雪の性格をある程度知っている彼は、これ以上押しても、彼女の機嫌と忍耐を無駄に試すだけだと分かっていた。結局、京弥は諦めて、オフィスを後にするしかなかった。扉が閉まった後、紗雪はようやく全身の力を抜き、椅子にぐったりと身を預けた。彼女はため息をつきながらスクリーンを見
この曖昧な一言で、たちまち皆の興味は最高潮に達した。みんなは京弥を見る目に、どこか含みを持たせるようになった。だが、秘書だけは違和感を覚えた。この男の発言、妙に含みがある。こんなことを言えば、オフィスの中で何があったかなんて、誰だって察してしまうではないか。秘書が追いかけて確認しようとした時には、京弥はすでにエレベーターで降りてしまっていた。結局、秘書は諦めるしかなかった。それでも、さっき京弥が言った「会長は疲れている」という言葉を思い出し、とりあえず今日はそっとしておこうと判断した。しかし、その頃、会長である紗雪はというと、まったく仕事が手につかない状態だった。仕方なく、彼女はターゲットを取引先に切り替えることにした。会って話をすれば、情に訴えることができる。そう考えていたからこそ、紗雪は常に対面での打ち合わせを重視していた。結局、友人たちに何度も頼み込んで、ようやくジョンとの連絡先を手に入れた。当初、ジョンは紗雪と連絡を取ることに乗り気ではなかった。彼は海外で自分の会社を持ち、二川グループのことなど聞いたこともなかったのだ。紗雪も、その点は十分に理解していた。二川グループは確かに鳴り城では一定の地位を築いているが、国際的に見れば、まったく無名と言っていい。だからこそ、紗雪は海外進出を目指していた。二川グループの国際的な知名度を上げるためにも。紗雪はジョンと話す際、常に慎重だった。頭の中で何度も言葉を練ってから送信する。「初めまして、ジョンさん。以前から海外でのご活躍を伺っており、大変尊敬しております」ジョンも礼儀正しく返信した。「とんでもありません。些細なことばかりで、お恥ずかしい限りです」「ずっとお目にかかりたいと思っておりました。近々、鳴り城でパーティーがございます。もしお時間が許すようでしたら、ご参加いただけませんでしょうか」このメッセージを見て、ジョンはしばし固まった。銅色の肌に、わずかに迷いの色が浮かぶ。彼はずっと海外でビジネスをしており、国内市場への進出も考えてはいた。しかし、国内展開のパートナーに二川グループを選ぶことなど、一度も検討したことがなかった。もし紗雪が連絡してこなければ、彼女の名前すら知らなかっただろう。ジョンは、
今の二川グループの発展の勢いは、かつてとは比べ物にならなかった。紗雪は資料をきちんと整理し、それを一つのファイルにまとめてジョンに送った。さらに一言メッセージを添えた。「ジョンさん、どうか私にチャンスをください。必ずご期待に応えます」その頃、ジョンは食事中だったため、もともとは紗雪の連絡を無視するつもりだった。だが、紗雪の送った内容が彼にとって非常に興味を引くものだったため、心を掻き乱されるような思いに駆られた。何度も躊躇いながらも、気付けばファイルを開いていた。「相手がファイルを受信しました」という表示を見た紗雪は、すでに半分は成功したと確信した。案の定、三十分後にジョンからメッセージが届いた。「二川さん、うちの秘書によると、あの日は予定が空いているそうです。必ず時間通りに伺います」ジョンからの返信を見た紗雪は、口元に一層深い笑みを浮かべた。彼女には確信があった。ジョンは必ず来る、と。紗雪はわざと十数分ほど待ってから返信を送ることにした。時には緩急をつけることが肝心だ。あまりに急ぎすぎると、こちらが必死に取り繕っているように見える。主導権を相手に握らせるのは時に必要だが、ずっと握らせ続けるわけにはいかない。これこそが二川グループに入って以来、紗雪が最も学んだ重要な教訓だった。さらにしばらくしてから、紗雪はゆったりと返信した。「はい。場所を改めてお送りしますね」対するジョンもすぐに「OK」のハンドサインのスタンプを送り、二人は友好的なやりとりを交わした。具体的にどんな話をしたかは、二人だけの秘密だった。ジョンとの連絡を終えると、紗雪は次に控えるパーティーの準備について考え始めた。どうせ人を招待するのなら、ジョン一人だけでは物足りない。紗雪は、鳴り城でも名の知れた企業の代表たちを招待するつもりだった。彼らの多くはすでに二川グループと取引関係がある。だからこそ、彼らに招待状を送る意味があった。最初、美月は紗雪の行動を少し不思議に思った。だが、紗雪の説明を聞いて納得した。「会長、パーティーを開くのは確かに手間も時間もかかります。でも、もし成功すれば、二川グループの名を一気に高めることができます」紗雪は一拍置き、続けた。「それに、今回のパーティーは特に
この二川紗雪は、どうやってジョンをこのパーティーに招待したのだろうか?周囲の人々は、羨望と困惑の入り混じった視線を紗雪に向けた。美月もまた少し驚いていた。もともと、あのプロジェクトが却下されたと聞いて、紗雪もきっと諦めるだろうと思っていた。まさか、彼女はまったく諦めておらず、裏で海外企業のディレクターと連絡を取っていたとは。美月は美しい目を細め、紗雪を見つめるその瞳には、深い賞賛の色が浮かんでいた。どうやら、彼女はまったく諦める気などなかったのだ。全員に期待されなくても、彼女にはまだ、自分自身がいる。美月はようやく悟った。この娘は、自分が信じたものをそう簡単には手放さないのだと。たとえ僅かな希望でも、決して逃さない。そう考えると、美月の心も穏やかになった。娘に向上心があるなら、それだけで十分だ。無理に何かを求める必要はない。これまで多くのことを経験してきた美月は、すでに心境の変化を遂げていた。今この瞬間、すべての視線は紗雪とジョンに注がれていた。紗雪はジョンに近づき、真剣な表情で紹介した。「ジョンさん、これがあなたを鳴り城にお招きする第一歩です」「このパーティーは私が用意したものです。ジョンさんを歓迎するための宴でもあります。私の誠意を感じていただければ嬉しいです」ジョンは微笑みながら軽く頷いた。「本当に気が利くですね。二川グループとの協力については真剣に考えさせてもらいますよ」二人のやり取りを聞いた周囲の人々は、口が閉じられないほど驚いていた。なるほど、だから紗雪はパーティーを開いたのか。これほどの出来事なら、当然だろう。しかも、ジョンは海外企業の著名な人物であり、彼と提携できれば、二川グループの名前を一気に広めることにもなる。その事実を理解したからこそ、人々の視線はますます熱を帯びていった。緒莉は群衆の中に立っていた。華やかな衣装に身を包み、精緻なメイクを施していた。紗雪が現れる前は、皆の視線は間違いなく緒莉に向けられていた。だが、紗雪とジョンが一緒に現れた瞬間、そのすべてが一変した。本来自分に向けられるはずだった注目は、今すべて紗雪に奪われていた。美月の目に浮かぶ、紗雪への認める色も、彼女はしっかりと見逃さなかった。緒莉の隣には辰琉が
辰琉は未練がましく紗雪から視線を外し、緒莉に向かって慰めるように言った。「いってらっしゃい。ここで待ってるから」緒莉は素直にうなずき、バッグを手にトイレへ向かった。鏡に映った自分の顔を見た瞬間、彼女は思わず身を引いた。鏡に映るこの醜い顔は、本当に自分なのか?もっと注目されたい。それだけだったのに、それがそんなにいけないことなのか?すべては紗雪のせいだ。あの女がいなければ、自分がこんな嫉妬深く醜くなることなんてなかったはずだ。「海外のプロジェクトを手に入れたいって?」緒莉は真っ赤な唇を吊り上げた。「安心して。あんたが欲しいだというのなら、絶対に渡さないわ」彼女は顔に浮かんだ醜悪な笑みを消し去り、落ち着き払った様子で高級ブランドのリップを取り出して化粧を直した。トイレから出てきた時には、再び輝くようなオーラをまとった緒莉に戻っていた。7センチのハイヒールを履いた彼女は、まるで別人のような気品を纏っていた。そんな緒莉を見た辰琉は、少し戸惑いを覚えた。たったトイレに行っただけなのに、なんでこんなに変わったんだ?「どうしたの?」緒莉は辰琉のじっとした視線を受け止め、くすりと笑いながら尋ねた。辰琉はすぐに我に返り、「いや、なんでもない。ただ、今日の君はすごく綺麗だなって」と答えた。緒莉は心の中で冷笑した。さっきまであんなに紗雪ばかり見ていたくせに。「こんなに長く一緒にいるのに、なんで急に......」緒莉はわざと恥ずかしそうに顔を赤らめた。その仕草を見て、辰琉の中に残っていたわずかな違和感も完全に消えた。一方その頃、紗雪はジョンを連れて、出席者たちの前に立った。そして堂々と紹介を始めた。「本日は、二川グループのパーティーにお越しいただき、誠にありがとうございます。本日の主役は、こちらにいらっしゃるLC社のディレクター、ジョンさんです」紗雪は手を伸ばし、ジョンを紹介した。ジョンもにこやかに会釈し、「皆さん、初めまして。ジョンです」と挨拶した。紗雪はさらに続けた。「ジョンさんのことは、皆さんもご存知でしょう。彼は海外でもいくつもの大きなプロジェクトを成功させた方です。皆さんも耳にしたことがあるはずです」紗雪の言葉に、ジョンは少し恥ずかしそうな顔をしたが、心
紗雪はすぐに美月の意図を理解した。今回もまた、完全に緒莉をかばっているのだ。紗雪は腕を組みながら、少し目を細めて言った。「母さんは、今回もまた彼女を助けるつもり?」何度も繰り返されているのに、どうして母はまだ気づかないのだろう?美月は気にする様子もなく言った。「私はただ事実を言っただけよ。それに、緒莉のこと、ちゃんと処罰すると言ったでしょう」そして、さらに言い添えた。「それに、このプロジェクト、もう手に入れたんじゃない?」「冗談じゃないわ!」紗雪は美月の無関心に、少し怒りを覚えた。彼女は無関心そうに見えるが、実はすべてを知っているのだ。わかっていて、知らないふりをしているだけだ。美月は紗雪が不満を抱えているのを感じ取って、彼女の横顔を見ながら言った。「大丈夫よ、さっちゃん」「あとは私に任せなさい。今日は紗雪が好きな料理を作るから、ね?」紗雪は立ち上がった美月を見て、急いで歩み寄った。「いいよそんなの。しなくてもいいの」「母さんは座って休んでいて。料理は使用人に適当に作らせればいいんじゃない」美月は強く断言した。「だめよ、私が作ると言ったら作るの。他の人に頼む必要がないわ」そう言って、美月は台所に向かい、手際よく夕食の準備を始めた。紗雪は、母親が忙しく動いている背中を見ながら、胸が少し苦しくなった。緒莉のことを話すたびに、母親はあれこれ理由をつけて彼女を庇ってばかりだった。証拠を見ても、せいぜい口頭で軽く叱るだけ。そのことを考えると、紗雪は胸の中で何かが詰まったような気がした。食事の間、美月は絶えず紗雪に料理を取ってあげ、にこやかに言った。「もっと食べなさい。最近、プロジェクトにかかりきりで、少し痩せたんじゃない?」「ありがとう」紗雪はその食事の間、ほとんど話す暇もなかった。彼女が箸を止めるたびに、美月はすぐに気づいて料理を追加してくれる。結局、紗雪は他のことを話す隙間もなく、早めに食事を切り上げるしかなかった。紗雪は美月に別れを告げると、美月が少し引き止めた。「本当に一晩は泊まらないの?」紗雪は手を振って言った。「ううん。彼が待ってるから、帰らないと」そう言うと、紗雪は車を走らせて帰路についた。紗雪が帰った後、しばらくし
翌日、紗雪はこの件を考えれば考えるほど、ますます不快になった。特に、あのパーティーで緒莉があんなに攻撃的だったことを思い出すと、気持ちが収まらなかった。紗雪は怒りが収まらず、仕事を終えるとすぐに二川家に向かった。彼女は、もう耐えられなかった。緒莉はどんどん調子に乗っていた。あんなに傲慢な態度、もう見過ごせない。以前は何度か我慢したが、今回は、目の前で彼女と彼女の客を恥をかかせるようなことをされたのだ。今回は、紗雪も我慢できなかった。仕事が終わると、彼女はコピーしたビデオを手に、車で二川家に向かっていた。二川家に到着すると、ちょうど美月がソファに座って、顔からメガネを外そうとしているところだった。美月は紗雪を見ると、少し驚いた様子で言った。「紗雪?どうして帰ってきたの?」この娘のことについては、もちろん美月も知っている。紗雪は部屋を見渡し、緒莉がいないことに気づき、少し疑問を抱いた。「母さん、緒莉は?」「何を言ってるの!」美月は顔をしかめて言った。「緒莉はあなたの姉でしょう?ちゃんと『姉さん』って呼んで」紗雪は冷笑を浮かべて言った。「姉?私にはそんな姉はいないわ。私を邪魔することしか考えてないし、あの人」美月は眉をひそめ、紗雪をじっと見た。「その言い方は何?普通に喋りなさい」美月は平然と前の茶を一口飲み、落ち着いた様子を見せた。その態度は、焦った紗雪の様子とは対照的だった。紗雪は美月のその落ち着きが気に入らず、思い切って言った。「でははっきり言わせてもらうわ。もし緒莉が昨日あんなことをしなければ、もっと早く契約を結べたはず。でも、彼女のせいで、せっかくお招きした客がほぼ逃しかけた」紗雪は空いている椅子に座り、足を組んで、美月をじっと見ながら語った。今回は、美月が一体どっちの味方をするのか、すごく興味があった。美月は紗雪の目に含まれる含み笑いに気づき、思わず息を呑んだ。もちろん、紗雪が何を言いたいのかは分かっていた。緒莉がその犯人だなんて、美月はどうしても信じられなかった。「言うことには証拠があるの?」この言葉を聞いた紗雪は立ち上がり、美月に容赦なく言った。「分かった。証拠が見たいというのね、じゃあ見せましょう」紗雪はすでに悟っていた。
この瞬間、傷ついていたのは緒莉ただ一人だった。誰も彼女のことを気に留める者はいなかった。皆、紗雪が無事に客との契約を成功させたことを祝っていた。なにしろ、相手は海外でも有名な会社だ。誰の目にも、これは偉業の達成だった。辰琉も、みじめな緒莉を見たが、助けに行こうとはしなかった。大勢の目があるこの場面で、彼の視線には、ただ輝かしい紗雪の姿しか映っていなかった。スポットライトの下、紗雪とジョンは互いに握手を交わしていた。ここに、二川グループは国際化への第一歩を踏み出し、まさに新たな世界の扉を開けたのだった。辰琉の瞳には、舞台で光り輝く紗雪だけが映っていた。一方、髪を乱した緒莉は、対照的に、まるで狂人のように見えた。辰琉は、この場から逃げ出したかった。だが無情にも、緒莉に見つかってしまった。緒莉は力なく呼びかけた。「辰琉......病院に連れてって......」辰琉は目を閉じ、聞こえないふりをしようとした。その態度を見た緒莉は、怒りで顔が歪んだ。彼らは婚約者同士だというのに、この男は一体何をしているんだ?「辰琉!どこに行くつもりなの!」彼女が大声で叫ぶと、会場中の視線が一斉に辰琉に注がれた。こうなってしまっては、もう逃げることもできない。辰琉自身、まるですべての力を失ったかのようだった。この様子を見て、紗雪は心の中で可笑しさを堪えきれなかった。たとえこちらが関わる気がなくても、向こうから勝手に騒ぎを起こしてくる。一方的に退いても、相手はそれを「恐れている」と勘違いするだけだ。その後、ジョンが尋ねた。「騒いでいたあの女性のこと、知ってる?」「ええ、知っています。彼女は私の実の姉です」紗雪は苦笑を浮かべた。こんなこと、誰が信じるだろうか。実の姉が、妹の会社の成功すら許せないなんて。この言葉を聞いたジョンは、紗雪との契約が正しかったと確信した。敵がたった一人の姉だけなら、恐れるに足りない。彼はさらに安心して紗雪と手を組む気になった。「よくわかりました」ジョンは紗雪に手を差し出した。「二川さんと協力できることを嬉しく思います。これから素晴らしい未来を築きましょう」紗雪は赤い唇を弧を描くように持ち上げ、百花繚乱のような笑みを浮かべた。
しかし緒莉の一言で、ジョンはまた迷い始めた。契約を結ぶだけなのに、なぜこんなに面倒なのか?周りの人たちも、少し苛立った目で緒莉を見た。どうして毎回肝心な場面で、この女は邪魔をしてくるのか?一体何を考えているのだろう?ジョンの顔色もあからさまに悪くなり、テーブルにペンを放り投げると、質すような口調で言った。「二川さん、一体どういうつもりですか?」「わざわざ来てやったのに、こんな扱いを受けるとは思いませんでしたよ。私は誠意を持って来たんです、それなのに......」何度も話を遮られ、さらに大勢の人に注目される中で、ジョンは面目を潰されたと感じていた。もともと、彼はこのパーティーで多くの人々が紗雪に対して好意的だったことから、二川グループを選ぶのも悪くないと考えていた。しかし今となっては、その判断は誤りだったのではないかと思い始めていた。何しろ、彼はまだ二川グループについて十分な調査をしていなかった。そしてこうして問題が次々と起こる現状を見ると、その不安はより現実味を帯びた。紗雪は、怒りを露わにするジョンを見つめながらも、冷静に状況を把握していた。彼がなぜ怒っているのかも、十分に理解していた。彼女は鋭い視線を緒莉に向けると、すぐにジョンに向き直り、落ち着いた声でなだめた。「私からきちんとご説明いたします」「このお嬢さんの言っていることについては、すべて証拠を持っています。彼女が言っているのは嘘ですし、ネットでの噂もすでに完全に否定され、大きな騒動にもなっておりません」「本当か?」ジョンはなお不満げに紗雪を見た。「二川さん、私がここに来たのは、あなたを信じたからです」「あなたが誠実な方だと思ったからこそ、チャンスを与えようと思ったんです。でも、あなたはどうですか?」ジョンは声を上げた。「二川さんも知っているでしょう?私は二川グループの名前に惹かれたわけではないんです。我々LCと提携したがっている会社は山ほどあります」「はい、それはもちろん」紗雪は微笑みながら頭を下げた。彼女は改めて、今後絶対に問題を起こさないこと、誰にも邪魔をさせないことを誓った。ようやく、ジョンも満足した様子でペンを取り上げ、正式に契約書にサインをした。これにより、紗雪が率いる二川グループは、つ
「これは紗雪個人の事情でしょう?わざわざ持ち出して話す意味があるの?」その言葉に、場にいた皆が紗雪に疑問の目を向けた。確かに、どうしてわざわざここで?まさか、見せびらかすためか?そう思ったのはジョンも同じだった。紗雪という人間、こんなに目的が透けて見えるやり方をするものなのか?一方、美月は宴が半ばに差し掛かった頃、電話で呼び出され、すでに会場を後にしていた。それもあって、緒莉はこれだけ大勢の前で紗雪に難癖をつける気になったのだ。美月がいたなら、さすがに多少は我慢していたかもしれない。だが、美月がいなくなった今、緒莉の心には抑えきれない怒りがふつふつと湧き上がり、どうにかして紗雪の計画を台無しにしてやろうと考えた。緒莉の言葉を受け、ジョンの視線もまた紗雪へと向けられた。もし本当にそうなら、契約を見直した方がいいかもしれない。商売人なら誰しも腹に一物はあるものだ。だが、それをこうもあからさまに見せるのは、賢いやり方とは言えない。そう思ったジョンは、今後の協力にも悪影響が出るかもしれないと懸念し始めた。そんな彼の視線を受け、紗雪はすぐにジョンの考えを察した。緒莉もまた、堪えきれず笑い出しそうになった。ほらね、紗雪。あんたなんて、ただ今まで誰にも暴かれなかっただけ。その化けの皮を削ぎ落してやるわ!辰琉は常に緒莉の様子を見ていた。さっき彼女が人前で話していたときの、得意げで傲慢な表情を見逃してはいない。紗雪はジョンに向かって、申し訳なさそうに言った。「ジョンさん、私の話を聞いてもらえますか?」その誠実な瞳を見て、ジョンは小さくため息をついた。「......ああ。どうぞ」海外から来るにあたって、ジョンは紗雪について深く調べたわけではなかった。だが、これまでの紗雪の細やかな配慮が、決して作り物ではなかったことも確かだと感じていた。紗雪は一度深呼吸をし、場の皆に向き直って言った。「ここまで来たからには、私の考えを皆さんにお伝えします」「今日このパーティーを開いた最大の目的は、皆さんに証人になってもらうためです」「証人」という言葉に、場の空気が一気に引き締まった。人は噂話が大好きだ。ざわざわとした小声が会場に満ちる。「どういうことだ?」「ただのパ
辰琉は未練がましく紗雪から視線を外し、緒莉に向かって慰めるように言った。「いってらっしゃい。ここで待ってるから」緒莉は素直にうなずき、バッグを手にトイレへ向かった。鏡に映った自分の顔を見た瞬間、彼女は思わず身を引いた。鏡に映るこの醜い顔は、本当に自分なのか?もっと注目されたい。それだけだったのに、それがそんなにいけないことなのか?すべては紗雪のせいだ。あの女がいなければ、自分がこんな嫉妬深く醜くなることなんてなかったはずだ。「海外のプロジェクトを手に入れたいって?」緒莉は真っ赤な唇を吊り上げた。「安心して。あんたが欲しいだというのなら、絶対に渡さないわ」彼女は顔に浮かんだ醜悪な笑みを消し去り、落ち着き払った様子で高級ブランドのリップを取り出して化粧を直した。トイレから出てきた時には、再び輝くようなオーラをまとった緒莉に戻っていた。7センチのハイヒールを履いた彼女は、まるで別人のような気品を纏っていた。そんな緒莉を見た辰琉は、少し戸惑いを覚えた。たったトイレに行っただけなのに、なんでこんなに変わったんだ?「どうしたの?」緒莉は辰琉のじっとした視線を受け止め、くすりと笑いながら尋ねた。辰琉はすぐに我に返り、「いや、なんでもない。ただ、今日の君はすごく綺麗だなって」と答えた。緒莉は心の中で冷笑した。さっきまであんなに紗雪ばかり見ていたくせに。「こんなに長く一緒にいるのに、なんで急に......」緒莉はわざと恥ずかしそうに顔を赤らめた。その仕草を見て、辰琉の中に残っていたわずかな違和感も完全に消えた。一方その頃、紗雪はジョンを連れて、出席者たちの前に立った。そして堂々と紹介を始めた。「本日は、二川グループのパーティーにお越しいただき、誠にありがとうございます。本日の主役は、こちらにいらっしゃるLC社のディレクター、ジョンさんです」紗雪は手を伸ばし、ジョンを紹介した。ジョンもにこやかに会釈し、「皆さん、初めまして。ジョンです」と挨拶した。紗雪はさらに続けた。「ジョンさんのことは、皆さんもご存知でしょう。彼は海外でもいくつもの大きなプロジェクトを成功させた方です。皆さんも耳にしたことがあるはずです」紗雪の言葉に、ジョンは少し恥ずかしそうな顔をしたが、心
この二川紗雪は、どうやってジョンをこのパーティーに招待したのだろうか?周囲の人々は、羨望と困惑の入り混じった視線を紗雪に向けた。美月もまた少し驚いていた。もともと、あのプロジェクトが却下されたと聞いて、紗雪もきっと諦めるだろうと思っていた。まさか、彼女はまったく諦めておらず、裏で海外企業のディレクターと連絡を取っていたとは。美月は美しい目を細め、紗雪を見つめるその瞳には、深い賞賛の色が浮かんでいた。どうやら、彼女はまったく諦める気などなかったのだ。全員に期待されなくても、彼女にはまだ、自分自身がいる。美月はようやく悟った。この娘は、自分が信じたものをそう簡単には手放さないのだと。たとえ僅かな希望でも、決して逃さない。そう考えると、美月の心も穏やかになった。娘に向上心があるなら、それだけで十分だ。無理に何かを求める必要はない。これまで多くのことを経験してきた美月は、すでに心境の変化を遂げていた。今この瞬間、すべての視線は紗雪とジョンに注がれていた。紗雪はジョンに近づき、真剣な表情で紹介した。「ジョンさん、これがあなたを鳴り城にお招きする第一歩です」「このパーティーは私が用意したものです。ジョンさんを歓迎するための宴でもあります。私の誠意を感じていただければ嬉しいです」ジョンは微笑みながら軽く頷いた。「本当に気が利くですね。二川グループとの協力については真剣に考えさせてもらいますよ」二人のやり取りを聞いた周囲の人々は、口が閉じられないほど驚いていた。なるほど、だから紗雪はパーティーを開いたのか。これほどの出来事なら、当然だろう。しかも、ジョンは海外企業の著名な人物であり、彼と提携できれば、二川グループの名前を一気に広めることにもなる。その事実を理解したからこそ、人々の視線はますます熱を帯びていった。緒莉は群衆の中に立っていた。華やかな衣装に身を包み、精緻なメイクを施していた。紗雪が現れる前は、皆の視線は間違いなく緒莉に向けられていた。だが、紗雪とジョンが一緒に現れた瞬間、そのすべてが一変した。本来自分に向けられるはずだった注目は、今すべて紗雪に奪われていた。美月の目に浮かぶ、紗雪への認める色も、彼女はしっかりと見逃さなかった。緒莉の隣には辰琉が
今の二川グループの発展の勢いは、かつてとは比べ物にならなかった。紗雪は資料をきちんと整理し、それを一つのファイルにまとめてジョンに送った。さらに一言メッセージを添えた。「ジョンさん、どうか私にチャンスをください。必ずご期待に応えます」その頃、ジョンは食事中だったため、もともとは紗雪の連絡を無視するつもりだった。だが、紗雪の送った内容が彼にとって非常に興味を引くものだったため、心を掻き乱されるような思いに駆られた。何度も躊躇いながらも、気付けばファイルを開いていた。「相手がファイルを受信しました」という表示を見た紗雪は、すでに半分は成功したと確信した。案の定、三十分後にジョンからメッセージが届いた。「二川さん、うちの秘書によると、あの日は予定が空いているそうです。必ず時間通りに伺います」ジョンからの返信を見た紗雪は、口元に一層深い笑みを浮かべた。彼女には確信があった。ジョンは必ず来る、と。紗雪はわざと十数分ほど待ってから返信を送ることにした。時には緩急をつけることが肝心だ。あまりに急ぎすぎると、こちらが必死に取り繕っているように見える。主導権を相手に握らせるのは時に必要だが、ずっと握らせ続けるわけにはいかない。これこそが二川グループに入って以来、紗雪が最も学んだ重要な教訓だった。さらにしばらくしてから、紗雪はゆったりと返信した。「はい。場所を改めてお送りしますね」対するジョンもすぐに「OK」のハンドサインのスタンプを送り、二人は友好的なやりとりを交わした。具体的にどんな話をしたかは、二人だけの秘密だった。ジョンとの連絡を終えると、紗雪は次に控えるパーティーの準備について考え始めた。どうせ人を招待するのなら、ジョン一人だけでは物足りない。紗雪は、鳴り城でも名の知れた企業の代表たちを招待するつもりだった。彼らの多くはすでに二川グループと取引関係がある。だからこそ、彼らに招待状を送る意味があった。最初、美月は紗雪の行動を少し不思議に思った。だが、紗雪の説明を聞いて納得した。「会長、パーティーを開くのは確かに手間も時間もかかります。でも、もし成功すれば、二川グループの名を一気に高めることができます」紗雪は一拍置き、続けた。「それに、今回のパーティーは特に
この曖昧な一言で、たちまち皆の興味は最高潮に達した。みんなは京弥を見る目に、どこか含みを持たせるようになった。だが、秘書だけは違和感を覚えた。この男の発言、妙に含みがある。こんなことを言えば、オフィスの中で何があったかなんて、誰だって察してしまうではないか。秘書が追いかけて確認しようとした時には、京弥はすでにエレベーターで降りてしまっていた。結局、秘書は諦めるしかなかった。それでも、さっき京弥が言った「会長は疲れている」という言葉を思い出し、とりあえず今日はそっとしておこうと判断した。しかし、その頃、会長である紗雪はというと、まったく仕事が手につかない状態だった。仕方なく、彼女はターゲットを取引先に切り替えることにした。会って話をすれば、情に訴えることができる。そう考えていたからこそ、紗雪は常に対面での打ち合わせを重視していた。結局、友人たちに何度も頼み込んで、ようやくジョンとの連絡先を手に入れた。当初、ジョンは紗雪と連絡を取ることに乗り気ではなかった。彼は海外で自分の会社を持ち、二川グループのことなど聞いたこともなかったのだ。紗雪も、その点は十分に理解していた。二川グループは確かに鳴り城では一定の地位を築いているが、国際的に見れば、まったく無名と言っていい。だからこそ、紗雪は海外進出を目指していた。二川グループの国際的な知名度を上げるためにも。紗雪はジョンと話す際、常に慎重だった。頭の中で何度も言葉を練ってから送信する。「初めまして、ジョンさん。以前から海外でのご活躍を伺っており、大変尊敬しております」ジョンも礼儀正しく返信した。「とんでもありません。些細なことばかりで、お恥ずかしい限りです」「ずっとお目にかかりたいと思っておりました。近々、鳴り城でパーティーがございます。もしお時間が許すようでしたら、ご参加いただけませんでしょうか」このメッセージを見て、ジョンはしばし固まった。銅色の肌に、わずかに迷いの色が浮かぶ。彼はずっと海外でビジネスをしており、国内市場への進出も考えてはいた。しかし、国内展開のパートナーに二川グループを選ぶことなど、一度も検討したことがなかった。もし紗雪が連絡してこなければ、彼女の名前すら知らなかっただろう。ジョンは、