Mag-log in「それに、私はもうほとんど回復してるわ。大した問題はないの」吉岡はまだ心配そうだった。「紗雪会長、今からそちらに伺います。今どこにいらっしゃるんですか?」紗雪は自分の手にある内線電話を見下ろし、相手の言葉を聞きながら、どうにも信じがたい気持ちになった。この人、本当に自分の部下なの?どうしてこんなに頭が回らないの?「ええと......」言いかけては止まり、何を言えばいいのか分からなかった。横でやり取りを見ていた京弥は、もうじれったくなってきた。どうしてこの二人、話すだけでこんなに手間取るんだ。紗雪も彼の視線に気づき、気まずさが胸に広がった。まさかこんなやり取りになるとは思っていなかったのだ。「今オフィスにいるから内線で電話したのよ」その言葉を聞いて、吉岡はやっと頭を叩いた。――そうだ、自分はさっき何を聞いてたんだ?本当にバカだ。「すみません、紗雪会長。すぐに伺います!」紗雪はもう一度念を押した。「この一か月の間で、給与に関わる大事な案件の資料を全部持ってきて」「分かりました!」吉岡の声には抑えきれない喜びが溢れていた。この一か月、彼は本当に苦しかった。疲労と寂しさに押し潰されそうになりながら、毎日指折り数えては、紗雪が戻る日を待ち続けていた。時には、こんなに踏ん張る意味があるのかとさえ思った。だが今、紗雪が帰ってきた。吉岡はようやく、この努力に意味があったと実感できた。電話を切ったあと、彼は嬉しさのあまり自分の腕をつねってみた。痛みを感じて、ようやく夢ではなく現実だと確信した。すぐにここ一か月分の資料を整え、紗雪のオフィスへ向かう。道すがら吉岡に会った人は、誰もが彼の機嫌の良さを感じ取った。挨拶を交わすたびに、吉岡の笑みは今にも溢れそうだった。「ご機嫌ですね、吉岡さん」吉岡は思った。今回の紗雪の帰還を自分にすら知らせなかったのは、きっと彼女なりの考えがあるのだろう。余計な口を挟んで彼女の計画を乱すのはやめておこう。そう考えて笑みを浮かべた。「ええ」そう言って吉岡は軽く会釈し、その場を立ち去ろうとした。「用事できたので、行ってくる」残された同僚たちは顔を見合わせ、首をかしげた。「何かあった?」「私に聞いても...
京弥のその言葉を、紗雪もきちんと受け止めていた。彼が願っているのは、この一か月の間、会社が何事もなく無事であること。誰にも狙われずにいられたらと。紗雪も同じ思いだった。意識を失う前は、会社のために全力を尽くしていた。だから一か月も昏睡していた今も、以前と同じ状態であってほしいと願わずにはいられなかった。何も変わらずにいてくれれば、それがみんなにとって一番良いことになる。それに、美月の体調も以前よりかなり悪くなっている。もし会社に何かあれば、彼女こそ真っ先に受け入れられないだろう。そう考えた紗雪は、すぐに内線を取り、吉岡を呼び出した。吉岡はちょうど会社の案件で忙しくしていた。紗雪が不在になってから、彼の仕事も一気に増えたのだ。他人に任せるのが心配で、ほとんどのことを自分の手で処理してきた。最初の頃は確かに大変で、考えるべきことも山積みだった。さらに紗雪の体調がいつ回復するかも気にかかり、一人で二人分の働きをしたいと思うこともあった。ようやく最近になって、美月が会社に戻り大局を仕切るようになり、加えて一人を解雇して見せしめとしたことで、社員たちも少しは従うようになった。それぞれが自分の立場を理解し始めたため、管理もしやすくなった。しかし所詮は一時しのぎであり、紗雪が戻らない以上、多くの人間は依然として吉岡に従う気がなかった。だからこそ、吉岡は自分の力を証明するために、リーダーとしての能力も含め、より多くのことを背負わざるを得なかった。そうして初めて、周囲に認めてもらえるのだ。そんな中、久しぶりに鳴り響いた内線電話に、吉岡は自分の耳を疑った。そのベルの音に、頭の中が「ガーン」と爆発したようになった。震える手を伸ばして受話器を取ろうとするが、どうしても現実感が持てない。この内線が鳴るのは、ほぼ一か月ぶりのことだ。一瞬、自分の幻聴ではないかとさえ思った。もし紗雪が戻ってきたなら、どうして自分に知らせてくれなかったのか。それでも「本当だといいな」と思い直し、吉岡は電話を取った。「もしもし、吉岡?」耳に届いた懐かしい声に、吉岡の目に一気に涙が滲んだ。勢いよく立ち上がったものの、どう反応していいか分からない。返事を待ちきれず、受話器の向こうの紗雪は不思議そうに京弥
誰かが鼻で笑うように二声立てた。「それは当然だろう、だってあの仕事中毒が戻ってきたんだからな」みんなも知っている。紗雪が一番好きなのは契約を結ぶことだった。いくつもの大型プロジェクトも、ほとんど彼女が一人で力ずくで取り付けてきたものだ。だが今では、それが放置されてしまっている。だからこそ、みんな心から惜しいと思っていた。しかも会社にプロジェクトさえあれば、彼らのボーナスも増える。こんな双方に得のある話、喜ばないはずがない。そんな議論も、紗雪には何の影響も与えなかった。彼女はいつものように自分のオフィスに向かう。目の前の懐かしい物を見て、ふと考え込んでしまい、瞳が潤んだ。昔のままの物にはほこり一つなく、床もピカピカに磨かれ、窓にも汚れはない。一目で、この部屋が頻繁に掃除されているのが分かった。掃除をしていた人が誰なのか、紗雪は考えるまでもなく分かっていた。あの抜けている秘書に決まっている。まったく、馬鹿なんだから。もう一か月も経っているのに。他にすることはいくらでもあるのに、毎日欠かさず掃除して、いつ主人が戻るかも分からない部屋を守り続けるなんて。京弥は一瞬で紗雪の心の内を察して、つい声を上げて笑った。「ほら、また泣いた。紗雪のそばにいる人たちはみんな、心から紗雪を慕ってる証拠。これはいいことなんだからさ」彼は握っていた手に力を込めた。「それに裏を返せば、紗雪が優れたリーダーだからこそ、みんな心からついてきてるんだよ」紗雪の涙は、彼の言葉でようやく引いていった。彼女は急に泣き笑いになり、鼻をこすりながら言った。「別に泣いてないわ。ただ感動しただけだから。どうも最近、敏感になってるみたい」京弥は優しく宥める。「はいはい、女の人なんだから感情的になるのは当然だよ。それは生まれ持った才能なんだから。もし心配なら、仕事が落ち着いたら一緒に検査に行こう」紗雪は頷いた。さすがに彼は気が回る。最初は検査なんて行くつもりはなかったが、よく考えると、この感情の揺れは確かに仕事に少し影響している気がした。「じゃあ、仕事が片付いたら一緒に行こう」彼女は椅子に腰を下ろし、きれいで懐かしい机を見つめる。心の奥から言葉にできない満足感が湧き上がった。以前はここで
彼女は再び自分の持ち場に戻り、真面目に仕事へと取りかかった。けれど精神状態は、さっきまでとはまるで違っていた。ずっと会いたかった人に会えたからだ。紗雪の顔は、本当に「絶世の美女」と呼べるほどの美貌。見ているだけで心が晴れやかになる。「これからも紗雪会長が健康で、毎日会社に来てくれますように。そうすれば毎日、この威厳あるお顔を拝めるんだから」そう思うと、受付の彼女は思わず笑い出しそうになった。通りすがりの人たちは、不思議そうな視線を向けてきた。だが彼女はまったく気にしない。彼らには彼女の喜びの意味など分かるはずがないからだ。わざわざ無知な人たちに説明する必要なんてない。自分だけが分かっていればそれでいい。未来の道は、自分の足で一歩ずつ歩いていけばいいのだから。そう思うと、彼女は上機嫌で鼻歌を歌い出した。その頃、京弥は紗雪と共に彼女のオフィスへと向かっていた。廊下を進むあいだ、多くの社員が紗雪に声をかけた。最初はごく自然な挨拶だった。以前から、彼らは紗雪にそうしてきたからだ。だが、彼女が実際に目の前を通り過ぎていくと、皆の顔に「何かおかしい」という色が浮かんだ。「なあ、さっき見た?俺の見間違いか?」誰かが堪えきれず口を開いた。すぐに別の社員が真剣な顔で返す。「いや、私も同じ見間違いをしてる」ほぼ一か月近く姿を消していた人間が、突然会社に現れるなんて。信じられない光景に、皆の間に驚きが広がった。彼らは頭の中で必死に思い返した。さっきの様子に何か矛盾があったかどうか。けれど、どれだけ考えてもおかしな点は見つからない。あの顔立ち、あの威厳ある雰囲気――それは誰にも真似できない。日頃から接しているからこそ、一目で紗雪だと分かった。「......なんで急に戻ってきたんだ?」「誰か、事前に知らせを受けてた?」皆が顔を見合わせる。そして一斉に首を振った。「いや?何も聞いてない」「そもそも紗雪会長が突然会社にいなくなった理由だって、知らされてなかっただろ」結局のところ、皆は「紗雪が突然戻ってきた」としか考えられなかった。それでも好奇心は残る。この一か月、彼女はどこにいたのか?会社ではいろいろな出来事が起こった。大変な時期です
彼女の表情は大げさすぎて、見ているだけで思わず笑いがこみ上げてくる。紗雪と京弥はふと視線を交わし、お互いの目の奥に笑みを見つけた。京弥は、紗雪が部下たちと楽しそうに接している姿を見て、本心から嬉しくなった。こんなふうに冗談を言い合える部下がいるということは、上司がきっと良い上司だからだ。そうでなければ、部下もこんな風に接するはずがない。皆が分かっていた。紗雪はこうしたことを決して気にしない人だと。だからこそ気軽に彼女をからかえる。そのおかげで、会社全体の雰囲気はとても和やかで明るいものになっていた。皆の目標は同じ。それは外に対して一致団結し、会社をより良く、より強くしていくことだった。紗雪は受付の柔らかな頭をぽんと撫で、少し甘やかすような口調で言った。「でもほら、こうしてちゃんと戻ってきたじゃない」「本当に心配だったんですよ。どこに行ってたんですか?」受付の彼女の声は、今にも泣き出しそうに震えていた。「この一か月、紗雪会長の美しい顔を見られなくて、毎日が本当に味気なくなってました」思わず愚痴がこぼれる。「体調が悪いとか、美月会長と揉めて辞めるんじゃないかとか......誰かと駆け落ちしたんじゃないかって......とにかく色んな噂が流れていました」最後の言葉になるにつれ、彼女の声はだんだん小さくなっていった。隣に京弥がいることに気づいたのだ。本人の目の前で「駆け落ちした」なんて、よくも言えたものだ。言った瞬間、彼女は自分の口を叩き、思わず自己制裁。紗雪が止める間もなく、泣きそうな顔で謝った。「すみません。今のは聞かなかったことにしてください。嬉しすぎて、つい余計なことを......」紗雪は首を横に振った。「大丈夫。ちゃんと分かってるわ。噂は噂、信じちゃだめよ。私はもう戻ってきたんだから、これからは安心して」彼女はくるりと回ってみせた。「ほら、私はこんなに元気じゃない。だから余計なことを気にする必要なんてないでしょ?」受付の彼女は、明るく笑う紗雪を見つめ、力強くうなずいた。「はい!私、必ずこのフロントを守ります。会社の顔は任せてください」紗雪も真剣に肩を叩いた。「さすが、頼りにしてるよ!じゃあ私はオフィスに行くから、ここはお願いね」「はい!」
以前、二川グループに問題が起きた時、もし彼が陰で解決していなければ、紗雪はそもそも彼にこの件を口にすることすらなかっただろう。それ以来、彼は紗雪の生活を密かに見守るようになった。何か助けが必要そうなら、自然に手を差し伸べてきた。紗雪は首を振り、少し困ったように口を開いた。「私もよく分からないの。昏睡から目を覚ましてから、自分の感情がすぐに大きくなってしまうの」その言葉を聞いた瞬間、京弥の胸にドクンと不安が走った。彼は恐れを感じ始めた。紗雪の様子がどうにも普通ではない気がして。今まで一度も見たことのない姿だったからだ。彼女は以前の彼女とは、やはりどこか違っていた。京弥の声には、重みがこもった。「さっちゃん、やはり今日は会社に行くのをやめて、病院で診てもらおう」彼はどうしても、これは薬の後遺症ではないかと思えて仕方なかった。今まで紗雪にこんなことはなかったのに、感情が急に大きく膨れ上がる姿に、彼自身が慣れずに戸惑っていた。だが紗雪は首を振った。せっかく会社まで来たのに、中に入らなければ今日という時間が無駄になってしまう。それに、これはあくまで感情の問題で、仕事の能力には影響しない。関係ないことだと彼女は思っていた。その気持ちを京弥に伝えると、彼はその場に立ち尽くし、少し呆然とした表情を浮かべた。だが最終的には、うなずいて同意した。「確かに。紗雪は会社のトップだ。もう一か月も顔を出していないし、そろそろ皆に会うべきだろう。こんなに時間が経ってしまったんだから」京弥は紗雪の手を強く握りしめた。「俺が一緒にいる。だから大丈夫」紗雪はこくりとうなずき、顔に笑みを広げていった。「ありがとう、京弥」――学生の頃、命を救ってくれた大切なお兄さん。京弥がいなければ、自分は一生、外の世界を見ることもなかった。紗雪は京弥を見つめ、目に愛情をにじませた。先ほどの思いを、心の中で静かに付け加えながら。彼女はいつか、このことを伝えるつもりでいた。本当は目覚めた時に言うはずだったのに、時間が経つうちに自分でも忘れてしまっていた。今さら急に切り出すのは、どうにも気恥ずかしく、ためらわれた。二人は互いにひとつの秘密を隠し合いながら、それでも暗黙の了解で通じ合っていた。やが