Share

第三話

last update Last Updated: 2025-02-05 11:33:16

 前日に叔母から念を押すように送られてきた、店と時間の連絡メッセージ。事務所設立15年を祝うパーティーは、石畳が敷き詰められた歩道に面した小さなレストランで開催される。結婚式の二次会でも重宝されそうな雰囲気の良い店。それを当日は夕方から貸し切りにするらしい。

 よく手入れされた鉢植えが店の前に並び、レンガ造り風の壁面にブラウンの屋根。遠目からはその一角だけがまるで童話の世界から抜け出してきたような、メルヘンチックな外観。控えめなベルの音を鳴らすドアを押し開けてみると、入口のすぐ前に控えていた男性がニコリと微笑みながら声を掛けてくる。

「咲月ちゃん、いらっしゃい」

「あ、立石さん。お久しぶりです」

「本当だ、久しぶり。今年に入ってからは初めてか、今年もよろしく。敦子さん、今は外にお客様の出迎えに行ってるんだけど、すぐ戻ってくると思うよ。あ、コートはこっちで預かるね」

 事務所の事務スタッフでもあり、叔母の事実婚の相手でもある立石は、流れるように咲月のことをエスコートしてくれる。物腰も柔らかで落ち着いてみえるが、敦子よりも一回り年下の30歳。叔母とは25歳の頃から一緒にいるのだから、元々から年上の女性が好きなのだろう。年下の咲月のことなんて眼中に無いという感じだ。

「敦子さんが戻ってきたら始まると思うから、それまではドリンクでも飲んでて。あ、もうお酒は飲める歳だったっけ?」

 立石の言葉に咲月が小さく頷き返したのを確かめると、ドリンクコーナーに並んだ飲み物から綺麗なピンク色の液体の入ったカクテルグラスを差し出してくる。

「ストロベリーフィズでいいかな? ご飯食べる前だから、一気に飲んじゃダメだよ」

 年下だからと完全に子ども扱い。きっとこういうところが、敦子が年齢を気にせずに彼と一緒に居られるんだといつも思う。立石にとって若い女の子というのは、全く恋愛対象にはならず、いつまで経っても子供にしか見えないのだ。

 以前に食事に来た時は等間隔で並んでいたテーブルと椅子は、今日の為に大きく配置を変えている。壁際にはビュッフェ形式で料理が並べられ、大きなフラワーアレンジメントで飾られたフロア中央のテーブルにはドリンクとデザートが乗っている。ゆっくり食事を楽しみたい人の為に椅子席もいくつか用意はされているが、基本的には立食スタイルみたいだ。

 立石がスタンバイしていた入口ドアの横には、招待客から贈られたらしき花束やアレンジメントがずらりと並べられている。

 ――仕事関係の人ばかりだって言ってたし、そういうものなのかな。

 今日ここにご飯を食べるつもりで来ているのは咲月くらいなんだろう。隅っこの空いている椅子を見つけて座ると、咲月は店の中をぐるりと見回した。立石以外にも知っている顔は何人かいたが、全て事務所関係者ばかりだ。あとは皆、弁護士である叔母の顧客なんだろうか。客同士で名刺交換をして談笑しているのも見え、パーティーなんて言っても仕事の一環で来ているのが丸わかりだ。

 スーツ姿の参加者ばかりの中、咲月一人がぽつんと浮いている感じだ。またネイビーのワンピを着てきたけれど、ジャケットでも羽織ってくれば良かったと少し後悔する。ま、何を着てようがまだ学生の咲月には、この社会経験が豊富そうな一団に馴染める訳はないけれど。

 一人だけ異質な咲月のことを、チラチラと気にして見てくる客も中にはいたが、あえて声を掛けて来ようとする人はいなかった。子供に話し掛けたところで、何の人脈にも繋がらないとでも思っているのだろう。

 チビチビと控えめに飲んでたつもりのストロベリーフィズが、グラス半分近くになった頃、店の前から聞き慣れた笑い声が届いてくる。

「あら、あの案件くらいなら私が入らなくても、今の社長のお力でしたら簡単になんとかなさるでしょう?」

「いえいえ、先生のお力添え無しでは、まだまだとても――」

 「またまたぁ」と上機嫌な笑みを浮かべながら、敦子は背の高い男性にエスコートされながら店内へと姿を見せる。今日は白のスーツで華やかさがアップしている。その隣にいる黒のスリーピースを着た男は手に大きなフラワーアレンジメントを抱えていたが、それは入口で待ち構えていた立石へと手渡していた。ピンクのバラが中心のアレンジメントの間に『H.D.O』という社名らしきプレートが見えた。

 敦子が到着したことで、店内にいた招待客達は一斉にこの場の主賓へと注目する。ここにいる人全員が、15年の仕事で叔母が築き上げてきた人脈なのかと思うと、急に敦子という存在が遠く感じてしまう。

 敦子は進行役のスタッフから受け取ったマイクでお礼の挨拶を述べた後、乾杯の音頭を取る。それぞれが手に持っているグラスを宙に掲げるタイミングで、奥の厨房からは湯気の立った出来立ての料理が追加で運ばれてくる。ようやくご飯が食べられると、咲月はビュッフェコーナーへ向かって椅子から立ち上がった。

「もう咲月ったら、こんな隅っこにいたの? ちょうどいいから、こっちへいらっしゃい」

 取り皿はどこかとキョロキョロしていると、客へ挨拶回りしていた敦子に見つかってしまった。腕を掴まれ、中央のテーブル前で話し込んでいる男性達の所へと連れていかれる。そこには敦子と一緒に店に来た黒のスリーピースの男性の姿もあった。開業当時から付き合いのある年配の顧客が多い中、この一角だけは少し若めで三人ともが立石と同世代くらいだろうか。新進気鋭の若手企業家といった風だ。

「あれ、先生、そんな大きなお嬢さんがいらっしゃったんですか?」

「やだ、違うわよー。この子は姪よ。でも、私にとっては可愛い娘みたいなものだけどね」

「あー、姪っ子さんかぁ、だから何となく雰囲気が似ておられるんですね」

「スタッフさんとは違う若い子がおられるなーとは思ってたんですよ」

 男性達は口々に咲月をネタにして会話を始める。年齢を聞かれて答えると、当然のように「4月からはどちらに?」と就職の予定について触れられてくる。この順風満帆を絵に描いたような社会人達を前にそんなこと言えるものかと、咲月は無言でヘラヘラと愛想笑いを浮かべて誤魔化そうと試みる。

 が、敦子が咲月の背をぐいっと押しながら、悪戯めいた表情を浮かべて速攻でバラしてしまう。

「この子、働く度に職場がなぜか倒産しちゃうのよね。4月から正社員として勤めることが決まっていた会社も、やっぱり潰れちゃったらしいのよ」

「へー、そんなことあるんですね?」

「ええ、こないだは内定を取り消しされたって落ち込んでて、とっても可哀そうなのよ。今は短期バイトしながら就職先を探し直してるところ。ね、ここにいらっしゃる社長さん達は業績も右肩上がりで勢いに乗ってらっしゃるでしょう? どなたか、力試しにうちの姪を雇ってみないかしら?」

 勤務する先が全て倒産という、ありがたくもないジンクスを聞かされた後だ。当然のように一同が咲月から目を背けていく。何も好き好んでそんな爆弾娘を抱えたいと思う経営者はいない。

 ただ、あの黒のスリーピース男だけが、「それは面白そうですね」と余裕ぶって微笑んでいたのが印象的だった。どちらにしても、咲月の不幸話を酒の肴にするのは失礼極まりない。

 敦子の悪ノリに、咲月はムッとした眼で叔母の顔を睨みつける。

「私、お料理いただいてきます」

「やだー、咲月。冗談だってばぁ」

 可愛がっている姪っ子の不貞腐れた顔に、敦子は慌てたように謝ってくる。挨拶回りするごとに客達と乾杯を繰り返していたのは、隅にいた咲月からもよく見えていた。今の叔母は完全に酔っ払いモードだ。悪酔いが過ぎる。パートナーの状況に気付いた立石が慌てて傍に駆け寄っていったので、もうこれ以上飲まされることはなさそうだけれど。

 ようやく辿り着いた料理コーナーで、咲月は肉料理を中心に皿へと盛っていく。怒った分、余計にお腹が減った気がする。今日は思い切り食べてやるぞと、お皿にめいいっぱい乗せまくった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • ジンクス・不運な私を拾ってくれたのは・   第四十六話

    「うーっす」 処理を終えたファイルを戻しに社長室を出ると、パソコンモニターから顔を上げた平沼がいつも通りの適当な挨拶をしてくる。週末にまた自転車で走っていたのか、少し日に焼けた顔に人懐っこい笑顔を乗せて。 ――やっぱり平沼さんはワンコ系だなぁ。 他人に警戒心を抱かさない、裏表を感じさせない平沼だけれど、社長室で羽柴からデザイン案をチェックして貰っている時はさすがに緊張して表情が強張っていることが多い。そういうところも知っているからこそ、彼に対しては嫌悪感は湧かない。分かり易いタイプは安心感がある。  その平沼がちょっと難しい表情になって咲月へと聞いてくる。「泉川さんってさ、今は笠井さんから引き継いだ事務がメインだろ? だったら前みたいにこっちにデスク戻した方が効率良くないの?」 両腕に抱えていたファイルを棚に片付けている咲月のことを、怪訝そうに見る。使う資料をわざわざ運んで行き来するのは面倒じゃないかと、心配してくれているみたいだった。「そう言えば、そうですよね……」 平沼に指摘される前にも、咲月だってそう思ったことが無いわけじゃない。確かに社長の補助業務よりも最近は一般事務の仕事の方が多い。重いファイルや資料は全てデスクスペースの壁面にある棚に保管されている。以前の笠井はここでその仕事をこなしていたのだから、それを引き継いだ咲月が社長室内にデスクを置いているのは不自然だ。「川上さん達が戻って来たら、デスク運ぶの手伝うよ」 「でも、先に社長に確認取ってみないと。何か考えがあるのかもしれないし」 「あー……社長かぁ、何だかんだ理由付けてダメだって言いそうだけど、泉川さん的にはこっちの方が仕事はやり易くない?」 咲月は室内を改めて見回して、頻繁に使う資料の大半がこちらにあることを確かめる。どちらでも仕事ができないわけじゃないけれど、効率的なのは断然にこちらの方だ。  特に今日は先週末のこともあって、羽柴の顔をまともに見ることができない。変に意識してしまうくらいなら、デスクを移動させてもらった方がいいんじゃないかとも思えてきた。「打ち合わせを終わられたら、聞いてみますね

  • ジンクス・不運な私を拾ってくれたのは・   第四十五話

     羽柴の言葉の真意が分からず、咲月は目をぱちくりさせる。 ――それって、スタッフの一人としてだよね……? あえて確認するのも逆に恥ずかしい。こういう時の上手な受け流し方なんて知らない。パクパクと口を動かせてみるが、何の台詞も出てこない。大人なやり取りなんて咲月にはまだまだ難易度が高過ぎる。 前を向き直すと、次の角を曲がればマンションが見えてくるところまで来ていた。このまま何も反応せずにやり過ごすのが賢明な気がして、咲月は両手をぎゅっと握りしめてひたすらフロントガラスから見える景色に集中する。変に意識し過ぎたせいで、手の平が汗でじっとりと湿っていた。 そんな咲月のことを羽柴が小さく笑ったような気がした。それは別に揶揄われたりバカにしたようなものでも無かったから、咲月はそっと横目で運転席を盗み見る。 隣でハンドルを握っている羽柴の横顔はとても優しい笑みを漏らしていて、オフィスでは見たことがない表情だった。センター分けされた前髪の下には、少し茶色がかった瞳と長い睫毛。日本人離れしているというほどではないが、鼻筋の通ったはっきりとした顔立ちは男性ながらも美人と言ってもいい。思わず見とれていると、信号が赤に変わったタイミングで羽柴が振り向く。「ん、どうした?」「あ、いえ……っ」 小首を傾げて不思議そうに見てくる羽柴の瞳は、外灯と反対車線のヘッドライトとが写り込んで煌めいて、それが妙に色っぽく見えた。ドキドキと高鳴り始める鼓動を隣にいる上司に気付かれてしまわないかと、咲月は焦り出す。 信号が青へ変わり、ウインカーを出しながら右折した車は咲月のマンションの前でゆっくりと停車する。バッグを抱え直し、運転席の羽柴へと礼を言おうと振り向いた咲月の頬にハンドルから離したばかりの彼の左手が触れてくる。咲月の頬に掛かっていた横髪を退けてくれたみたいだったが、その仕草があまりにも自然でドキッとしてしまった。 さっきの『愛おしむ』が頭の中でリフレインし始める。「しゃ、社長……?」「今日はお疲れ様。おやすみ」「えっと……おやすみ、なさい。――じゃなくて、送っていただいて、ありがとうございました」 ペコリと頭を下げてからドアを開けて車から降りる。「失礼します」と閉めながら運転席を覗くと、羽柴は変わらず優しい笑みを浮かべて咲月のことを見ていた。思わず「もう少し一緒にいたい

  • ジンクス・不運な私を拾ってくれたのは・   第四十四話

     デザートのおかわりのチョコアイスを頬張っている時、叔母がニヤニヤと意味深な笑い顔を浮かべていたのは、きっと酔っぱらっているせいだと咲月は思い込んだ。一応は仕事上の接待の場なのに、そんな気の抜けた顔をしてと、逆に敦子のことを心配してしまったくらいだ。 食事会が終わり、咲月は当たり前のように乗り慣れた立石の車の方へ歩いていく。叔母達のマンションへの通り道に咲月の部屋はあるから、ついでに乗せていって貰うのが効率的だと思ったのだ。 でも、「咲月ちゃんは、こっち」と羽柴から腕を掴まれ、助手席のドアを開けて促される。来る時に「ちゃんと家まで送り届ける」と言ってくれたのはどうやら社交辞令じゃなかったらしい。「え、でも……」 行きと同じく、また羽柴のことを遠回りさせてしまうことになる。どうすればいいのか分からず、敦子の方を振り返ってみるが、叔母はまたニヤニヤと笑うだけだ。「それでは羽柴社長、咲月のことはくれぐれもよろしくお願いします」 そう言って、自分はあっさりと恋人の車の助手席に乗り込んで、バタンとドアを閉めてしまう。立石も形式ばった会釈を羽柴へと送ってから運転席に座り、そのまま二人は夜道を自宅マンションの方角へと消えていった。 ――さすがにここから駅までは歩けないか…… 初めて訪れた店だから、いまいち土地勘もない。電車で帰るから最寄り駅までで構いませんというつもりで、咲月は羽柴の車へと乗る。 来る時とは違い、外灯の明かりだけが頼りの車内は羽柴が操作するウインカーのカチカチという音が大きく響く。カーナビのモニターを見ると、近くに駅が表示されていたから、そこへとお願いするつもりで隣のシートを見る。 対向車のヘッドライトの明かりに浮かんだ羽柴の横顔が、普段見るのとは少し違って見えて声を発するのを躊躇う。薄暗い中で見る年上の男性というのは、こんなにも大人っぽくて色気のあるものなのか。その隣に自分みたいなお子様が座っているのは、思い切り場違いな気がしてくる。「あ、あのっ、社長……」「ん、何?」「近くの駅で下ろして

  • ジンクス・不運な私を拾ってくれたのは・   第四十三話

     羽柴が独立する前に勤めていたオフィスも敦子の顧客だと聞いているから、その関係で川上のことも知っているのだろう。「あの川上さんがどうなったの?」と身を乗り出す勢いで興味深々な反応をしている。 オフィスで顔を合わせる川上は相変わらず人見知り全開で、いつもパソコンモニターの陰に隠れていて表情が見えない。会話も必要最低限でボソボソと小声で話すのもそのままだ。けれど何となく雰囲気が明るくなりつつあるな、と咲月も最近感じ始めていた。それは具体的にどうと聞かれたら答えられないけれど……「彼は元々、色彩感覚に優れているデザイナーですからね。営業のサポートが付いてさらに活躍してくれると思います」「あら、営業って確か、以前は事務をされていた女性だったかしら?」「ええ。咲月ちゃんが来てくれたおかげで、本来の業務に戻すことができて助かってますよ」 羽柴の言葉に、敦子はやっと安心したらしく「ちゃんと働いてるのね」と咲月のことを幼い子を褒めるような目で見る。「叔母の私の目から見ても真面目な子ですから、社長の元でしっかり社会を学ばせていただけるとありがたいですわ」「ええ、それはもちろん」「で、その川上さんと営業の女性がいい雰囲気っていうのは?」 羽柴が上手く逸らせたはずの話題を容赦なく掘り返してくる。デリカシーが薄れた発言になるのは、叔母が酔っぱらってきた証拠。隣に座る立石がさりげなくワイングラスを遠ざけて、水の入ったグラスを敦子の目の前に置いていた。お酒が入るとこうなるのが分かっているから、敦子は普段から仕事がらみの接待を受けないようにしていたのかもしれない。 店内が混雑し始めたのか、個室のドアの向こうから他の客の笑い声が聞こえてくる。咲月は目の前の鉄板で仕上げられ、各自の皿に盛り付けられていくサイコロステーキを見守っていた。個室ごとにスタッフが付いて鉄板で焼き上げてくれるスタイルで、熱々の食材が順に提供される。次の食材が焼き上がるまで少しタイムラグがあるから、敦子もいつも以上にアルコールへ手が伸びてしまったのだろう。ちょっとペースが早い。「いえ、以前に少し感じていた二人の間の険悪さが消えただけですよ

  • ジンクス・不運な私を拾ってくれたのは・   第四十二話

     夕方になりオフィスに戻ってきたばかりの羽柴の車の助手席へ、咲月は緊張しながら乗り込んだ。クライアントを梯子していたという羽柴は車のエンジンを切ることなく、オフィスへは一瞬顔を出しただけの多忙ぶり。少し疲れが滲み出た表情が心配になる。「言っていただければ、お店まで一人で向かったのに……」「そういうわけにはいかないよ、咲月ちゃんはうちの大事なスタッフなんだから。責任をもって、ちゃんと迎えに行くし家までも送り届けるつもりだ」 社長の外回り先を考えると咲月を迎えに来た分、かなり時間を食ったはずで、現地集合にしていた方が楽だったはずだ。それにきっと敦子叔母さんに言えば、一緒に車に乗せてって貰えただろう。 咲月が気を使ったつもりの言葉に、羽柴はちょっと拗ねたような顔を見せる。初めて見たその横顔に、咲月は少しばかりドキッとした。 ――原田さんが、変なこと言うから…… 可愛がられてるというのを、単なる子ども扱いの延長だと思い込もうとしていたのに、ビジネス以外の顔を不意打ちで見せられてしまうと、変な期待をしてしまう。 羽柴のことをそういう対象で見るつもりなんて無かったのに、ここ最近はおかしなことばかりだ。多分、七瀬がオフィスに訪れたことで彼の周りのそういうことを意識してしまったからだ。 彼があの打算的な女性のことを端から相手していなかったと聞いてホッとしたのは本当だ。 その後、車の中で二人でどんな会話をしたのかはあまり覚えてはいない。とにかく変な意識しないように、部下として振舞うことに必死だった。 今日の会食で使う店は羽柴が以前に言っていた、彼のお勧めのうちの一つらしい。「海鮮が美味しい鉄板焼き屋さんなんだけどね、しっかりお肉もあるから心配いらないよ」 初対面の印象が強いのか、彼はいまだに咲月のことを食べ盛りだ思っている節がある。まあ確かに食べるのは嫌いじゃないけど、と先日も叔母に向かって焼肉をリクエストしたところだったから咲月にも自覚はあるが。 店に着くとちょうど駐車場には立石の車が停められているところだった。その二つ隣のスペースに羽柴も駐車すると、四人で挨拶を交わしながら店の入り口へと向かう。「咲月、ちょっと痩せたんじゃない? ちゃんと食べているの?」 久しぶりに顔を合わせた敦子が、心配そうに顔を覗き込んでくる。電話やメールでやり取りすることは多

  • ジンクス・不運な私を拾ってくれたのは・   第四十一話

     本格的に営業業務が中心となり始めた笠井のファッションは、以前のふんわり綺麗系オフィスカジュアルはほぼ封印されて、キャリアウーマン風スタイルへ変わっていていた。いわゆる形から入るタイプだったらしい。緩く巻かれていた髪はすっきりとアップにし、ウエストラインを強調したパンツスーツ率が高い。でも、スーツはどちらかというとベージュやライトグレーといった明るい色合いの物が多いところは着こなし上手な笠井らしく華やかで、いまだにスーツというと黒のリクルートスーツしか持っていない咲月にはとても参考になる。参考にはなるが、咲月にはさっぱり似合わない自信もある。 事務スペースの壁面棚から必要なファイルを探して抱えると、咲月は誰もいない静かなオフィス内を改めて見回していた。笠井と川上の二人は昼過ぎから取引先のところへ出掛けているし、平沼は今日は在宅ワークで出勤して来ていない。羽柴も別の商談で出ているし、今日の午後は夕方まで完全に一人きりの予定だ。誰もいないのに照明が点けっぱなしなオフィスには空調と冷蔵庫が唸る音くらいしか聞こえない。 と、普段と違う状況に少し寂しさを覚えていた咲月だったが、いきなり入口から聞こえてきた「いらっしゃいませ」という電子音に、思わず身体をビクつかせた。 これだけ人の気配が無い時は入口のドアが開く音で先に気付きそうなものだが、考え事をしていたせいか全く聞こえていなかった。普段はそうでもなかったはずなんだけど、今日はやけにセンサー音が大きく聞こえて、かなりビックリしてしまった。振り返って見ると、長髪を無造作に後ろで束ねた銀縁の丸眼鏡の男性が立っていた。四月の飲み会以来全く顔を見せていなかったデザイナーの原田だ。 彼は今日もデニムに黒色のジャケットを羽織っていたから、初めて会った面接の日のことを思い出す。飲み会は一瞬だけ顔を出して、速攻で帰って行ったから一言も喋ることはなかった。だから、咲月の彼への印象は面接の時で完全に止まってしまっている。「あ、原田さん、お久しぶりです」「ええっと……、お久しぶり、です」 少し困惑した表情の原田の反応から、きっと咲月の名前が思い出せないのだろうということはすぐに察した。けれど、それにはあえて触れなかった。よく考えたら、そんなことを弄り合うほど彼とは親しくはない。もし相手が平沼だったら速攻で突っ込んでいたかもしれないが

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status