咲月に向けてふっと小さい笑みを漏らした後、羽柴は前を向いて再び車を走らせる。信号が青へと変わる早さに咲月は寂しさを覚えた。もっとずっとこうしていたい。そんな想いはこの繋がれたままの手からちゃんと伝わっているだろうか。
回り道をすることなく咲月のマンションの近くに着くと、ハザードランプを点滅させて路肩へと停車する。以前に送ってもらった時よりは自宅から少し離れた住宅街の一角。児童公園の真横のそこはたまに近所の人が車を停めっ放しにしていることがある。
咲月はここで降りるべきかと確かめるように、運転席の羽柴の顔を見上げる。繋いだ手も咲月の方から離そうとすれば、きっとすぐに指を解かれてしまうんだろう。彼は咲月に対して繋ぎ止めるようなことは何も言ってはくれない。二人の年齢差もあるし、何と言っても咲月は彼のオフィスのスタッフの一人。彼の方から踏み込んでくれるのは期待できない。
咲月は何も言ってはくれない羽柴から視線を逸らし、膝の上に置いた手を見下ろす。彼の表情からはこのまま咲月がお礼だけ言ってさっさと車を降りてしまっても平気そうに見えた。なのに、咲月のことを握り返している左手はさっきよりもずっと強く力を込められている。
きゅっと握り返せば、すぐに同じように力を入れて握ってくれる。言葉は何もないけれど、それが彼の本心だと感じた。――社長が何も言ってくれないつもりなんだったら……
咲月はちょっとだけ意地悪を思いつく。もう一度、運転席側へと顔を上げて、わざと真剣な表情を作ってから口を開く。
「実は私、ある人から告白されて、どう返事しようか悩んでるんです」
咲月のいきなりの暴露に、羽柴は一瞬だけ目をぱちくりさせていたが、そこまで驚いてはいなさそうだった。その相手が誰だかの予想はついているのかもしれない。じっと咲月の次の言葉を待つように、一度だけ静かに頷き返してくる。
「その人のことは別に嫌いじゃないんですよ。とてもいい方なので」
「……なら、付き合ってもいいって考えてるってことかな?」「社長は、嫌いじゃなければ誰とでも付き合えるんですか?」質問を質問
咲月に向けてふっと小さい笑みを漏らした後、羽柴は前を向いて再び車を走らせる。信号が青へと変わる早さに咲月は寂しさを覚えた。もっとずっとこうしていたい。そんな想いはこの繋がれたままの手からちゃんと伝わっているだろうか。 回り道をすることなく咲月のマンションの近くに着くと、ハザードランプを点滅させて路肩へと停車する。以前に送ってもらった時よりは自宅から少し離れた住宅街の一角。児童公園の真横のそこはたまに近所の人が車を停めっ放しにしていることがある。 咲月はここで降りるべきかと確かめるように、運転席の羽柴の顔を見上げる。繋いだ手も咲月の方から離そうとすれば、きっとすぐに指を解かれてしまうんだろう。彼は咲月に対して繋ぎ止めるようなことは何も言ってはくれない。二人の年齢差もあるし、何と言っても咲月は彼のオフィスのスタッフの一人。彼の方から踏み込んでくれるのは期待できない。 咲月は何も言ってはくれない羽柴から視線を逸らし、膝の上に置いた手を見下ろす。彼の表情からはこのまま咲月がお礼だけ言ってさっさと車を降りてしまっても平気そうに見えた。なのに、咲月のことを握り返している左手はさっきよりもずっと強く力を込められている。 きゅっと握り返せば、すぐに同じように力を入れて握ってくれる。言葉は何もないけれど、それが彼の本心だと感じた。 ――社長が何も言ってくれないつもりなんだったら…… 咲月はちょっとだけ意地悪を思いつく。もう一度、運転席側へと顔を上げて、わざと真剣な表情を作ってから口を開く。「実は私、ある人から告白されて、どう返事しようか悩んでるんです」 咲月のいきなりの暴露に、羽柴は一瞬だけ目をぱちくりさせていたが、そこまで驚いてはいなさそうだった。その相手が誰だかの予想はついているのかもしれない。じっと咲月の次の言葉を待つように、一度だけ静かに頷き返してくる。「その人のことは別に嫌いじゃないんですよ。とてもいい方なので」「……なら、付き合ってもいいって考えてるってことかな?」「社長は、嫌いじゃなければ誰とでも付き合えるんですか?」 質問を質問
運転に集中しているフリをして、羽柴は前を向いたまま何も言ってこない。対向車のヘッドライトの明かりに照らされた男の横顔は、やっぱり昼間に見るよりもずっと大人で、咲月はまたからかわれただけだと落ち込んだ。曖昧な言葉に簡単に期待して振り回されてしまう自分が嫌になる。 ――羽柴社長にしてみたら、十歳も年下の私なんて子供だもんね。 笠井のようにお酒にも強くはないし、ワインの知識もない。飲みに行っても食べることがメインのお子様なんて、彼の隣に立つには相応しくないし釣り合わない。どうせ小動物なんかを愛でるような感覚で面白がられているだけなんだ。大事にされて気を使って貰えているのは、敦子の姪っこだから。 咲月は羽柴に気付かれないよう、助手席側の窓に向けて小さく溜め息をつく。自分だけが彼の言葉や挙動に過剰に反応していて、何だかバカバカしくなってくる。 目の前の信号が赤へと変わり、静かに車が停止線で止まる。歩道を歩いていく人達を何とはなしに眺めていると、右隣から伸びてきた手が咲月の頭にポンと乗せられる。驚いて羽柴の方を振り返って見ると、信号へと視線を送ったままハンドルを握っている。羽柴の左手は咲月の髪を頭頂部からゆっくりと下に向かって撫でてきて、少しくすぐったい。小さな子供を宥めるようなその仕草はちっとも嫌じゃない。 でも、咲月は拗ねたように口を尖らせてから羽柴に向かって言った。もうこれ以上、勘違いはさせないで欲しい。「社長、私のこと完全に子供だと思ってますよね?」 咲月の言葉にも羽柴は髪を撫でる手を止めずに、前を向いたまま小さく笑みを漏らしただけだ。それは揶揄い甲斐のある小さな子供がムキになって反抗してきたのを、ただ面白がっているだけみたいに見えた。車は信号が変わったと同時にまた咲月の自宅のある方向へと走り始める。 ちょっとムッとして、咲月は髪に触れている羽柴の手を右手で掴む。そして、頭から引き剥がしたその手を、自分の胸の前で指を絡めて握った。咲月がきゅっと力を込めると、開いていたはずの羽柴の長い指も咲月の手を握り返してくる。 片手だけでハンドルを操作している羽柴からは何も言ってはこない。彼の横顔をこっそりと覗き見しながら、咲月は指を絡めたま
川上の営業先での奇行を面白おかしく話す笠井と、それを困惑顔で黙って聞いている川上。それでも笠井にお喋りのネタにされるのは意外と平気らしく、オーダーした料理が運ばれてくる度に黙々と食事を続けていた。なんだか長年連れ添った夫婦を見ているような感覚がするのは気のせいだろうか?「あ、そろそろデザートを頼んでいいかしら? ここのレモンシャーベットが美味しいのよね、確か?」 そう聞いて来た笠井へと、川上が「ああ」と短く頷いてみせる。どうやら笠井も川上からこの店のことを先に聞いていたらしい。外回り中にはこういったお店のことを二人で話すことがあるのかと、ちょっと意外だ。オフィス内では二人が仕事以外のことを話しているのを見た覚えはほとんどないけれど、外では結構いろんなことをお喋りしているのかもしれない。 平沼もメニューのデザートのページを見ていたが、まだドリンクが残っているからと注文しなかった。甘い物があまり得意じゃないからだろう。咲月は笠井と同じレモンシャーベットを頼んでから、スマホの画面をのぞき込む。時刻はもうすぐ二十一時になろうとしていた。何だかんだと三時間もここで食べ続けていたが、結局ドリンクは最後までウーロン茶しか頼まなかった。 こんな頭が混乱しそうな時にお酒なんて飲んだら、何を喋り出すか自分でも自信がない。 ――平沼さん、さっきのは本気なんだよね……? 返事は別にいらないみたいだけれど、一方的に気持ちを伝えられて本当にそのままにしちゃっていいんだろうか? 咲月は向かいの席に座る同僚のことをちらりと覗き見る。ドリンクメニューのワインのページを見ながら川上と葡萄の産地について真剣に話しているが、飲み過ぎたのか顔が真っ赤だ。 でも急に大変なことを思い出したと、ハッと顔を上げる。「あー、俺、オフィスに自転車を置きに行かないと……飲酒運転になるし、押して帰るのも辛い」「鍵を開けて、中へ入れておいた方がいいわよ。自転車の窃盗、多いらしいし」「うっす。そうします……今日は歩きで来れば良かった……」 来る時には帰
咲月のウーロン茶に合わせてか、平沼もウーロンハイを頼んでから、前回食べて美味しかったという料理をいくつか注文してくれる。初めて来た店だと何を頼んだらいいか迷うと言ったら、それならと率先して決めてくれるところはさすがに年上という感じだ。ただちょっと調子に乗り過ぎたらしく、二人では食べ切れない量をオーダーしてしまったみたいで、後から笠井達も合流するからいいかと笑って誤魔化していた。「この店を教えてくれたの、川上さんなんだ」「え、意外……」「だろ? でもあの人、結構一人で食べ歩きとかしてるらしくて、めちゃくちゃ詳しいよ。料理の盛り付けとか色合いとか、そういうのからインスピレーションを受けることもあるって」 平沼がそう話している途中で運ばれて来たサラダは、確かに色とりどりで鮮やか。彼のデザインは色彩豊かなのにどこか落ち着いているのは、こういった自然界の色が原点だからだろうか。デザイナーの発想の元になるものは人それぞれだ。そういえば咲月のマスコットを見て、羽柴もロゴデザインを閃いていた。 川上の話になった流れから、最近の川上がすごく変わったと思っていたのは咲月だけじゃなかったと知る。ほぼペアを組んでいる状態の笠井の影響の大きさに、平沼も驚きつつ楽しんでいるみたいだった。「笠井さんと一緒に独立って話も出たらしいけど、あの人断ったらしいんだよな。勿体ないとは思うけど、川上さんらしいっていうか……」「え、そうなんですか?」 いつも一番先に退勤してしまう咲月には、初めて聞く話だ。「独立なんてガラじゃないし、リスクは背負いたくない」というのが川上の言い分らしく、彼らしいと言えばそうかもしれない。「そういうのって、社長が勧めるんですか?」「独立のこと? まあ、自分から言い出す人の方が多いみたいだけど、川上さんの場合はキャリアもあるからって羽柴社長が提案したみたいだね」 川上と笠井がオフィスを出るようなことになれば、H.D.Oにとっては大きな痛手になるはずなのに、羽柴自らが優秀な人材を手放すような提案をするとはと咲月は驚く。それだけ羽柴にとって川上は大事な存在でもあるん
翌日の朝、咲月が出勤するとすでにオフィス内の照明が付いていた。でも、建物の前の駐車場に羽柴の車は見当たらず、どうしたんだろうと思いつつ中へ入ると、出迎えてくれたのはまだ眠そうな平沼の欠伸を堪えた顔だった。「おはようございます。平沼さん、お一人なんですか?」 室内を見回してもやっぱり羽柴の姿はない。平沼も残業した時用にと鍵を持たされているのは知っているから、今日は彼が一番乗りだったんだろうか。珍しいこともあるものだ。「うん、社長は今日はオフィスには来ないみたいっす。ずっと外回ってるって」 「あ、そうでしたね」 彼がこんなに早くに出勤してきたのは昨日、咲月と約束したからだ。仕事終わりに駅前に新しくできたという洋風居酒屋に一緒に行くことになった。 ――平沼さんと二人きりって言われても、あまりピンと来ないんだけど。 歳が近いせいもあるし、彼の人懐っこいワンコ系の性格のおかげで、二人だけで話していても少しも緊張したことはない。気の合う男友達みたいな感覚って言ったらいんだろうか? 羽柴へと感じる緊張感やドキドキは一切ない。「さ、今日の仕事はさっさと終わらせて、久しぶりに定時で上がってやるぞー」 気合いを入れるように腕を天井に向けて伸ばし、平沼は自分自身に言い聞かせていた。いつもは出勤してすぐはパソコンのモニターを眺めながらタスクリストの確認をしたりして、ぼーっと過ごしている時間が長いのに。今日は来て早々で作業へと取りかかっている。 羽柴をオフィスで見ないままだったけれど、それでもその日の勤務は滞りなく終えることができた。川上と笠井も今日は外回りの予定は無かったらしく、一日中デスクに向かって仕事をしていた。途中で商談の来客が二件ほどあったりして、笠井も外へ出てのランチは無理だとコンビニで買って来たというサンドウィッチを休憩室に持ち込んでいた。営業職がメインになってからランチ合コンは全然参加してないみたいだ。 最近ではずっと一人だけだった定時上がり。平沼と並んでオフィスを出て、駅前のビルの地下階段を降りていく。深みのあるオレンジ色の照明がちょっと大人な雰囲気を醸し出している洋風居酒屋。系列店舗にパスタ専門店があるらしく、一度来たことがあるという平沼がイタリアンメニューが充実していると説明してくれる。「予約してます、平沼です」 「個室でのご予約ですね。お待
咲月が挙動不審だったのがいけなかった。急に顔を背けて声を震わせたから、羽柴は何か体調でも悪いのかと心配してくれただけだ。彼はいつも咲月の変化をよく見ていてくれる。咲月のデスクを社長室へ移動させたのだって、初めの頃は笠井とあまり仲良くできていなかったから気を使って席を離してくれたのだと、最近になってから気付いた。 今だって、他のスタッフが出勤してくる前にできるだけ一人きりにならないようにと時間を使ってくれている。多分、咲月が知らなかっただけで彼は他にもいろいろと気を回してくれていたはずだ。だって、デザイナー達が同時に外へ出ることはほとんどなく、常に誰かがオフィス内にいることが多い。そのスケジュールを調整しているのは全て社長である羽柴。 大学を卒業したばかりの社会人一年生の咲月が職場に対して居心地がいいと感じることができるのは、きっと彼のおかげだ。顧問弁護士である敦子からの紹介は何かしらの下心があって受けたんだろうけど、何がキッカケだったとしてもこのオフィスに就職させてもらえて良かったと心底思っている。 最初の内定を取り消されて就活を一からやり直すことになって、どん底で惨めな気分だった咲月を救ってくれたことは決して忘れない。彼との出会いがなければ、きっと今頃は実家に強制的に戻らされていたはずだ。「咲月ちゃん? 体調がすぐれないなら、休憩室のソファーでも横になった方が……」「い、いえ、何ともないですっ。全然、平気なので!」 赤くなった顔を手で覆い隠して棚にうつ伏せてしまった咲月に対して、すぐ真横から羽柴が声を掛けてくる。その声があまりにも近くから聞こえて、咲月は驚いて顔を上げる。 吐息がかかりそうなほどの至近距離。熱がないかと心配した羽柴の手が咲月の頬に触れてこようとする。嫌なら簡単に払い除けることができるほど、そっと慎重に伸ばされた指先を咲月は身動きせずに受け入れた。 羽柴の手は咲月とは比べ物にならないくらい大きくて、長い指先にはマニキュアが映えそうな整った爪。たくさんのデザインを生み出してきたその指が、愛おしむように咲月の頬を包み込んでくる。熱を持って火照った肌よりも、羽柴の手の方がさらに熱く感じたのは、珈琲が入ったカップを持っていたせいだろうか。「……うん、熱はないみたいだね」 ためらいもせずにすぐ離れて行く手を咲月は無意識に視線で追いかける