一月末。早くも三月にある卒業式に向けて、周囲の同級生達は当日はスーツにするか袴を着るか、どこの美容室を予約したかと浮かれていた。中には卒論の提出が間に合いそうもないと、図書館やコンピュータルームにまだ通い詰めている人もいたが、それはそれで平和な光景とも言える。
少なくとも周りの皆の行動は、大学を出た後の進路がちゃんと決まっている前提なのだ。卒業旅行だって、就職や進学先が確定しているからこそ行ける。就職課の専用ボードを見上げながら、咲月は長く深い溜め息を吐く。学生向けの求人情報は、既に半数以上が来年度の卒業生向けの物に張り替えられて、この四月入社の案件は数えるほどしかない。まだ新卒なはずが、ここではすでに第二新卒扱いだ。就職課の窓口で相談したら、思い切り同情の目を向けられてしまった。
――職安とかに行った方が良さそうかな……
通学用トートバッグの中には本屋で買い込んで来たばかりの求人情報誌が三冊入っている。就職課の窓口で渡された紙の束と合わせて、その重みがずっしりと肩へと食い込んでくる。
規定の給料日は守られなかったが、一週間遅れでもちゃんと支払われたバイト代に一抹の望みをかけていた。中谷の言っていた「大丈夫」の言葉を素直に信じて、一昨日の夕方には久しぶりに入っていたシフトに合わせてバイトへ行く準備していた。
と、アドレス登録はしていなかったが、見たことあるような無いような固定電話の番号がスマホの液晶に表示された。不審な表情を浮かべながらも、咲月は通話ボタンに触れる。
「……もしもし?」
「あ、泉川さん? お疲れ様、大槻です」 「ああ、店長。お疲れ様です」バイト先であるパテル東町店の店長からだ。どうりで見たことあると思ったら、本社からの直通番号だった。
「確か、今日ってシフト入ってたよね……?」
「はい」と短く返事する咲月に、電話の向こうの大槻が言いにくそうに言葉を選んで話し始める。店長から電話が掛かって来たこの時点で、嫌な予感しかなかった。
「実はさ、火野川の店で食中毒が出ちゃってね、保健所の指示でしばらくは全店休業しなきゃならなくてさ。工場内の検査とかいろいろあって、製造も完全ストップすることになって」
「えっ、じゃあ、しばらくバイト無しですか? それって、いつまで……?」 「うん、そうだな……いつまでになるんだろうねぇ」大槻の後ろではまた別の電話の呼び出し音が聞こえてくる。急な休業に、五店舗ある直営店だけでなく、定期的にケーキ類を卸しているカフェなどからの問い合わせが殺到している状況だろうか。
詳しい状況が分かったら、また改めて連絡するという大槻の言葉に、ただの学生バイトには「分かりました」と答えるくらいしかできない。そして、昨日の昼過ぎ、咲月の元には本社から内定取り消しの通知書が簡易書留で届けられた。それによると、取り消しの理由は業績悪化による企業倒産とのことだ。薄々感付いてはいたが、悪い予想が現実となってしまった。
個人的に連絡を取り合った他のバイト仲間によれば、パテルが二十億の負債を抱えて破産宣告を受けたと、今日の朝刊の地方欄の片隅に掲載されていたらしい。売上金を銀行へ入れることが出来なかったのは、速攻で差し押さえられてしまうからだったのだ。
そんな危なっかしい会社に社員で就職しようとしていたことに身震いする。入社して速攻で無職になる可能性だってあったはずで、これは職歴に余計な傷がつく前で良かったと前向きに考えるべきなのか……
――就職先と、バイト先を同時に失ってしまったなんて、親には何て説明したらいいんだろ……
卒業後の進路は勿論だけど、当面の生活費を稼ぐアテまで無くなった。学生生活の残り二か月間は今まで通り仕送りはあるけれど、それ以降は自分で何とかする予定だった。勿論、親に正直に話せば継続して送って貰えるかもしれないが、実家には高二の妹、千鶴がいる。これから大学受験を控えている妹の塾代だってあるし、とっくに成人した姉まで甘え続ける訳にもいかない。
「あははっ。不幸を全部背負ってます、みたいな顔してるから、何があったのかと思ったら」
「……だって、また一から就職活動なんだよ。短期バイトも肉体労働ばっかりだし」学生同士ではまず入店できそうもない、いかにも高級なイタリアンレストランで、ピンクベージュの品の良いスーツ姿の叔母、泉川敦子が手を叩いて大袈裟に笑い飛ばしてくる。それには拗ねたように唇を突き出して、向かいの席から咲月が言い訳する。
一旦帰宅した後、手持ちの中では一番落ち着いてみえるだろうネイビーの小花柄のワンピースへと着替えてきた。これは先月にクリスマスプレゼントとして敦子が買ってくれたものだったから、待ち合わせ場所で咲月が実際に着ている姿を見た瞬間、叔母は「ほら、やっぱり似合うじゃない」ととても嬉しそうにしていた。
咲月が実家を出て一人暮らしさせて貰えているのは、この叔母の存在のおかげだ。定期的に敦子と連絡を取り合うという条件で、過保護な両親から家を出ることを許して貰えたのだから。すぐ近くに敦子が住んでいなかったら、地元の大学を受けろとの一点張りだったはずだ。
父よりも八歳年下の妹である敦子は、弁護士として個人事務所を構えている。四十二歳で既婚歴はないが、一回り年下の彼氏がいるだけあって年齢よりも若々しく、華やかな女性だ。堅実を絵に描いたような真面目な兄とは真逆なタイプに見えるが、咲月の父も司法書士だし、頭が良いという点では似ている。残念ながら、咲月にはその辺りの要素は皆無だったけれど。――母曰く、妹の千鶴は父に似て成績は優秀らしい。
「業績悪化が分かってた上で内定を出して来たんだとしたら、タチの悪い会社よね。でも、入社までの期間を考えると、今訴えたところで――」
「ううん、訴えない訴えない」 「まあ、何か困ったことがあったらいつでも言いなさい。意地張って変なところでお金借りたりとかはしないのよ?」 「それは、分かってる……」こうやって毎月待ち合わせて、敦子と買い物や食事をしたりするのは嫌じゃない。叔母なんだけど、ちょっと歳の離れた姉のような感覚で、親には言い辛いことも相談できる。何よりも、敦子と一緒だとワンランク上の大人の世界が垣間見れて楽しい。
魚介たっぷりのクリームパスタをフォークで絡めとって口へ入れ、咲月はその濃厚な旨味に頬を緩める。この店もきっと、予約しないと入れない系だ。そっと横目で見回してみても落ち着いた客ばかりで、咲月が普段行くファミレスとは客層が全く違う。
「あ、そうだわ。今度の金曜、バイトも入ってないなら、気晴らしに遊びに来なさいよ」
「何かあるの?」 「事務所の十五周年パーティーをするの。って言っても、客も少し招待するだけの、小規模なものだけどね。先月に一緒に行った店だから、夕飯を食べるつもりで来たらいいわ」十二月に敦子に連れて行って貰ったのは、カジュアルな雰囲気のフレンチレストラン。あの時「仕事関係の下見も兼ねてるのよ」と言っていたのは、そのパーティーのことを指していたのかと納得する。デザートに出て来たタルトがとても美味しくて、思い出すだけでもヨダレが出そうになる。
「ほら、うちの事務所は女の子ばかりでしょ? デザートメニューは多めにって頼んであるのよ」
「行く!」姪の扱いには慣れっこだと、咲月の即答には満足げに微笑んで返す敦子。
「うーっす」 処理を終えたファイルを戻しに社長室を出ると、パソコンモニターから顔を上げた平沼がいつも通りの適当な挨拶をしてくる。週末にまた自転車で走っていたのか、少し日に焼けた顔に人懐っこい笑顔を乗せて。 ――やっぱり平沼さんはワンコ系だなぁ。 他人に警戒心を抱かさない、裏表を感じさせない平沼だけれど、社長室で羽柴からデザイン案をチェックして貰っている時はさすがに緊張して表情が強張っていることが多い。そういうところも知っているからこそ、彼に対しては嫌悪感は湧かない。分かり易いタイプは安心感がある。 その平沼がちょっと難しい表情になって咲月へと聞いてくる。「泉川さんってさ、今は笠井さんから引き継いだ事務がメインだろ? だったら前みたいにこっちにデスク戻した方が効率良くないの?」 両腕に抱えていたファイルを棚に片付けている咲月のことを、怪訝そうに見る。使う資料をわざわざ運んで行き来するのは面倒じゃないかと、心配してくれているみたいだった。「そう言えば、そうですよね……」 平沼に指摘される前にも、咲月だってそう思ったことが無いわけじゃない。確かに社長の補助業務よりも最近は一般事務の仕事の方が多い。重いファイルや資料は全てデスクスペースの壁面にある棚に保管されている。以前の笠井はここでその仕事をこなしていたのだから、それを引き継いだ咲月が社長室内にデスクを置いているのは不自然だ。「川上さん達が戻って来たら、デスク運ぶの手伝うよ」 「でも、先に社長に確認取ってみないと。何か考えがあるのかもしれないし」 「あー……社長かぁ、何だかんだ理由付けてダメだって言いそうだけど、泉川さん的にはこっちの方が仕事はやり易くない?」 咲月は室内を改めて見回して、頻繁に使う資料の大半がこちらにあることを確かめる。どちらでも仕事ができないわけじゃないけれど、効率的なのは断然にこちらの方だ。 特に今日は先週末のこともあって、羽柴の顔をまともに見ることができない。変に意識してしまうくらいなら、デスクを移動させてもらった方がいいんじゃないかとも思えてきた。「打ち合わせを終わられたら、聞いてみますね
羽柴の言葉の真意が分からず、咲月は目をぱちくりさせる。 ――それって、スタッフの一人としてだよね……? あえて確認するのも逆に恥ずかしい。こういう時の上手な受け流し方なんて知らない。パクパクと口を動かせてみるが、何の台詞も出てこない。大人なやり取りなんて咲月にはまだまだ難易度が高過ぎる。 前を向き直すと、次の角を曲がればマンションが見えてくるところまで来ていた。このまま何も反応せずにやり過ごすのが賢明な気がして、咲月は両手をぎゅっと握りしめてひたすらフロントガラスから見える景色に集中する。変に意識し過ぎたせいで、手の平が汗でじっとりと湿っていた。 そんな咲月のことを羽柴が小さく笑ったような気がした。それは別に揶揄われたりバカにしたようなものでも無かったから、咲月はそっと横目で運転席を盗み見る。 隣でハンドルを握っている羽柴の横顔はとても優しい笑みを漏らしていて、オフィスでは見たことがない表情だった。センター分けされた前髪の下には、少し茶色がかった瞳と長い睫毛。日本人離れしているというほどではないが、鼻筋の通ったはっきりとした顔立ちは男性ながらも美人と言ってもいい。思わず見とれていると、信号が赤に変わったタイミングで羽柴が振り向く。「ん、どうした?」「あ、いえ……っ」 小首を傾げて不思議そうに見てくる羽柴の瞳は、外灯と反対車線のヘッドライトとが写り込んで煌めいて、それが妙に色っぽく見えた。ドキドキと高鳴り始める鼓動を隣にいる上司に気付かれてしまわないかと、咲月は焦り出す。 信号が青へ変わり、ウインカーを出しながら右折した車は咲月のマンションの前でゆっくりと停車する。バッグを抱え直し、運転席の羽柴へと礼を言おうと振り向いた咲月の頬にハンドルから離したばかりの彼の左手が触れてくる。咲月の頬に掛かっていた横髪を退けてくれたみたいだったが、その仕草があまりにも自然でドキッとしてしまった。 さっきの『愛おしむ』が頭の中でリフレインし始める。「しゃ、社長……?」「今日はお疲れ様。おやすみ」「えっと……おやすみ、なさい。――じゃなくて、送っていただいて、ありがとうございました」 ペコリと頭を下げてからドアを開けて車から降りる。「失礼します」と閉めながら運転席を覗くと、羽柴は変わらず優しい笑みを浮かべて咲月のことを見ていた。思わず「もう少し一緒にいたい
デザートのおかわりのチョコアイスを頬張っている時、叔母がニヤニヤと意味深な笑い顔を浮かべていたのは、きっと酔っぱらっているせいだと咲月は思い込んだ。一応は仕事上の接待の場なのに、そんな気の抜けた顔をしてと、逆に敦子のことを心配してしまったくらいだ。 食事会が終わり、咲月は当たり前のように乗り慣れた立石の車の方へ歩いていく。叔母達のマンションへの通り道に咲月の部屋はあるから、ついでに乗せていって貰うのが効率的だと思ったのだ。 でも、「咲月ちゃんは、こっち」と羽柴から腕を掴まれ、助手席のドアを開けて促される。来る時に「ちゃんと家まで送り届ける」と言ってくれたのはどうやら社交辞令じゃなかったらしい。「え、でも……」 行きと同じく、また羽柴のことを遠回りさせてしまうことになる。どうすればいいのか分からず、敦子の方を振り返ってみるが、叔母はまたニヤニヤと笑うだけだ。「それでは羽柴社長、咲月のことはくれぐれもよろしくお願いします」 そう言って、自分はあっさりと恋人の車の助手席に乗り込んで、バタンとドアを閉めてしまう。立石も形式ばった会釈を羽柴へと送ってから運転席に座り、そのまま二人は夜道を自宅マンションの方角へと消えていった。 ――さすがにここから駅までは歩けないか…… 初めて訪れた店だから、いまいち土地勘もない。電車で帰るから最寄り駅までで構いませんというつもりで、咲月は羽柴の車へと乗る。 来る時とは違い、外灯の明かりだけが頼りの車内は羽柴が操作するウインカーのカチカチという音が大きく響く。カーナビのモニターを見ると、近くに駅が表示されていたから、そこへとお願いするつもりで隣のシートを見る。 対向車のヘッドライトの明かりに浮かんだ羽柴の横顔が、普段見るのとは少し違って見えて声を発するのを躊躇う。薄暗い中で見る年上の男性というのは、こんなにも大人っぽくて色気のあるものなのか。その隣に自分みたいなお子様が座っているのは、思い切り場違いな気がしてくる。「あ、あのっ、社長……」「ん、何?」「近くの駅で下ろして
羽柴が独立する前に勤めていたオフィスも敦子の顧客だと聞いているから、その関係で川上のことも知っているのだろう。「あの川上さんがどうなったの?」と身を乗り出す勢いで興味深々な反応をしている。 オフィスで顔を合わせる川上は相変わらず人見知り全開で、いつもパソコンモニターの陰に隠れていて表情が見えない。会話も必要最低限でボソボソと小声で話すのもそのままだ。けれど何となく雰囲気が明るくなりつつあるな、と咲月も最近感じ始めていた。それは具体的にどうと聞かれたら答えられないけれど……「彼は元々、色彩感覚に優れているデザイナーですからね。営業のサポートが付いてさらに活躍してくれると思います」「あら、営業って確か、以前は事務をされていた女性だったかしら?」「ええ。咲月ちゃんが来てくれたおかげで、本来の業務に戻すことができて助かってますよ」 羽柴の言葉に、敦子はやっと安心したらしく「ちゃんと働いてるのね」と咲月のことを幼い子を褒めるような目で見る。「叔母の私の目から見ても真面目な子ですから、社長の元でしっかり社会を学ばせていただけるとありがたいですわ」「ええ、それはもちろん」「で、その川上さんと営業の女性がいい雰囲気っていうのは?」 羽柴が上手く逸らせたはずの話題を容赦なく掘り返してくる。デリカシーが薄れた発言になるのは、叔母が酔っぱらってきた証拠。隣に座る立石がさりげなくワイングラスを遠ざけて、水の入ったグラスを敦子の目の前に置いていた。お酒が入るとこうなるのが分かっているから、敦子は普段から仕事がらみの接待を受けないようにしていたのかもしれない。 店内が混雑し始めたのか、個室のドアの向こうから他の客の笑い声が聞こえてくる。咲月は目の前の鉄板で仕上げられ、各自の皿に盛り付けられていくサイコロステーキを見守っていた。個室ごとにスタッフが付いて鉄板で焼き上げてくれるスタイルで、熱々の食材が順に提供される。次の食材が焼き上がるまで少しタイムラグがあるから、敦子もいつも以上にアルコールへ手が伸びてしまったのだろう。ちょっとペースが早い。「いえ、以前に少し感じていた二人の間の険悪さが消えただけですよ
夕方になりオフィスに戻ってきたばかりの羽柴の車の助手席へ、咲月は緊張しながら乗り込んだ。クライアントを梯子していたという羽柴は車のエンジンを切ることなく、オフィスへは一瞬顔を出しただけの多忙ぶり。少し疲れが滲み出た表情が心配になる。「言っていただければ、お店まで一人で向かったのに……」「そういうわけにはいかないよ、咲月ちゃんはうちの大事なスタッフなんだから。責任をもって、ちゃんと迎えに行くし家までも送り届けるつもりだ」 社長の外回り先を考えると咲月を迎えに来た分、かなり時間を食ったはずで、現地集合にしていた方が楽だったはずだ。それにきっと敦子叔母さんに言えば、一緒に車に乗せてって貰えただろう。 咲月が気を使ったつもりの言葉に、羽柴はちょっと拗ねたような顔を見せる。初めて見たその横顔に、咲月は少しばかりドキッとした。 ――原田さんが、変なこと言うから…… 可愛がられてるというのを、単なる子ども扱いの延長だと思い込もうとしていたのに、ビジネス以外の顔を不意打ちで見せられてしまうと、変な期待をしてしまう。 羽柴のことをそういう対象で見るつもりなんて無かったのに、ここ最近はおかしなことばかりだ。多分、七瀬がオフィスに訪れたことで彼の周りのそういうことを意識してしまったからだ。 彼があの打算的な女性のことを端から相手していなかったと聞いてホッとしたのは本当だ。 その後、車の中で二人でどんな会話をしたのかはあまり覚えてはいない。とにかく変な意識しないように、部下として振舞うことに必死だった。 今日の会食で使う店は羽柴が以前に言っていた、彼のお勧めのうちの一つらしい。「海鮮が美味しい鉄板焼き屋さんなんだけどね、しっかりお肉もあるから心配いらないよ」 初対面の印象が強いのか、彼はいまだに咲月のことを食べ盛りだ思っている節がある。まあ確かに食べるのは嫌いじゃないけど、と先日も叔母に向かって焼肉をリクエストしたところだったから咲月にも自覚はあるが。 店に着くとちょうど駐車場には立石の車が停められているところだった。その二つ隣のスペースに羽柴も駐車すると、四人で挨拶を交わしながら店の入り口へと向かう。「咲月、ちょっと痩せたんじゃない? ちゃんと食べているの?」 久しぶりに顔を合わせた敦子が、心配そうに顔を覗き込んでくる。電話やメールでやり取りすることは多
本格的に営業業務が中心となり始めた笠井のファッションは、以前のふんわり綺麗系オフィスカジュアルはほぼ封印されて、キャリアウーマン風スタイルへ変わっていていた。いわゆる形から入るタイプだったらしい。緩く巻かれていた髪はすっきりとアップにし、ウエストラインを強調したパンツスーツ率が高い。でも、スーツはどちらかというとベージュやライトグレーといった明るい色合いの物が多いところは着こなし上手な笠井らしく華やかで、いまだにスーツというと黒のリクルートスーツしか持っていない咲月にはとても参考になる。参考にはなるが、咲月にはさっぱり似合わない自信もある。 事務スペースの壁面棚から必要なファイルを探して抱えると、咲月は誰もいない静かなオフィス内を改めて見回していた。笠井と川上の二人は昼過ぎから取引先のところへ出掛けているし、平沼は今日は在宅ワークで出勤して来ていない。羽柴も別の商談で出ているし、今日の午後は夕方まで完全に一人きりの予定だ。誰もいないのに照明が点けっぱなしなオフィスには空調と冷蔵庫が唸る音くらいしか聞こえない。 と、普段と違う状況に少し寂しさを覚えていた咲月だったが、いきなり入口から聞こえてきた「いらっしゃいませ」という電子音に、思わず身体をビクつかせた。 これだけ人の気配が無い時は入口のドアが開く音で先に気付きそうなものだが、考え事をしていたせいか全く聞こえていなかった。普段はそうでもなかったはずなんだけど、今日はやけにセンサー音が大きく聞こえて、かなりビックリしてしまった。振り返って見ると、長髪を無造作に後ろで束ねた銀縁の丸眼鏡の男性が立っていた。四月の飲み会以来全く顔を見せていなかったデザイナーの原田だ。 彼は今日もデニムに黒色のジャケットを羽織っていたから、初めて会った面接の日のことを思い出す。飲み会は一瞬だけ顔を出して、速攻で帰って行ったから一言も喋ることはなかった。だから、咲月の彼への印象は面接の時で完全に止まってしまっている。「あ、原田さん、お久しぶりです」「ええっと……、お久しぶり、です」 少し困惑した表情の原田の反応から、きっと咲月の名前が思い出せないのだろうということはすぐに察した。けれど、それにはあえて触れなかった。よく考えたら、そんなことを弄り合うほど彼とは親しくはない。もし相手が平沼だったら速攻で突っ込んでいたかもしれないが