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(もうすぐ春になる…)
東条美桜(とうじょうみおう)は、煤けた竈の縁に膝をつき、灰を集めた後、静かに息をつく。
春の始まりの風はまだ冷たく、荒い木枠の窓から忍び込んでは、台所の灰をさらい上げていく。指先は洗い晒しの麻に擦れて赤く、節々は小さく固くなっている。けれど手つきは不思議に優雅で、灰さえも細雪のように整って見えた。
ここは従妹・西条綾音(さいじょうあやね)の屋敷である。表向きは「身寄りのない親族を引き取ってやった」と人前で言い、内実は、召し使いの数がひとり増えたに等しい扱いだった。
「まだ終わらないの? お客様がいらっしゃるのよ」
背から降る声は冷水のようだ。振り向けば、薄桃の絽の羽織を肩に引っかけた綾音が、扇を細くたたみながら立っている。紅を引いた口元に、うっすらと侮りの笑み。「はい。すぐに」
「はいすぐに、じゃなくて。本当に分かっているのかしら。あの廊下、私の影が歪むの。磨きが甘い証拠よ」
美桜は黙って立ち上がる。廊下板の木目は、磨き続けて飴色に艶が出ている。綾音の靴音は、艶の上で無遠慮に跳ねた。
「その腰のもの、何? 下働きに似つかわしくないわね」
綾音の目はよく見ている。美桜は短く首を振った。「古い飾りでございます。仕事の邪魔にはいたしません」
「邪魔よ。何事も、身の程に合わせるのが美徳だと、教わらなかった?」
扇の先が空を刺す。美桜は視線を落とした。怒りは喉元にまで上るが、吐き出す場所はない。
昼下がりのこと。裏庭に出ると、風が梅の名残り香を運んできた。物干しの白布が空に翻る。布の影に立つと、ひととき陽が和らぐ。
「…生意気」
いつから見ていたのか、綾音が吐き捨てる。白が美しいのではない。美桜が持つ丁寧で令嬢たる気配が綾音の神経を刺すのだ。とにかく美桜が気に入らない。屋敷を追いだそうにも行く当てがない美桜は、自分の虐めにじっと耐え、反抗すらしない。それが愉快でもあり、同時に不愉快でもあった。
「――以上をもちまして、挨拶とさせていただきます。今後の帝都の発展を願って、乾杯!」 グラスを掲げ、乾杯の音頭を取ると会場に拍手が響く。 しかし先ほどの噂が、穏やかな水面に乱雑に投げ込まれた石が作った波紋が荒く広がるように、瞬く間におしゃべりな貴婦人の間に伝染していった。 その中で、美桜は緊張した面持ちで一成の袖をそっと掴んだ。「ねえ、一成さん……みんな、なんだか変な目で見ている気がするわ」 「気にしなくていい。想定内だ」 「え?」 一成の目がわずかに細まる。 その瞳の奥で、冷たい炎が静かに灯っていた。「どうせ何か仕掛けてくると思っていた。西条綾音がここにいる時点でね」 そう言って、視線をゆるりと彼女のほうへ向ける。 ちょうどその時、給仕が舞台袖に近づき、一枚の封筒を一成に差し出した。それは給仕に扮した早瀬だった。一成は封を切り、中身を確認すると静かに眉を上げた。
翌日。帝国ホテル大広間――。 現在の日本を象徴とする、粋で贅を極めた社交場。煌めくシャンデリアの下、大勢の事業家・その家族が集まった。 赤い絨毯を踏みしめる靴音が絶えず響き、笑い声と楽団の調べが混ざり合う。 美桜はその光景に身が固くなる。金と名誉をまとった人々の間に、己の存在があまりに小さく感じられた。かつてはそこに身を置いていたはずなのに。 浅野一成は彼女の傍に立ち、背筋を伸ばしたまま穏やかに微笑んだ。 「大丈夫。僕の傍から離れないで。誰がなんと言おうと、君は僕の妻だ。それに君は、かつて名を馳せていた正当な東条の血筋なんだ。堂々としていればいいよ」 その言葉だけで美桜の胸の鼓動が落ち着いていく。 彼の差し出した手を取ると、白手袋越しに温かさが伝わった。 やがて司会の声が響く。「本日は浅野商会・浅野一成様からご挨拶があります」 一瞬、会場の空気が変わった。 拍手と視線の奔流。 それらすべてが一成と、美桜のもとへ向けられる。
扉が静かに開く音がした。 入ってきた早瀬の手には、茶色の封筒が握られていた。 表には浅野商会の宛名だけが記され、差出人の名はない。「どうした、こんな時間に」 一成がペンを置いて顔を上げる。早瀬は深く一礼しながら答えた。「先ほど屋敷に届けられた匿名の文です。差出人の記載はなく、しかし、香料の匂いが濃く残っておりました。旦那様に直接お渡しせよとの伝令でした」 香料――その言葉に、一成の眉がぴくりと動いた。 受け取った瞬間、指先に微かな香りが絡みつく。 夜香木。西条家から漂う香りで間違いない。(……やはり、西条綾音) 胸の奥で、冷たい確信が走る。 香りから犯人を特定できるとは、儲けものだ。 この時代、日本にはまだ『香水』と呼ばれるものはなく、香木という固体を炷く香り文化を
早速西条家に戻った綾音が机に向かっていた。 手元には封筒と便箋。筆を取り、妖艶な筆跡で数行を書き記していく。 『浅野一成様へ。 ご存知ですか? あなたの傍にいる東条美桜という女が、 かつて桐島家を裏切り、その財産を喰い潰した張本人だということを――』 綾音の唇がゆっくりと吊り上がる。 便箋を折り、封筒に収めて封をした。 差出人は無記名にしておく。匿名の手紙として発送するのだ。印紙を貼り付けて完成させた。「匿名の忠告状――これで十分」 窓の外に目をやると、夜霧が立ち込めていてなにも見えなくなっている。 その向こうに、明日の会場――帝国ホテルの華やかな建造物を思い浮かべる。「ふふ、浅野様。あなたが真実を知った時、どんな顔をなさるのかしら。あの女が霧島京と結婚していて、浅野様を騙そうとしているってご存じないでしょうから、親切なわたくしが教えて差し上げるのよ」
リストを眺めながら一成はペンを指に挟み、静かに机を叩いた。 薄い紙の上に記された西条綾音の文字が、まるで黒い染みのように見える。(まさか、美桜を狙って……?) 胸の奥がざらりと音を立てた。 これまでの経緯を思えば、偶然で片づけられるはずがない。 西条家はずっと美桜を隠し、いいように使っていたのだ。綾音には特にひどい目に遭わされたと聞いて、腸が煮えくり返る思いをしたばかりだ。彼女はきっと、美桜を狙ってくる。だから晩餐会に出席し、自分との接点を持とうと考えているのではないか。あわよくば美桜から奪い取ってやろうと―― なんと浅ましい女! 一成は奥歯を噛みしめ、視線を上げた。壁際に飾られた写真が目に入る。それはあの日、美桜と撮った記念写真。白いドレスの彼女が、微笑んでこちらを見ている。 あの笑顔を、二度と曇らせるものか! 一成は椅子から立ち上がった。 机の引き出しから封筒を取り出し、数枚の指令書を取り出す。「早瀬を呼んでくれないか」 傍に控えていた執事に声をかけると、彼が部屋を出ていく。まもなく現れたのは、浅野商会の密偵として動く青年・早瀬茂雄(はやせしげお)だった。「晩餐会の出席者の中に、西条綾音という名がある。動向を探って欲しい。交友関係、同行者、目的――一切漏らさず調べて欲しい」「承知しました」「恐らく西条綾音は美桜の敵だ。我が妻をこれ以上傷つけないためにも、準備が必要だ。妻が世話になったらしいから、僕が直接潰す」 いつもは穏やかな一成の低く唸るような声を聞き、早瀬は言葉を失う。 その瞳に浮かんだのは、静かな怒りと美桜を守り抜こうとする決意だ。「仰せのままに。必ず突き止めます」 「ご苦労。頼んだよ。桐島も恐らく参加するだろう。そっちの方も頼むよ」 「はい、かしこまりました」 早瀬は一礼し、一成の前から姿を消した。早速主人の依頼である西城家に向かった。その後は桐島家。 一成を怒らせるとは、なんとも命知らずな奴らだ―― ※ 一方その頃―― 帝都中心部にある、仕立て屋から灯りが漏れている。 夜の帳が降りる頃、鏡の前で綾音がドレスの裾を揺らしていた。 深紅の絹。裾には黒薔薇を模したレースが流れ、まるで毒花のような艶を放っている。「完璧ね!」 夜会は清純な恰好をしている女が多いため、少しでも印象付
その夜。 浅野邸の応接間の高級家具のひとつであるに美桜は座っていた。窓の外では風が桜の蕾を揺らし、まだ肌寒い空気が春の訪れを告げている。 一成は、当時上流階級の家庭にしかなかったソファに腰を下ろし、美桜のために紅茶を淹れてくれた。 琥珀色の液体が、灯りを受けてきらりと光る。「美桜、寒くないかい?」 「大丈夫。ありがとう、一成くん」 笑顔を浮かべながらも、胸の鼓動は落ち着かなかった。 愛されることを知った心は、こんなにも脆く、こんなにも怖いものなのだ。 一成の手が、美桜の手を包み込む。その手の温もりが、いつまでも自分のものだけであればいいのに。 穏やかな日々が過ぎていく中、晩餐会に向けた支度が始まった。屋敷の奥の衣装部屋には、洋装職人たちが招かれ、美桜のためにドレスの仕立てが行われていた。 鏡の前に立つ美桜の頬は、少し紅潮している。 薄紫の絹に桜色の刺繍を施したドレスは、上品で柔らかく、彼女の清楚さを引き立てていた。