綾音は近づきレースの端を引き気味に触れた。「明日の夜会、あなたも来なさい。新しいドレスは要らないわ。その下働きの布でも着て来ればいいわ。私の引き立て役をしてちょうだいね」 夜会に着ていくドレスなどがないことをわかっていながら、綾音が意地悪を言う。 風が止む。白布が斜めに垂れて、地面の影が濃くなった。 夜会。社交の中心――かつて父に手を引かれて歩いた大広間、楽の音、笑声、独特な匂い。 あの眩しさの中に、今の自分の姿で立つのだという。美桜は覚悟と羞恥の重さを同じ秤で測るように、「わかりました」と頷いた。 夕刻。召使としての時間は忙しい。 台所の竃に火を入れる。焔が薪を喰い、ぱちぱちと弾ける。米を研ぎ、味噌を解き、出汁を合わせる。湯気が顔に触れ、いい香りが漂う。 ふと湯気の向こうに父の横顔が浮かんだ。夜会のことを持ち出されたから、心の隅から当時の記憶が呼び覚まされたのだろう。 立派な書斎で羽根ペンを走らせる真剣な横顔。 よく帝都へも連れ出してくれた。商談をまとめた日の帰り道、「美桜、世の中は風のように変わるが、人の器は風に攫われぬ。心があるからな」と笑った。 心は残る。ならば、どんなにみすぼらしくても私はまだ私でいられる――揺らめく炎を見つめながら、美桜は思った。いまはくすんだ灰色で虐げられていても、頑張っていれば綺麗な花が咲かせられると、その時を信じて。 夕食の準備が整うと、次は食卓の時間だ。綾音とその母は、上座に並んで座る。美桜は台所と座敷の間を何度も往復し、皿を置いては下げ、湯を替え、茶を足す。 綾音の母は、柔らかな声で言った。「明日は綾音の顔合わせも兼ねているの。粗相のないように支度を整えなさい」「はい」「そうだわ美桜。確か古いドレスが倉にまだあったはず! ねえ綾音、あの子が着れば、きっと似合うわよね。美桜も年頃なんだから、そのドレスを着ていらっしゃいよ」 煤汚れた古いドレスを、夜会に着てついて来いというおば。美桜に恥をかかせたいだけなのだろう。 辱めにはもう慣れた。美桜は「かしこまりました」と告げ、急須に入れた茶をもう一度注いだ。 夜、部屋に戻る。といっても、物置の一角を屏風で区切った寝所である。薄い布団と、木箱がひとつ。木箱の中に両親が残してくれた形見が少しだけ入っている。針と糸と、髪飾りと、白いボタン。そ
Huling Na-update : 2025-09-28 Magbasa pa