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last update Last Updated: 2025-09-28 06:00:04

 綾音は近づきレースの端を引き気味に触れた。「明日の夜会、あなたも来なさい。新しいドレスは要らないわ。その下働きの布でも着て来ればいいわ。私の引き立て役をしてちょうだいね」

 夜会に着ていくドレスなどがないことをわかっていながら、綾音が意地悪を言う。

 風が止む。白布が斜めに垂れて、地面の影が濃くなった。

 夜会。社交の中心――かつて父に手を引かれて歩いた大広間、楽の音、笑声、独特な匂い。

 あの眩しさの中に、今の自分の姿で立つのだという。美桜は覚悟と羞恥の重さを同じ秤で測るように、「わかりました」と頷いた。

 夕刻。召使としての時間は忙しい。

 台所の竃に火を入れる。焔が薪を喰い、ぱちぱちと弾ける。米を研ぎ、味噌を解き、出汁を合わせる。湯気が顔に触れ、いい香りが漂う。


 ふと湯気の向こうに父の横顔が浮かんだ。夜会のことを持ち出されたから、心の隅から当時の記憶が呼び覚まされたのだろう。

 立派な書斎で羽根ペンを走らせる真剣な横顔。

 よく帝都へも連れ出してくれた。商談をまとめた日の帰り道、「美桜、世の中は風のように変わるが、人の器は風に攫われぬ。心があるからな」と笑った。

 心は残る。ならば、どんなにみすぼらしくても私はまだ私でいられる――揺らめく炎を見つめながら、美桜は思った。いまはくすんだ灰色で虐げられていても、頑張っていれば綺麗な花が咲かせられると、その時を信じて。

 夕食の準備が整うと、次は食卓の時間だ。綾音とその母は、上座に並んで座る。美桜は台所と座敷の間を何度も往復し、皿を置いては下げ、湯を替え、茶を足す。

 綾音の母は、柔らかな声で言った。「明日は綾音の顔合わせも兼ねているの。粗相のないように支度を整えなさい」

「はい」

「そうだわ美桜。確か古いドレスが倉にまだあったはず! ねえ綾音、あの子が着れば、きっと似合うわよね。美桜も年頃なんだから、そのドレスを着ていらっしゃいよ」

 煤汚れた古いドレスを、夜会に着てついて来いというおば。美桜に恥をかかせたいだけなのだろう。

 辱めにはもう慣れた。美桜は「かしこまりました」と告げ、急須に入れた茶をもう一度注いだ。

 夜、部屋に戻る。といっても、物置の一角を屏風で区切った寝所である。薄い布団と、木箱がひとつ。木箱の中に両親が残してくれた形見が少しだけ入っている。針と糸と、髪飾りと、白いボタン。そして真珠のネックレス。

 箱からボタンを取り出し、掌にのせる。丸い光は、油灯の炎を小さく映していた。

 この光が、今の自分にも灯っている証だと思いたい。

 明日、私は灰色の布のまま、大広間に立つ。

 笑われるのだろう。値踏みされるのだろう。

 ――それでも、背筋を伸ばそう。父の言ったとおり、美しい桜のままで。

 汚れているなら、洗えばいい。壊れているなら、直せばいい。私にはその技術があるのだから。

 目を閉じると遠くで三味線の音が流れた。今宵も広い世で誰かが唄い、誰かが笑い、誰かが泣いている。

 明日の大広間にも、笑い声と泣き声が同居する。

 どちらに自分の声が混じるのか、まだ分からない。

 ただ、歩く先だけは、自分で選ぶ。

 油灯を吹き消す前に、もう一度ボタンを撫でた。糸の端が指にやさしく触れる。

 灯が落ち、闇があたりを優しく包む。

 美桜は目を閉じた。

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