ログイン 馬車の車輪が白い石畳を静かに叩いた。
帝都一の名門財閥。
美桜は、喉の奥で息を飲んだ。
(懐かしい…けれど、こんなにも遠い場所になってしまった)
父と最後にこういった財閥の夜会を開いてくれる家門をくぐったのは7年前。美桜が13歳の時だった。現在彼女は20歳。
今さらその犯人を捜しても、父も母も戻ってこない。しかも7年も前の話。誰も覚えていないだろう。
「降りなさいよ、美桜」
綾音の冷たい声が降ってきた。
「どんくさいわね。さっさと行きなさい!」
馬車の扉が開き、夜風が頬を撫でる。
「私が先頭よ」
「心得ております、綾音様」
自分より美しい美桜を先に立たせてはいけないと思い、先陣を切って歩き出す綾音。
その後ろから美桜もついていった。ざわ…と、周囲の空気が微かに揺れた。
白いドレスを纏い、光を背に立つ美桜。
「…誰? あの人」
囁きが広がる。
「調子に乗らずに、奥に引っ込んでいなさい。誰もアンタなんか見向きもしないから」
その言葉に美桜は静かに微笑んだ。「承知いたしました」
社交広場には興味が無かった。社長などが集まっているラウンジへ行ってみようとしたその時、後ろから、男の声がした。
「初めて見る顔だな」 その声は低く、艶を帯びていた。
綾音が、にやりと笑った。「まぁ、桐島様」
「お久しぶりです。こちら、うちの従妹の美桜と申しますの」
わざと声を大きくし、周囲に聞かせるように紹介した。
男の口元がゆっくりと上がる。
「へえ。没落令嬢ね。西条家も人がいい」
「いいね。――君、踊れる?」
会場の音楽がタイミングよく変わり、甘いワルツが流れ始めた。
美桜は悩んだ。綾音を差し置いて踊ってもいいのだろうか。
その言葉に、美桜は思わず笑った。「ふふ……あなたたち、本当にそっくりね」 双子は顔を見合わせ、どちらからともなく美桜の裾を握る。 「だって、おかあさまがだいすきなの」 「ずっと、いっしょにいるの」 胸の奥が、じんわりと温かくなる。 ――東条家が没落したあの日、すべてを失ったと思った。名前も、家も、居場所も、未来も。 けれど今。 愛される日常。 守るべき命。 信じ合える人たち。 それは、誰かを蹴落として得たものではない。 踏みにじられながらも、立ち上がり、手を取り合って積み重ねてきた時間の結晶だった。 帝都一の富豪の夫と、その子供のふたりに、自分は溺愛されている、と感じる。「美桜」 一成が、穏やかな声で
三年後。帝都に、また春が訪れていた。 浅野商会が手がける新設デパートは、今や帝都の象徴となり、その最上階に設けられた催事場には、朝から多くの人々が集まっていた。 あれから西条家は失脚し、綾音たちは路頭に迷い、その末路を知るものはいない。 桐島家も同様。世間からは見放され、地方の田舎で貴族たちにこき使われながら質素に暮らしているという風の噂だ。康臣は犯した罪の重さから、まだ獄中にある。京や薫子、綾音たちは存分に贅沢な中で生きてきた。これから先の人生までも、絶望に至っていることだろう。 もちろん、彼らの人生の末路など、一成たちの頭からは抜け去っている。世間も彼らのことは忘れていた。 美桜もまた然り。本日はデパートで催事がある。 彼女が立ち上げた子ども服ブランド《花桜(HANAZAKURA)》の披露パーティーがあるのだ。 かつて没落令嬢と呼ばれ、すべてを失った少女は、今や東条紡績会社の創業者として、そして浅野家の女主人として、この場に立っている。 彼女の足元で、二人の子どもが小さな声で笑った。「おかあさま、あれが、わたくしたちのふく?」「そうよ。今日は、あなたたちが主役なの」
翌朝。帝都の朝は、これまでになくざわめいていた。 新聞売りの声が通りに響き、見出しを見た人々が足を止める。『名家 西条・桐島 両家の闇』『東条家没落の真相、ついに白日の下に』『西条康臣 逮捕――帝都政財界に激震』 それは誰の目にも明らかな「終わり」と、「始まり」の知らせだった。 浅野邸の庭では、やわらかな陽光の下、美桜が双子をあやしていた。 小さな手が彼女の指を掴み、無邪気に笑う。「平和ね」 ぽつりと零したその言葉に、一成が背後から微笑む。「ああ。やっと、ここまで来た」 美桜の肩にそっと手を置き、庭の先の空を仰ぐ。「君が一人で背負ってきたものを、ようやく下ろせたな」 美桜は双子を胸に抱き、ゆっくりと頷いた。&
そのときだった。「――美桜様っ!!」 駆け足の音とともに、聞き慣れた声が広間に響いた。次の瞬間、勢いよく飛び込んできた洋子が、美桜の姿を見つけるなり目を見開く。「……っ、美桜様ぁ……!!」 躊躇は一切なかった。 洋子はそのまま美桜に抱きつき、ぎゅっと腕を回した。「よかった……よかったです……!! ご無事で……っ……!!」 肩を震わせ、声を殺しながら泣く洋子の背中に、美桜はそっと手を回した。「洋子さん……心配をかけてごめんなさい」「違います……! 美桜様を守ると決めていたのに……私が……私がわる……っ……」 自分を責める言葉は、嗚咽に紛れて途切れ途切れになる。「洋子さん」 美桜は少しだけ距離を取り、真っ直ぐ彼女の目を見た。&
一成の腕の中で美桜はようやく息をついた。 胸いっぱいに溜め込んでいた恐怖と緊張が、遅れて押し寄せてくる。「来てくれてありがとう。よく見つけてくれたね」「当たり前だ。君がどこに行こうと、必ず見つけ出すよ」 一成はそう言って、美桜の額にそっと額を重ねた。 その仕草は、夫としての確信と、失うことへの恐怖が混じったものだった。 背後では康臣が床に押さえつけられ、なおも喚き散らしている。「放せ! 儂を誰だと思っている!! 浅野ごときに、この西条を裁く資格があるか!!」 その叫びに、京がかすれた声で笑った。「まだ、そんなことを言ってるのか……」 京は肩を押さえながら、ゆっくりと上体を起こした。足も撃たれているので相当重症だ。 血に濡れ、息も絶え絶えだが、その目には不思議な落ち着きが宿っていた。「あんたは……なーんもわかってない」 康臣が睨みつける。「黙れ! 裏切り者が!!」「それはこっちの台詞だ」 京は視線を逸らさず、はっきりと言った。「人を道具にして裏切って……全部壊したのは、あんただろ」 吐き捨てるように言った。「俺は証言するよ」 どうせ自分が証言しなくても、一成が美桜のために証拠を手に入れるだろう。「……もう俺もあんたも終わりなんだよ」 静かな言葉だった。 だが、その一言は、康臣を確実に締め上げた。「京様」 美桜が名を呼ぶ。京はほんの一瞬だけ、昔の面影を残した笑みを浮かべた。「全部話す」 一成が静かに頷いた。「それがいい。君自身の罪と向き合う唯一の道だ」 京は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。「もう終わりにしたい……うっ……」 痛