「お断りなんてしないでね。せっかくお声がけいただいたんだから」
京――桐島京(きりしまきょう)は、にこやかに片手を差し出していた。
(この方が、桐島家の御曹司……)
「わたくしでよければ、喜んで」
美桜が小さく頭を下げると京は満足げに微笑み、白い手を軽く取り、そのまま会場の中央へと導いた。
音楽が流れる。
「見事だ」京が小さく囁く。「まるで月下の女神だな」
「お上手ですね」
美桜は微笑みながらも、視線は彼の胸元に落ちた。燕尾服の金のボタンが、まるで夜空の星のように光る。「桐島様は……実業をなさっていると伺いました。父もかつて、紡績の仕事に携わっておりまして」
京は眉をわずかに動かす。
「よかったらわたくしを、桐島様の工場で働かせてもらえませんか?」
「なぜ? 西条家でやっかいになっているのだろう?」
「あまりご迷惑になりたくないのです。できれば自立したいと考えています」
ひどいいじめに遭っていると告げ、万が一彼女たちの耳にでも入ったら、どんな叱責をされるかわからない。綾音たちのことは言わず、あくまでも自立が目的というように伝えた。「偉いね。立派な考えだ」
「ありがとうございます。父のおかげで裁縫は得意なのです」
「へえ、興味深いな。君のご実家は? そういえばさっき綾音さんが君の家は没落したと言っていたね」
「はい。実家は東条と申します。もう、7年も前に没落いたしましたが」
言葉が途中で途切れた。
音楽は変わらないのに、空気がひやりと冷たくなる。
「東条?」
低い声。
(なに…? なにか変なこと言ったかしら?)
「いや、失礼。少し聞き覚えがあってね」
そう言って、彼はゆっくりと彼女をバルコニーへ導いた。
――静寂だった。世界の音が、すべて消えていた。 耳の奥では、自分の心臓の音だけが鳴っている。 どくん、どくんと、痛いほどに強く。 気が付くと、朝になっていた。 ゲストルームでもなく、見知らぬホテルのような部屋だ。大きなベッドに横たえられている。西条の屋敷とは格が違う大きな屋敷に思えた。西条の家は小さな庭園のある日本家屋を、無理やり洋風に増築したような家。この家は最初からモダンな洋装の部屋だ。しかも広い。 (ここはどこなの…?) 布団はかかっていたが、美桜は裸だった。そういえば昨日、京にもらったシャンパンを飲んでから、おかしくなった。 昨夜の記憶が、断片的に蘇る。 乱れた呼吸、苦しいほどの男の圧、耳元で笑う京の声。引き裂かれた体――… 彼に襲われ、散々花を散らされ――思い出すと身体が震えた。 まるで自分の身体が、もう自分のものではないように感じる。
夜風がやさしく頬を撫でた。 だがその風の中に、微かな不穏の匂いが混ざっている。 胸の奥がざわめく。何かが迫ってくる。 けれど、それが何かまでは思い出せない。 美桜は椅子に座ったまま、ゆらりと揺れる視界を見つめた。 足元の絨毯が波打ち、壁の装飾がゆがんでいく。「酔ってしまったんだね。少し、休もうか」 京の声が近くで響いた。 その声音は相変わらず穏やかなのに、なぜか恐ろしく感じる 彼が腰を落とし、同じ高さで美桜の顔を覗き込む。 黒曜石のような瞳が、ゆっくりと彼女をとらえる。「やっぱり、綺麗だな」 低く囁く声が耳の奥で溶けた。距離が近い。息がかかる。 その温もりが、まるで毒のように皮膚に沁みていく。
夜風が吹き抜け、遠くの街灯が煌めく。 テラスの欄干越しに見える帝都の夜景は、まるで金粉をまいたように光っていた。「飲み物を取ってくるよ。少し待っていてくれ」「ありがとうございます」 さすがだと思った。女性の扱いに慣れている。 京は少しして戻ってきた。シャンパンのグラスのひとつを美桜の前に差し出した。「美女を前にすると、緊張するな」 優しい声音。 その微笑みに、美桜はほっとしたように笑みを返す。「美女だなんて、そんあことありません」「いや、美桜さんは素敵だ。今日がデビューなんて信じられないよ。ダンスもうまいし度胸がある」「ありがとうございます。こんな華やかな夜会は久しぶりで、緊張しています」「そうか。なら、今日は思いきり楽しんで」
「お断りなんてしないでね。せっかくお声がけいただいたんだから」 綾音が耳元で囁く。 美桜はわずかに息を呑んだ。 京――桐島京(きりしまきょう)は、にこやかに片手を差し出していた。 光沢のある燕尾服に身を包み、黒曜石のような瞳が静かに笑っている。その笑顔には、穏やかさと――何か掴めない危うさがあった。 (この方が、桐島家の御曹司……) 帝都でも指折りの貿易商の息子。美桜の父が経営していた東条工場とも、かつて取引があった。 桐島家は東条の工場に出入りし、作られた日本製品を海外で売っていたからだ。もし、うまく話すことができれば――父の様子や、それがわからなくても、どこかの紡績工場での仕事の口利き相談ができるかもしれない。そんな希望が美桜の頭に浮かぶ。「わたくしでよければ、喜んで」 美桜が小さく頭を下げると京は満足げに微笑み、白い手を軽く取り、そのまま会場の中央へと導いた。 音楽が流れる。 ワルツの旋律が甘く絡み、クリスタルのシャンデリアが光を降らせる。 美桜の裾が風を
馬車の車輪が白い石畳を静かに叩いた。 煌びやかな街灯の列が遠くまで続き、やがて、その先に光り輝く大広間――浅野邸の門が見えた。 帝都一の名門財閥。 噴水の前には、絹と香水の香りを纏った令嬢たちが集まり、宝石が夜の光を跳ね返している。 音楽が聞こえる。バイオリンの旋律、笑い声、シャンパンの泡のはじける音――まるで別世界。 美桜は、喉の奥で息を飲んだ。(懐かしい…けれど、こんなにも遠い場所になってしまった) 父と最後にこういった財閥の夜会を開いてくれる家門をくぐったのは7年前。美桜が13歳の時だった。現在彼女は20歳。 あの日の父の誇らしい背中が脳裏にちらつく。父に借金を押し付け、逃げた友人というのはどこの誰なのだろうか。もし、東条のことを知っている人間なら、なにか手がかりがあるかもしれない。 今さらその犯人を捜しても、父も母も戻ってこない。しかも7年も前の話。誰も覚えていないだろう。「降りなさいよ、美桜」 綾音の冷たい声が降ってきた。
外灯が美桜の輪郭をやわらかく照らしていた。 淡く光沢のある白いドレスが、夜の帳の中で静かに息づいているように輝く。 手入れを施され、縫い直された糸の一本一本が、彼女の生きた証のように光を反射していた。 裾を握る指先、磨き上げた真珠の輝き、結い上げた夜会巻きの髪―― どれを取っても、完璧。だがその完璧さは贅沢でも虚飾でもない。 誇りと努力が、彼女自身を装飾していた。 冷たい風が吹き抜け、背後の街路樹が小さく揺れる。 ひとひらの花弁が舞い、彼女の肩にそっと落ちた。 美しい映画のワンシーンのような光景に、綾音も母も言葉を失った。「あ、あんた……その格好、なに……?」 綾音の声が震える。 足取りは止まり、喉が詰まって息が浅くなる。 その横で母も口を開けたまま、なにも言えなかった。 煤けた下働きの娘――そのはずだった美桜が、今、まるで帝都一の舞踏会に咲く舞姫のように、静かにそこに立って