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last update Terakhir Diperbarui: 2025-10-01 06:00:31

 「お断りなんてしないでね。せっかくお声がけいただいたんだから」

 綾音が耳元で囁く。

 美桜はわずかに息を呑んだ。

 京――桐島京(きりしまきょう)は、にこやかに片手を差し出していた。

 光沢のある燕尾服に身を包み、黒曜石のような瞳が静かに笑っている。その笑顔には、穏やかさと――何か掴めない危うさがあった。

 (この方が、桐島家の御曹司……)

 帝都でも指折りの貿易商の息子。美桜の父が経営していた東条工場とも、かつて取引があった。

 桐島家は東条の工場に出入りし、作られた日本製品を海外で売っていたからだ。もし、うまく話すことができれば――父の様子や、それがわからなくても、どこかの紡績工場での仕事の口利き相談ができるかもしれない。そんな希望が美桜の頭に浮かぶ。

「わたくしでよければ、喜んで」

 美桜が小さく頭を下げると京は満足げに微笑み、白い手を軽く取り、そのまま会場の中央へと導いた。 

 音楽が流れる。

 ワルツの旋律が甘く絡み、クリスタルのシャンデリアが光を降らせる。

 美桜の裾が風をはらみ、白い花のように舞い上がった。

「見事だ」京が小さく囁く。「まるで月下の女神だな」

「お上手ですね」

 美桜は微笑みながらも、視線は彼の胸元に落ちた。燕尾服の金のボタンが、まるで夜空の星のように光る。

「桐島様は……実業をなさっていると伺いました。父もかつて、紡績の仕事に携わっておりまして」

 京は眉をわずかに動かす。

「紡績か。まあ、そうだな」

「よかったらわたくしを、桐島様の工場で働かせてもらえませんか?」

「なぜ? 西条家でやっかいになっているのだろう?」

「あまりご迷惑になりたくないのです。できれば自立したいと考えています」

 ひどいいじめに遭っていると告げ、万が一彼女たちの耳にでも入ったら、どんな叱責をされるかわからない。綾音たちのことは言わず、あくまでも自立が目的というように伝えた。

「偉いね。立派な考えだ」

「ありがとうございます。父のおかげで裁縫は得意なのです」

「へえ、興味深いな。君のご実家は? そういえばさっき綾音さんが君の家は没落したと言っていたね」

「はい。実家は東条と申します。もう、7年も前に没落いたしましたが」

 言葉が途中で途切れた。

 京の指先が、わずかに強く美桜の腰を掴んだのだ。

 音楽は変わらないのに、空気がひやりと冷たくなる。

 「東条?」

 低い声。

 その一言に、笑みが消えた。

(なに…? なにか変なこと言ったかしら?)


 美桜が見上げると、京の表情はすぐに元の優しげな微笑みに戻っていた。

「いや、失礼。少し聞き覚えがあってね」

 軽く笑いながら美桜の手を引く。「踊りながら話すのはよくない。少し休もうか」

 そう言って、彼はゆっくりと彼女をバルコニーへ導いた。

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