LOGIN長らくの間虐げられてきた美桜は、幼い頃の縁で親切にしてくれているのだと勘違いをしていた。
一成の深い愛情を受け止めるには、まだ、心が整っていない。 きちんと結婚し、正式に浅野家に迎えられたとはいえ、没落華族の自分では彼を大成させることはできないだろう。いずれ別れることになるのだと覚悟していた。 結婚したと騙されていた自分を哀れんでくれた彼のやさしさに、いつまでも甘えるわけにはいかない。少しでも多くの縫物をして給金を稼ぎ、出る時に礼金として渡そう――子供を産むまで世話になって、落ち着いたら出て行こう、とそのように考えていた。「たまには外に出ようか。帝都の空気を吸うと、いい気分転換になるよ」
そう言って一成が差し出した手を、美桜は一瞬ためらってから握った。
その掌のぬくもりは、嘘偽りのないものだった。一成は馬車で移動できるように用意をしてくれた。乗り込むと隣り合わせで座り、ゆっくりと進んでいく。開放的な馬車なので、帝都の景色がよく見える。
「わあ…」 久しく外を歩くことがなかったため、街の移り変わりの速さに美桜は感嘆の声を上げた。「桜が綺麗…」「君の名前は美しい桜の季節に産まれたから、美桜と名付けたのだと君の父上から聞いたよ」「ありがとう」「僕にとって美桜は、帝都一美しい桜よりも綺麗だよ。どんな令嬢よりも素敵だ」早瀬は洋子と別れたあと、最短距離で一成のもとへ駆けた。 昼の帝都は人で溢れているが、今の彼の視界には何も映らない。ただ、最悪の事態を避けるために、一秒でも早く辿り着かなければならなかった。「旦那様!」 曲がり角を抜けた先。一成は別の護衛に護られながらあまり目立たないようにその場の風景に溶け込んでいた。「早瀬。どうだった?」「大変です。実は――」 早瀬は一歩前に出ると、深く頭を下げた。先ほどの怪しげな行動をしていた男は、実は洋子が返送していたものだということ、更に洋子から聞いた詳細を彼に伝えると、みるみる一成の顔が険しくなっていった。「奥様は桐島京に連れ去られたようです。洋子の代わりに人質になったと聞きました。それを止められなかったのは、このわたくしの監督不行き届きです。いかようにも責任を取ります故、どうか、洋子の処罰は考えていただけないでしょうか!! 彼女は精一杯奥様を守るために尽力いたしました」 感情を表さない男が、初めて誰かのために頭を下げているところを一成は初めて見た。早瀬の表情が鋭く引き締まる。「洋子は……? 自ら処罰を受けると申し出ているのか」
洋子は唇を噛み歩調を一定に保った。 焦れば視線が乱れ、気配が漏れる。今は追う者ではなく、影であらねばならない。 その時だった。 前方にばかり気を取られていたため、ぐい、と腕を引かれて路地へ連れ込まれた。 しまったと思った時にはもう遅かった。「怪しいやつ、旦那様に近寄る不届き者が!」 男性用の帽子を目深く被っていたため、顔が見えなかった。「姿を見せろ!」 帽子をはぎ取ってその顔を拝むと、洋子を路地へと引き込んだ男が逆に驚いた顔を見せた。それは、早瀬だった。「洋子!?」「早瀬様……なぜここへ? もう、伝令を聞かれたのですか?」「伝令? なんのことだ。それよりここでなにをしている?」「いけません! 今はこうしている場合ではありません。すぐに追わなければ!!」
帝都の昼は、あまりにも無防備だった。青空の下で人々は笑い、荷車は軋み、商いの声が交差する。 誰もが今日も平穏な一日が続くと信じて疑わない。その中を桐島京は、浅野美桜の腕を掴んだまま歩いていた。 馬車は使わない。昼間の人目を逆手に取るためだ。「……余計なことはするな。普通に歩け」 低く、押し殺した声。 刃物は袖の内側、美桜の脇腹付近に押し当てられている。 だが京の歩調は一定ではなかった。 速くなったかと思えば、急に緩む。(……怖いのね) 美桜は、京の持つ感情をはっきりと感じ取っていた。 彼は計画的な悪人ではない。 すべてを失いかけた男が、必死に最後の一手に縋っているだけだと予想して、それは実際に当たっている。 美桜は視線を前に向けたまま静かに口を開いた。「ねえ、京様」
京の腕に絡め取られたまま、美桜は屋敷の裏手へ引きずられていった。砂利を踏む音がやけに大きく耳に刺さる。「静かにしろ。叫べば、今度こそ殺す」 耳元で囁かれた声は、ひどく乾いていた。 正気を失いかけた人間のそれだと、美桜は瞬時に理解する。(落ち着いて。今は、時間を稼ぐしかない) 抵抗すれば、彼は本当に刃を振るう。 洋子も、駆けつけようとしている警備の者たちも、まとめて危険にさらすことになる。 美桜は、ゆっくりと息を整えた。「わかったわ。叫ばない。だから、刃物を少し下げて」「は?」「あなた、手が震えている。そんな状態で人を脅しても、事故になるだけよ」 京の動きが、一瞬止まった。 図星だったのだ。
刹那、洋子の背後から伸びた腕が、彼女の首元にナイフを突きつけた。「……動くな」 低く、掠れた声がする。 洋子が振りほどこうと身を捩るが、男の力にはかなわない。「洋子さん!」 美桜は反射的に前へ出た。「やめて! その人から離れて!」 その声に、京はにやりと歪んだ笑みを浮かべる。「相変わらず優しいな。美桜。俺の目的はお前だ。こいつの代わりに人質になるなら、この女は許してやろう」「だめです美桜様! こんな男の言うことを聞いてはいけません! きゃっ」 京が洋子の頬を殴りつけた。「黙れ!!」 彼は本気だ。捨て身の覚悟でここへ来たのだ。 彼の目からその狂気が読み取れた。 「あなたの言う通りにする。だから洋子さんを離して!」「聞き分けがいいな。さすが美桜だ。なら、手を挙げてこっちへ来い」 洋子の悲鳴を聞きつけた警備の者たちがやってきた。厳重にしていたはずなのになぜ、桐島京がここへたどり着けたのだ!?「下がりなさい! 彼を刺激しないで!」
夜が明けた。けれど、穏やかだったのはほんの一瞬だけだった。 昨夜の熱をまだほんのり肌に残したまま、美桜は双子の世話をし、一成は執務室で早瀬と話し合いを進めていた。 その声には、昨夜の柔らかさのかけらもない。 浅野家当主としての、鋼のような緊張が張りつめていた。 そして数日後、いよいよ一成は洋子や早瀬の働きのおかげで、東条家を窮地に追いやり、没落させたという証拠を掴んだ。「これが、東条家を没落させた本当の証拠なんだな。よくやったぞ!」「はい、旦那様。裏帳簿、放火の指示書、借金の偽装書面……すべて揃いました。西条家と桐島家の癒着も、これで確実に暴けます。先日侵入できたのが大きな一歩でした」「洋子にも感謝しなきゃな。危険な橋を渡ってくれたんだろう?」「俺ひとりでは無理でしたが、彼女が見張り役を買ってくれたおかげで、うまくことが運びました」「よし、早速桐島家に向かおう」 一成は書類を手