「雄蛇ヶ池で体調が悪くなって、ホテルに戻ることにした」
「分かった。敵に襲撃されたんじゃなきゃ、それでいいよ」 敵の襲撃? そんなのがいるなら最初から言ってくれればいいのに。あたしが言葉を返さなかったことで察したらしく、「人柱を埋めた輩が反抗してくるはずだから」「それってどんな」「人の形してるけど見ればすぐヤバさが分かる」 明日の予定を伝えて電話を切り冬凪にスマフォを返す。「中止でいいみたい」「エリさん何か言ってなかった?」「うん。敵に気をつけろって」「敵ね。それって、ああいうヤツのことかな」 冬凪が指さしたバイパスの向こう側の歩道に、ボサボサの簔(みの)を着て破れた編み笠(あみがさ)を被った小柄な人が3人立っていた。それぞれが編み笠の破れの間から黄色く濁った目でこっちをじっと見つめている。どんよりと重苦しい空気が漂っているのはその人たちの周りだけかと思ったけれどそうではなかった。あたしたちの周囲のもの全てが無表情で味気なく、聞こえる音もずっと遠のいて感じた。まるで別世界にずれてしまったようなこの感覚は、鈴風と乗った辻バスで一度体験したものだった。あの時はあたしだけ成工女のギャルたちが見えていたけれども。「冬凪にもあれが見えるんだね」「うん」 あの時よりずっと心強かった。 その人たちはバイパスを通る車のことなどいっさい無視して道を真っ直ぐに渡ってこちらに近づいてきた。車のほうもスピードを緩めないけれど、別世界の存在だからなのかまったく衝突しないのだった。そして中の一人が中央分離帯を越えたあたりで、あたしはこいつらが相当ヤバいことに気がついた。簔の藁の間からいくつもの生首が覗いていて、その一つ一つが「ともがらがわざをまもらん」 と同じ事を呟いていたからだった。「冬凪。逃げたほうがよくない?」「逃げるっても後ろないから」 そう言えばこのバス停は大曲大橋の真ん中、つまり雄蛇ヶ池の真上にあるのだった。水面までおそらく十数メートル。落ちて生きていられるかわからない。「どうしよう?」「闘うしかなさそうだよ」冬凪たちの所に戻って、 「用件、おわっちゃった」 「どういうこと?」 それで冬凪にヤオマン御殿で会った高倉さんのことを、宮司の奥様だと言ったことも含めて話した。 「調家のお手伝いさんしてる人も高倉って名前の人だった。年のころも同じくらいで、いつも和服とかもイメージ一緒」 「とっても綺麗な人なんだけど、どこかで見たことあるような」 「そうそう。あたしも会った時そう思った」 ということで、冬凪とあたしは調家に行ってみることになったのだった。 「これから調家に行くけど、豆蔵くんたちはどうする?」 「「うう」」 「行くって」 なんで冬凪には豆蔵くんと定吉くんの言葉が分かるのだろう。 調邸が建っているのは元廓の爆心地だ。もちろん今、目の前にあるのは白いコンクリ建ての美術館のようなお屋敷だけれど、5ヶ月後、この建物が隣の前園邸もろとも吹っ飛んでなくなるなど誰が想像できるだろう。 冬凪が真っ黒い鋼鉄製の門扉の横にあるインターフォンを押した。 〈♪ゴリゴリーン〉 少しの間があって、 「はい。どちら様でしょうか」 「いつもお世話になっています、フィールドワーカーのサノクミと申します。今日は高倉様にお話を伺いに参りました」 声が明るくなって、 「わざわざありがとうございます。いま、門扉を開けますね」 インターフォンを通してだけど高倉さんの声に似ている気がした。 重厚な響きをさせて門扉が開くと、青々とした芝生の中に白いスロープが続いていた。 「サノクミ?」 スロープを並んで歩きながら聞いてみた。 「鞠野フスキがつけてくれたこっち用の名前。これがとっても使い勝手がいい名前で、鞠野フスキの紹介で調由香里さんに初めて会った時、まるであたしを前から知ってるみたいに歓待してくれたんだよね。四ツ辻の紫子さんの時もそうで、不思議だった」 冬凪が調家をどうやって知ったかと思ったら、そういうことだったんだ。あたしのコミヤミユウはどうなんだろう。人に好かれる名前だといいけれど。 「何で鞠野フスキは別の名前を付けるんだろ?」
石段が濡れているせいか、それとも森閑とした杜の雰囲気のせいなのか、一歩一歩上るごとに静謐な気持ちになってゆく。こんな感覚は、辻沢再生プロジェクトで十六夜とVR内の宮木野神社にロックインしていた時には感じなかった。……十六夜。足を止めて後ろを振り返る。そこからは辻沢の町並みが見渡せた。N市のベッドタウンとしての新しい町並みの中に、戦国時代の前から続く古い町並みが取り込まれているのが見て取れた。その古い町並みが辻沢遊郭のあった場所で、そこからさらに南にあるのがお屋敷街の元廓(もとくるわ)だ。そこに、十六夜がいるヤオマン御殿があるはずなのに見当たらない。そうだった。20年前はまだないのだ。元廓で大爆発があった後に建てられたって高倉さん言ってたし。「元廓の爆心地が出来るのっていつだっけ?」 少し先を上っていく冬凪に聞くと、足を止めずに、「この時点から4ヶ月後の9月末。その前の7月末の深夜に役場倒壊事故があって、未明に六道辻の爆心地が出来る」 まるでスケジュール表を見ているかのように返してきた。要人死亡事案を調べている冬凪にしてみればその瞬間に立ち会いたいと思うはずなんだけれど、今のところ20年前以外関係なさそうだった。「どうして5月の辻沢にあたしを連れてきたの?」 冬凪は足を止めて振り返り、「実は、あたしにも分からないんだよ。千福まゆまゆさんに夏波を連れていらっしゃいって言われて着いたら今ここだっただけなんだ」「土蔵で日程三日って言ってたから」 てっきり冬凪が主導しているのだと思っていた。「あー、アレ? 荷物のせい。あの量だと三日がせいぜいと思ったから」 そういう事だったの?「じゃあ、千福まゆまゆさんに聞けば分かる?」 冬凪は顎に指を置くいつものポーズになってしばらく考えていたけれど、眉間に皺を寄せるばかりで何も思いつかないと言った風で黙ったままだった。そしてようやく口を開いて、「そうでもなさげなんだよね」 マジか。冬凪が感じてたふわふわ感って、そういう所からなんじゃ。 石段を登り切ると、目の前に武者髭男の真っ赤な顔が目に飛び込んで来た。それは石畳
ヤオマン・BPCで一番お肉を食べたのは豆蔵くんでも定吉くんでもなく、冬凪だった。こんな食べたっけと目を疑ったし、そもそもガテンは肉より麺が好きとか言ってた子はどこへ行ったのか?「次はどこへ行く?」 今日一日時間を持て余すと分かっていたから冬凪が提案した。あたしはそれに応えて、 「宮木野神社行きたい」 せっかくだからお参りしたかったのと、宮司の奥さんと言ってた高倉さんに会えるかもしれないからだった。豆蔵くんも定吉くんも異存はないよう。 あたしたちは再び、辻バスに乗ってバイパスを駅方面に向かった。ここでも豆蔵くんと定吉くんはルーティンを繰り返し、あたしはまたも切ない気持ちで二人を見る羽目になった。〈♪ゴリゴリーン 次は宮木野神社前です。宮木野と志野婦は双子の姉妹、昔なかよし今犬猿の仲。お降りの方は姉の機嫌を損ねぬようお気を付けください〉 宮木野神社前のバス停に降り立つと、すぐ目の前に大きな朱色の鳥居が立っている。この鳥居はよく見ると三本足で、二本の柱の真ん中にもう一本、横棒からすこし下がった所で切れた形である。これは志野婦神社も同じ。「辻沢の神社ってどこも三本柱なんでしょ」 冬凪に聞くと、「そうだよ。四ツ辻の山の中にある奥の院なんか、三本目も地面についてる」「なんで三本なの?」「夕霧太夫に関係あるって紫子さんが言ってた。知らんけど」(死語構文) 紫子さんは冬凪が親しくしている四ツ辻の山椒農家さんで、夏休み前に山椒摘みのお手伝いに行っていた。 鳥居をくぐると売店や駐車場のスペース、奥に石垣があって、そこから緑の生い茂った小山の最上部まで傾斜のキツい100段の石段が続いている。急に、それまで隊列を崩さなかった豆蔵くんと定吉くんが石段の袂まで進み出て身をかがめた。そして豆蔵くんが振り向いたので冬凪が、「スタート!」 合図をした途端、二人は怒濤のごとく石段を駆け上っていった。爆発的な脚力で石段が崩れるんじゃないかと思わせる勢いで、二人とも数十秒で踏破してしまった。「あたしたちが上がっていくまで何してる気かな」 冬凪が秒で、「筋トレ」
バス停につくと冬凪が、豆蔵くんと定吉くんにゴリゴリカードを渡した。そのうちの一枚に辻女の夏服バージョンがあったので見せてもらった。プリントされたモデルは辻川ひまわりだった。「これって、辻川ひまわりだよね」冬凪にゴリゴリカードを見せて言うと、「あたしはエリさんに似てると思った」 と返された。もともとエリさんと辻川ひまわりは同一人物なので特に問題はなさそうだけど、あたしには絶対にエリさんには見えないという点が引っ掛かった。もちろん冬凪は今の辻川ひまわりに会ったことがなさそうだ。だからエリさんと言っているとも考えられるけれど、もっと根本的な問題があるような気がした。つまり冬凪とあたしとでは人の見え方が違うということ。そしてそのことが、辻川ひまわりがあたしにだけ会いに来たことと何か関係があるんじゃないか。 バス停に並んでいても、辻バスに乗っても人の注目を集めるのは偉丈夫という言葉がぴったりな豆蔵くんと定吉くんだった。ただ、豆蔵くんはバスの天井の出っ張りに頭をぶつけて悶絶していたし、定吉くんは座らなきゃいいのに一人用の椅子に腰が挟まって藻掻いていた。二人を見ていると男性の生き辛さを体を張って表現しているようで切なくなった。〈♪ゴリゴリーン 辻バスをご利用いただき誠にありがとうございました。次は終点、辻沢駅です。『ゴマスリで町おこし』辻沢町へまたの御訪問よろしくお願いします〉「ゴマスリで町おこし」っていうのは、20年前の辻沢町のキャッチフレーズらしく町中あちこちにのぼりが立っている。ゴマすりに使う擂り粉木が特産の山椒の木っていうところからの発想らしいのだけれど、マジ、それでいいのかって思う。 ヤオマン・インに着くと、豆蔵くんと定吉くんにはロビーで待っていてもらって冬凪とあたしは部屋に戻った。とにかくシャワーを浴びたかったから。簔笠男たちが残していったのは歯形だけでなく、その周りについた涎、もう乾燥してカピカピになった粘液だった。それを取り除かなければ着替えをしただけでは気持ちが悪くてしかたなかったのだ。あたしよりかまれた箇所が断然多い冬凪が先で、次にあたし。シャンプー&トリートメントしてようやくゴワゴワ髪も元通り。下着も替えてお借りした制服をもう一度着ようとすると冬凪が、
二人してボロボロになった制服を脱ぐと、冬凪の肩や腕についた歯形が赤や青の痣になっていた。あたしの体にもあちこち歯形が付いていて気持ち悪い。「これ、すぐ消えて欲しかった」 辻川ひまわりが付けた傷はあんなに深手だったけどあっという間に塞がった。それなのにこの程度の傷が治らないというのは不可解だった。「そりゃそうだよ。夏波は今、発現してないもの」 冬凪が言うには、鬼子というのは発現して獣のような姿になっていれば回復力もヴァンパイア並みになるけれど、発現してない場合は普通の人と変わらないとのこと。「じゃあ、これずっと取れない?」「まあ、普通に」 着替えが終わり簡単に髪の毛を整えてから、ボロボロの制服を持って更衣室を出ると、玄関の所に鞠野フスキが立っていた。もうあたしも自分で歩けるようになっていたので、鞠野フスキにはここで別れて辻バスでホテルに帰ると伝えた。辻女から駅前までは行き慣れた通学コースだし。玄関を出て校門へ向かうと、バモスくんに乗れなかったユンボくんと小ユンボくんたちが追いついて待っていてくれた。「豆蔵くんと定吉くん。さっきは本当にありがとう。お礼にランチおごるよ」 冬凪が、今どきにしては古風な名前で二人のことを呼んだので、「豆蔵くん?」冬凪が指さしたのは、頭を掻いている天つく背丈のユンボくんだった。めっちゃデカいのに豆蔵って、萌える(死語構文)。「定吉くん?」 あたしが、武者髭の奥で戸惑った表情の小ユンボくんを指さすと冬凪が肯いた。固そうな名前で、なんか納得。 豆蔵くんと定吉くんが隊列のように冬凪とあたしを前後で挟んで辻女を出発した。冬凪が、「豆蔵くんと定吉くんは何が食べたい?」 と前を行く豆蔵くんに声を掛けると、「「う」」 と二人そろって唸った。「肉ね」それを冬凪が翻訳する。そういうシステムなのはいいとして、トリマ、バイパスのヤオマン・BPC(ビーフ・ポーク・チキン)に行くことになりそう。 どうして二人が冬凪のSPをしてくれているのかは知らないけれど、バス停までの道のりもこんな強そうな二人に守ら
蓑笠男たちを撃退した後、鞠野フスキのバモスくんでホテルに向った。「あの蓑笠の連中、何者だったの?」 冬凪は吹きさらしの風に負けないように大声で、「わからない。あたしもあんなの初めて見た」 そして、さらに大声になって、「鞠野先生は知ってますか?」 と尋ねたけれど、後部座席からでは鞠野フスキの答えはよく聞きとれなかった。「何て?」「知らないって」 しばらくして鞠野フスキが何か叫んだ。「何て?」「辻女に寄ろうって」 理由は何言ってるのか分からなかった。多分グシャグシャの髪型にボロボロの制服姿のあたしたちの格好が目立ちすぎだからだろう。そういえば街中に入ってから道行く人の視線が気になりだしていた。辻女の玄関に横づけにしたバモスくんを降りて校内へ入ると、鞠野フスキは校長室前の女子教員用更衣室で待っているように言った。言われた通りに待っていると、ノックの音がして扉の向こうから女性の声で、「入りますよ」 と言ってきた。「どうぞ」 冬凪が返すと、扉を開けて入った来たのは、上は青いタンクトップで下はホットパンツ姿のいかにもバスケ関係者という恰好をした中年の女性だった。その女性はあたしたちの格好を見て一瞬だけ驚いた表情を見せたけれど、すぐに興味津々といった表情に変わって、「鞠野教頭から頼まれてこれを持ってきました」 と辻女の夏服を渡してくれた。「「ありがとうございます」」 それを受け取るとき女性の顔をよく見ると、やっぱりそうだ。少し若いけど川田校長だった。「川田校長先生!」「はい? 私はここの教員でバスケ部顧問をしています川田です。でも校長ではありません」 そうか20年前は校長になってないのか。「教頭先生に聞きましたが、あなたたちは潜入捜査員だそうで」 としげしげと冬凪とあたしの顔を見比べて、「スケ番デカみたいな子が本当にいるなんて。お若いのに大変ね」 と言った後、「じゃあ、頑張ってくださいね。あ、制服は次来たときに返してくれればいいか