社殿の前で再会した時ミユキ母さんは言葉を交わす前に、冬凪とあたしの周りの空間を薬指で糸を繰るような仕草をした。
これは、小学校から帰った時とか、お友達と遊びに出かけた後とか、小さい時にされていたことだった。
ミユキ母さんはこれをすると全部「分かる」から、糸を繰られた時、あたしは、今日は小さい子に手を貸したか、泣いてる子の側にいたか、一人でいる子に声をかけたか、爆速で思い巡らしたものだった。
なぜか中学生になった頃からされなくなったけれど、この夏に起こったことは全部ミユキ母さんに「分かって」もらいたかったから、何も考えずに繰られるままにしたのだった。
繰り終わると、ミユキ母さんは冬凪とあたしをハグしてくれて、
「大変だったね」
と言った。その言葉は意味を超えて心に染み込んできた。
ミユキ母さんのあたしたちを想う気持ちが伝わって来る。魂が震え思わず涙が溢れた。
「しんどかった」
「つらかった」
冬凪もあたしも、いま初めて素直な気持ちを言葉に出来たんじゃないだろうか。
その後、冬凪とあたしはミユキ母さんと一緒に鬼子神社を見てまった。
鬼子神社は西山の山奥、スギの巨木に囲まれたすり鉢状の窪地の中にある。
縁から北へ下る苔むした石畳が参道で、その一番下に三本足の鳥居があって神域を俗世と隔てている。
その石畳の一番上から参道を見下ろしていると、苔が滑るのなど関係なくガシガシ上ってくる人がいた。
「帰ってきた」辻川ひまわり町長だった。
黒服のSPたちも遥か後方をコケながらついてきていた。
「クロエちゃんが呼んだの?」
ミユキ母さんが肯いた。大学生のころから親しかったらしい。
石畳を上りきった辻川町長は、相変わらず涼しげな顔をしていて、
「夏波。いよいよあの世逝きだな」
そうだけども、言い方よ。
真夏のお日様が真上に来てすり鉢の底が明るくなった。
強い日差しを避けて社殿に戻ることにした。
辻川町長と社殿に戻ったころブクロ親方
ミユキ母さんがあたしをそっと抱き寄せてくれた。「そんなわけないよ。冬凪と夏波の二人の親とも事情があって育てられなかったんだよ」 じゃあ、どこかにいるってこと? それはミユキ母さんがいる前では口にすることはできなかった。紫子さんの膝の上伊左衛門がいたずらっぽい目であたしを見て、「建前ではね」 と言った。「こら! だまんなさい」 と紫子さんに窘められたけれど聞かないで続ける。「鬼子は沈まないんだよ。また浮き上がって生まれ変わる。だから親なんていないんだ」 沈む? 浮き上がる? 親がいない? 鈴風の記憶の中の柊と田鶴さんのことを思い出した。二人は鬼子と鬼子使いとして何百年も転生を繰り返し何度も出会ったと言っていた。ただ、転生するにしても親がなければ生まれて来られないんじゃ?「親がいないってどういうこと?」 ミユキ母さんが冬凪とあたしを交互に見た後、紫子さんに目を移した。紫子さんが小さく頷く。そしてミユキ母さんが再び冬凪とあたしに目を戻して言った。その言葉はミユキ母さんのものとは思えないほど重苦しかった。「あたしたちは」 ミユキ母さんはそこでちょっと言葉を切った。そして何かを決心したように口を開くと、「鬼子はね、この社殿の船に戻ってくるの」 潮時の翌朝、社殿から赤ちゃんの鳴き声が聞こえてくることがある。その声は必ず社殿の船底からだけど、船底に降りる階段は板と釘で封じてあるから誰かが忍び込んで置いていったのではない。そこで生まれたのだ。つまりこの船が鬼子の母体なのだそう。そんな想像の斜め上行くこと言われても、それがミユキ母さんの言葉である以上、冬凪もあたしも信じるしかないのだ。でも、あたしにはひっかかることがあった。それはあたしの一番古い記憶だ。その記憶の中のあたしは赤ちゃんで、船底のようなところで女性の胸に抱かれていたのだった。
次に冬凪があたしの手を取って階の上に立った。冬凪はいつもの、指をVの字にして顎に当てるポーズで丁寧に段取りについて説明してゆく。 まず、いい感じの場所に十六夜が誕プレでくれた石舟を置く。「どこに?」「すり鉢の真ん中らへんだって」 社殿の脇にある石舟は舳先に真新しい荒縄が3本括り付けられていた。だからもう準備出来てるのかと思ったらまだ仮置きなんだそう。「結構重そうだけど、大丈夫そ?(死語構文)」 重機とかは撤収したみたいだ。「豆蔵くんと定吉くんの2人だけで林道をここまで運んだんだって」 二人ってばどんだけバカぢからなの? 次に、冬凪と鈴風とあたしが位置に着く。 どこ? と境内に目線をやると、「すり鉢の斜面にそれっぽいとこあるから」 と小声で教えてくれた。「で、月が南中したら」 そこまで冬凪、その後を群衆の中からクロエちゃんが、「アクティベート完了! 地獄の蓋が開くよ」 ご参集の皆様が拍手喝采、ではなく大草生えた(死語構文)。笑ってないのはミユキ母さんと夜野まひるだけだった。 今夜、「地獄の蓋が開く」のは0時30分。それまでは自由行動。 クロエちゃんと鈴風は境内を追いかけっこしながら夜野まひるの取り合いしてる。豆蔵くんと定吉くんはブクロ親方監視の元、石段や石畳の参道使って筋トレ。赤さんたちはちょっと見廻りと言って森の中へ。冬凪とあたしは、ミユキ母さんと社殿の中で紫子さんと伊左衛門の話を聞いていた。 社殿の鴨居には7枚の額絵馬が飾られている。板目の下地に大和絵風のタッチで描かれているのは、夕霧太夫が阿波の鳴門屋で炎に巻かれてから青墓の池に沈むまでの物語、夕霧物語だ。20年前の鬼子神社の大爆発でオリジナルは失われたけれど、辻沢町役場に保管してあった3Dアーカイブから復元したものがここにある。 この額絵馬はその昔、頭にツノが生え
社殿の前で再会した時ミユキ母さんは言葉を交わす前に、冬凪とあたしの周りの空間を薬指で糸を繰るような仕草をした。これは、小学校から帰った時とか、お友達と遊びに出かけた後とか、小さい時にされていたことだった。ミユキ母さんはこれをすると全部「分かる」から、糸を繰られた時、あたしは、今日は小さい子に手を貸したか、泣いてる子の側にいたか、一人でいる子に声をかけたか、爆速で思い巡らしたものだった。なぜか中学生になった頃からされなくなったけれど、この夏に起こったことは全部ミユキ母さんに「分かって」もらいたかったから、何も考えずに繰られるままにしたのだった。 繰り終わると、ミユキ母さんは冬凪とあたしをハグしてくれて、「大変だったね」 と言った。その言葉は意味を超えて心に染み込んできた。ミユキ母さんのあたしたちを想う気持ちが伝わって来る。魂が震え思わず涙が溢れた。「しんどかった」「つらかった」 冬凪もあたしも、いま初めて素直な気持ちを言葉に出来たんじゃないだろうか。 その後、冬凪とあたしはミユキ母さんと一緒に鬼子神社を見てまった。 鬼子神社は西山の山奥、スギの巨木に囲まれたすり鉢状の窪地の中にある。縁から北へ下る苔むした石畳が参道で、その一番下に三本足の鳥居があって神域を俗世と隔てている。 その石畳の一番上から参道を見下ろしていると、苔が滑るのなど関係なくガシガシ上ってくる人がいた。「帰ってきた」辻川ひまわり町長だった。黒服のSPたちも遥か後方をコケながらついてきていた。「クロエちゃんが呼んだの?」 ミユキ母さんが肯いた。大学生のころから親しかったらしい。石畳を上りきった辻川町長は、相変わらず涼しげな顔をしていて、「夏波。いよいよあの世逝きだな」 そうだけども、言い方よ。 真夏のお日様が真上に来てすり鉢の底が明るくなった。強い日差しを避けて社殿に戻ることにした。 辻川町長と社殿に戻ったころブクロ親方
夜野まひるが鈴風を抱っこして下ろしてくれたけれど、「これでも鬼子使いだから人を運ぶのは慣れてる」 と冬凪が負ぶうことになった。「それに、気づいた時に推しにだっこされてると知ったら、鈴風は失神ループに入って目覚められなくなるし」 と冬凪が言った。「あたしたちの後ろを歩いていただけますか」 鈴風が目覚めた時視界に入らないように念押しする。 若木が養生中の人が一人通れるくらいの狭い林道は地面からの熱が直接体に伝わって来てひどく暑かった。足を踏み出すたびに朝方に羽化できなかった蝉が若木の根元から鈍い声をあげて飛び立ってゆく。その羽音の弱々しさが消えゆく儚い魂のように思えて足取りが重くなった。 十六夜に会いに行くってアゲアゲで来たけれど、そういえばこれからあたしたちはあの世へ行くんだった。補陀落渡海。粗末な船に閉じ込められて帰ることのない船路に旅立ったお坊さんたちも、こんな気持ちだったんだろうか?「心配いりませんよ。きっと帰ってこられますから」 後ろから天使の囁きが聞こえて来た。振り返ると夜野まひるが光のオーラに包まれて微笑んでいた。やばい惚れそう。これいつまで耐えればいい?「夜野まひるさんもミユキ母さんたちと地獄に行ったんですよね」 冬凪が鈴風を負ぶい直しながら聞いた。「まひるで結構ですよ。はい、行きました。ユウ様、ミユキさん、クロエさん、アレクセイ、わたくしの5人で」 冬凪はその時どうやって社殿の船をアクティベートしたか尋ねた。「アクティベート? 社殿をどうやって掘り起こしたかですね」 社殿は屋形から下の船体部分が地中に埋まったものだ。それを人力だけで掘り出したとは到底思えなかった。ユンボでも運んだのか。でもあの山の中にどうやって? 夜野まひるの答えは意想外だけど納得できる方法だった。ただそれが成功したのは、ユウさんがエニシが求める条件を揃えるためずっと奔
プップッピーピー。 おかしな音が道の先から聞こえてきた。田んぼの中の道をバモス・ホンダTN360がノロノロとこちらに向かってきていた。運転席にはブクロ親方が、助手席には髭面の定吉くんが、後部座席には巨躯を晒した豆蔵くんが腕を組んで座っている。その威風堂々な姿は、まるで世紀末の暴君のよう。でも、「え? 乗れなくね」 バモスくんの定員は確か4人。こっちは3人。道交法無視してもスペース的に無理っぽい。すると遥か後方からボボボボボと重低音を響かせて来た車がバモスくんを追い抜いて、あたしたちの前で急ブレーキをかけて停まった。鈴風がその血のように真っ赤なスポーツカーに近づいて、「このポルシェって、まさか」 と運転席を覗き込み、中の人影を確認すると、「まひっ!!」 両手で口を押さえその場にへたり込んでしまった。エニシの切り替えの影響なのか、だんだん酷くなる推し依存。まさか昨日までアムステルダムにいた人が来るわけ……。「あ、まひにそっち行ってもらったから」 リング端末からクロエちゃんの声が聞こえたらしく鈴風は白目を剥いて後ろに倒れ込んでしまった。「お迎えにあがりました」 運転席から出てきたのは、銀髪ロングに抜けるような肌、金色の瞳に真紅の唇。上下深黒の制服姿。爆風のようなオーラに包まれた、夜野まひるだった。やばいクラクラする。猛烈に好きになりたい。 夜野まひるの圧力になんとか耐えた冬凪とあたしは、勧められるままポルシェのめっちゃ狭い後部座席に潜り込んだ。気を失ったままの鈴風は夜野まひるがお姫様抱っこして助手席に座らせてくれた。押しにだっことか正気だったら失神ものだろうけど、残念ながらこれ以上気を失うことはできない鈴風なのだった。 夜野まひる。この世界最強のVRゲーマーは安全運転とかスピード違反とかいう観念をはなから持ってい
柊林の流砂穴地帯は鈴風の誘導のおかげ無事通り抜けることができた。やっと青墓の杜から解放されたと思ったらバス通りまでは荒れ野で、虎杖生い茂る中、枝葉やツタを掻き分けて進まなければならなかった。枯れ葉のクズや小さな虫が頭の上から降ってきてキモいんだけど!「もう少しだから」 虎杖の鞭のような枝と扇のような巨大な葉を踏みつけながら道を作ってくれている冬凪が、あたしのイライラを察して声をかけてくれた。「ごめん。スカンポってこんな大きくなんのね」「若芽のころはアスパラみたいでシャクシャク食べれんのにね」 冬凪が枝を口まで寄せて食べる真似をした。「私、食べ過ぎてお腹こわしました」 鈴風の声がした。灌木の影になって姿は全く見えない。「硝酸のせいだね。てか、どんだけ食べた?」 それからもしばらく葉クズと小虫のトンネルを掘り進んでようやく虎杖の呪縛から解放されてバス通りに出た時は日差しも強くなっていた。みんな汗ばんでいるのがわかる。「バス通り出た」 冬凪がリング端末にアクセスする。ホロ画面が出てクロエちゃんが、「バモスくん。そっちに行ってない?」 ブクロ親方に迎えを頼んだと言った。クロエちゃんは外を歩いているらしく息の音が荒く聞こえる。「クロエちゃんも一緒じゃないの?」「あたしは先に鬼子神社に行ってる」 四ツ辻に寄って紫子さんを連れて来るのだそう。「それは良かった」 冬凪がこれからすること、鈴風とあたしをあの世へ連れて行くことの全責任を自分一人で背負う気でいるのは知っていた。言い出しっぺだということもあるけれど、どんなことでも逃げない、最後までやり遂げる、そして何があろうと責任は自分が全部背負う。それが冬凪なのはよく分かっていた。だからあたしは全身全霊かけて冬凪を支える気でいたのだった。その冬凪が紫子さんと聞いてあたしでもわかるくらい安堵していた。 紫子さ