LOGIN時は遡ること六年前。
冴島寧々子は十八歳になり、十五年お世話になった児童養護施設を出た。♢♢♢
養護施設を出て家事代行のバイトで忙しくしていたある日。
家事代行業者『ラクール』の社長から突然呼び出しがあった。 普段の連絡は電話ばかりなので、事務所に来るのは面接と契約の時以来。社長の関口翠は元々専業主婦で、離婚してから起業したという挑戦的な方だ。
雑居ビルの三階。 外階段を上がって、久々の事務所に入る。 扉を開けるなり、私をキラキラした瞳で待ち構えていた彼女に驚いた。「な、何かありました?」
急ぎというので、要件も聞かずに慌てて来たが関口翠の表情を見るに悪い話ではなさそうだ。 「家事代行のバイトも三ヶ月! 慣れてきたみたいね」 私の腰をトンと叩く彼女は身長150センチくらいの小柄な方で可愛らしいのにエネルギーに溢れている。「はい、ありがとうございます。関口社長!」
「まぁまぁ座って」 面接以来の応接ルームに通され、黒色の革のソファーに座る。 何だかもてなされているようで居心地が悪い。 「何かありました?」 「ふふっ、聞いて。凄い話が来たのよ。一週間前にお仕事した桃山さんの家覚えてる?」 「⋯⋯はい」 高級住宅街の中でも一際目立っていた白亜の邸宅。 聞くところによると、飲食業で成功しメディアにも出演している桃山優斗の家だ。 有名人のご自宅に経験の浅い私がお邪魔するということで緊張した。鍵だけ渡され、広い家の掃除と食事だけ作ったのを覚えている。
それまでの家事代行はタワマンに住むパワーカップルの部屋などが多かった。 それなりに忙しくしているのか散らかってたりしたが、桃山家は生活感がない。 既にプロが掃除したような空間をひたすらマニュアル通りに掃除し、これでお金を貰って良いのか不安になった。「実は桃山さんから住み込みの家政婦の仕事が来てるのよ。半年で三千万円よ!」
喋りながら、颯爽と関口社長が私の前にトンとアイスコーヒーを出す。彼女が私に飲み物を出すなんて初めてのことだ。
余程、この嘘みたいな話を受けて欲しいのだろう。しかし、私は自分の仕事がそんな評価を受けたとは思えない。
マニュアル通り、鏡、窓、シルバーに至るまで丁寧に拭いたけれど、元々ピカピカだった。「三千万円は私が貰えるんですか?」
「当然よ! しかも、先払い!」関口社長が自分に淹れたアイスコーヒーを飲み干す。
芳醇な香りから彼女が飲んだものはオーガニックのアイスコーヒーだと分かった。 私に出したものは九百ミリ百円ほどで購入できるアイスコーヒー。彼女は養護施設出の私に味など分からないと思っているのだろう。
でも、私は昔から細かいことが気になる性分だ。 (関口社長にも多額のお金が先払いで入りそうね)「私はそこまでの報酬が貰える程の技術がないので、他のベテランの方に頼んで貰えませんか?」
面倒な案件や詐欺に関わりかねないので、私は引くことにした。実際、養護施設を出た子で、詐欺被害にあった子や無知故に詐欺グループに入ってしまった子もいる。
身内がいない人間は自分で自分を守るしかない。「冴島寧々子さん! 貴方、ご指名なのよ。このチャンス逃すなんて勿体無いわ。三千万円あれば、可能性が広がるわよ」
「可能性⋯⋯」 私は思わず息を呑んだ。 色々なものを諦めてきた人生だった。自分の境遇を『三歳で赤ちゃんポストに捨てられた! 赤ちゃんじゃないのに!』と笑い話にしようとしてきた。
両親揃っている子は家族旅行をしたりしてると聞いて、長期休みには寂しくなり自分の両親を妄想した。 でも、私が三歳で捨てられた時は身体中アザだらけだったらしいから、旅行になんて連れてってくれる親ではなかっただろう。 私はどんな道を辿っても、家族旅行に行けるような子にはならなかったと自分を慰めた。お洒落に憧れても服は買えず、拾ったファッション雑誌を切り抜いて眺めて満足した。
「それと、これはオフレコなんだけど、桃山優斗の奥さんてトップモデルのマリアンよ」
「マリアンって結婚してたんですか?」 半年前、桃山優斗の結婚がスクープされていたが、お相手は一般人となっていた。 パリコレの出演経験もあるスーパーモデルのマリアン。 モデルのマリアンなんて、彼よりもずっと有名人だ。おそらくマリアンの希望で、結婚相手が彼女だという事を隠したのだろう。
マリアンは超有名カリスマデザイナー大河内セイのミューズだ。 結婚や妊娠のような生活を感じさせるイベントは彼女には似合わない。東京のファッションショーに当選して行ったことがあるが、ラストに出て来た彼女しか記憶になくなるくらい圧倒的だった。
「冴島さん、背も高いし、マリアンにモデルとしてスカウトされちゃうかもよ」
「それは流石にないです⋯⋯」 私は身長が178センチある。 私にとって高身長コンプレックスだった。 その辺の男性よりも背が高い私はなかなか恋愛ができない。 「背が高いスラッとした子が好き」と公言していた男に私の事も愛してくれるのではないかと期待したことがあった。でも、裏で私を「あの巨人だけは恋愛対象外」と言っていたのを聞いてしまい、別に恋をしてた訳でもないのに傷ついた。
自分がモデルになれるなんて勘違いはしないけれど、憧れのマリアンに会えるという情報は私の判断能力を鈍らせる。
(流石にそんな有名人夫婦が詐欺のような真似はしないか⋯⋯)♢♢♢
住み込み家政婦の初日は霧雨が降っていた。
ビニール傘を差しながら、大きな門のインターホンを押す。 「はい。今、開けます。入ってください」 凛とした声だけで分かる。マリアンだ。 私の心臓は高鳴った。仰々しい鉄でできた門が自動で開く。
イングリッシュガーデンを抜けて玄関まで来た瞬間、扉が開いた。「こんにちは。冴島さん」
艶やかな腰までの黒髪に真っ白な肌。 切れ長の瞳はまさにアジアンビューティーだ。「初めまして! 冴島寧々子です」
頭を下げて、傘を畳んで一歩足を踏み出す。「ごめんなさい。傘は外に置いてくださる?」
「は、はい。すみません」 高価な大理石の玄関に水滴がつくのが嫌だったのだろうか、私は慌てて傘を外に出し家の中に入った。「まずは貴方の部屋に案内するわ」
「あ、はい」契約の確認をするのかと思ったが、部屋に案内すると言われて驚く。
(住み込みだから、そんなものか⋯⋯)吹き抜けのエントランスを奥まで進むと、二階に上がる螺旋階段があった。
一度、来たことがあるが相変わらず素敵な家だ。「寧々子って珍しい名前ね」
「よく言われます。児童養護施設に入った時にボロボロだった私を見て、丁寧に育ててあげたいと思った施設の方がつけてくれたんです」 「呼びづらいから、ネコって呼ぶわ」 「お好きなように呼んでください」 ルックスからも柔らかい印象はなかったが、私は憧れていたマリアンの冷ややかな態度に少しがっかりしていた。二階の奥の白い扉を開けると、そこには存在感のあるキングサイズのベッドがあった。
ペラペラのマットレスでしか寝たことのない私は分厚いマットレスを見ただけで胸が高鳴る。「凄い! こんな広いベッドではなくて、私は床でも眠れるんですが本当にこれが私の部屋で良いんですか?」
「ふっ」 私が感激するのを見て、マリアンは鼻で笑った。 この時の私は、今晩、この部屋で彼女の夫に抱かれることになるとは思ってもみなかった。時は遡ること六年前。冴島寧々子は十八歳になり、十五年お世話になった児童養護施設を出た。♢♢♢養護施設を出て家事代行のバイトで忙しくしていたある日。家事代行業者『ラクール』の社長から突然呼び出しがあった。普段の連絡は電話ばかりなので、事務所に来るのは面接と契約の時以来。社長の関口翠は元々専業主婦で、離婚してから起業したという挑戦的な方だ。雑居ビルの三階。外階段を上がって、久々の事務所に入る。扉を開けるなり、私をキラキラした瞳で待ち構えていた彼女に驚いた。「な、何かありました?」急ぎというので、要件も聞かずに慌てて来たが関口翠の表情を見るに悪い話ではなさそうだ。「家事代行のバイトも三ヶ月! 慣れてきたみたいね」私の腰をトンと叩く彼女は身長150センチくらいの小柄な方で可愛らしいのにエネルギーに溢れている。「はい、ありがとうございます。関口社長!」「まぁまぁ座って」面接以来の応接ルームに通され、黒色の革のソファーに座る。何だかもてなされているようで居心地が悪い。「何かありました?」「ふふっ、聞いて。凄い話が来たのよ。一週間前にお仕事した桃山さんの家覚えてる?」「⋯⋯はい」高級住宅街の中でも一際目立っていた白亜の邸宅。聞くところによると、飲食業で成功しメディアにも出演している桃山優斗の家だ。有名人のご自宅に経験の浅い私がお邪魔するということで緊張した。鍵だけ渡され、広い家の掃除と食事だけ作ったのを覚えている。それまでの家事代行はタワマンに住むパワーカップルの部屋などが多かった。それなりに忙しくしているのか散らかってたりしたが、桃山家は生活感がない。既にプロが掃除したような空間をひたすらマニュアル通りに掃除し、これでお金を貰って良いのか不安になった。「実は桃山さんから住み込みの家政婦の仕事が来てるのよ。半年で三千万円よ!」喋りながら、颯爽と関口社長が私の前にトンとアイスコーヒーを出す。彼女が私に飲み物を出すなんて初めてのことだ。余程、この嘘みたいな話を受けて欲しいのだろう。しかし、私は自分の仕事がそんな評価を受けたとは思えない。マニュアル通り、鏡、窓、シルバーに至るまで丁寧に拭いたけれど、元々ピカピカだった。「三千万円は私が貰えるんですか?」「当然よ! しかも、先払い!」関口社長が自分に淹れたアイスコー
セイの合図と共に警備員たちが桃山優斗を取り押さえる。彼らの拘束を振り解く力など残っていない男は「寧々子⋯⋯寧々子⋯」と母を求める幼子のように雲一つない空に手を伸ばしていた。セイが私をエスコートしようと手を出してきて、私はそっと手をのせる。「本番はここからよ。カリスマデザイナー大河内セイ」彼の耳元に軽く唇を寄せながら囁くと、彼が抗議するような視線を向けてきた。仕事モードに戻ろうと思っていたのに、誘惑する私に腹を立ててるのだろう。リムジンに乗り込むと、カイが幸子と手遊びをしている。私が隣に座ると、カイが私の耳元で囁いてきた。「義姉さんを見つけたのは俺だし、義姉さんを磨き上げたのは義姉さん自身だけどね」私は彼の言葉に思わず肩をすくめる。私の一番の理解者である大河内カイ。彼と恋愛をしていたら、もっと楽だっただろう。でも、人は時として苦しくても手に入れたいモノがある。───大河内セイの心と桃山マリアンを跪かせる程のトップモデルとしての地位。今、喉から手が出そうな程、求め続けた二つのモノを手にいれた。「寧々子! カイ! 二人共、こそこそと何を話してるんだ?」私とカイの距離が近いことに、ヤキモチを妬くセイ。こんな彼を見られる日が来るなんて思っても見なかった。披露宴会場の入り口には既に報道陣が待ち構えていた。私のウェディングドレス姿に悲鳴のような歓声をあげそうになりながら、場をわきまえて口をつぐむ人たち。この披露宴会場には、セイのブランドに関わっている多くの関係者や著名人が来ている。セイは先程までのデレ顔を封印し、ファッション界のカリスマデザイナーとして緊張感のある顔に戻っていた。この披露宴は彼のブランドで初めて手掛けることになったウェディングドレスの発表の場でもあるからだ。彼は周囲からは時代の寵児、天才と持て囃されているが、発表の直前は期待と不安の渦の中だ。私はそんな彼に寄り添うように、そっと腕を絡めた。(私が最高のランウェイを見せてあげる!)「新郎、新婦の入場です」両脇のドアマンが扉を開けると、真っ先に目に飛び込んで来た女。セイのブランドDEARESTの元アンバサダーで、セイの元ミューズだった桃山マリアン。流石の存在感を放つその女は私のウェディングドレスと色違いのブラックのドレスを着ていた。私の姿を見て、目を丸くし驚
私は今日、ファッション界のカリスマ大河内セイと結婚する。私とセイ、彼の弟のカイ、私の娘の幸子だけが列席する挙式。幸子はセイの子ではない。悪魔のような桃山夫婦に監禁され孕んだ子。あの地獄のような日々を思い出すだけで、胸が締め付けられる。湖畔に佇むガラス張りのチャペル。湖に太陽の光が反射してバージンロードの先にいるセイを照らしていた。あまりの美しい光景にここが天国なのではないかと錯覚しそうになる。幸子がバージンロードを私と腕を組んで一緒に歩いてくれる。たった四歳の小さな手は少し湿っていた。「ママ、おめでと」舌足らずに呟く彼女に思わず笑顔が溢れる。娘とバージンロードを歩く選択は私がしたものだ。幸子は間違いなく私の心を支え続けてくれた恩人で、両親を知らない私にとって唯一の家族だった。そして、今日もう一人私の家族が増える。パイプオルガンの重厚な音と共に一歩一歩セイに近づいて行く。大好きな娘と愛する人の元へたどり着いた瞬間を私は一生忘れないだろう。神父の低い落ち着いた声がしても、私は心臓の鼓動が早くなるのを抑えられなかった。大河内セイは私が初めて恋をした人で、この瞬間も私は彼に恋をし続けている。「大河内セイ。そなたは、冴島寧々子を妻とし、病める時も、健やかな時も、貧しい時も、豊かな時も、喜びあっても、悲しみあっても、死が2人を分つまで愛を誓い、妻を想い添うことを、神聖なる婚姻の契約の元に、誓いますか?」 「はい、誓います」セイが穏やかな声で、私との永遠の愛を誓ってくれる。私を見つめる色素の薄いヘーゼル色の瞳が優しい光を放っている。「冴島寧々子、そなたは、大河内セイを夫とし、病める時も、健やかな時も、貧しい時も、豊かな時も、喜びあっても、悲しみあっても、死が2人を分つまで愛を誓い、夫を想い添うことを、神聖なる婚姻の契約の元に、誓いますか?」「はい、誓います」幸せな気持ちで胸がいっぱいになりながら、私は嘘偽りのない彼に捧げる永遠の愛を誓った。淡いターコイズブルーのベルベットにキラリと光る結婚指輪が2つのせられていた。グローブを外し彼が私の左手の薬指に指輪を嵌めてくれる。私は緊張しながら、彼の左手の薬指に指輪を嵌めた。彼と夫婦になれた喜びで涙が溢れそうになるのを必死に堪える。結婚の誓約書に震える手でサインをした。愛する彼の名前に自