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「お腹が……空いたの?」
飲みつけない異国の酒と、船の揺れにどうにも体調が優れなくて、客室へと続く通路の片隅で暗闇へ紛れるようにしてうずくまっていたランディリック・グラハム・ライオールは、突如降り注いできた可憐な声にうつむいていた顔を上向けた。
(血が飲みたい……)
こういう時は
この状況は、非常にまずい。
投げかけられた声は、まるで天使が鈴を転がしたかのような耳触りの良い
年の頃は六つかそこらだろうか。
「大丈夫? 凄く顔色が悪いわ」
少女は「そうだっ」とつぶやいて、手にしていた小さな紙包みをガサガサとあさると、中から血のように真っ赤な色をした果実を差し出してくる。
「
そこでふと思いついたように、
「皮付きがイヤなら……これで皮を剝くことも出来るわ」 林檎と一緒に持っていたのだろう。包みの中から折り畳み式の小さな果物ナイフを取り出した。「私は練習中で……まだ上手く剥けないのだけれど」
照れ臭そうにはにかんだ少女の指先には、小さな切り傷があった。切ったばかりなんだろうか? まだ薄っすらと血が滲んでいる。
(まずいな……)
その小さな手で林檎とナイフを片手ずつに捧げ持つようにして目の前へ突き出されて、ランディリックは彼女の
「……僕のことは気にしなくていいから……。早く……この場を離れなさい」
グッと奥歯を噛みしめるようにして懸命に言葉を紡げば、声が
とにかく、これ以上少女に近付かれては
「でも」
それでも傍を離れようとしない女の子に、ランディリックは小さく吐息を落とす。
「こんなところへ長居していたら、母君に心配をかけてしまうだろう?」
――一刻も早く自分から離れて欲しい。
その一心でもっともらしい理由を述べれば、「林檎は嫌い?」と眉根を寄せられた。
余りに悲しそうな声音で問うてくるから、ランディリックは「頂こう」と手を差し出さずにはいられなくて。自分がそれを ランディリックが林檎を受け取ったと同時。
「お母様の生まれ故郷の林檎! 甘酸っぱくて、美味しいから!」
その笑顔を見て、ランディリックは思わず「リトルレディ、貴女のお名前は?」と問い掛けていた。早く少女にこの場を立ち去ってもらいたいと
「あら! 人に名前を尋ねる時は、まずはそちらから名乗るのが礼儀だって教わらなかったの?」
幼い割にこまっしゃくれた物言いをしてクスッと笑った少女に、ランディリックもつられて破顔する。
「これは失礼。僕はランディリック・グラハム ・ライオール。イスグラン帝国ニンルシーラ地方の管理者になる予定の者だよ。親しい者からはランディと……。レディは?」
本来ならば立ち上がって礼を取るのがマナーだろうが、今は体調的に少し無理そうだ。それを申し訳なく思ったランディリックだったが、少女はそんなことを気にするような、狭い心の持ち主ではないらしい。
「私はリリアンナ・オブ ・ウールウォード。エスパハレに住んでいるの。お父様やお母様からはリリーって呼ばれているわ。よろしくね、ランディリックさん」
愛らしくスカートの裾をつまんで一丁前に
「だったら私のこともリリーって呼んでくれなきゃフェアじゃないわ、ランディリック
先ほどは「さん」付けだったはずなのに、あえて「様」付けでランディリックを呼んだリリアンナが、小さな唇を突き出して拗ね顔をする。幼く見えても立派に
さて、今リリアンナが口にしたエスパハレは、イスグラン帝国の王都名だ。ランディリックは、実はそのことに少し驚いていた。
(イスグランの人間で、彼女の髪色は珍しい。血縁にマーロケリー国の者でもいるんだろうか)
てっきりその見た目から、リリアンナのことを異国の少女だろうと目星をつけていたランディリックにとって、彼女の答えは意外だった。
ランディリックが統括する予定の領地ニンルシーラと国境を 少し物思いに
「大丈夫だよ、リリー。今はちょっとはぐれてしまっているけれど、友人と乗船しているから」
「本当? 私をじっと見つめてきてたのって、一人にされるのが不安だったからじゃないの?」
どうやらランディリックがリリアンナの赤毛をぼんやり見詰めていたのが、寂しそうに彼女を引き留めたがっているように見えてしまったらしい。そんなリリアンナの優しさを無下にしたくなくて、ランディリックは柔らかく微笑んでみせた。
「不安がないと言えば嘘になるけど……連れとはじきに合流できるはずだ。彼は優秀だから……すぐに僕のことを見つけてくれると思うよ?」
友・ウィリアムは、ランディリックの幼なじみだ。いい意味でも悪い意味でも、ランディリックの行動パターンをよく理解している。
「なら安心ね? けどランディ。私、貴方のお連れさんがいらっしゃるまで、ここにいても構わないかしら?」
言うなり、リリアンナはランディリックの返事も聞かず、彼の横へちょこんと腰かけた。
そうして結局。ウィリアムが「やっと見つけた!」と駆け寄ってくるまで、ランディリックの傍にいてくれたのだ。
もっとも途中で眠ってしまって、ウィリアムに頼んで両親の元へ送り届けてもらわねばならなかったのだけれど――。
「よかった……! 本当によかった……!」 カイルの手を強く握りしめるリリアンナの姿が遠目にも見える。 医務室戸口でそんなリリアンナの姿をちらりと認めたランディリックは、はやる気持ちをグッと抑えながら城主としての勤めを果たすべくセイレンと軽く話してから、彼を伴ってカイルのベッドサイドまでやって来た。 目の前まで来てみれば、カイルがリリアンナのことを「リリー嬢」と呼び掛けているのが聞こえてきた。そんな男の名を何度も何度も呼びながら涙目でカイルの手を握るリリアンナの姿は、さながら愛しい恋人とのひと時みたいに見えた。 それを目の当たりにしたランディリックは、胸の奥で説明しがたいざわめきが生まれるのを自覚した。だが当然のこと、態度に出すことは憚られる感情だ。「カイル、意識を取り戻せて何よりだ」 握った拳を外套の影に隠し、声は平然を装ったまま。内心の動揺を悟らせないよう細心の注意を払う。 そんなランディリックたちに向かって、セイレンがカイルの病状説明を始めた。「……ひとまず峠は越えました。しかしながら傷はまだ癒え切っておりません。しばらくの間、利き手は思うように動かせませんし、無理をし過ぎれば再び傷口が開き、熱に伏す可能性が高うございます」 その言葉に、リリアンナの瞳が大きく見開かれた。「利き手が……使えない……?」 彼女は一瞬だけ唇を噛み、それから勢いよく顔を上げた。「だったら、私が……!」 強く握り締めていたカイルの手を包み込み、潤んだ瞳で真っ直ぐに言い放つ。「私がカイルの手になるわ!」「リリー嬢……」 驚きと戸惑いを滲ませながらも、呼びかけるカイルの声音には、少しばかりの喜びが混じっているように思えた。 それに気付いた瞬間、ランディリックの胸にドロリとした感情が渦巻く。(…&he
ランディリックはその様子に、胸の奥がわずかにざわつくのを覚えた。(本当に、美味しいと思っているのか……?) ふと脳裏に蘇るのは、リリアンナが幼かった日の記憶。 船旅の途上、客室通路の片隅で小さな手に真っ赤な林檎の果実を乗せてランディリックへと差し出してきた少女は、まだ不器用な手で皮を剥き、指先を傷付けて血をにじませながらも、「甘酸っぱくて美味しいのよ?」と無邪気に笑っていた――。 その姿と、いま目の前にいる無表情に近いリリアンナの表情とが、どうしても重ならなかった。*** 結局、食卓を囲む間、リリアンナはほとんど必要最低限の言葉しか口にしなかった。 ランディリックもそれ以上追及することはせず、銀器の触れ合う音だけが広い食堂に響く。 重苦しい沈黙が、食後のティータイムまで尾を引いた。 その空気を破ったのはお互いに食事を終え、執務室に戻った直後のことだった。「旦那さま!」 慌ただしく駆け込んできたのは、若い侍女のひとりだ。顔を上気させ、息を切らせている。「カイルさまが……! カイルさまが、意識をお取り戻しになりました!」 ランディリックの傍で机に向かっていたリリアンナの肩がビクリと震える。「本当なの!?」 瞳を大きく見開いた彼女は、今にも駆け出しそうな勢いだった。 その様子を視界の端に捉えたランディリックの眉根がわずかに寄る。 だが、態度には出さないよう気を付けながら、抑えた声で告げた。「……分かった。すぐに確かめに行こう」 その声音には、どこか張り詰めたものが滲んでいた。リリアンナが「約束通り私も!」とばかりに、立ち上がるランディリックをじっと見つめてくる。ランディリックはそんなリリアンナの期待に満ちた表情を見て、胸の奥に得体の知れないざわめきが広がっていくのを感じた。*** 報せを受けてすぐ、執務室を出たリリアンナは、ランディリックの
すでに席へ着いていたランディリックは、リリアンナが椅子に腰掛けるのを待ってから、胸に手を当て、静かに口を開いた。「女神エリュナに感謝を。この命を無駄にせず、我らの生きる糧としよう」 久しぶりに聞いたその響きに、リリアンナはわずかに戸惑いを覚える。 ここしばらくはずっと、自分と同じ王都出身の家庭教師のクラリーチェに倣ってきたせいだろう。食前の祈りといえば、耳馴染みのある豊穣を司る女神セイレスへ捧げるものが当たり前だったからだ。 長らくご無沙汰だった「エリュナ」という名は、ここへきてすぐの頃も、ただ新しい土地の習わしを実感させるものとして響いたのを思い出す。 初日にそのことへ目を白黒させたリリアンナに、『エリュナは、狩られた獣の魂を天へ還すと信じられている鷹の翼をもつ女神様の名でございます。王都の方では豊穣の女神セイレス様へお祈りを捧げられますね? それと同じような意味合いです』と教えてくれたのは侍女頭のブリジットだった。 牧畜と狩猟の地ニンルシーラでは、肉や乳を口にする前にはこうして感謝の祈りがエリュナへ捧げられるのが習わしとなっているという。 同じイスグラン帝国内でも場所が変われば微妙に文化が違う。 きっと母の生まれ故郷のマーロケリー国ではまた違った風習があるんだろう。「……あの」 思わず口をついて出たリリアンナの声に、ランディリックが顔を上げた。「こちらに移り住んできて思ったのですが、こちらの食事前のお作法は王都エスパハレのものとは少し違っています。……隣国マーロケリー国のお作法も、やはりニンルシーラやエスパハレとは違うのでしょうか?」 リリアンナの素朴な疑問に、一瞬ランディリックの胸に微かなざわめきが走った。(リリアンナの母君は、マーロケリーのご出身だったな)「そうだな。彼らは狩りと戦を神聖なものとし、糧を分かち合う際にも独自の作法があると聞き及んでいる。……だが、今は国境を挟んで剣を交えかねない相手だ。――深く知る必要はない」 淡々と答えを紡ぎながらも、声
「もちろん! 私だってよくないことだって分かってるわ! でも……カイルは私たちのせいであんな目に遭ってしまったのよ? 放っておけるわけないじゃない!? なのに!」 興奮した様子のリリアンナに、ナディエルが「お嬢様……」と握ったままの手をそっともう一方の手で包み込んでくれる。 リリアンナはそんなナディエルの穏やかな声音に声のトーンを落とした。「無理をし過ぎだってランディから叱られて……。今ね、私、カイルが目を覚ますまでの間、彼の様子を見に行ってはいけないって禁止されてしまってるの」 リリアンナの声からは、彼女がその措置を不満に思っていることがありありとうかがえた。ナディエルとしては侯爵様の想いが嫌というほど分かる。正直な話、ナディエルだってリリアンナには無理をして欲しくない。 でも、今のリリアンナは、ナディエルに自分の気持ちに寄り添って欲しいと希っているというのも痛いほど伝わっていた。 ナディエルは困ったように眉を下げると、言葉を探すようにリリアンナの顔を見つめた。「……お嬢様は、本当にお優しい方ですね。それにお強くていらっしゃる」 自分はオオカミに襲われた恐怖で、熱を出して倒れてしまったというのに、自分より幼いリリアンナは同じような思いをしながらも、気丈にもカイルの傍へ居続けたというのだ。それは、ナディエルにとって驚愕の告白だった。 自分と同じように昏倒してくれていたならば、侯爵閣下も、リリアンナに恨まれる真似をしなくて良かっただろう。 そう思うと、城主様のことも気の毒に思えて……。 結果、ナディエルはそれ以上リリアンナに寄り添う言葉を紡ぐことが出来なくて、ただただ手の内にあるリリアンナの小さな手を握り続けることしか出来なかった。 ナディエルがほんの少し目を離したすきに出来てしまった、リリアンナの手指の荒れのことも一大事のように感じてしまう。(早く元気になってリリアンナ様のお傍に戻らないと……) 自分がいなきゃダメだ
剣の鍛錬も、毎日続けなければ腕がなまる。 リリアンナとともに昼食を済ませたら、セドリックとブリジットによくよくリリアンナのことを頼んで、外の業務もこなさねば――。 日頃なら領民のため、また国境警備のため、忙しく兵士らと外を駆け回る時間が執務室に座っている時間より好きだ。 だが、リリアンナのことを思うと、城外へ出ることがこれほどまで不安になる。「……気を引き締めなくては」 誰にともなく呟き、羽根ペンを取り上げる指に力がこもった。*** リリアンナとともに歩いてきたブリジットは、ナディエルとペトラの部屋の扉の前で立ち止まると、優しい笑みを浮かべてリリアンナを見つめた。「リリアンナお嬢様、私はここで控えております。その方がお嬢様もナディエルも、気兼ねなくお話できるでしょう」 ブリジットは侍女頭だ。確かに彼女が入室すれば、ナディエルを緊張させてしまうかも知れない。「今、ペトラは仕事に出ておりますのでお部屋の中はナディエルしかおりません。ゆっくりお話なさっていらしてくださいませ」 それは、リリアンナの中に色々と鬱屈したものが溜まっていることを知っているかのような口ぶりだった。「有難う、ブリジット」 リリアンナはブリジットの厚意に礼を言うと、彼女を一人残してナディエルの部屋へ入る。 外からの話し声が聞こえていたんだろう。寝台に腰掛けたナディエルが、リリアンナが入室するなり深く頭を下げた。まだ顔色は冴えないものの、リリアンナを瞳に収めるなり嬉しそうに微笑んだ。「お嬢様、ご心配をおかけして、本当に申し訳ありません」「いいのよ、謝らないで? ナディの熱が下がったって聞いて、私、ホッとしているの」 寝台そばに寄ったリリアンナは、ナディエルにそっと抱き付いた。「お嬢様はお変わりありませんか? 少し疲れていらっしゃるように見受けられるのですが……」 ナディエルに労わるように頭を撫でられたリリアンナは、ポロリと涙を落とす。 実際にはランディリックにカイルの看病を
「そっちは約束しただろう? 彼が意識を取り戻すまでは、行かせられない」「……でも」 リリアンナの〝でも〟という声に、ランディリックは静かに視線を向ける。「約束が守れないなら、カイルが意識を取り戻したあとも会いに行くのを禁止するけど……それでもいいのかい?」 こんな言い方をすれば、リリアンナが自分に従うしかなくなることを分かっていてなお、ランディリックはそう告げるしかなかった。 素直に従うしかないと思い知らされたんだろう。 リリアンナはギュッと小さな手を握りしめて、一瞬だけランディリックを睨んだ。 でも、すぐさま小さく吐息を落とすと「分かりました。ナディのところにだけ顔を出します」と素直にランディリックへ従うと意思表示をする。 表情にこそ一瞬しか現れなかったけれど、リリアンナの胸の奥にじくじくとした不満が溜まっているであろうことが、ランディリックには手に取るように分かった。 その証拠にリリアンナの手の下で、紙の端にわずかな皺が寄っていた。*** リリアンナが椅子を引き、立ち上がろうとしたその瞬間、ランディリックが彼女を制し、机上の小さな呼び鈴を鳴らした。 甲高く、澄んだ音色が執務室に響く。「旦那さま、お呼びでしょうか?」 執務室傍へ控えていたんだろう。すぐさまノックとともに戸口へ顔を出した侍女に、ランディリックは簡潔に告げた。「ブリジットを呼んできてくれるか?」「かしこまりました」 綺麗なお辞儀をした侍女が立ち去ってほどなくして現れた侍女頭のブリジットに視線を向けると、ランディリックが淡々と命じる。「忙しいところ申し訳ないが、リリアンナをナディエルの部屋まで案内してやってくれるかな? 一人で行かせるのは不安だからね」「……!」 ランディリックがそう告げた途端、リリアンナの唇がきゅっと噛み締められた。 ランディリックの言葉の裏にある意図を見抜くのは容易だったからだ。(私を一人で出歩かせれ







