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命をいただくこと

last update Last Updated: 2025-05-17 21:49:30

森の中。

焚火の残り香のする広場で、ロホは立ち止まった。

血の匂いが、微かに漂っている。

近づくと、そこには、皮を剥がれ、投げ捨てられた鹿たちの屍があった。

三頭。

どれも腹だけ裂かれ、肉も取らず、放置されている。

そしてその傍で、数人の若い傭兵たちが笑いながら酒をあおっていた。

「ったく、こんなクソ森で狩りごっこしかできねぇなんてな!」

「ま、戦場までのヒマつぶしだろ!」

ロホは、ただ静かに、彼らの前に歩み寄った。

そして、何も言わず、足元の鹿を見下ろした。

傭兵たちは、最初はロホを面白半分に眺めていた。

「なんだよ、ババア。肉が欲しいのか?」

その言葉に、ロホは一度も顔を上げず、ただ言った。

「――おまえたちは、狩人ではない。」

声は低く、抑えられていた。だが、その場の空気が、一瞬で冷えた。

「命を、遊びに使うな。」

一歩、踏み出す。

剣にも、弓にも手は伸ばさない。

だが、傭兵たちは、無意識に腰を引いた。

翠の瞳が、夜の焚火よりも冷たく光っていた。

「おまえたちには、もはや、剣を抜く価値もない。」

静かな声だった。

なのに、何よりも重たく、刺さった。

傭兵たちは、バツの悪い顔をして、焚火の周りから逃げるように去っていった。

ロホは、静かに屍たちに膝をつき、一頭一頭、目を閉じさせた。

そして、短く、祈った。

「……無駄にして、すまない。」

風が吹いた。鹿たちの毛皮が、さらりと揺れた。

ファドが、そっと背後に寄ってきた。

「ロホ……怒ってる?」

ロホは答えなかった。

ただ、いつもより少し強く、ぺガスのたてがみに手を添えた。

それは、声なき誓いだった。

二度と、この森で、命が笑いものにされないように。

ロホはまた、歩き出した。

静かに。だが確かに、怒りと祈りを胸に抱きながら。

その夜。

焚火の灯りの向こうで、ファドは丸くなりながら、じっとロホを見上げていた。

「ロホ……」

「なんでさ、オレたちって、生きるために、誰かを食べなきゃいけないの?」

問いは、小さな焚火の音にかき消されそうなくらい、か細かった。

ロホは、薪をくべる手を止めた。

しばらく、何も言わず、ただ火を見つめていた。

そして、ゆっくりと口を開いた。

「……生きるって、奪うことだから。」

ファドは、少しだけ肩をすぼめた。

ロホは続けた。

「でもね。それは“悪いこと”じゃない。」

「誰かが、土に還り、誰かが、その命をもらう。」

「それを繰り返して、世界は生きてる。」

「だから、私たちは――」

ロホは、ファドの頭にそっと手を置いた。

「もらった分だけ、しっかり歩く。」

「もらった分だけ、ちゃんと、生きる。」

ファドは、目をぱちぱちと瞬かせた。

ロホは、少しだけ笑った。

「それが――“命をいただく”ってこと。」

焚火が、ぱちりと鳴った。

ファドは、焚火の向こうを見つめた。

静かに、静かに、心に何かを刻むように。

やがて、彼は小さく、頷いた。

「……うん。オレ、ちゃんと生きるよ。」

ロホは、ファドの小さな背中を軽く叩いた。

夜空には、ひとつだけ、小さな星が瞬いていた。

二人と一頭は、誰にも見られない場所で、誰にも知られない誓いを交わしていた。

命を、無駄にしないために。

そしてまた、静かに歩き続けるために。

別の日、別の森。

ロホは、焚火を求めて歩いていた。

森の奥、ふと、煙の匂いが鼻をかすめた。

その先には、鹿一頭を囲んで、慎重に解体している人々の姿があった。

狩人たちは、一人一人、静かに手を動かしていた。

無駄な笑いも、無駄な言葉もない。

皮は丁寧に剥がれ、肉はきちんと切り分けられ、骨にすら手向けるように祈りを捧げていた。

ロホは、ただ静かにそれを見ていた。

ファドが、そっと囁く。

「……前に見た、あいつらとは違うね。」

ロホは、小さく頷いた。

狩人たちの一人が、ロホたちに気づき、

腰を折って挨拶をした。

「よそ者か。火を分けようか?」

ロホは、軽く頭を下げた。

焚火の傍に招かれ、温かいスープを一杯、分けてもらった。

それは、鹿の骨から丁寧に煮出した、薄い塩味のスープだった。

ロホは、ひと口すする。

滋味が、静かに胸に広がった。

狩人の長老が、スープをかき混ぜながらぽつりと言った。

「獣も、草も、人も。もらった分だけ、生きて、返すのさ。」

ロホは、その言葉に、ただ、目を細めた。

何も答えない。

けれど、たったひとときだけ、心の奥で、深く頷いていた。

夜が更け、狩人たちは、鹿の骨を土に還す儀式を始めた。

ロホも、そっと手を合わせた。

誰にも気づかれずに。誰にも語らずに。

ただ、心から。

儀式が終わり、焚火が静かに小さくなっていくころ。

狩人のひとり、まだ若い男が、布に包んだ何かをそっとロホに差し出した。

「……あんたら、旅の人だろ。よかったら、これを。」

包みを開くと、中には丁寧に燻された干し肉があった。

薄く切られ、脂も落とされ、噛みしめるたびに力をくれる、そんな気配が漂っていた。

ロホは、小さく目を細めた。

「……いいのか。」

男は、焚火の向こうで笑った。

「もらった命を、ちゃんと生きる者に渡したいんだ。」

ロホは、深くは何も言わなかった。

ただ、静かに頭を下げた。

ファドは、干し肉のいい匂いにしっぽをぶんぶん振りながら、ふと、地面に落ちている小さなものに気づいた。

白く、なめらかな、小さな鹿の角。

ファドはそれを拾い上げ、ちいさな胸にぎゅっと抱いた。

「これ、オレのお守りにする。」

ロホは、その言葉に、ほんの一瞬だけ、優しく目を細めた。

焚火の火が、細く高く、夜空に吸い込まれていった。

旅人と、狩人たちと、失われた命と、生き続ける者たちと。

すべてが、静かに、夜に溶けていった。

夜空に、星がまたたいていた。

ファドは、拾った小さな鹿の角を両手で掲げ、夜の向こうにそっとかざした。

そして、小さく、呟いた。

「……また、会えるかな。」

誰に、とは言わなかった。

でも、その問いは、確かに空へ向かっていた。

ロホは、何も言わなかった。

ただ、そっと手を伸ばし、ファドの小さな肩を、軽く叩いた。

言葉の代わりに。

祈りの代わりに。

焚火の火が、ぱちりと小さくはぜた。

そして、二人と一頭は、また静かに、歩き出した。

もらった命を、胸に灯して。

小さな未来に、また出会うために。

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