皆が去って、静けさを取り戻した広大な役員会議室。美桜は一人、プロジェクターの電源を落として散らばった資料を回収していた。
その時、ドアが開いた。「先輩、お疲れ様です」
入ってきたのは、美桜が教育係をしている後輩の一条陽斗(いちじょう・はると)だった。ラグビー部出身だという彼は、スーツの上からでも分かるほど体格がいい。「手伝います」と言うと、美桜の返事を待たずに資料の束を軽々と持ち上げた。
「ありがとう。でも、大丈夫だよ」
美桜が遠慮がちに言うと、陽斗は人懐っこい笑顔を向けた。
「先輩、お疲れ様です。あのプレゼン資料、本当にすごかったです」
「あれは佐伯主任が……」
表向きには、資料を作ったのは翔だということになっている。美桜が代理をしていると知る人は、少ない。
美桜の言葉を遮るように、陽斗は続けた。「はい、佐伯主任のプレゼンも素晴らしかったです。でも、あのデータの緻密な分析と、説得力のある戦略の切り口は……どう考えても先輩の仕事だなって、思いました」
大きな子犬のように屈託なく笑っている。しかし、そのまっすぐな瞳の奥には、すべてを見透かしているかのような鋭い光が宿っていた。
美桜の心臓が、ドキリと大きく音を立てる。
自分の最も深い場所にある場所に、予期せず踏み込まれたような衝撃。彼女は言葉を失って、ただ目の前の後輩を見つめることしかできなかった。陽斗は美桜の反応に気づいて、「あ、すみません! 出過ぎたことを……」と慌てながら言った。
『どう考えても、先輩の仕事』
彼のその一言が、恋人の影に閉じ込められた美桜の世界に、小さく亀裂を入れていた。
(一条君は、時々とても鋭い。この人は一体、どういう人なのかしら)
そんな予感が、美桜の胸をにざわめかせ始めていた。
◇
金曜の夜。翔の昇進祝いを兼ねたデートで訪れたのは、予約の取りにくい人気のイタリアンレストランだった。 窓の外には宝石を散りばめたような都心の夜景が広がって、テーブルの上ではキャンドルの炎が優雅に揺れている。 客たちは皆上品で、揺れる明かりの中で料理に舌鼓を打ちながら、談笑していた。落ち着いたBGMが流れて、客たちのざわめきと心地よい調和を奏でている。けれどロマンティックな店内の雰囲気とは裏腹に、美桜の心はどこか落ち着かなかった。
「いやー、あの時の専務の顔、傑作だったよな。俺のデータを見て、ぐうの音も出ないって感じでさ」
翔は高価なワインを片手に、先日のプレゼンの成功といかに自分が評価されているかを上機嫌に語り続けている。
(翔の成功は嬉しい。それは本当よ。でも……)
俺が、俺の、俺も。彼が語るのはそれだけで、「私たち」という主語は一度も出てこなかった。最前列の観客席から彼の輝かしい独演会を眺めているような、そんな感覚だった。
美桜の指が、カクテルグラスの細い脚を強く握る。反論の言葉は喉まで出かかっているのに、声にならない。 言ってしまえば、きっとこの関係は終わる。 不満はあるけれど、三年も付き合った恋人だ。情は残っていた。(恋人……じゃなくて、まるで有能な秘書……ううん、召使いみたい) 美桜は無力感を覚えながら、かろうじて一言だけ絞り出した。「……わかったわ」「なんだよ。不満そうじゃないか。いつも通りのことを頼んだだけなのに、問題が?」「そんなわけじゃ」 ようやく美桜の様子に気づいた翔が、険のある声で言った。 カウンターに気まずい沈黙が落ちる。その静寂を破ったのは、磨き上げられたカウンターの上に置かれた翔のスマホだった。着信音は鳴らない。ただバイブレーションが震えて、画面が光る。 美桜の視界の端に、ロック画面のポップアップ通知が映った。『レナ♡:翔さん、今なにしてるの? 会いたいな(> <)』 名前についたハートマークと、甘えたような文面。 翔は美桜の視線に気づいて、一瞬だけ狼狽の表情を浮かべた。慌ててスマホをひったくり、画面を伏せてカウンターに置く。その一連の動作が、何よりも答えを語っていた。 美桜は気づかないふりをして、目の前のオリーブに視線を落とした。しかしグラスを持つ彼女の手は、既に冷たい。氷の塊を飲み込んだように胸が冷え切っていた。 美しいはずの窓の空の夜景が、色を失って見える。(レナ。先週も見た名前……。知りたくないの。お願い、もうやめて!) 美桜の心の中の叫びは、誰にも届かずに消えていった。◇ 深夜のオフィスは、静寂と薄闇に包まれている。半分だけ点灯された蛍光灯が、誰もいないデスクの列を青白く照らし出していた。 聞こえるのはPCの冷却ファンの低い唸りと、美桜自身のキーボードを叩く音だけ。
平日の夜。仕事帰りの美桜は翔に連れられて、一流ホテルの最上階にあるバーラウンジにいた。 床から天井まで続く大きな窓の向こうには、無数の光の粒が夜景の海となって広がり、眼下で煌めいている。静かに流れるジャズの生演奏と、シェイカーを振るリズミカルな音。空気には、高級な酒とほのかなシガーの香りが満ちていた。 美桜は、この日のために買った新しいワンピースの裾を、カウンターチェアの下でそっと撫でる。しかし完璧に洗練された空間にいるにもかかわらず、心の底から寛ぐことができない。分厚いガラス一枚を隔てて遠い世界の出来事を眺めているような、奇妙な浮遊感があった。「次のプロジェクトでは、アジア市場のシェアを最低でも5%は拡大させるつもりだ。役員たちも、俺のそのビジョンに賭けてくれたんだよ」 翔は琥珀色に輝くカクテルグラスを揺らしながら、昇進後の自分のビジョンを饒舌に語っている。彼の目は窓の外の夜景や、バーテンダーの流麗な手つきに注がれて、すぐ隣にいる美桜の表情を気にかける素振りはない。彼の語る未来予想図は、すべてが「俺」を主語としており、その中に美桜は「パートナー」としてではなく、「有能なサポート役」としてしか登場しなかった。「彼の成功が私の幸せ」――そう信じてきたはずなのに、目の前の翔がどんどん遠い存在になっていくような寂しさに襲われる。 最初は確かに、翔の役に立てるのが嬉しかったのだ。でもいつの間にか、二人の心は距離が開いてしまった。 彼の言葉に相槌を打ちながらも、その笑顔は強張っていた。(こんなに綺麗な景色なのに、どうしてだろう。翔の声が、すごく遠くに聞こえる)「こちらをどうぞ」 バーテンダーが、彩り豊かなオリーブの盛り合わせを二人の前に静かに置いた。それを待っていたかのように、翔は当然のように次の要求を口にする。「次の大型コンペも、俺が仕切ることになったんだ。役員からの期待も大きくてさ。だから、また頼むな。お前の資料がないと、俺も戦えないからさ」 その言葉には、依頼や相談というニュアンスは欠片もなかった。決定事項の通達そのものの響きが、美桜の耳を打つ。「うん、わかってる。もちろん協力するよ。翔の夢だもんね」(いつからだろう。「私たちの夢」が、「翔の夢」になったのは?) 翔は桜の様子に気づかない。満足げに頷くと、今度はプライベートな用事を
「先輩、今、少しよろしいですか?」 声のした方に顔を向けると、一条陽斗が分厚い資料の束を抱えて立っていた。 美桜はデスクの上の書類を横によけて、陽斗が資料を広げるスペースを作る。「ええ、いいわよ。どの点への質問かしら?」「ここなんですが、ワークフローの手順がよく分からなくて。どうしてこの手順を挟める必要があるんでしょう?」「ああ、それはね……」 陽斗の真剣な眼差しに応えて、美桜は指導係として丁寧に的確に彼の質問に答えていく。 いくつかの質問と返答を経て、陽斗は納得の頷きを返した。「ありがとうございます。よく分かりました。先輩の教え方はいつも丁寧で、助かっています」 彼の素直さや仕事に対する真摯な姿勢、時折見せる人懐っこい笑顔。そのどれもが、今の美桜にとってはささくれ立った心を撫でるような、穏やかな時間を与えてくれた。(本当に、大きい子犬みたいね。癒やされるなあ) 陽斗は物覚えがよく、一度伝えたことはきちんと覚える。さすがはT大を優秀な成績で卒業した人材だと、美桜は思った。 陽斗とのやり取りは、今の美桜にとって唯一、オアシスのような時間だった。 説明を終えて、自分の仕事に戻ろうとした時のこと。陽斗が別の資料を手にしていることに気づいた。それは先日美桜が自身の名前で作成し、部署内に共有した市場分析レポートだった。「あれ、一条君。そのレポートは……」 美桜が言うと、陽斗は目を輝かせた。少し興奮した様子でレポートを開き、一部分を指差した。「先輩、ここの分析、鳥肌が立ちました。競合A社の弱点を、販売データだけじゃなく物流コストの観点から突くなんて。どうしてこんな視点が持てるんですか?」「え?」 美桜は、虚を突かれた。 翔は、彼女の仕事が生み出す「結果」しか褒めない。君のおかげで契約が取れた、プレゼンが成功した、と。 しかし陽斗は、美桜の思考の「プロセス」と「本質」に気づいて、純粋な尊敬と好奇心を向けてきたのだ。 誰かに、自分の仕事そのものをこれほどまっすぐに評価されたのは、いつ以来だろう。美桜は戸惑いながらも、胸の奥にじんわりと温かいものが広がるのを感じていた。(この子、ちゃんと見てる。私の仕事の本質を……) 陽斗は美桜の答えを待たずに、感嘆のため息と共に呟きを漏らした。それは独り言のようでもあり、心の底からの疑問のようでもあっ
メインディッシュの肉料理が運ばれてきても、翔の独壇場は続く。「次のコンペも大規模なものになるんだ。また美桜の力が必要だ。頼りにしてる」 当然のように、翔は言う。美桜は週末を返上して資料を完成させたのに、労いの言葉はない 美桜は「うん」と微笑んで頷いた。しかし彼の言う「力」とは、あくまで「資料作成能力」という機能のことであり、自分自身を見てくれてはいないのではないか。そんな疑念が、胸の奥をかすめた。(「私たち」の話は、どこにもない) 美桜がどこかぼんやりとした様子で食事を進めていると、翔はふと真面目な顔つきになった。テーブル越しに手を伸ばして、彼女の手を握る。「このプロジェクトが成功したら、将来のこと、ちゃんと考えような」 その言葉に、美桜の心臓が期待で跳ねた。プロポーズかもしれない。三年間、心のどこかで待ち望んでいた言葉かもしれない。(将来? 私たちの?) だが翔の瞳は夜景の向こう、どこか遠くを見ていた。口にした言葉はまるで、あらかじめ用意された台本を読むかのように虚しく響く。美桜をこの先もつなぎ止めるための甘言。実体のない空約束のように感じられてしまった。(そんなことない、よね? でも……) 美桜が返答に窮していると、テーブルに置かれていた翔のスマホが振動し、画面が点灯した。 美桜の視界の端に、ロック画面にポップアップ表示された通知が入ってくる。送り主の名前は『レナ』。『翔さん、今度の土曜、楽しみにしてるね♡』 親密さを隠さない文面と、赤いハートの絵文字。 翔はそれに気づくと、一瞬だけ気まずい表情を浮かべて、慌ててスマホを裏返してテーブルに置いた。 美桜は、それを見て見ぬふりをする。だがナイフとフォークを握る彼女の手から、すっと血の気が引いていくのが自分でも分かった。(レナ? 今のは誰? ううん、知りたくない!) 目の前に広がる美しい夜景が、急に色を失って見えた。◇ 週明けのオフィスはキーボードを叩く音と、社員たちのざわめき、時折鳴る内線電話の呼び出し音に満たされている。 休み明けのどこか気だるい雰囲気の中、美桜は意識的に仕事に没頭することで、週末の間も頭から離れなかった翔への疑念や心の痛みを忘れさせようとしていた。(レナという人のことを、気にしても始まらない。今の私は、仕事をするだけ) 彼女にとって、整然とデータ
皆が去って、静けさを取り戻した広大な役員会議室。美桜は一人、プロジェクターの電源を落として散らばった資料を回収していた。 その時、ドアが開いた。「先輩、お疲れ様です」 入ってきたのは、美桜が教育係をしている後輩の一条陽斗(いちじょう・はると)だった。ラグビー部出身だという彼は、スーツの上からでも分かるほど体格がいい。「手伝います」と言うと、美桜の返事を待たずに資料の束を軽々と持ち上げた。「ありがとう。でも、大丈夫だよ」 美桜が遠慮がちに言うと、陽斗は人懐っこい笑顔を向けた。「先輩、お疲れ様です。あのプレゼン資料、本当にすごかったです」「あれは佐伯主任が……」 表向きには、資料を作ったのは翔だということになっている。美桜が代理をしていると知る人は、少ない。 美桜の言葉を遮るように、陽斗は続けた。「はい、佐伯主任のプレゼンも素晴らしかったです。でも、あのデータの緻密な分析と、説得力のある戦略の切り口は……どう考えても先輩の仕事だなって、思いました」 大きな子犬のように屈託なく笑っている。しかし、そのまっすぐな瞳の奥には、すべてを見透かしているかのような鋭い光が宿っていた。 美桜の心臓が、ドキリと大きく音を立てる。 自分の最も深い場所にある場所に、予期せず踏み込まれたような衝撃。彼女は言葉を失って、ただ目の前の後輩を見つめることしかできなかった。 陽斗は美桜の反応に気づいて、「あ、すみません! 出過ぎたことを……」と慌てながら言った。『どう考えても、先輩の仕事』 彼のその一言が、恋人の影に閉じ込められた美桜の世界に、小さく亀裂を入れていた。(一条君は、時々とても鋭い。この人は一体、どういう人なのかしら) そんな予感が、美桜の胸をにざわめかせ始めていた。◇ 金曜の夜。翔の昇進祝いを兼ねたデートで訪れたのは、予約の取りにくい人気のイタリアンレストランだった。 窓の外には宝石を散りばめたような都心の夜景が広がって、テーブルの上ではキャンドルの炎が優雅に揺れている。 客たちは皆上品で、揺れる明かりの中で料理に舌鼓を打ちながら、談笑していた。落ち着いたBGMが流れて、客たちのざわめきと心地よい調和を奏でている。 けれどロマンティックな店内の雰囲気とは裏腹に、美桜の心はどこか落ち着かなかった。「いやー、あの時の専務の顔、傑作だったよ
月曜日の早朝。 都会の喧騒が目覚める前の静けさの中、高梨美桜(たかなし・みお)は一人、オフィスの中にいた。 窓の外はまだ夜の色を濃く残している。手元のマグカップからは、淹れたてのブラックコーヒーの香ばしい香りが立ち上っていた。 彼女の視線は、ノートパソコンの画面に映し出されたプレゼンテーション資料の最終ページに注がれている。スライドの右下、フッター部分には、「第一営業部主任・佐伯翔(さえき・しょう)」という文字が刻まれていた。(よし、完璧だ) 美桜は完成したばかりの資料を前に、満足感を覚えていた。この数十枚のスライドを作るため、彼女は休日出勤をして、週末の時間すべてを注ぎ込んだのだ。 緻密な市場データ、多角的な競合分析、それから今後五年を見据えた販売戦略。グラフの一つ文言の一字一句に至るまで、論理的に組み上げられている。 我ながら完璧な出来栄えである。これが翔の声で彼の言葉として語られることで、完成されるのだ。 けれど達成感の隣で、ちくりと寂しさが胸を刺した。この資料に自分の名前は、どこにもない。 三年付き合っている恋人、翔の成功を支えることこそが自分の喜びだと、ずっと信じてきた。その気持ちに嘘はない。 だが、こんなにも完璧な資料の作成者なのに、自分の存在がどこにもない現実は、時折こうして彼女の心を痛ませるのだった。(ううん、いいの。翔の夢を応援するのが、私の役目だから) 美桜は寂しさをコーヒーの苦みと共に飲み下すと、自分に言い聞かせるように小さく微笑んだ。彼の役に立てるなら、それでいい。そう信じて。◇ 重厚なマホガニーのテーブルが鎮座する、三ツ星商事の役員会議室。張り詰めた空気が、高価な革張りの椅子に座る役員たちの厳しい表情を一層際立たせている。 美桜は議事録係として末席に座って、背筋を伸ばしたまま固唾をのんでスクリーンを見守っていた。 壇上には、恋人の佐伯翔が立っている。イタリア製のスーツを颯爽と着こなし、華やかな容姿と自信に満ちた態度で、美桜が心血を注いだ資料を淀みなく説明していく。 彼の巧みな話術は、データを生き生きとした成功への物語に変えていく。当初は懐疑的だった役員たちを一人、また一人と惹きつけていった。(すごい。翔が話すと、データが物語になる) 美桜は誇らしさと、自分がその場にいないかのような疎外感の入り混じっ