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ワンナイトから始まる隠れ御曹司のひたむきな求愛
ワンナイトから始まる隠れ御曹司のひたむきな求愛
Author: 灰猫さんきち

01:影の中

last update Last Updated: 2025-09-16 07:59:55

 月曜日の早朝。

 都会の喧騒が目覚める前の静けさの中、高梨美桜(たかなし・みお)は一人、オフィスの中にいた。

 窓の外はまだ夜の色を濃く残している。手元のマグカップからは、淹れたてのブラックコーヒーの香ばしい香りが立ち上っていた。

 彼女の視線は、ノートパソコンの画面に映し出されたプレゼンテーション資料の最終ページに注がれている。スライドの右下、フッター部分には、「第一営業部主任・佐伯翔(さえき・しょう)」という文字が刻まれていた。

(よし、完璧だ)

 美桜は完成したばかりの資料を前に、満足感を覚えていた。この数十枚のスライドを作るため、彼女は休日出勤をして、週末の時間すべてを注ぎ込んだのだ。

 緻密な市場データ、多角的な競合分析、それから今後五年を見据えた販売戦略。グラフの一つ文言の一字一句に至るまで、論理的に組み上げられている。

 我ながら完璧な出来栄えである。これが翔の声で彼の言葉として語られることで、完成されるのだ。

 けれど達成感の隣で、ちくりと寂しさが胸を刺した。この資料に自分の名前は、どこにもない。

 三年付き合っている恋人、翔の成功を支えることこそが自分の喜びだと、ずっと信じてきた。その気持ちに嘘はない。

 だが、こんなにも完璧な資料の作成者なのに、自分の存在がどこにもない現実は、時折こうして彼女の心を痛ませるのだった。

(ううん、いいの。翔の夢を応援するのが、私の役目だから)

 美桜は寂しさをコーヒーの苦みと共に飲み下すと、自分に言い聞かせるように小さく微笑んだ。彼の役に立てるなら、それでいい。そう信じて。

 重厚なマホガニーのテーブルが鎮座する、三ツ星商事の役員会議室。張り詰めた空気が、高価な革張りの椅子に座る役員たちの厳しい表情を一層際立たせている。

 美桜は議事録係として末席に座って、背筋を伸ばしたまま固唾をのんでスクリーンを見守っていた。

 壇上には、恋人の佐伯翔が立っている。イタリア製のスーツを颯爽と着こなし、華やかな容姿と自信に満ちた態度で、美桜が心血を注いだ資料を淀みなく説明していく。

 彼の巧みな話術は、データを生き生きとした成功への物語に変えていく。当初は懐疑的だった役員たちを一人、また一人と惹きつけていった。

(すごい。翔が話すと、データが物語になる)

 美桜は誇らしさと、自分がその場にいないかのような疎外感の入り混じった複雑な気持ちで、彼の姿を見つめていた。

「――この新規市場への参入リスクについて、具体的な対策は?」

 不意に、最も厳しいことで知られる専務から鋭い質問が飛んだ。翔が一瞬、言葉に詰まる。美桜の心臓がどきりと鳴った。

(大丈夫、その質問は想定済み。想定問答集の三ページ目!)

 翔が助けを求めるように、一瞬だけ美桜に視線を送る。美桜は誰にも気づかれぬよう、小さく頷いた。すると翔は自信を取り戻し、問答集を探し当てて完璧に回答してみせた。

(よかった……)

 美桜は安堵の息を吐く。この秘密の連携こそが二人で築き上げてきた絆の証なのだと、彼女は信じていた。少なくとも、信じていたかった。

 プレゼンは大きな拍手で幕を閉じた。

 開始当初は険しい表情だった重役たちも、今は大半が笑顔で手を叩いている。

「見事だったぞ、佐伯君。次期課長候補の筆頭だな!」

 称賛の声が飛び交う。二十代での課長昇進は、この会社としてはなかなかのものだ。

 翔は満面の笑みで役員たちに囲まれて、人々の輪の中心にいる。美桜はその輪に加わることなく、遠くから眺めていた。

 やがて会議が終わり、皆が退室していく。美桜のスマホが震えた。翔からのメッセージだ。

『美桜のおかげだ。ありがとう! 今夜は祝杯だな!』

 短い文面と、おどけたキャラクターが敬礼するスタンプ。たったそれだけ。けれど「ありがとう」の一言で、週末を捧げた時間も胸の奥の寂しさも、すべてが報われる気がした。

(この言葉があるから、頑張れるよ)

 美桜は自分に言い聞かせる。寂しさを愛情で上書きするように、スマホの画面に向かって微笑み返した。

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