LOGIN「忘れ物を取りに来たんですよ。そしたら、PCの明かりが見えて。……また佐伯主任の仕事ですか」
陽斗は美桜のPC画面のフォルダ名と、彼女の疲れ切った表情を見て、瞬時に状況を理解したようだった。
彼が何を思ったのかはまでは、美桜には分からない。 陽斗の眼差しには、尊敬する先輩を純粋に心配する色が浮かんでいる。それから、見えない誰かに向けられた怒りのようなものも。「もうすぐ終電、なくなっちゃいますよ。よかったら手伝います。俺、データ入力とか意外と早いんですよ」
その申し出は、今の美桜にとって非常にありがたいものだった。けれど後輩に弱みを見せたくないというプライドと、翔との問題を他人に知られたくないという意地が、彼女の心に壁を作る。
(これは、私と翔の問題。他の人には関係ない)
もしもこの件が彼女本来の仕事であれば、陽斗に助けを求めただろう。
美桜は必死に平静を装って、彼の手を拒んだ。「ううん、本当に大丈夫。これは私がやらないといけないことだから。気持ちだけもらっておくね。一条くんは気にしないで先に帰って」
「……そうですか」
陽斗は食い下がらなかった。頷くと一度フロアを出ていって、すぐに戻ってきた。手には自販機で買ってきたのだろう、温かいミルクティーの缶が握られていた。彼はそれを、美桜のデスクの隅にコトリと置いた。
「じゃあ、せめてこれだけでも。先輩は、頑張りすぎです。誰かのためじゃなく、もっとご自身のことを大切にしてください」
「え……」
真剣な眼差しと予期せぬ労いの言葉に、美桜は驚きに目を見開いた。翔からは決して与えられない、見返りを求めない純粋な優しさだった。
「それじゃあ僕は帰ります。先輩も早めに帰ってくださいね。お疲れ様でした」
「お疲れ様」
陽斗が静かに帰った後、オフィスには再び静寂が戻る。美桜は彼が置いていった温かいミルクティーの缶を、冷え切った両手で包み込んだ。
(そういえば、一条君。忘れ物を取りに来たと言ってたけど)
陽斗が忘れ物を回収したような様子はなかった。
まさか、と美桜は思う。美桜を心配して、様子を見に来てくれたのだろうか。そのためにわざわざ、こんな時間にやって来たのだろうか。ミルクティーの缶から伝わる熱が、張り詰めていた心の糸をぷつりと断ち切った。翔の冷たい態度と、陽斗の温かい優しさ。
比べるまでもない。その落差が、美桜の心の中の堰を切ってしまった。(どうして……)
こらえきれなくなった涙が、一粒、また一粒と頬を伝った。
(どうしてただの後輩であるあなたが、こんなに優しいの。恋人のはずの翔は、私を使い潰すことしか考えていないのに……)
その問いかけ誰にも届かず、涙の雫がキーボードの上にぽつりと落ちて、小さな染みを作った。
翔の言葉は実に嫌味だ。美桜のリーダーシップと蒼也の技術力、両方を同時に貶める悪意に満ちたセリフだった。玲奈も隣で「こんなことじゃ、本当に先が思いやられますね」と、くすくすと意地悪そうに笑っている。(あの人たち、またあんな言い方をして!) 美桜はぐっと唇を引き結んだ。ここでリーダーである彼女が動揺しては、チームの士気が崩壊してしまう。毅然とした態度で言い返そうとした時、隣に座っていた陽斗が口を開いた。「――原因は、必ずあります。解決策も必ず見つかります。そうですよね、リーダー」 彼は美桜の目をまっすぐに見て、そう言った。その強い信頼に、美桜は「ええ、もちろんよ」と、頷き返す。 けれど原因不明の「ゴーストデータ」という巨大な壁を前に、チームは再び暗礁に乗り上げてしまった。◇ プロジェクトチームの中で、「ゴーストデータ」の原因を追う作業が始まった。だが蒼也のチームからの最終報告は、絶望的なものだった。「デジタルの記録は、15年前のサーバー移行時に、破損した旧サーバーから無理やりデータを吸い上げた記録が最後です。それ以前は、もはや追跡できません」 最新の技術をもってしても、失われた過去のデータは復元できない。会議室は重い沈黙に包まれた。 蒼也の言葉に、誰もが反論できなかった。デジタルの追跡がダメならもう打つ手はない。それが現代のビジネスにおける常識だった。(どうしたらいいの……) 美桜もリーダーとして次の手を考えようとするが、思考が完全に停止してしまっている。手詰まりだった。 しかし陽斗だけは違った。彼は皆が下を向く中、一人だけ何かを考え込んでいた。(デジタルがダメなら……アナログだ。三ツ星商事は、古い会社。どんなにデジタル化が進んでも、ペーパーレス化が叫ばれても、あの世代の役員たちが、重要書類の『紙の原本』を簡単に手放すはずがない。特に海外拠点の会計に関わる書類なら、なおさらだ) 陽斗は三ツ星商事の体質を良くも悪くも知っている。デジタル世代の彼からすれば
(賑やかな週末だったわ。一時はどうなることかと思ったけれど、案外楽しかったかも) 美桜は気持ちを切り替えて、今週もしっかりと仕事をこなした。 今日はプロジェクトの中間報告会が行われている。美桜がリーダーに復帰してから、チームの士気は高く、会議室は前向きな熱気に満ちていた。 オンラインで参加している蒼也のチームの担当者が、AIによる第一次分析の結果をスクリーンに映し出した。「こちらが、北米と欧州の物流ルートの最適化シミュレーション結果です。ご覧の通り、AIの予測に基づけば、年間でおよそ15%のコスト削減が見込めます」「おお……!」 と、会議室から感嘆の声が上がった。プロジェクトは順調な滑り出しを見せている。美桜も安堵の息をついた。 しかし蒼也の部下の表情は、なぜか晴れない。彼は続けた。「ですが一つ、深刻な問題が発見されました。東南アジアの、とある古い物流拠点のデータです。こちらをご覧ください」 スクリーンに、新しいグラフが映し出される。その片隅にありえないほどの異常値を示す、一本だけ突き抜けた棒グラフがあった。「なんだ、あれは」「明らかにおかしいぞ」「どうしてあそこだけ、あんなことに?」 会議室がざわめきに包まれる。蒼也がそのざわめきを制するように、口を開いた。「簡単に言うと、AIが『存在しないはずの大量の在庫』が、この拠点にだけ、毎年必ず出現すると予測している。物理的にありえない。我々はこれを『ゴーストデータ』と呼んでいる。このゴーストの正体を突き止めない限り、AIは学習を誤り、使い物にならなくなる」「何だって……」「AIが使えないんじゃ、このプロジェクトが根底からくつがえるじゃないか」 蒼也の言に、会議室の熱気は急速に冷えていった。プロジェクトが深刻な壁にぶつかった瞬間だった。 重苦しい沈黙を破ったのは、翔である。彼は腕を組み、これ見よがしに大きなため息をついてみせる。「なるほどな。やはり最新技術というのは、こういう『想
美桜の隣には陽斗と蒼也。少し後ろに彩花。 そして、正面には翔と玲奈。 まったくもって、誰も望んでいないメンバーである。 事情が分からない彩花以外は、全員が嫌そうな顔をしていた。 6人は道の真ん中で固まる。数秒間、何とも言えない気まずい沈黙が流れた。 沈黙を破ったのは、翔だった。彼は美桜の隣に立つ陽斗と蒼也を値踏みするように見ると、わざとらしく大きな声で言う。「なんだ、美桜。ずいぶん趣味が変わったじゃないか。今度はガキと、ひょろっとした優男か? 俺みたいな大人の男が、恋しくなってるよなぁ?」 蒼也はプロジェクトの協業先の社長だが、もう後のない翔は体面を取り繕うことすらしない。 子供じみた悪意をむき出しにしている。「あらー、先輩。そのワンピース、去年のセール品じゃありませんか? 翔さんと釣り合うには、もうちょっと自分に投資しないとダメですよ? もう若くないんだから、自分磨きをしないと!」 玲奈も品定めするような視線で、勝ち誇ったように言った。 陽斗が怒りで顔をこわばらせ、一歩前に出ようとする。美桜がそっと彼の腕を掴んで制止する横で、蒼也は全く動じず、まるで道端の石でも見るかのに無表情で二人を見ている。「美桜さん」 彩花が隣にやってきて、ひそひそと言った。「あの人たち、誰ですか? めちゃくちゃ感じ悪いんですけど」「あ~……」 美桜はげんなりとした様子で答えた。「私の元彼と、別れる原因になった浮気相手」「うげ! 浮気とか、最低!」 彩花は思わずといった感じで、大きな声を出した。道行く人がちらちらと見ている。「浮気して別れておいて、こうやって突っかかってくるんですか? やだ、必死。一周回って面白いですね!」 そして翔と玲奈に向かって、にっこりと笑顔を向ける。「初めまして! いつも美桜さんがお世話になっているそうで。それにしてもお二人って、見ていてすごく痛々しいカップルですね。お似合いです! 応援してます!」
「三ツ星商事に入社希望を決めたのは、理念に共感したからです」 彩花が言う。「特にホームページに掲載されていた、一条社長の言葉に感銘を受けました。総合商社として物流を担い、世界各地をネットワークを結ぶことで、社会の課題に貢献していく……というものです」「あー、そんなことも言っていたなぁ」 陽斗が軽く笑うと、美桜は眉をしかめた。「またそんな言い方をして。社長を無条件で敬えとは言わないけれど、あまり失礼な態度を取っては駄目よ」「陽斗さんは不思議な人ですね。あれ、陽斗さんの名前も『一条』でしたっけ。まさか社長の親戚とか……?」 彩花の言葉に、陽斗は慌てて手を振った。「ないない。たまたまだよ。そこまで珍しい苗字でもないし」「それもそうですね」 彩花が頷いて、蒼也は少し複雑そうな目で陽斗を眺めた。 4人と1匹の午後は、ぎこちないながらも案外楽しく過ぎていく。彩花が、探るような目で陽斗に話しかけた。「陽斗さんって、かっこいいですね! もしかして、美桜先輩と付き合っているとか?」「俺は付き合いたいんだけどね。先輩はガードが固くて」 陽斗は蒼也を牽制するように、にっこりと笑って答える。美桜はもう気が気でない。 そのやり取りを見て、彩花は兄をキッチンの隅へと引っ張っていった。「兄貴、陽斗さんは手強いよ。美桜さんと付き合いたければ、先手を打たないと。ボヤボヤしてたら取られちゃう」「分かっている。今日こうやって話して、実感したよ」 彩花の囁きに、蒼也は頷いていた。 ケーキを食べ終わった後、彩花が「せっかくだから、この後、4人でどこかに出かけましょうよ!」と無茶な提案をした。蒼也は呆れながらも、美桜と共にいる時間を伸ばしたい一心で、その提案に乗った。◇ 猫のミオはお留守番をしてもらって、4人は町なかを歩いていた。 彩花は口実をつけて陽斗を連れ出して、兄と美桜を2人きりにしよ
「頭脳だけじゃなく、肉体の疲労にも糖分は効きますから。俺も大学時代に部活でよく甘味を食べました。今もトレーニング後は食べますよ」「一条君は、ラグビー部だったと聞いている」 蒼也が言うと、陽斗は笑った。どこか獰猛(どうもう)な笑みだった。「よくご存知で。如月社長は何でもよく調べていらっしゃいますね。やっぱり男たるもの、体は鍛えておかないと。いざという時に大事な人を守れませんから」 大柄で体格の良い陽斗が言うと、迫力がある。 一方で細身の蒼也は、わずかに眉をしかめた。「心外だな。僕だってジムには通っている。何かあれば、女性の一人くらい抱えられるさ」 二人の間に火花が散って、美桜は頭を抱えた。彩花はニヤニヤしている。「えー、何? 二人とも、騎士のつもりですかぁ? いいなー、乙女心がくすぐられちゃう」「彩花。お前は黙っていろ」 蒼也が呆れたように言ったので、その場が少し和んだ。猫のミオが「にゃあ~」と鳴いて、みんな笑った。 それを機に蒼也がキッチンに立ち、コーヒーとケーキを運んできたので、4人はソファに座る。 陽斗が言う。「如月社長は、美桜先輩の高校の同級生と聞きました。思い出があるのはいいことですね。でも、公私混同はどうかと思いますよ」「公私混同をした覚えはない。一条君、君こそどうなんだ? 先輩のプライベートにまでついてくるなど、後輩として逸脱しているのでは?」「いやー。猫のミオちゃんに会ってみたくて。社長の憧れの人の名前をつけた猫だから、きっと可愛いんだろうなと」 陽斗と蒼也の間に再び火花が散る。 美桜はいたたまれない気持ちでコーヒーを飲んで、彩花はそんな彼女の肩をぽんぽんと叩いていた。「陽斗君、彩花ちゃんは三ツ星商事に入社希望なの。2年後には優秀な後輩ができるかもしれないわ」 美桜が話題を逸らすと、陽斗は頷いた。「それは嬉しいな。彩花さん、我が社のどんなところが気に入ったの?」「こら、陽斗君。『我が社』だなんて大げさよ。社長や重役じゃないんだか
「……違う。僕は、いつでも完璧を追求しているだけだ」「はいはい。それで、その完璧なコーヒーを淹れて、美桜さんをおもてなしする、と。……言っておくけど、私は適当なところで帰るからね。後は美桜さんとうまくやってよ? ライバルがいるんでしょ?」 図星を突かれ、蒼也はわずかに眉をひそめる。「余計なお世話だ。そもそも、今日はお前のOG訪問のお礼が目的で……」 ピンポーン。 蒼也の言い訳を遮るように、軽快なインターホンの音が響いた。 マンションの入口モニタに美桜が映っていたので、ロックを解除する。 彩花が「はいはーい、主役のご登場です!」と楽しそうに言う横で、蒼也は一度、大きく深呼吸をした。そして、いつものクールで完璧なポーカーフェイスを貼り付けて、玄関のドアへと向かった。 ドアを開けると、少し緊張した面持ちの美桜が立っていた。 そして彼女の背後から、なぜか陽斗が気まずそうに顔を覗かせた。 蒼也と彩花は、予想外の「招かれざる客」の登場に一瞬固まった。 蒼也はすぐにクールな表情に戻り、「一条君もようこそ」と、大人の対応で彼を迎え入れる。「こんにちは、蒼也君、彩花ちゃん」 美桜の挨拶に、彩花はぺこりと頭を下げた。「こんにちは、美桜先輩。この間はありがとうございました。おかげさまで、改めて三ツ星商事に入社したいと思いました」「そう、それは良かった。あなたのような後輩ができたら、嬉しいわ」「えへへ。……ところで、そちらの方は?」 彩花は陽斗を見る。陽斗はにっこりと笑った。「どうも、初めまして。美桜さんの後輩で指導を受けている、一条陽斗です。如月社長にもお世話になっています」「初めまして。如月の妹の彩花です。よろしくお願いします」 彩花はそつなく挨拶を返しながらも、「おぉ……。この人が例の『ライバル』の人……」などと小