LOGIN社内の女性用パウダールームは、最近の福利厚生見直しのおかげでリフォームされたばかりだ。
華やかな雰囲気の内部は、照明が明るすぎるほどに明るい。 今は昼休み。周囲からは様々な香水やコスメの甘い匂いと、同僚たちの楽しげな噂話の声が聞こえてくる。美桜は大きな鏡の前に立って、ファンデーションを塗り重ねていた。目の下のくまがひどく目立って見える。
コンシーラーを使っても、くまは隠しきれなかった。(ちゃんと笑えてるかな……。最近、顔が疲れてるって言われる)
美桜はいつからか、自分の笑顔がうまく作れているかどうか、自信が持てなくなっていた。このパウダールームは女性たちの社交場であり、戦場でもある。
悪い噂が立てば、あっという間に社内に広がっていくだろう。 美桜は「佐伯主任の有能で献身的な恋人」という完璧な仮面を貼り付けようと、鏡の中の自分と格闘していた。その時、ひときわ甲高い笑い声が響いた。河合玲奈(かわい・れな)が同僚の派遣社員たちを引き連れて、パウダールームに入ってきたのだ。彼女は場の中心にいることが当たり前であるかのように、きらびやかなオーラを放っている。
輪の中心にいた玲奈の胸元で、何かがきらりと光った。同僚の一人が、それに気づいて声を上げる。
「えー! 玲奈ちゃん、そのネックレスすごく素敵。どうしたの?」
それは繊細なプラチナのチェーンに小さなダイヤモンドが一粒輝く、美桜が見たこともないデザインだった。
有名ブランドのロゴが刻印されており、いかにも高価な雰囲気である。「えへへ、翔さんからのプレゼントなの」
玲奈は勝ち誇ったように微笑み、わざとらしく声を潜めた。
派遣社員たちが興味しんしんといった顔で覗き込んでいる。「えっ、翔さん? 新しい彼氏、もう作ったの?」
「前彼と別れたばっかなのに。さすがー!」
「まあね。『これは特別な人にしかあげないんだ』って言ってくれて……。大事にしなきゃ!」
その言葉が、棘となって美桜の突き刺さった。頭の片隅で「何かの間違いだ」という声はするけれど
披露宴も終盤に差し掛かり、司会者からブーケトスの時間が告げられた。「ご結婚、ご婚約予定のない女性の皆様、どうぞ前へお集まりください!」 彩花やプロジェクトチームの独身の女性メンバーたちが、楽しそうにざわめきながら美桜の立つ場所へと集まってくる。 美桜は陽斗に手を引かれて、少しだけ高い位置にあるテラスに立った。彼女が振り返ると、友人たちが「こっち、こっち!」と楽しそうに手を振っている。その中に、兄の代わりに二人を祝福しに来てくれた彩花の満面の笑みがあった。(彩花ちゃんに、届くといいな) 美桜はそんなことを思いながら、手に持った純白のブーケを高く掲げる。「いきますよー!」 美桜はくるりと背中を向ける。友人たちの声がする方へと、腕を大きく振ってブーケを投げた。 白いブーケは、春の青空に綺麗な放物線を描く。 女性たちの、きゃあ、という楽しそうな歓声。 その中で一際高くジャンプした彩花の手が、見事にブーケを掴んだ。「やった!」 彩花はブーケを胸に抱きしめる。その場でぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んでいた。その姿に、会場は温かい拍手と笑い声に包まれる。 美桜と陽斗も顔を見合わせて、幸せそうに微笑んだ。◇ たくさんのゲストたちを見送って、披露宴会場となったガーデンには、今は西日のオレンジ色の光だけが満ちていた。 賑やかだった喧騒が嘘のように、今は静けさが戻っている。心地よい春風が、美桜のウェディングドレスの裾を優しく揺らしていた。 陽斗は隣に立つ美桜の肩を引き寄せた。疲れていないかと気遣うように、その顔を優しく覗き込む。「美桜さん、きれいです」 今日、もう何度も言ったその言葉を、改めて心の底からの想いを込めて告げた。「今日、こうしてあなたの隣にいられて、俺は世界一幸せです」 美桜も彼の胸に顔をうずめた。タキシード越しに温かさと、規則正しい心臓の鼓動が伝わってくる。「私もよ、陽斗君」 美桜は顔を上げて、彼の瞳
披露宴の会場は、チャペルに隣接する広大なガーデンだった。 青々とした芝生の上には、白いクロスがかけられたテーブルがいくつも並び、春の花々が飾られている。心地よい風が吹き抜け、木々の葉がさらさらと音を立てていた。 多くの仲間たちに囲まれて、美桜と陽斗はガーデンの中央に置かれた三段重ねのウェディングケーキの前に立った。「さあ、初めての共同作業ですよー!」 司会者の声に、ゲストたちから温かい笑い声が上がる。 陽斗が美桜の手に自分の手を重ねた。二人で一緒にナイフを握り、純白のケーキに入刀する。その瞬間、たくさんの拍手と祝福の言葉がシャワーのように降り注いだ。 披露宴が和やかに進む中、余興の時間になった。 会場の大きなスクリーンに、プロジェクトチームのメンバーが作成したという、サプライズムービーが映し出された。 映像は、AIプロジェクトが始まったばかりの頃の、緊張感に満ちた会議室の風景から始まった。 次々と現れる困難な課題。頭を抱えるメンバーたち。そんな中、リーダーとして、まっすぐに前を見てチームを鼓舞する美桜の姿。そして、いつも彼女の隣に立ち、誰よりも早く彼女の意図を汲み取り、黙って彼女を支える陽斗の姿。 映像は、二人がプロジェクトを通して少しずつ距離を縮めていく様子を、面白おかしく愛情を込めて編集していた。 美桜が難しい顔でモニターを睨んでいると、陽斗がそっとコーヒーを差し出すシーン。「あの時、一条君の顔、真っ赤だったよね!」というテロップが入り、会場は笑いに包まれる。 クライマックスは、調査委員会の日。会社の廊下で、陽斗が美桜の肩を抱いて守るように立つ、あの場面だった。BGMが、感動的なオーケストラの曲に変わる。「いつの間に撮っていたんだ、あれ」 陽斗は呆れながらも嬉しそうだ。 スクリーンに映し出された自分たちの姿に、美桜は少しだけ気恥ずかしくなりながらも、胸が熱くなるのを感じていた。 映像が終わると、会場はこの日一番の温かい拍手に包まれた。 披露宴の途中、司会者から欠席者からの祝電が読み上げられた。「
陽斗の隣では父・正宗が、誇らしげな表情で息子の姿を見守っていた。 彼は何も言わず、ただそっと、陽斗の肩に手を置いた。無言の激励に、陽斗は一度だけ父の方を向いて小さく頷き返した。 オルガンの前奏曲が終わり、チャペルが静寂に包まれた。 参列者たちの視線が、一斉に後方の扉へと注がれる。 やがて重厚な教会の扉が、ギイ、と音を立ててゆっくりと開かれた。 逆光の中に、純白のドレスをまとった美桜のシルエットが浮かび上がる。隣には、少し緊張した面持ちの父親が立っていた。 美桜は父親に支えられながら、一歩ずつバージンロードを歩き始める。 彼女のドレス姿は、息を呑むほどに美しかった。参列者たちの間から小さなどよめきと、感嘆のため息が漏れるのが聞こえる。 美桜はうつむきがちに、自分の足元だけを見ていた。心臓が今にも張り裂けそうなくらいに、速く脈打っている。(大丈夫。大丈夫……) ふと、顔を上げる。 祭壇の前で、陽斗がひたすらに彼女だけを見つめていた。 彼の瞳が感動で潤んでいるのが、遠目にも分かった。愛おしさに満ちた眼差しが、美桜の不安を溶かしていく。 陽斗の目にも、光の中に浮かび上がる美桜の姿だけが、切り取られたように映っていた。 ベール越しに見える、少しだけ緊張した彼女の顔。ゆっくりと一歩ずつ、自分の方へと近づいてくる。(美桜さん。なんてきれいなんだ) 夢にまで見た光景が今、現実になっている。込み上げてくる感情に、陽斗は唇をぎゅっと結んだ。 やがて美桜が祭壇の前へとたどり着く。父親がそっと美桜の手を離し、陽斗へと委ねられた。 その温かい手に導かれて、美桜は陽斗の隣に立った。 二人は言葉もなくただ見つめ合った。 祭壇の前で、二人は誓いの言葉を交わす。「――病める時も、健やかなる時も、あなたを愛し敬い、一生涯支え続けることを誓います。俺が、必ずあなたを幸せにします」「――私もあなたを愛し敬い、嬉しいことも、悲しいことも、全てを分かち合い、一生あ
陽斗が美桜にプロポーズをしたあの夜から、数ヶ月が過ぎた。 凍えるように寒かった冬は終わりを告げて、街には柔らかな春の光が満ちている。 そして今日、二人の結婚式が行われる。 会場となったのは、都心から少し離れた場所にある、緑豊かな庭園に囲まれた小さなチャペル。 雲一つない青空の下、満開の桜の花びらが祝福するように風に舞っている。 チャペルの中には、今日の祝いに駆け付けた多くの友人や会社の仲間たちの笑顔があった。 柔らかな光がステンドグラスを通して降り注いでいる。これから始まる式典を温かく照らし出していた。 式の準備を整えるための控え室・ブライズルームは、祝福の気持ちを表すように、たくさんの白い花で飾られていた。柔らかな春の光が大きな窓から差し込み、部屋中に満ちている。 その光の中心で、美桜はウェディングドレス姿で鏡の前に立っていた。 ドレスは派手な装飾のない、ごくシンプルなデザイン。しかし上質なシルクの滑らかな光沢が全身を優しく包み込み、美しさを引き立てていた。 部屋には、プロジェクトチームの女性メンバーや、来春から三ツ星商事で働くことが決まった彩花も駆けつけていた。「美桜さん、本当にきれいです! 本物のお姫様みたい……」 彩花がうっとりとした表情でため息を漏らす。「リーダー、泣きそうです、私……」 チームの後輩の一人が涙ぐみながら言うと、もう一人が笑いながら続けた。「本当に。あの佐伯課長に虐められてた頃が、嘘みたいですよね」 その言葉に、美桜は静かに微笑んだ。(あの夜、全てを失ったと思っていた。でも今は、こんなにもたくさんの大切な人たちに囲まれている) 鏡に映る自分の姿は、もう怯えてうつむくだけの女性ではない。 美桜は、祝福の言葉をくれる友人たち一人ひとりの顔を、愛おしい気持ちで見つめた。「みんな、ありがとう」 その声は、幸せな感謝の気持ちに満ちていた。◇
「新入社員の給与でまかなえる範囲で、選びました。なんだかんだ言って実家が金持ちだと、一般の人の感覚を失いがちですからね。少なくとも三年の修行の間は、給料だけで暮らそうと思っていたんです。そう思いながら車は実家のを持ち出したり、半端になっちゃいましたけど」 陽斗は眉尻を下げる。美桜は笑いかけた。「一人暮らし、できてるじゃない。お料理も上手だし、普通の人だってなかなかできないわ。十分よ」「美桜さんにそう言ってもらえると、嬉しいです」 陽斗は心から嬉しそうに笑った。 楽しくも雰囲気のある食事は、こうして進んでいく。 食事を終えて、陽斗が立ち上がった。「美桜さん。夜景を見ませんか」「ええ」 その誘いに、美桜はこくりと頷く。 二人は窓辺に並んで立った。ガラスに映る自分たちの姿が、遠い街の灯りと重なる。(あの夜は、窓の外を見る余裕なんてなかった。冷たい雨が降っていて、とても寒かったっけ。でも今は全然違う。あの時はただ怖くて、不安で……。今はこんなに温かくて、幸せ) 美桜がぼんやりと窓の外の風景を眺めていると、隣に立つ陽斗がそっと彼女の手を取った。「美桜さん」 彼の方を向くと、陽斗は真剣な目で美桜を見つめていた。 そして陽斗はゆっくりと、美桜の前に跪いた。「美桜さん。あの夜、俺は心に誓いました。必ず、あなたを幸せにすると。当時はただの後輩で、あなたを絶望から救うことしかできなかった。でも今は、あなたの隣で、一生あなたを支える家族になりたい」 ポケットから小さなベルベットの箱を取り出して、開く。中には、シンプルだが上品に輝くダイヤモンドの指輪が収められていた。「あなたの才能に、優しさに、そして強さに、俺はずっと前から恋をしていました。どうか、残りの人生を、僕と一緒に歩んでください。――美桜さん。俺と結婚してください」 真摯な瞳と心からの言葉。 美桜の目から、大粒の涙があふれ出す。あの夜流した絶望の涙ではない。人生で最高の幸福感に満たされた温かい涙だっ
陽斗はマンションの駐車場に車を停めると、エンジンを切った。静寂が車内を包む。彼は戸惑う美桜に向き直った。「僕にとって、この部屋は世界で一番大切な場所なんです」 陽斗の声は真剣だった。「ずっと隠していた美桜さんへの想いが、初めて形になった場所だから。……美桜さんにとっては、辛い記憶が残る場所かもしれない。分かっています。だからこそ、今日ここに来たかった」 彼はジャケットのポケットに手を入れて、鍵を取り出した。「その記憶を、人生で一番幸せな記憶に、俺が上書きしたくて」 差し出されたのは、あの日、彼が美桜に渡してくれた部屋の鍵。 陽斗はただひたすらに、美桜だけを見つめている。 美桜は彼の後について、階段を上る。心臓が一歩ごとに重くなっていくようだった。 見覚えのある部屋のドアの前で、陽斗が足を止める。鍵が差し込まれ、カチャリ、と小さな音が響いた。(大丈夫。これは、辛い記憶を上書きするための……) 美桜が自分に言い聞かせた時のこと。 開かれたドアの隙間から、温かい光と甘い花の香りが流れ出してきた。「え……?」 思わず小さな声が漏れる。 部屋の中は美桜の記憶にある簡素な一人暮らしの部屋とは、全く違う光景に変わっていた。 部屋の明かりは消されている。代わりに床や棚、テーブルの上に置かれた無数のキャンドルが、炎を優しく揺らめかせていた。その柔らかな光が、部屋中に飾られたたくさんの花々を照らし出していた。白いバラ、淡いピンクのトルコギキョウ。花々の甘い香りが部屋中に満ちている。 部屋の中央にあったローテーブルは、真っ白なテーブルクロスがかけられている。銀のカトラリーと美しいシャンパングラスが二つ、きちんとセッティングされていた。テーブルの上には有名レストランのロゴが入った銀色の食器カバーが、これから始まるディナーへの期待感を高めている。 まるで映画のワンシーンのような、しっかりと作り上げられたロマンチックな空間だった。美桜は