LOGIN週半ばの水曜日。終業後のオフィスには、週の折り返しを過ぎた安堵の空気が流れている。
美桜が帰り支度をしていると、陽斗がデスクにやってきた。「先輩、お疲れ様です。……あの、この前の週末、すみませんでした。俺の後輩たちが、騒がしくて」
彼は、まだ少し焼き肉屋での一件を気にしているようだった。その生真面目さに、美桜は思わず笑みをこぼす。
「ううん、本当に楽しかったよ。だから気にしないで。一条君の頼もしいところも見られたし」
プライベートでは「陽斗君」と呼んだ美桜だったが、会社では名字で呼ぶ。彼女なりのけじめの付け方だった。
陽斗は「頼もしい」というところに反応して、顔を輝かせた。「よかったです。でも、せっかく先輩と出かけられたのに、途中からずっとあいつらのペースだったので……。だから今度の週末、仕切り直ししませんか?」
「仕切り直し?」
「はい。この前は後輩たちのせいで、ぶち壊しになりましたから。今度は絶対あいつらに会わない場所に行きましょう。たまには、都会の喧騒から離れてぼーっと海とか見るの、どうですか? 少しは気分転換になるかと思って」
彼の「仕切り直し」という言葉の響きが、なんだか可愛らしくてくすぐったい。そして、自分の「気分転換」を第一に考えてくれている優しさが、心に温かく沁みた。
週末の予定を思い出す。翔はやはり不在だった。
彼がどこに誰と出かけているのかは、考えないことにする。「……うん、いいかも。海、ずっと行ってないな」
「本当ですか!? じゃあ、決まりですね!」
心から嬉しそうな、少年のような笑顔を向ける陽斗に、美桜の口元にも自然と小さな笑みが浮かんだ。
◇ 週末の朝。美桜が待ち合わせ場所に立っていると、滑るように一台の黒い高級ドイツ車が目の前に停車した。 スポーティなタイプの車で、お高いことで有名なメーカーのものだ。 美桜の前で運転席の静かに下りると、陽斗が少し照れくさそ(諦めるな。どんなに複雑に見える問題も、必ずどこかに綻びがあるはずだ) 彼は紙の資料探しと並行して、AIが検出した「ゴーストデータ」のパターンを、時系列で徹底的に分析し始めた。 画面には過去20年分の物流拠点の在庫データが、グラフとして表示されている。そのほとんどが正常な範囲で上下している中、問題の東南アジア拠点だけが、ある時点を境に毎年、物理的にありえない量の在庫を計上し続けていた。(このグラフの形。ランダムな入力ミスじゃない。まるで心電図にバグが起きたみたいに、一定の法則で、異常値が続いている。これはどこか大元の計算式か、参照データそのものが汚染された証拠だ) 陽斗は、その「異常が始まった時点」を特定するため、さらにデータをさかのぼっていく。 5年前、エラーは存在する。10年前、存在する。14年前、存在する。 そして――。(……15年前) 陽斗の指がぴたりと止まった。 15年前のデータまでは、異常値は存在しない。しかし、14年と364日前のデータから、突如として、あの「ゴースト」が現れている。「先輩」 隣で同じようにデータを分析していた美桜に、彼は声をかけた。「原因が分かりました。このゴーストが生まれたのは、ちょうど15年前の今日です」 彼はPCの画面を美桜に見せる。そこには正常なデータと異常なデータが、くっきりと分かれたグラフが表示されていた。「この日を境に、何かが起きたんです。システムが入れ替わったか、あるいは何か物理的なトラブルがあって、データの入力方法が変わったか……。デジタルで追えるのは、ここまでです。でも答えは、必ずこの『空白の一日』の前後にあるはずです」「……それは」 美桜は、陽斗の鋭い分析に息を呑んだ。何万という数字の羅列の中から、たった一つの「境界線」を見つけ出した、彼の驚異的な集中力と観察力。 陽斗はまっすぐな瞳で、美桜を見つめた。「俺が、その答えを見つけてきます。15年前の、紙の資料の
陽斗の祖父――先代の社長にして今の会長――は、幼い孫に向かってこう語った。『陽斗。これからデジタル化の波が押し寄せるのは間違いない。PCは日々進化して、誰もが使いこなすようになりつつある。近い将来、デジタル上でさらなる革新が起きる可能性は高いと見ている。我が三ツ星商事も、その波に乗ってさらに拡大していくだろう。だがな、陽斗。私は思うのだよ。技術が進歩すればするほど、便利になればなるほど、一つの方法に全てを賭けてしまうのは危険だとね。リスク分散の意味も含めて、古い技術の一部を残しておくのも、悪くないと考えている』(あの慎重なお祖父様が、デジタルだけを過信するはずもない。どこかにあるはずだ) 彼は自分の直感を信じて、ノートPCで会社の巨大な内規データベースにアクセスした。検索窓に普通の社員ならまず入力しないような、古風な単語を打ち込んでいく。「海外拠点」「資料保管規定」「第三分類」「永久保管」 数秒後、一件のファイルがヒットした。それは20年以上前に制定され、今では誰にも参照されることのなくなった、旧式の資料保管規定だった。 その条文の一つを、陽斗の目が捉える。『海外拠点における会計関連の一次資料(日報、輸送伝票等)の原本は、デジタル化の有無を問わず、全て本社地下の第四資料保管室にて、永久保管するものとする』(……あった! これだ!) 陽斗は顔を上げた。その瞳には、絶望の淵から一本の光を見つけ出した者の強い意志が宿っていた。 彼は疲れ果てた表情でうつむいている美桜の元へ、静かに歩み寄る。「先輩。まだ、手はあります」「一条君?」 陽斗は、自分のPC画面を彼女に見せた。そこに表示された古びた社内規定を。「デジタルの記録がダメでも、この会社のどこかに必ず、紙の記録が眠っているはずです。俺が、それを見つけ出します。どんなに時間がかかっても」 その声は静かだったが、確かな決意に満ちていた。 美桜は彼の言葉とまっすぐな眼差しに、失いかけていた希望の光を再び見出すのだった。◇
翔の言葉は実に嫌味だ。美桜のリーダーシップと蒼也の技術力、両方を同時に貶める悪意に満ちたセリフだった。玲奈も隣で「こんなことじゃ、本当に先が思いやられますね」と、くすくすと意地悪そうに笑っている。(あの人たち、またあんな言い方をして!) 美桜はぐっと唇を引き結んだ。ここでリーダーである彼女が動揺しては、チームの士気が崩壊してしまう。毅然とした態度で言い返そうとした時、隣に座っていた陽斗が口を開いた。「――原因は、必ずあります。解決策も必ず見つかります。そうですよね、リーダー」 彼は美桜の目をまっすぐに見て、そう言った。その強い信頼に、美桜は「ええ、もちろんよ」と、頷き返す。 けれど原因不明の「ゴーストデータ」という巨大な壁を前に、チームは再び暗礁に乗り上げてしまった。◇ プロジェクトチームの中で、「ゴーストデータ」の原因を追う作業が始まった。だが蒼也のチームからの最終報告は、絶望的なものだった。「デジタルの記録は、15年前のサーバー移行時に、破損した旧サーバーから無理やりデータを吸い上げた記録が最後です。それ以前は、もはや追跡できません」 最新の技術をもってしても、失われた過去のデータは復元できない。会議室は重い沈黙に包まれた。 蒼也の言葉に、誰もが反論できなかった。デジタルの追跡がダメならもう打つ手はない。それが現代のビジネスにおける常識だった。(どうしたらいいの……) 美桜もリーダーとして次の手を考えようとするが、思考が完全に停止してしまっている。手詰まりだった。 しかし陽斗だけは違った。彼は皆が下を向く中、一人だけ何かを考え込んでいた。(デジタルがダメなら……アナログだ。三ツ星商事は、古い会社。どんなにデジタル化が進んでも、ペーパーレス化が叫ばれても、あの世代の役員たちが、重要書類の『紙の原本』を簡単に手放すはずがない。特に海外拠点の会計に関わる書類なら、なおさらだ) 陽斗は三ツ星商事の体質を良くも悪くも知っている。デジタル世代の彼からすれば
(賑やかな週末だったわ。一時はどうなることかと思ったけれど、案外楽しかったかも) 美桜は気持ちを切り替えて、今週もしっかりと仕事をこなした。 今日はプロジェクトの中間報告会が行われている。美桜がリーダーに復帰してから、チームの士気は高く、会議室は前向きな熱気に満ちていた。 オンラインで参加している蒼也のチームの担当者が、AIによる第一次分析の結果をスクリーンに映し出した。「こちらが、北米と欧州の物流ルートの最適化シミュレーション結果です。ご覧の通り、AIの予測に基づけば、年間でおよそ15%のコスト削減が見込めます」「おお……!」 と、会議室から感嘆の声が上がった。プロジェクトは順調な滑り出しを見せている。美桜も安堵の息をついた。 しかし蒼也の部下の表情は、なぜか晴れない。彼は続けた。「ですが一つ、深刻な問題が発見されました。東南アジアの、とある古い物流拠点のデータです。こちらをご覧ください」 スクリーンに、新しいグラフが映し出される。その片隅にありえないほどの異常値を示す、一本だけ突き抜けた棒グラフがあった。「なんだ、あれは」「明らかにおかしいぞ」「どうしてあそこだけ、あんなことに?」 会議室がざわめきに包まれる。蒼也がそのざわめきを制するように、口を開いた。「簡単に言うと、AIが『存在しないはずの大量の在庫』が、この拠点にだけ、毎年必ず出現すると予測している。物理的にありえない。我々はこれを『ゴーストデータ』と呼んでいる。このゴーストの正体を突き止めない限り、AIは学習を誤り、使い物にならなくなる」「何だって……」「AIが使えないんじゃ、このプロジェクトが根底からくつがえるじゃないか」 蒼也の言に、会議室の熱気は急速に冷えていった。プロジェクトが深刻な壁にぶつかった瞬間だった。 重苦しい沈黙を破ったのは、翔である。彼は腕を組み、これ見よがしに大きなため息をついてみせる。「なるほどな。やはり最新技術というのは、こういう『想
美桜の隣には陽斗と蒼也。少し後ろに彩花。 そして、正面には翔と玲奈。 まったくもって、誰も望んでいないメンバーである。 事情が分からない彩花以外は、全員が嫌そうな顔をしていた。 6人は道の真ん中で固まる。数秒間、何とも言えない気まずい沈黙が流れた。 沈黙を破ったのは、翔だった。彼は美桜の隣に立つ陽斗と蒼也を値踏みするように見ると、わざとらしく大きな声で言う。「なんだ、美桜。ずいぶん趣味が変わったじゃないか。今度はガキと、ひょろっとした優男か? 俺みたいな大人の男が、恋しくなってるよなぁ?」 蒼也はプロジェクトの協業先の社長だが、もう後のない翔は体面を取り繕うことすらしない。 子供じみた悪意をむき出しにしている。「あらー、先輩。そのワンピース、去年のセール品じゃありませんか? 翔さんと釣り合うには、もうちょっと自分に投資しないとダメですよ? もう若くないんだから、自分磨きをしないと!」 玲奈も品定めするような視線で、勝ち誇ったように言った。 陽斗が怒りで顔をこわばらせ、一歩前に出ようとする。美桜がそっと彼の腕を掴んで制止する横で、蒼也は全く動じず、まるで道端の石でも見るかのに無表情で二人を見ている。「美桜さん」 彩花が隣にやってきて、ひそひそと言った。「あの人たち、誰ですか? めちゃくちゃ感じ悪いんですけど」「あ~……」 美桜はげんなりとした様子で答えた。「私の元彼と、別れる原因になった浮気相手」「うげ! 浮気とか、最低!」 彩花は思わずといった感じで、大きな声を出した。道行く人がちらちらと見ている。「浮気して別れておいて、こうやって突っかかってくるんですか? やだ、必死。一周回って面白いですね!」 そして翔と玲奈に向かって、にっこりと笑顔を向ける。「初めまして! いつも美桜さんがお世話になっているそうで。それにしてもお二人って、見ていてすごく痛々しいカップルですね。お似合いです! 応援してます!」
「三ツ星商事に入社希望を決めたのは、理念に共感したからです」 彩花が言う。「特にホームページに掲載されていた、一条社長の言葉に感銘を受けました。総合商社として物流を担い、世界各地をネットワークを結ぶことで、社会の課題に貢献していく……というものです」「あー、そんなことも言っていたなぁ」 陽斗が軽く笑うと、美桜は眉をしかめた。「またそんな言い方をして。社長を無条件で敬えとは言わないけれど、あまり失礼な態度を取っては駄目よ」「陽斗さんは不思議な人ですね。あれ、陽斗さんの名前も『一条』でしたっけ。まさか社長の親戚とか……?」 彩花の言葉に、陽斗は慌てて手を振った。「ないない。たまたまだよ。そこまで珍しい苗字でもないし」「それもそうですね」 彩花が頷いて、蒼也は少し複雑そうな目で陽斗を眺めた。 4人と1匹の午後は、ぎこちないながらも案外楽しく過ぎていく。彩花が、探るような目で陽斗に話しかけた。「陽斗さんって、かっこいいですね! もしかして、美桜先輩と付き合っているとか?」「俺は付き合いたいんだけどね。先輩はガードが固くて」 陽斗は蒼也を牽制するように、にっこりと笑って答える。美桜はもう気が気でない。 そのやり取りを見て、彩花は兄をキッチンの隅へと引っ張っていった。「兄貴、陽斗さんは手強いよ。美桜さんと付き合いたければ、先手を打たないと。ボヤボヤしてたら取られちゃう」「分かっている。今日こうやって話して、実感したよ」 彩花の囁きに、蒼也は頷いていた。 ケーキを食べ終わった後、彩花が「せっかくだから、この後、4人でどこかに出かけましょうよ!」と無茶な提案をした。蒼也は呆れながらも、美桜と共にいる時間を伸ばしたい一心で、その提案に乗った。◇ 猫のミオはお留守番をしてもらって、4人は町なかを歩いていた。 彩花は口実をつけて陽斗を連れ出して、兄と美桜を2人きりにしよ