LOGIN一条の言葉に陽菜は思わず目を丸くした。 次の瞬間には頬がみるみる赤く染まり、しどろもどろになってしまって、うまく言葉が出てこない。 しばらくしてようやく、小さな声で口を開いた。「お、お母様……初めまして」 それだけ言うのが精一杯だった。 もっとも、一条がわざわざそんな説明をしなくても、一条の母親はとても穏やかで優しそうな女性だった。「こんにちは。いつも修司がお世話になっています。この子、小さい頃から落ち着きがなくて、あまりしっかりした性格でもないんです。藤野さんにはご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんが、何か気になることがあったら、遠慮なく叱ってあげてくださいね」 その言葉に、一条はすぐさま不満そうな声を上げた。「母さん、俺そんなに頼りない? 藤野の前なんだから、少しくらい褒めてくれてもいいじゃん」「そのぐるぐる巻きの姿を見て、どこを褒めろっていうの? まるでちまきみたいじゃない」「母さん、俺こんな大怪我してるのに笑う?」 二人のやり取りを見ているだけで、普段からとても仲のいい親子なのだと伝わってくる。 その温かな空気につられて、陽菜も思わず吹き出してしまった。 陽菜が笑ったのを見ると、一条も嬉しそうに笑う。 そんな息子の様子を見て、一条の母親は呆れたように小さく首を振りながらも、優しく口元を緩めた。 面会時間が終わると、一条は名残惜しそうに陽菜へ別れを告げた。 その表情はまるで捨てられた子犬のようにしょんぼりとしていて、陽菜が「明日もまた来ます」と何度も約束してようやく諦めたように口を尖らせる。「……しょうがない。じゃあ、また明日」 病室を出て下へ降りる途中、まだ帰っていなかった一条の母親と鉢合わせた。 手には何枚かの書類を持っていて、おそらく医師から受け取ったものなのだろう。 陽菜に気づくと、一条の母親はにこやかに声をかけてきた。「藤野さん、お帰りですか? よかったら、お送りしましょうか」「いえ……そんな、ご迷惑になりますので」「気にしなくて大丈夫。それに、私も藤野さんともう少しお話ししたいなと思っていたんです」 そう言われてしまい、陽菜は断り切れず、一条の母親と一緒に病院の駐車場へ向かった。 歩きながら、頭の中には鷹宮の母親から向けられた冷たい言葉や、刃物のように鋭かった視線が何度も蘇る。 そのたび
翌日も仕事があったため、陽菜は胸の奥から何度も込み上げてくる一条への心配を押し殺しながら会社へ向かった。 仕事を始めて間もなく、一本の見知らぬ番号から電話がかかってくる。 取引先からの電話かもしれないと思い、陽菜はチームリーダーに一声かけて席を立ち、静かな場所へ移動して電話に出た。 通話ボタンを押し、声を出すよりも早く、受話器の向こうから待ちきれなかったように一条の声が飛んできた。「よかった。知らない番号だから、出てもらえないかもって心配してたんだ」 一条はそう言って笑うと、陽菜が尋ねるより先に、自分から番号のことを説明した。「これ、友達にスマホ借りたんだ。藤野、俺のスマホ壊れちゃってさ。今日はこれで連絡するしかなくて」 電話越しの一条の声は昨日よりずっと元気そうだった。 それでも、まだ少し掠れている。「一条君、まだこんなに朝早いのに……身体は少しよくなりましたか?」「だいぶよくなったよ。……昨日目が覚めたらもう真っ暗でさ、藤野に会えなかったから、朝になったら真っ先に電話したくて」「ふふ……でも、今は仕事中ですよ」「それもそうだな……じゃあ休みにする? 俺、一応社長だし。藤野、仕事休んで病院来ない?」 一条は本気でそう言っているらしい。 けれど、そんな理由で仕事を休ませようとするなんて、あまりにも無茶な話だった。「一条君、お仕事が終わったら会いに行きます」「……しょうがないな。じゃあ待ってる」 陽菜も一条に早く会いたいと思っていたからだろうか。 その日は一日がいつもよりずっと長く感じられた。 ようやく終業時間になり、帰る支度を終えたところで、一条からまた電話がかかってくる。 その声は期待で弾んでいて、どこか珍しく子どもっぽかった。 そんなところまで、陽菜にはたまらなく可愛く思えた。「藤野、まだ?」「あ……今ちょうど下に降りるところです」「早く会いたい」 怪我をして入院しているせいなのだろうか。 一条はいつになく甘えん坊で、そんな照れてしまうような言葉も何のためらいもなく口にする。 まるで一秒でも早く陽菜に来てほしいと言わんばかりに、何度も急かしてきた。 陽菜は病室には一条しかいないものだと思っていた。 けれど病室へ入ると、そこにはもう一人、見舞いに来ている女性がいた。 上品で洗練された身なりの女性だった
医師の話では、一条は見た目こそ痛々しいものの、重いのは主に外傷で、内臓には大きな異常はないという。ただ、衝撃で骨を折ってしまっているため、しばらくは思うように身体を動かせず、引き続き入院して経過を見る必要があるらしかった。 陽菜は眠っている一条の顔を見つめた。 眠っていても痛むのか、眉間にはかすかな皺が寄っていて、頬に残る痣や擦り傷の跡を見ていると、少しでも代わりにその痛みを引き受けてあげたいと思ってし 一条を見ていると、胸の奥が何度も鋭く痛んだ。 自分はどこも怪我などしていないし、こんなにも元気なはずなのに、胸だけがどうしようもなく苦しい。 本能のような衝動に突き動かされ、一条の手に触れたい、一度だけでも抱きしめたい。 そうでもしなければ、この胸の奥から溢れてくる得体の知れない感情を押さえ込めそうになかった。 鷹宮も医師の説明を聞いたあと、しばらく病室に残っていた。 何度か陽菜に話しかけ、その様子を心配していたものの、陽菜は呼ばれてから少し遅れて気づくような状態で、そのたびに簡単な返事を返すことしかできない。「陽菜さん、君……」 最後の数分、鷹宮は何か言いたげな顔をしていた。 何度も口を開きかけては閉じる。 陽菜の意識がまるで自分に向いていないことを感じ取ったのだろう。しばらく考えたあと、小さく首を横に振り、結局何も聞かなかった。 一条に使われている薬は、本当に強いものだったのかもしれない。 面会時間が終わる頃になっても、彼は目を覚まさず、回診に来た看護師がぽつりと教えてくれた。「怪我も重いですし、お薬にも眠れる成分が入っていますから。数日してから来ていただければ、もう少し元気になっていると思いますよ」 陽菜は何も言わず、小さく頷いた。 目を覚ました一条と話ができなかったのは少し残念だった。 本当はもっと話をしたかった。 でも、一条がぐっすり眠れていることに、陽菜は少し安心もしていた。 一晩眠っていなかったせいだろう。 家に帰ってようやく、自分が思っていた以上に疲れ切っていたことに気づいた。 身体は鉛のように重く、あと一歩歩くだけでもひどく億劫に感じるほどだった。 なんとか身支度を済ませてベッドに倒れ込む。 それなのに、なかなか眠ることができなかった。 身体はひどく疲れているのに、目を閉じると浮かんでくるの
一条の全身の半分以上には包帯が巻かれていた。 片手は点滴のために布団の外へ出され、顔も半分ほど腫れ上がっていて、痛々しい痣が広がっている。 その姿はあまりにも痛々しく、一目見ただけで陽菜はまともに見ていられなくなった。 目の奥が熱くなり、涙が滲んでくる。 物音に気づいたのか、一条はゆっくりと顔を向けた。鷹宮と陽菜の姿を見つけると、挨拶しようとしたのだろう。 手を上げようとするものの思うように動かず、ようやく浮かべた笑顔も、どこかの傷に響いたのか、「っ……」 と小さく息を漏らし、そのまま引きつったような笑みで止まってしまった。「はは……俺、今すげぇ悲惨な顔してる?」 こんな時だというのに、まだ冗談を言う余裕がある。 陽菜は俯いたまま鷹宮の後ろについて立ち、一条を見ることができなかった。 泣いている顔を見られたくなかったからだ。 ぽたぽたと床に落ちる涙は隠しようもなく、一条はすぐに気づき、困ったように口元を歪めた。 本当は陽菜を慰めたくて、できることなら抱きしめて安心させてあげたかったが、身体に力が入らず、優しく声をかけることしかできなかった。「藤野、泣くなって。俺、大丈夫だから。見た目は派手だけど、全然痛くないし! ほとんどかすり傷みたいなもんだって。本当。本当に心配なら、先生呼んで説明してもらおうか?」 そう言いながら、一条は本当にナースコールを押そうと懸命に手を伸ばしたが、それを鷹宮が止めた。「修司、動くな」 そう言ってから少し考え、「後で僕が陽菜さんを連れて先生の話を聞きに行くから、お前は変なことするな。大人しく寝てろ」「はは……それならいいか。藤野、先生の話を聞けば分かるって。俺、本当に大したことないから」 一条は笑いながらそう言った。 なんとか陽菜を笑わせたかったのだろう。 本人は、自分の声がどれほど掠れていて、いつものような明るさや張りを失っているのかまったく気づいていなかった。 陽菜が何も言わないものだから、一条も不安になったのか、何度も彼女の名前を呼んだ。「藤野。藤野。……もう少しこっち来て? な?」 声を落とした一条は、きらきらとした目で陽菜を見つめながら、一歩ずつ近づいてくる彼女の姿を追う。 そして、涙の跡が残る頬と、今もぽろぽろと零れ続ける涙を見てしまった。 本当は、からかうつもりでいく
何が起きたのかは分からなかった。 ただ、本能的に一条の身に何かあったのだと感じていた。 そんな予感と、何度かけても繋がらない電話に、陽菜はますます焦りを募らせた。 それでも、どうすることもできない。 ただ、何度も何度も通話ボタンを押し続けることしかできなかった。 そんな状況は翌日になっても変わらず、陽菜は依然として一条と連絡が取れないままで、どうしようもなくなった末にようやく鷹宮の番号を押した。本当は、こんなに早く鷹宮を頼るつもりはなかった。「た、鷹宮さん……あの……その……」「あ、陽菜さん? 待って待って、まず落ち着いて」 電話が繋がった途端、陽菜は焦りのあまり言葉にならなくなる。 そんな様子に鷹宮は一瞬驚いたものの、すぐに優しく声をかけた。 落ち着いた口調に、陽菜も少しだけ冷静さを取り戻す。何度も深呼吸をしてから、ようやく言葉を絞り出した。「鷹宮さん、一条君が……一条君が……」 けれど途中でまた焦りが込み上げ、うまく言葉を続けられない。 そんな混乱の中で、受話器の向こうからかすかなため息が聞こえた。「陽菜さん。君が聞きたいことは分かってる。今から迎えに行くから、そのあとでちゃんと話す。いい?」「一条君、何かあったんですか?」 いつもの陽菜なら、もっと落ち着いて鷹宮の話を聞けたはずだった。 なぜか今は駄目だった。 どうしても待っていられないほどの焦燥感に駆られていて、そんな陽菜の様子を察した鷹宮は、先に安心させるように言った。「陽菜さん。修司は大丈夫だよ。……うん、元気だから。今から迎えに行く。それから一緒に会いに行こう。いい?」 鷹宮はすぐにやって来た。 昨日別れた時と同じ服を着たままの陽菜を見ると、鷹宮はほんのわずかに目を見開き、何か言いかけたものの、その言葉を飲み込んだ。 陽菜は昨夜、一睡もしていなかった。 不安で落ち着かず、着替える余裕すらなかったのだ。 そんな自分に鷹宮が気づいたことで、陽菜もようやく我に返ったように、気まずそうに服の裾を引っ張った。「ごめんなさい……ちょっと、焦りすぎてて……」「大丈夫だよ、陽菜さん。先に準備する? それとも、このまま行く?」 結局、陽菜は着替えてから鷹宮と一緒に出発した。 道中も陽菜の不安は隠しきれず、本人は平静を装っているつもりだったが、運転する鷹宮は何度
陽菜のその言葉に、鷹宮はそれ以上引き止めようとはしなかった。 しばらく黙り込んだあと、小さく息を吐く。 陽菜を見る眼差しには相変わらず申し訳なさが滲んでいたが、それと同時に、陽菜と同じようにどこか解放されたような安堵も浮かんでいた。「ごめん、陽菜さん」「鷹宮さん、今日ずっと謝ってばかりですね。何度も言いましたけど、鷹宮さんのせいじゃないんです。できることなら……鷹宮さんとは、こんなふうにお互いに申し訳なく思わなくていい関係になりたいです」 陽菜はそう言って、鷹宮に小さく微笑みかけた。「もちろん……」 鷹宮はすぐに頷いた。 ただ、気持ちの整理はまだ追いついていないのだろう。 すぐには難しそうだった。 陽菜もそれ以上無理に求めることはせず、しばらく車窓の景色を眺めたあと、笑顔で鷹宮に頼んだ。「鷹宮さん、最後に一つだけお願いです。……家まで送ってもらえますか?」「……陽菜さん。これから先も、僕を頼ってくれていいんだよ」「友達として、ですか?」「もちろん。陽菜さんが嫌じゃなければ」 鷹宮は陽菜をマンションの前まで送った。 別れを口にしてからの車内は、不思議なくらい最初よりも空気が柔らかくなっていた。 鷹宮も目に見えて肩の力が抜けていて、その姿に少し複雑な気持ちになりながらも、陽菜は本当によかったと心から思った。 車を降りる前、鷹宮は何度も念を押すように言った。「陽菜さん。これから何かあったら、遠慮しないで連絡して。僕にできることがあるなら、何でもするから」 陽菜は頷き、鷹宮に笑顔を向ける。「……おやすみなさい、鷹宮さん」 車を降りたあとも、陽菜は鷹宮の車が見えなくなるまでその場で見送った。そしてマンションへ入ろうとしたその時、不意にスマートフォンが鳴り出す。 画面に表示されていたのは、一条の名前だった。 一条から突然電話がかかってくること自体は、別に珍しいことではない。 けれど、こんなにも絶妙なタイミングだと、陽菜は思わず一条が何か知っているのではないかと考えてしまう。「一条君?」 電話に出て声をかけた途端、受話器の向こうから一条の明るい声が返ってきた。「おう、藤野。今ちょうど信号待ちしててさ、せっかくだから電話しようと思って。明日の予定のことなんだけど――」 どうやら、一条は陽菜が別れたことを知って電話してきた
朝、スマートフォンのアラームが一度鳴っただけで、陽菜はすでに目を覚ましていた。画面に表示された時刻はちょうど六時。窓の外は冬のせいかまだ薄暗く、朝の光が完全には届いていない。 目を半分閉じたまま、昨晩選んでおいた服に素早く着替え、簡単に身支度を整えると、急ぎ足でキッチンへと向かう。今日の朝食の準備を始めるために。 鷹宮の家で迎えた二日目の朝、陽菜は契約書に書かれた勤務時間に合わせて朝食を作ろうと考えていた。だが、九時に台所へ向かった時には、家の中にはすでに誰もおらず、陽菜一人だけが取り残されたように呆然と立っていた。 その夜、遅く帰宅した鷹宮は、まだリビングで待っていた陽菜の姿を見
鷹宮からドライヤーを受け取ったとき、陽菜の手がほんの少し震えた。 幸い、鷹宮はそれに気づかなかった。もし気づかれていたら、自分が余計なことを頼んでしまったと責めてしまったかもしれない。 ドライヤーのスイッチを入れると、その音が部屋の中のすべての音をかき消した。 鷹宮は二人掛けのソファに少しゆったりと腰を下ろし、背をもたせて座っていた。 陽菜はその背後に立ち、数メートル先のテレビ画面に映る反射を通して、目を閉じている鷹宮と、緊張した面持ちの自分の姿をはっきりと見ていた。 ドライヤーの温風は、鷹宮の髪だけでなく、陽菜の手までもじんわりと温めていく。 見た目通り、鷹宮の髪は柔らかくて
二人が車内に乗り込み、密閉された空間に身を置いた途端、それまで穏やかだった鷹宮の眉間に、ゆっくりと皺が寄り始めた。とはいえ陽菜の前だからか、彼はそれを抑え込むようにして、辛さを表に出さないよう努めていた。 陽菜はそっと鷹宮の様子を窺い、彼が助手席に座ったままじっと動かないのを見て、少し遠慮がちに手を伸ばし、シートベルトを締めてあげようとした。 しかし、彼女の意図に気づいた鷹宮がそれを制止した。 「ごめん、忘れてた」 片手で眉間を揉みながら、もう一方の手で自分のシートベルトを慣れた様子で引き下ろし、カチリと留めた。 「お辛そうですね。頭が痛いんですか? 以前もお酒を飲まれた後、頭痛
冬に入ってからというもの、夜の時間はいつもあっという間に過ぎていく。 藤野陽菜は、書斎の本棚につき始めた埃を掃除し終えたばかりだったが、雇い主であり同居人でもある人物から電話がかかってきた。 「陽菜さん、迎えに来てもらえますか」 電話越しの男性の声は、実際の声とはどこか違って、まるで劣化した古いレコードの音のように歪んで聞こえた。 陽菜は一瞬意識がふわりと浮き、相手の男性が返事を待って電話を切らずにいることに気づいて、慌てて口を開いた。 「鷹宮さん、今どちらにいらっしゃいますか?」 鷹宮凌はホテルの名前と住所を告げた。そう遠くはない距離だっ







