Share

第3話

Author: 星入りポケット
知輝は唇を軽く結び、瞳の奥に一瞬迷いを滲ませた。だが結局は、繰り返し響く「キス!キス!」という声に押されるように、ゆっくりと香織の赤い唇へ顔を寄せていく。

香織は目を閉じ、顔を上向けた。まるで王子のキスを待つ物語の姫君のようだ。

囃し立てる声が静まり、代わりに柔らかなロマンチックな音楽が流れ出す。

会場全体が、甘い空気に包まれていく。

そのとき、場違いな拍手の音が響き、すべてを断ち切った。

「素晴らしい!そのままキスしなさいよ!」

宥里は拍手をしながら、参列者の間を縫うようにして高砂へ近づいていった。ヒールが床を打つたび、こつ、こつと乾いた音が会場に響く。

そして、照明の落ちた客席側から、スポットライトに照らされた新郎新婦の前へと姿を現した。

会場の空気が一瞬で凍りつく。

誰もが言葉を失い、突然前へ出てきた宥里に視線を集中させた。

何が起きているのか。

あの人は誰なのか。

披露宴の最中に、いったい何をするつもりなのか。

「あなたは確か、知輝のご親戚だったね?」

時雄は先ほどまでの笑顔を消し、険しい表情で宥里をにらみつけた。

「今は披露宴の最中だ。勝手に前へ出てきて、何をしている。すぐに席へ戻りなさい!」

これは桃木家にとってこれ以上ないほどの晴れ舞台なのだ。町中の誰もが、金も地位もある男と娘が結婚することを羨んでいる。

六歳の連れ子がいるとはいえ、その子だって我が家の香織にすっかり懐いているのだ。香織が嫁げば、たちまち裕福な暮らしが約束されるのだ。

だからこそ、誰であろうとこの結婚式を台無しにさせるわけにはいかない。

ブライダルスタッフも慌てて駆け寄り、宥里の前に立ちはだかった。

「お客様、披露宴の最中です。恐れ入りますが、すぐにお席へお戻りください」

それでも宥里が進もうとすると、スタッフたちは両脇から腕を取り、会場の後方へ連れ戻そうとした。

宥里はスタッフの手を軽くかわし、ゆっくりと前へ進み出た。瞬きひとつせず知輝を見つめる。

「席に戻れ、ですって?どうして私が?私は部外者じゃないわ。知輝の『親戚』なんでしょう?」

そして、まっすぐ知輝を見据えたまま問いかける。

「ねえ、知輝。私はあなたにとって、どういう親戚だったかしら?」

宥里の姿を目にした瞬間、知輝の瞳にわずかな動揺が走った。

だが、それもほんの一瞬だった。知輝はすぐに眉をひそめ、声を低くして警告した。「宥里、今は騒ぎを起こしている場合じゃない。すぐに出て行け。あとでちゃんと説明する」

宥里は小さく笑い声を漏らした。「はっ。説明?式まで挙げておいて、今さら何を説明するっていうの?」

「説明すると言っただろう。今すぐここを出て行け!」知輝の声はさらに低くなり、苛立ちと警告の色を強めた。

これまでなら、彼がこう出れば宥里はいつも大人しく従ってきた。

だが今回は違う。彼女はもう、従わない。

宥里は、驚きと戸惑いに固まる香織を見つめた。

「あなた、知輝の教え子なんでしょう?家でよく話を聞いていたわ。ずいぶん褒めていたけれど。そんなに立派なあなたが、どうして人の家庭を壊してまで不倫相手に収まろうとするの?」

その言葉が響いた瞬間、会場中がどよめいた。

不倫相手?

桃木家のお嬢さんが愛人?

まさか、本妻が乗り込んできたっていうこと?

香織の顔からさっと血の気が引き、よろめきながら知輝の背後へ後ずさる。「私……私、知らなかったんです……」

「何を知らなかったの?自分が愛人だってこと?知輝にれっきとした妻がいるってこと?それとも、知っていて愛人になり、その立場を楽しんでいたのかしら!」

「宥里!」知輝が厳しく叱りつける。その眼差しには冷たい怒りが宿っていた。

「私……っ」香織は感情を抑えきれず、目を赤くして知輝を見つめると、よろけるように彼の胸へ倒れ込んだ。涙がぽろぽろとこぼれ落ち、丁寧に施された化粧を崩していく。

それでも彼女はただ口元を覆うだけで言葉を発しない。まるで雨に打たれた花のようだった。

「あーっ!ママ!香織さんをいじめないで!」陽太が懸命に駆け寄り、力いっぱい宥里を押し始めた。

「もうママ、行って!これはパパと香織さんの結婚式なんだから!行ってよ!早く行って!」

宥里は呆然と自分の息子を見つめた。必死に押してくる小さな手が、心臓を直接殴りつけるようだった。

「陽太……私こそが、あなたの本当のママなのよ……っ」彼女の声が震える。

「ママなんかいらない!香織さんにママになってほしいの!ママなんて嫌い!大嫌い!」

宥里の息が止まった。身を削る思いで産んだ我が子から、これほど嫌われる日が来るとは想像すらしていなかった。

富美子が険しい顔で歩み寄り、興奮する陽太の手を引く。宥里の傷ついた顔と目が合うと、一瞬気まずそうに視線を逸らしたが、口をついた言葉は刃のように冷たかった。

「わざわざ恥をかきに来たようなものでしょう。さっさと帰りなさい。これ以上みっともない真似をしないで。あなたのためを思って言ってるのよ」

「私が恥をかいているって?」

宥里は鼻で笑い、富美子の向こうにいる知輝へ視線を移した。目の縁に涙が滲むが、必死に堪えて決してこぼさない。

七年前、実家の家族に見捨てられた彼女は、知輝に嫁ぎ、自分だけの家庭と子供を手に入れた。もう二度と誰にも見捨てられないと信じていた。

だが結局、最初から最後まで、自分には自分しかいなかったのだ。

「……じゃあ、離婚しましょう」

宥里はとても静かにその言葉を口にした。

取り乱すことも、すがることも、問い詰めることもなかった。言い終えると、彼女はくるりと背を向けて歩き出した。

きっぱりと立ち去る宥里の後ろ姿を見つめながら、知輝の心臓が不意にぎゅっと締めつけられた。

この七年間、一度も見たことのない宥里だった。

「宥里……」思わず足を踏み出し、追いかけようとする。

だがその背後で、パンッという鋭い音が響いた。

時雄の平手が、容赦なく香織の頬を打った音だった。「香織!いったいどういうことなんだ!」

香織は頬を押さえ、絶望と無力感の入り混じった目で知輝を見た。客席のざわめきと突き刺さるような視線に血の気が引き、呼吸が乱れていく。次の瞬間、彼女は白目をむいてそのまま気を失った。

「パパ!香織さんが倒れちゃった!」

その声に知輝は慌てて足を止め、身を翻して香織のもとへ駆け寄った。「香織!」

そして大勢が見守る中、香織を抱き上げると、そのまま真っ直ぐ病院へと向かった。

……

日はゆっくりと暮れ、田舎町の道にはほとんど人影がなかった。

宥里はあてもなく、ただただ前へ足を進めていた。

頭の中は真っ白で、無数のことが頭を駆け巡っているようでいて、実際には何ひとつ考えられなかった。

息苦しいほど濃密な感情の波がついに彼女を打ちのめした。胃がひっくり返るような感覚に襲われ、堪えきれずに道端へしゃがみ込んで吐いた。

不意に、けたたましいブレーキ音が静寂を切り裂く。

宥里が我に返ると、一台の黒い乗用車がすでに目の前で止まっていた。宥里の体まであと数センチという距離だ。

だが彼女は青ざめた顔で車をちらりと見ただけだった。今の彼女には、文句を言う気力すら残っていない。無言で立ち上がると、車体を避けて回り込み、そのまま真っ直ぐ立ち去っていった。

車の中では、豊口太朗(とよぐち たろう)が肝を冷やしながら遠ざかる女性の後ろ姿を凝視していた。「ボス、今の方、お嬢様じゃないですか?」

そう言ってからハッとして慌てて言い直す。「いえ、その……宥里さんじゃないですか……」

後部座席に座る気品ある男は、無表情のまま宥里の去っていく後ろ姿を見つめていた。深く澄んだ目は、闇に潜む獣のような静かな光を宿している。

太朗は自分の見間違いではないと確信し、振り返って貞末絢斗(さだすえ あやと)を見た。「それにしても、宥里さんの様子、なんだかおかしかったですよね?ちょっと様子を見に行きましょうか?」

絢斗は視線を戻し、目を軽く伏せた。ほんの一瞬、車内の空気が張り詰めたあと、淡々と口を開く。

「お前、そんなに暇なのか?」

その声は淡々としていながら、ぞっとするほどの威圧感を帯びていた。

太朗はそれ以上何も言えず、すぐさま口をつぐんで車を発進させた。車は宥里のそばを通り過ぎ、その場を後にした。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 七年の冷遇、離婚後は御曹司に溺愛されます   第10話

    花谷謙三は、国内の科学技術分野では知らない者がいないほどの重鎮だった。生涯を研究に捧げ、結婚もせず、子供も持たなかった。弟子を取ることも滅多になかったが、かつて彼のもとで学んだ者たちは、今ではそれぞれの分野で国を支える存在となっている。直樹も、謙三の弟子の一人だった。現在、謙三は体調の都合で第一線を退かざるを得ず、直樹が代わって研究所を預かっている。直樹こそが謙三の後継者だと言っても、決して過言ではなかった。謙三はすでに新たな弟子を取らなくなっている。だからこそ、直樹の弟子になることは、この分野を志す学生たちにとって、何よりも重要な登竜門となっていた。奈緒が直樹の弟子になれたことを、源一郎は大変喜んでいた。それはつまり、奈緒がこの分野の頂点へ上る切符を手にしたも同然だったからだ。「よくやった。さすが我が貞末の血筋だ」源一郎は満足げに奈緒を褒めた。「慢心せず、若浦さんのもとでしっかり学びなさい」「はい、そうします」奈緒は素直に頷いた。大事な用件を伝え終えると、そばで黙っている絢斗の様子をちらちらと窺いながら、彼のすぐ近くに腰を下ろした。だが、座った途端、絢斗の射抜くような冷ややかな視線に気づき、椅子ごと慌てて距離を取った。絢斗はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。「そういえば、花谷先生が一番可愛がり、誰よりも目をかけていた弟子は、若浦さんではなかったはずだ。そう考えると、若浦さんの弟子になったくらいで、そこまで得意げになることでもない」奈緒の顔がこわばった。絢斗の言葉に滲む嘲りを、聞き逃すはずがなかった。彼女はうつむき、瞳の奥に湧き上がる暗い感情を必死に押し殺した。源一郎はそんなことには気も留めず、絢斗の話に頷いた。「ああ、俺もそれとなく聞いたことがある。先生が一番可愛がっていたのは、最後に取った弟子だったそうだな。しかも先生ご本人が正式に認めた最後の弟子だったとか。ずば抜けた才能の持ち主で、百年に一人ともいわれる天才だったらしい」そう言って、源一郎は苦笑した。謙三のその評価は、いささか大げさだと思っていたからだ。この世に百年に一人の天才など、そうそういるものか。とはいえ、あれほどの人物にそこまで見込まれ、可愛がられていたというなら、その実力は相当なものに違いない。

  • 七年の冷遇、離婚後は御曹司に溺愛されます   第9話

    宥里はゆっくりと顔を上げた。目の前には、値踏みするような冷たい目を向ける貞末奈緒が立っていた。「本当にあんたなのね!」貞末奈緒(さだすえ なお)は驚いた様子を見せながらも、口元には嘲りの色を滲ませていた。「ああ、違ったわね。あんたはとっくに貞末姓を名乗る資格なんてなくなってるんだった。私の居場所を奪っていた偽物のくせに、貞末家を追い出されてから、さぞみじめな暮らしをしてるんでしょう?」まさかこんな場所で貞末家の人間と鉢合わせするとは、宥里も思っていなかった。できることなら、一生関わりたくない相手だった。奈緒の嘲りに、返す言葉はなかった。宥里はうつむいたまま相手を避けて通り過ぎ、一刻も早くこの場を離れようとした。だが奈緒は、そう簡単には見逃してくれなかった。付き添いのスタッフに命じる。「通さないで!」行く手を塞がれ、宥里は悟った。奈緒は、このまま自分を黙って通り過ぎさせるつもりなど毛頭ないのだ。「偽物さん、正直に言いなさいよ。何の用でここに来たの?」奈緒は宥里から視線を離さず、その表情に浮かぶわずかな動揺さえ見逃すまいとしていた。「診察に来ただけよ」宥里はこれ以上関わり合いになりたくなかった。ただ早くこの場を離れたい。「嘘つき!診察なら外来でしょ。どうして入院病棟にいるのよ!」奈緒も馬鹿ではない。鋭くそこを突いてくる。「もしかして、外での暮らしが立ち行かなくなって、伯父様がここに入院していると聞いて、こっそり忍び込んだの?それで、貞末家に戻してくれって頼み込むつもり?」奈緒の言う伯父とは、貞末家の実権を握る当主で、東邦グループの会長でもある、国内一の資産家、貞末源一郎(さだすえ げんいちろう)のことだった。そして奈緒は、貞末家の分家筋で見つかった、正真正銘の貞末家の令嬢だ。一方、偽物として貞末家を追い出されたのは――宥里だった。宥里は首を振った。「貞末会長がここにいらっしゃるなんて知らなかったわ。奈緒さん、お見舞いに来たのなら、早く中へ入ったら?私にかまって時間を無駄にする必要はないでしょう」奈緒は時間を確認した。確かに、急いで中へ入らなければならない。源一郎はいつも多忙で、入院中であっても仕事の手を緩めない人だった。今日は良い知らせも持ってきている。「偽物さん、身の程をわ

  • 七年の冷遇、離婚後は御曹司に溺愛されます   第8話

    病室に束の間の沈黙が流れた。知輝の薄い唇がわずかに動き、何か言おうとする。だが、知輝が何か言うより先に、香織が口を開いた。「奥様、お願いです。先生と離婚しないでください。全部、私のせいなんです。本当に申し訳ありません。どうしたら許していただけますか?土下座でも何でもします。どうか先生のことを誤解しないでください」言い終えるや否や、香織は布団を勢いよくはねのけ、裸足でベッドから下りた。周囲が止める間もなく、宥里の前に膝をつく。その拍子に、膝が床を打つ鈍い音が病室に響いた。細い両手で宥里のズボンの裾をしっかりと掴み、声を振り絞って泣きじゃくる。「もう、お願いですっ……もう先生に怒らないでください。全部私のせいなんです。こうして謝りますから、どうか……」ようやくわずかに和らいでいた知輝の表情が、香織が跪いた瞬間、たちまち凍りついた。「香織、何をしてるんだ!すぐに立て!」彼女のもとへ駆け寄り、抱き起こそうと手を伸ばす。「嫌ですよ!」香織は必死に首を振って抵抗した。「奥様が許してくれるまで立ちません!」その瞬間、知輝の怒りが頂点に達した。強引に香織を抱き上げる。「お前には何の非もない。謝るべきなのはお前じゃない!」香織はぐったりと知輝の腕に体を預け、息を切らしながら泣き続けていた。青ざめた小さな顔には、必死に耐えているような痛々しさが滲んでいる。大好きな香織が今にも泣き崩れそうな様子を見て、陽太はたまらず声を張り上げた。「ママ!早く香織さんに謝ってよ!香織さん、気を失っちゃいそうなんだよ!謝らないなら、もうママなんていらない!」「そう」宥里は静かに陽太を見つめて言った。「じゃあ、いらなくて結構よ」身を削る思いでこの世に産み落とした我が子を、じっと見つめる。痛みが限界を超えると、こんなにも何も感じなくなるのかと、改めて思い知った。「ちょうどよかったわ。私も、もうあなたはいらない」陽太はその場で固まった。数秒呆然としたあと、甲高い泣き声を上げる。「いらないならいい!僕だってママなんていらない!香織さんが僕のママになるもん!あっち行って!行って!」「宥里!」知輝は、宥里が陽太にそんな残酷な言葉を投げつけるとは思ってもみなかった。「陽太はお前の子供だぞ。よくもそんな残酷なことが言えるな。もうが

  • 七年の冷遇、離婚後は御曹司に溺愛されます   第7話

    声は左手から聞こえてきた。宥里は足を止め、左側の病室へ顔を向けた。病室のドアは完全には閉まっておらず、大きく開いた隙間から中の様子がはっきりと見えた。香織はベッドに半身を起こし、陽太は小さな体をベッドの縁に寄せるようにして、両手でしっかりと香織の手を握りしめていた。ベッドから少し離れた椅子には知輝が腰を下ろし、穏やかな眼差しで二人を見守っている。事情を知らない者が見れば、仲睦まじい親子三人そのものだった。香織は愛おしそうに陽太を見つめ、彼に手を握られたまま優しい声で言った。「もう大丈夫だよ。陽太くんを心配させちゃったね。ごめんね」そう言うと、香織は優しく陽太の額へキスをした。陽太はまったく嫌がる素振りを見せず、それどころか照れたように頬を赤らめた。あどけなく、思わず頬が緩むほど可愛らしい仕草だった。だが、その口から出てきた言葉は、扉の外にいる宥里の心を凍りつかせるものだった。「全部ママが悪いんだ。何も知らないくせに勝手に邪魔ばっかりして、香織さんを入院させちゃったんだから。僕、ママなんて嫌い。香織さんに謝りに来ない限り、もう仲直りしないから。絶対に許さない!」香織は目を丸くした。陽太がそんなことを言うとは思っていなかったらしい。目を潤ませ、その瞳には戸惑いと安堵が入り混じっていた。そこで知輝が口を開いた。声にはわずかに厳しさが滲んでいる。「大人の事情は、子供が余計な口を挟むものじゃない」陽太は不服そうに口を尖らせた。「余計な口なんかじゃないよ!ママのことが、本当に嫌いなだけ!」そう言うと、香織の手を離して知輝のそばへ歩み寄った。そして、とても真剣な顔で言った。「ねえパパ、早くママと離婚してよ。香織さんに本当のママになってもらいたいんだ。いいでしょ?」「えっ?」香織がその言葉に息を呑んだ。ひどく動揺した様子だった。「陽太くん、何を言い出すの……」「陽太」知輝の顔がすっと冷たくなり、声にも厳しさが増した。「誰にそんな馬鹿げたことを教わったんだ」知輝は大学院生を指導する教授であると同時に、千人を超える社員を抱える科学技術企業の経営者でもある。ひとたび冷たい顔で怒れば、その威圧感は本物だった。周囲の空気まで凍りつかせるようだった。陽太はその様子に怯えて泣き出し、香織の胸に飛び込んだ。それでも

  • 七年の冷遇、離婚後は御曹司に溺愛されます   第6話

    要人も利用する特別施設だけあって、セキュリティは厳重だった。宥里は受付で身分証を提示し、面会者名簿に記入したうえで、ようやく中へ通された。病室へ続く廊下を歩いていると、まだかなり離れているにもかかわらず、花谷謙三(はなや けんぞう)の苛立った怒鳴り声が聞こえてきた。「宥里が今日会いに来るって言ったじゃないか!あの子はどこだ!まだ来ないのか!お前、薬を飲ませるために俺を騙してるんじゃないだろうな!」「いやいや先生、違いますって。騙してなんかいません。宥里は来ますから……」「嘘をつくな!もうこんな時間だぞ!お前、俺を騙してるんだろう!」続いて、コップか何かが床に落ちる音が響いた。まずいと思い、宥里は思わず足を速めた。だが、病室の入口までたどり着いたところで、その足が止まる。会いたくてたまらなかったはずなのに、いざ顔を合わせるとなると怖かった。そんな恐怖を、宥里は初めて味わった。病室の中では直樹が悲痛な顔をしながら、謙三が投げつけた薬とコップを拾い集めていた。ふと顔を上げると、入口で立ち尽くしたまま入ってこようとしない宥里の姿が目に入った。途端に目を輝かせ、入口を指差した。「あぁ!先生、ほら、宥里が来ましたよ!」謙三は振り返り、気まずそうに立つ宥里を見た。一瞬笑みを浮かべかけたが、次の瞬間にはすぐに顔を険しくした。「……入口で突っ立って何をしている。とっとと入ってこい!」謙三は座り直すと、また顔をしかめ、宥里のほうを見なくなった。そこまで言われては、入らないわけにもいかない。宥里は口ごもりながら、のろのろと病室へ足を踏み入れた。戸惑いと気まずさを滲ませた瞳が、謙三と直樹の間を行き来する。「ええと、その……お見舞いに来ました……」「ふん!お前が来たって、別に嬉しくなんかない。忙しい人だからな。こんな年寄りに構っている暇なんてないだろう。忙しいなら、さっさと帰れ。俺はお前の顔なんか見たくない」謙三は拗ねたように、わざとらしく顔を背けた。宥里は落ち込んだ表情を浮かべ、ますます申し訳なさを募らせていく。そこで直樹が吹き出し、謙三を茶化すように言った。「花谷先生、花谷教授、花谷大先生。さっきまでと言ってることが全然違うじゃないですか。宥里が来ないなら薬も飲まないって、あれだけ駄々をこねてたのに。いざ

  • 七年の冷遇、離婚後は御曹司に溺愛されます   第5話

    もともと広々としていたはずのキッチンが、この瞬間だけはやけに狭く感じられた。晴子は宥里と知輝の背後で気まずそうに立ち尽くし、数秒固まったあと、慌てて答えた。「は、はい。すぐに詰めますね」知輝は小さく頷くと、視線を宥里へ向けた。相変わらず淡々としていて、何の感情も読み取れない冷ややかな目だった。「ちょうどいいところにいた。これから一緒に病院へ行って、香織に謝ってこい。昨日のお前の行動はあまりに軽率だった。香織にひどい迷惑をかけたんだぞ」宥里は思わず笑いを漏らした。「はぁ?聞き間違いかしら?不倫して結婚式まで挙げたのはあなたなのに、今度はその愛人に頭を下げろっていうの?」「浮気だと?お前は何も分かっていない!」知輝の瞳が鋭く光り、全身からただならぬ威圧感が漂った。「あの結婚式は形だけのものだ。俺は香織を助けたかっただけなんだ。彼女の実家はひどく古い考えに縛られていて、今でも理不尽な掟が当たり前のように残っている。大学院まで進めたのも、香織が必死に両親を説得し続けたからだ。それなのに今度は、親が決めた相手との結婚を無理やり迫られた。相手はまともに意思の疎通もできない男だ。断れば縁を切るとまで言われて、親の言いなりになるか、自分の人生を選ぶか、どちらか一方を選べと迫られた。香織には、ほかに逃げ道がなかった。だから、結婚したように見せかけることにしたんだ」知輝は眉間にしわを寄せ、宥里をまっすぐに見据えた。「香織は、俺がこれまで教えてきた中で一番優秀な学生だ。今では仕事のうえでも、なくてはならない存在になっている。教師としても上司としても、困っている彼女に手を貸すのは当然だろう。宥里、お前は面白みのない退屈な女だとは思っていた。だが、少なくとも最低限の分別くらいはある人間だと思っていたよ。それが昨日は何だ。事情も知らないくせに会場へ乗り込んで、あんな騒ぎを起こして。おかげで香織は、地元で完全に顔を潰された。まだ若いのに、これからどうやって生きていけっていうんだ」宥里はその場に静かに立ち尽くしたまま、知輝がまくしたてるのを聞いていた。結婚して七年になるが、この男が一度にこれほど長く話すのを聞いたのは初めてだった。そう思うと、急に何もかもが馬鹿らしくなった。「とにかく」知輝は少しだけ声を落ち着かせると、教え子に

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status