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第2話

Author: 星入りポケット
会場入口へたどり着いた宥里は、そこで初めて香織本人を目にした。これまで彼女について知っていたことは、すべて知輝から聞いた話に過ぎなかった。

たとえば、生家は決して裕福ではなく、幼い頃から苦労を重ねてきたこと。町一番の才女であること。

たとえば、彼女は極めて聡明であり、知輝がこれまで教えた学生の中で群を抜いて優秀であること。

たとえば、純粋で明るく芯が強く、まるで太陽に向かって咲くひまわりのようであること。

今、入場を前にした香織は、確かに愛らしく華やかな顔立ちをしていた。純白の美しいウェディングドレスに身を包み、花嫁らしい緊張と初々しさを頬に滲ませている。

「どうしよう。もうすぐ入場だと思うと緊張しちゃう。途中でよろけて転んだらどうしよう?私、普段スニーカーばかりで、ヒールなんて全然履き慣れてなくて……」

そばに控えていたスタッフが、にこやかに声をかけた。

「大丈夫ですよ。そんなに緊張なさらないでください。私たちがしっかりお支えしますから、転ぶ心配はありません。どうぞ安心して、笑顔でいてくださいね」

香織はドレスの裾を両手でそっとつまみ、はにかんだ。「ふふ。私、綺麗?」

「ええ。今日が一番綺麗ですよ!」スタッフも笑って応じた。

会場へ足を踏み入れる前の宥里の目に飛び込んだのは、そんな光景だった。

宥里の瞳がかすかに揺れ、胸の奥が締めつけられた。

かつて自分も、知輝との結婚式を胸を高鳴らせながら待ち望んだことがあった。

だがあの時、知輝は真剣な面持ちで告げた。「今年は准教授審査の大事な時期なんだ。会社も研究室も立ち上げたばかりで、式を挙げる余裕がない」

二十一歳だった彼女は、当時二十六歳の知輝の事情を察し、結婚式を諦めた。まさか七年後、二十八歳になった自分が、夫と他の女の結婚式に立ち会うことになろうとは思いもしなかった。

香織が宥里に気づいた。一瞬笑みをこわばらせたものの、すぐにいっそう華やかな笑顔を浮かべた。

「私と先生の結婚式にお越しくださって、ありがとうございます」

その瞬間、ある言葉が宥里の喉元まで出かかった。知輝には妻がいるって、知っているの?

だが、それを口にするより早く、扉の向こうから式場スタッフのよく通る声が響いた。

「新婦のご入場です」

その声を合図に、チャペルの扉がゆっくりと開かれる。

香織は慌てて姿勢を正すと、介添人にドレスの裾を整えてもらいながら、一歩ずつ静かにバージンロードへ足を踏み出した。

宥里はその場に立ち尽くし、遠ざかっていく香織の後ろ姿を見送った。虚ろな瞳は、その歩みを追うようにチャペルの奥へと吸い寄せられていった。

こぢんまりとしたチャペルだったが、祭壇には白い花が美しく飾られ、柔らかな光に包まれていた。左右に並ぶ参列者席はほとんど埋まっているものの、宥里が見渡した限り、知っている顔は一人もいない。

おそらく、ほとんどが香織側の親族や友人なのだろう。

新婦が入場すると、チャペル内の照明が静かに落とされ、バージンロードと祭壇だけが柔らかな光に照らし出された。

スタッフが扉を閉める直前、宥里はそっと中へ滑り込んだ。薄暗い後方に身を潜め、ほかの参列者と同じように微笑みを浮かべ、瞬きもせず祭壇を見つめた。

そのとき、彼女はようやく知輝の姿をはっきりと目にした。

七年間、苦楽を共にしてきた夫が、今は仕立ての良い白いタキシードに身を包み、祭壇の前で香織を待っている。

時雄は娘を連れてバージンロードを歩ききると、知輝の前で足を止めた。そして、香織の手をそっと知輝へ差し出す。

「知輝、香織をよろしく頼む。これからも大切にしてやってくれ」

時雄が穏やかな笑みを浮かべて告げると、知輝はまっすぐにその目を見返した。

「はい。必ず大切にします」

よく通る落ち着いた声で、迷いなく答えた。

知輝は香織の手をしっかりと取り、目を潤ませる彼女を見つめた。そして空いているほうの手で、頬を伝いかけた涙をそっと拭った。

なんと美しく、絵に描いたようなお似合いの二人だろう。

周囲の女性たちが漏らす感動と羨望のため息を、宥里は立ち尽くしたままはっきりと耳にしていた。

だが彼女の視線は、知輝と香織の重なった手へ釘付けになったまま動かない。

知輝が最後に手を握ってくれたのがいつだったか、もう思い出せない。

思い返せば、彼は人前で自分の手を握ったことなど一度もなかったのではないか。まして、人前で自分を妻だと認めたことすら、ただの一度もなかったのではないか。

この七年間、そんなことにも気づかずにいた。

知輝は寡黙で、感情を顔に出さない性分なのだとばかり思い込んでいた。だから自分も彼に合わせて生きてきた。

けれど今こうして見れば、どうやら違ったらしい。

知輝にも感情を露わにする瞬間があり、優しく細やかな一面もあったのだ。

宥里は深く息を吸い込んだ。だが、胸の奥に沈んだ鉛のような重苦しさが消えることはなかった。

挙式を終えたあとは、会場を移して披露宴が始まった。

披露宴も進み、やがて両家を代表する挨拶の時間となった。

香織の両親がそろって高砂のそばへ進み、娘の隣に立った。

時雄がマイクと原稿を手にしたのを見て、宥里はてっきり、彼が挨拶をするのだと思った。

だが次の瞬間、司会者の言葉に心臓を鷲掴みにされた。

「続きまして、新郎・知輝様のお母様、赤沢富美子(あかさわ ふみこ)様、そして陽太くんにも前へお越しいただきます」

宥里は息を呑んだ。

手をつないで、ゆっくりと高砂へ向かう大人と子供の姿を、信じられない思いで見つめる。

そこにいたのは、ほかでもない。

姑の富美子と、六歳になる息子の赤沢陽太(あかさわ ようた)だった。

「陽太……どうして……」宥里は訳が分からず呟く。

陽太は毎週末、本家で過ごすのが常だ。昨日も宥里自身が本家へ送り届けたばかりで、その時、姑は確かに「今日は同級生の集まりに連れていく」と言っていたはずだ。

それなのに、なぜ二人がここにいるのか。

富美子は柔らかな笑みを浮かべ、慈しみに満ちた眼差しで香織を見つめている。

そんな笑顔と眼差しを、宥里は今までただ一度、出産直後にしか見たことがなかった。

あの時、富美子はどこか申し訳なさそうに言った。「宥里、ごめんね。よく頑張ったわ」

だがそれきりだ。以降の富美子は元の高圧的で冷たい姑に戻った。

陽太は富美子と知輝の間に立ち、壇上にも客席にも臆する様子はなく、むしろ嬉しそうに香織を見上げている。

息子の満面の笑みが、宥里の胸を深く突き刺した。

耳の奥で鈍い音が響き、両家の挨拶がどう進んだのか、何ひとつ耳に入らなかった。

司会者がマイクを陽太の小さな手へ渡すまで、彼女は放心していた。

「陽太くん、何か言いたいことはありますか?」

陽太は大人びた落ち着いた仕草でマイクを受け取ると、顔を上げて父の知輝と隣の香織を見た。

知輝の端正な顔に、目尻を下げた優しい笑みが浮かぶ。すらりと伸びた大きな手が陽太の小さな頭を優しく撫でた。

会場中の視線を集め、陽太のあどけない声が響き渡る。

「僕、すっごくうれしい!香織さんが僕のママになるんでしょ?香織さん、大好き!」

話し終えた陽太へ、客席から万雷の拍手が沸き起こる。

香織は目を赤くして身をかがめ、陽太をぎゅっと抱きしめた。

なんと胸を打つ、愛情あふれる親子の姿だろう。

「じゃあ、私は……」高砂の前に立つ宥里は、闇に呑み込まれたようだった。まばゆい光景を見つめながら、全身が氷の底へ沈んでいく感覚に襲われる。

陽太は香織が好きで、香織にママになってほしいと願っている。

なら、私は?

私こそが本当のママなのに!

深い無力感が宥里を覆い尽くす。それは、何よりも大切にしてきた相手に裏切られた者だけが知る絶望だった。

その瞬間、家族全員から見捨てられ、胸が張り裂けそうだった七年前の夜へ、再び引き戻されたような錯覚に陥った。

感動の余韻が残る中、指輪の交換が行われた。

知輝と香織は指輪を交換した。

指輪の交換が終わると、司会者が明るい声で告げた。

「はい、これで式は終了です!新郎は新婦にキスを!」

だがその瞬間、高砂の前に立つ知輝の表情が明らかに強張った。

知輝は香織へ顔を寄せることなく、戸惑ったように司会者のほうを振り返った。その目には、こんな演出は聞いていないと問いただすような色が浮かんでいた。

司会者も一瞬、笑顔をこわばらせた。

このキスコールは、事前に香織と式場側で打ち合わせた進行に含まれている。予定どおり会場を盛り上げたはずなのに、なぜ新郎がそんな反応を見せるのか分からなかった。

先ほどまで会場を満たしていた歓声と拍手は、知輝のためらいに気づくと、次第に静まっていった。

招待客たちは皆、不審げに彼を見つめた。

式場はしばし気まずい沈黙に包まれた。

香織は目を赤くし、怯えた小動物のように知輝を見上げると、そっと袖を引きながら彼にしか聞こえない声で囁いた。

「先生、みんな見てますよ……」

知輝は視線を戻し、客席に座る両親や親族、友人たちへ目を向ける。

司会者は彼が人前でのキスに照れているのだと思い込み、機転を利かせたつもりで呼びかけた。「新郎さん、照れていらっしゃるようですね。皆さんで後押ししましょう!キス!キス!」

司会者の音頭に合わせ、招待客たちも次々と唱和し始める。

会場中に「キス!キス!」という声が波のように重なり合っていった。

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