Masuk「……ちょっと、あんた」じっと探るような目つきに、詩織は心細さを隠しきれず、思わず声が上ずった。「な、何よ……」「おかしいわね」ミキはまるでスパイを尋問するような鋭い視線を向けてきた。「なんであんたから、賀来柊也の匂いがするの?」「は……?柊也の匂いって、何のことよ」「とぼけないでよ。私、頭の回転じゃあんたに敵わないけど、鼻の良さだけは自信あるの。この香りは絶対にあの男のものだわ。しかも、これだけしっかり移ってるってことは、かなり密着しないとあり得ないわよ!」腰に手を当てて「さあ、洗いざらい吐きなさい」と迫りくるミキ。詩織はしどろもどろになりながら弁解した。「だ、だから、式典で席が隣同士だったのよ。ウソだと思うなら、大学の公式SNSを見てみなさいよ」実はミキも、その公式アカウントの写真をとっくにチェック済みだった。集合写真で柊也が詩織にぴったりとくっついているのを見ていたため、「まあ、そういうこともあるか」とあっさり納得してくれた。ちょうどそのタイミングで、仔猫が小さな肉球でミキの指にじゃれついたため、彼女の意識は完全にそちらへ移ってしまった。「ああもう、この子ほんとに天使ね……!」――その夜。シャワーを浴びてベッドに入ろうとした詩織のスマホが震えた。画面を見ると、柊也からのメッセージ。【子どもは寝たか?】「…………」どこまで父親を気取っているのだろうか。詩織は呆れて返信を打つのをやめた。数分後、再びバイブレーションが鳴る。【どうやら、ママの方も寝てしまったみたいだな】続いて、三通目。【おやすみ】画面に浮かんだその短い言葉を、詩織はじっと見つめ続けた。やがて小さく息を吐き、ずっと未登録のままだった彼の番号を、ついに連絡先に追加する。ただし、「賀来柊也」と登録すれば、鋭いミキに見つかった時に面倒なことになる。入力しようとした指を止め、詩織はバレないように、まったく別の名前を打ち込んだ。翌朝、ミキはいつもよりずっと早く起き出してきた。「ねえ聞いて! 超有名なファッション誌の編集長から、新年の表紙の件で打ち合わせしたいって連絡が来たの!」弾んだ声で報告してくる彼女の、久しぶりに見る生き生きとした姿を、詩織はもちろん全力で応援した。今日は自分は会社に行かないからと、自分の専属運転手に彼女
その微笑ましい光景を見て、柊也は思わず笑いを漏らしそうになった。視界の端でそれに気づいた詩織が、怪訝な視線を向ける。柊也は甘やかすような笑みを浮かべた。「君が動物と会話できるなんて、知らなかったよ」からかわれているのは明白だったので、詩織は綺麗に無視を決め込み、すっかり母親のような顔つきで仔猫の相手を続けた。仔猫のほうも完全に彼女を母親だと思っているらしく、小さな頭で手のひらに擦り寄り、時折ちろりと舌を出して彼女の指先を舐めている。すると、柊也が大真面目な顔をして口を開いた。「で、俺がパパだってことは、ちゃんとそいつに教えてやったのか?」詩織はなんと言っていいかわからず、冷ややかな目を彼に向けた。だが、柊也は独自の論理で堂々と推し進める。「そいつが君をママだと思ってるなら、順当にいって俺がパパになるだろう?」「……馬鹿じゃないの」マンションに着くと、病院で買い込んだ猫用品がかなりの量になっていた。詩織は運転手の小林に手伝ってもらおうとしたが、柊也がこの点数稼ぎのチャンスを部下に譲るはずがない。バックミラー越しの鋭い視線に気づいた小林は、しどろもどろになりながら言った。「あ、あの、私、手首が腱鞘炎でして……荷物はちょっと持てそうにありません」「腱鞘炎なのに運転してたの?そっちの方がよっぽど危なくない?」詩織には、柊也のわかりやすい魂胆などお見通しだ。「雇われの身の人間を、あんまりいじめないでやってくれ」こんな時だけ物分かりのいい上司を演じながら、柊也は軽く肩をすくめた。「俺にも少しは、いいところを見せるチャンスをくれないか?」「でも、今日はミキが家に来てるから」詩織の意図は明確だった。どうせ部屋には上げない、という牽制だ。柊也は小さくため息をついた。「わかってる。上の玄関先まで運んだらすぐ帰るよ。それでいいか?」親友であるミキという厄介な『門番』がいる以上、中に入り込めないことくらい彼も承知している。それならと、詩織もこれ以上は拒まず、大人しく彼に荷物持ちを任せることにした。エレベーターに揺られながら、柊也が唐突に問いかけてきた。 「なあ、君のところの『手厳しいお目付け役』は、何が好みなんだ?」 「……お目付け役?」 詩織が怪訝そうに聞き返すと、彼は平然と言ってのけた。 「彼女の親友ってい
運転席の小林は実に気の利く男だった。彼は空気を読み、すぐさま運転席と後部座席の間にあるパーティションを静かにせり上がらせ、二人だけの完全な密室を作り上げたのだ。外の目から遮断された絶対的なプライベート空間が、柊也のタガをさらに外していく。詩織は戸惑いと緊張で身体をこわばらせていたが、彼の容赦なく深い、甘く焼け付くような口づけに抗うことはできなかった。圧倒的な男の熱と匂いが彼女を隙間なく包み込み、侵食していく。神経の隅々まで彼に支配され、やがて詩織の身体から力が抜け、抗議の意思すらも熱い吐息の中に溶けて消えた。気がつけば彼女は、彼の腕の中にぐったりと身を預けていた。とろけるように柔らかい彼女の身体と、熱く火照った彼の身体。互いの荒い息遣いだけが、狭い車内に生々しく響く。それでも、完全に理性を手放しそうになる寸前で、柊也はギリギリで踏みとどまった。これ以上踏み込めばどうなるか、誰よりも彼自身がよく分かっている。彼女がようやく自分に対する強固な拒絶を解き、ほんの少しでも受け入れてくれたのだ。その歩み寄りが針の穴ほどの小さなものであっても、今の彼にとっては十分すぎるほどの奇跡だった。彼女を心の底から渇望し、抱きたくて狂いそうだったが――今はまだ、耐えなければならない。柊也は震える腕で彼女を胸に強く引き寄せ、抱き締めた。彼の焼け付くような胸板に耳を押し当てられた格好になり、詩織の鼓動が跳ねる。彼の胸の奥から、力強い心音が高鳴っているのが痛いほど伝わってきた。ドクン、ドクン、と。早鐘を打つその音が、次第に自分自身の心音と重なり合い、溶け合っていく。詩織は身じろぎすらできず、ただおとなしく彼の腕の中にすっぽりと収まっていた。なぜなら――彼が今、どれほど熱に浮かされ、どれほど必死に己の衝動を抑え込んでいるのか、密着した身体の確かな感触を通して、誰よりもはっきりと理解してしまったからだ。甘く濃密な熱が満ちていた車体が、突如として激しい急ブレーキで前のめりになった。強い衝撃が走ったが、柊也が咄嗟に詩織を抱きすくめたため、彼女はかすり傷ひとつ負わずに済んだ。しかしその分、彼の腕が前方のパーティションに強く打ち付けられ、ドスッと重い音が車内に響き渡る。車が完全に停まるなり、自身の痛みには目もくれず、柊也は真
拉致され、目隠しをされていた恐怖の中、確かに銃声を聞いた。自分を抱き起してくれた人物が、撃たれたこともはっきりと覚えている。その後、賀来の邸宅で松本さんが彼の傷の手当てをしているのを見たとき、詩織はひどく自嘲したのだった。この人は、真実の愛のためなら命すら惜しくないのね。それに比べて、私のこの七年間の献身なんて、彼にとっては一文の価値もないんだわ。「誰もが、俺はこの傷を志帆のために負ったと思っている」柊也は静かにつぶやくと、詩織の手を取った。そして、その指先をゆっくりと、自身の腕に残る古い傷跡へと押し当てた。「だけど、違う。この傷は……お前を護るために刻まれたものだ。柏木志帆とはまったく関係ない」彼の熱い体温と確かな鼓動が、指先から伝わってくる。「あの日、お前が本港市の空港を出発する前、志帆の母親である佳乃とトラブルになっただろう。あの女はそれを根に持ち、裏社会の人間を使って本港市でお前を拉致し、報復しようとした。高坂剛太郎からその裏情報を得た俺は、わざと婚約式の衣装を台無しにして、『代わりの衣装を調達する』という口実で島を抜け出し……お前の元へ駆けつけたんだ」事件から五年という月日が流れてもなお、その時のことを語る彼の声には、隠し切れない恐怖と安堵が滲んでいた。間に合って本当によかった。彼女が無事で、本当によかった。彼の腕に触れている詩織の手のひらは、小刻みに震えていた。胸の奥で複雑な感情が荒波のように渦を巻き、どうやっても鎮めることができない。瞳の奥に抗いがたい熱が集まり、それはやがて透明な滴となって、長い睫毛の先からぽろぽろとこぼれ落ちた。堪えようとすればするほど、感情の波はより一層激しく押し寄せてくる。「……痛かったでしょう?」喉の奥が詰まり、絞り出した声はひどく震えていた。柊也は少し驚いたように目を見張った。真実を証明したかっただけで、決して彼女を泣かせたかったわけではないのだ。小さくため息をつくと、彼は身を屈め、彼女の濡れた瞼にそっと唇を落とした。じんわりとした熱と、微かな塩気が唇に伝わる。「泣くなよ。こんな傷、とうの昔に治ってる」子供をあやすような低い声で囁いたが、優しい言葉をかければかけるほど、彼女の涙は後から後から溢れてくる。――しまったな。柊也は内心で酷く狼狽
信じられないというように詩織が呆れると、柊也は声を出して笑った。「俺だって神様じゃない、ただの男だぞ。片思いくらいするさ」「そういう意味じゃないわ。当時のあなたの立場や環境なら、好きになったら堂々と追いかけて、告白すればよかったじゃない。わざわざ陰からこっそり見つめるような真似、あなたらしくないわ」そこまで言ってから、詩織はハッとして付け加えた。「でも……それには一つ条件があるわね。相手が成人していること。未成年相手の恋愛は犯罪だもの」柊也は少し考えるような素振りを見せてから、静かに答えた。「俺が彼女に出会った時、彼女はまだ……未成年だったからな」その言葉に、詩織はピタリと動きを止めた。彼女の記憶のタイムラインでは、柊也と初めて出会ったとき、彼女はすでに成人していた。つまり、柊也が「未成年の頃から片思いしていた」相手というのは、間違いなく自分ではない、別の誰かだということになる。どういうわけか、その事実を突きつけられた瞬間、詩織の胸の奥にじわりと苦いものが広がった。誤魔化すように視線を窓の外へ逸らし、彼に弄ばれていた自分の髪の毛を不意に引き抜く。突然空を掴んだ柊也の掌を、冷ややかな空気がすり抜けていった。車内の温度が、急激に下がったような気がした。彼女が身を引けば、彼が距離を詰めてくる。後部座席の片側に、ほとんど寄り添うようにして二人は押し込められた。詩織は顔を背けたまま、感情の読めない平坦な声で告げた。「……もういいわ。あなたの過去の恋愛事情なんて、興味ないから」何年もの付き合いがあるのだ。今の彼女が明らかに機嫌を損ねていることなど、柊也には痛いほど分かっていた。彼は強引に手を伸ばし、背けられた詩織の頬を両手で包み込んで、無理やり自分の方へと向かせた。いつもの気だるげな響きは消え、その双眸には射抜くような真剣な光が宿っている。「一つだけ、はっきりさせておく」低い声が、車内に響いた。「俺は、柏木志帆を愛したことなんて一度もない」「……最初から最後まで、欠片すらな」詩織の抗うような動きが、ピタリと止まる。――その言葉はつい最近、志帆の従妹である美穂の口からも聞かされたものだった。だが、あの時は本気で受け取ろうとはしなかった。「百聞は一見に如かず」と言うではないか。柊也が志帆にどれほ
柊也は眉をひそめた。何がおかしいのか全く見当がつかない。 すると小林は、もったいぶるように後部座席のドアをガチャリと開けてみせた。車内から、聞き慣れた着信音が漏れ聞こえてくる…柊也の足がピタリと止まった。後部座席には、詩織が座っていた。彼女は小首を傾げ、静かにこちらを見つめている。その手のひらには、着信を知らせて画面が点滅するスマートフォンが握られていた。西の空は燃えるような夕霞に染まっていたが、彼女の瞳の奥に宿る柔らかな光に比べれば、どんな美しい夕暮れの色も色褪せて見えた。彼女からこんな穏やかな眼差しを向けられるのは、いったいいつ以来だろうか。校門前を行き交う人々のざわめきも喧騒も、今の柊也には一切届かない。今の彼の世界には、ただ一人、彼女しか存在していなかった。「……乗る車を間違えたんじゃないのか?」詩織は片眉をぴくりと上げ、からかうように返した。「じゃあ、今すぐ降りようか?」柊也の精悍な顔立ちに、余裕たっぷりの甘い笑みが広がる。「もう遅い。ここは一度乗ったら最後、そう簡単には降りられない特等席なんだ」彼はなめらかな動作で車に乗り込み、詩織が外へ逃げる最後の退路を自らの体で完全に塞ぎ込んだ。運転席の小林がエンジンをかけるより早く、後部座席から柊也の低い声が飛んだ。「小林、ドアを全部ロックしろ。蚊一匹たりとも車外に逃がすな。もし逃がしたら、お前の首が飛ぶと思え」「…………」小林は言われた通り、即座にすべてのドアをカチャリとロックした。退路を断たれた詩織は、少し恨めしそうにルームミラー越しに小林を見た。「アイツを睨むなよ。給料を払ってるのは俺なんだから、文句があるなら俺に言え」柊也は背もたれに深く寄りかかりながら、身体の半分を彼女の方へと傾けてくる。その表情は酷く気だるげで、瞳の奥には悪戯っぽい光が揺らめいている。小林がビクビクしながら、ルームミラー越しに詩織の様子を窺う。詩織は呆れたように大きなため息をつきつつ、今度は柊也を横睨みした。「……別に、運転手さんを責めてなんかないわよ」彼女の冷ややかな態度などどこ吹く風で、柊也はすっと指を伸ばし、彼女の耳元にかかる後れ毛をすくい上げた。さらりとした髪の感触を指先で弄びながら、甘く囁く。「俺たち離れ離れになって、これでちょうど336時
詩織は不快げに眉をひそめた。今さら、何の用だというのか。彼の意図を推し測るのも億劫だった。三秒ほどの短い沈黙の後、彼女は躊躇なく着信拒否のボタンをタップした。もう、関わる必要のない相手だ。何より、今夜の完璧な成功と高揚感を、彼との会話ごときで台無しにされたくなかった。再び吹き抜けたビル風が、ドレスの裾を寒々しく翻す。今年の冬は、例年になく骨身に染みる。詩織はジャケットの襟をかき合わせながら、湊の車が早く目の前に滑り込んでくることを願った。家に帰って、泥のように眠りたい――ただそれだけだった。一方、その頃。雨音に包まれた路上で、峰岸が差し出す黒い傘の下、柊也は立ち
三月半ば。詩織は江ノ本大学のMBA課程を修了し、無事に卒業の日を迎えた。これで心置きなく、七月末から始まるWTビジネススクールへの留学準備に取り掛かれる。とはいえ、残された時間は少ない。渡航までに「華栄キャピタル」の組織体制を盤石なものにせよと、やるべきことは山積みだ。有能な幹部候補の引き抜きや、管理職の育成に奔走する日々が続いた。そんな多忙を極める中、北里市から衝撃的なニュースが飛び込んできた。中央政界を揺るがす大粛正が始まったのだ。澪士が内部告発文書のコピーを送ってくれた。そこには、汚職の摘発リストと共に、事件の主犯格である大物政治家の罪状が記されていた。【重大な職
立て続けの衝撃に精神の瓦解をきたしたのか、志帆は唐突に笑い出した。「あ……ははっ、アハハハ!」涙を垂れ流しながら、狂ったように哄笑する。刑務官が再び警棒で扉を叩いて警告するが、今の彼女の耳にはもう届かない。その笑い声は、極限まで張り詰められ、ついに断ち切られた弦の音色のようだった。耳障りで、悲痛で、どこまでも不協和音。ついに刑務官が踏み込み、錯乱する彼女をその場から引きずり出した。娘の断末魔のような笑い声を背に受けながら、長昭は静かに席を立った。だが、彼はこれで終わりにはしなかった。その足で、今度は妻の佳乃との面会に向かったのだ。佳乃もまた、獄中で指折り数え
小春をようやく寝かしつけた詩織は、ふとスマホの画面に目を落とした。ミキからメッセージが届いている。【ねえ詩織、私また資産増えちゃった?】【へっへっへ、私もいよいよ小金持ちの仲間入りね!】【ていうかさ!ゲス帆の会社、上場審査落ちたってマジ!?】その後に続くのは、六十秒いっぱいに吹き込まれたボイスメッセージが三連発。再生する勇気はなかった。うっかり押せば、苦労して寝かしつけた小春が起きてしまう。それに聞かずとも、内容は想像がつく。ミキのふざけたアカウント名『六十秒の美少女戦士』は伊達じゃない。彼女のエネルギーは今日も健在だ。詩織は慣れた手つきで文字を打った。【あんた







