تسجيل الدخول志帆は柊也の腕をさらに強く抱き寄せた。完璧で自信に満ちた笑みを浮かべ、彼と共に会場のVIPたちとの社交の輪に入っていく。私は誰よりも輝いている――そう信じて疑わなかった。現在の江ノ本市におけるビジネス界での柊也の地位を考えれば、向こうから挨拶に来るのは当然の流れだった。その隣に控える志帆もまた、自然な流れで数多くの有力者を紹介されることになる。誰もが名を知る重鎮ばかりだ。志帆が会話に花を咲かせていたその時、会場の入り口付近が俄かに騒がしくなった。人垣の中から、誰かの驚く声が漏れ聞こえる。「あれは……権田先生じゃないか?」「えっ、隣にいるのは華栄キャピタルの江崎詩織か?どうしてあの二人が一緒に?」志帆の顔に張り付いていた完璧な笑みが、瞬間凍りついた。今まで彼女を取り囲み、愛想よく話していた人々が一斉に手のひらを返したように向きを変え、権田と詩織の元へと押し寄せていく。あっという間に、志帆の周りには数えるほどの人間しか残らなくなってしまった。志帆は唇をきつく噛み締め、人だかりの中心にいる詩織を睨みつけた。詩織は権田の腕に手を添え、余裕のある笑みを浮かべて挨拶に応じている。「おいおい、なんでまたあの二人がセットなんだ?」いつの間にか近寄ってきた太一が、不思議そうに首を捻りながら呟いた。「どっちが招待客で、どっちが同伴者なんだ?」志帆は冷ややかに鼻を鳴らし、吐き捨てるように言う。「決まってるでしょ?」たった一言だが、そこには強烈な侮蔑が込められていた。「そりゃまあ、権田先生が招待客だよな。影響力が違いすぎる」そこは太一も納得のご様子だ。腐っても『半導体の帝王』であり、ハイテク業界の生ける伝説だ。つまり、詩織は権田氏のパートナーとして、この場に紛れ込んだというわけか。「にしても、どうやってあの権田先生に取り入ったんだ?」太一の興味はそこに尽きるようだ。志帆はさも馬鹿にしたように言い放つ。「あなた、彼女との付き合いも長いくせに。あの女がどういう人間か、まだわからないの?」太一は言葉を失った。かつて彼らが詩織を徹底的に嫌悪した理由――それはまさに、彼女の『そういう』部分だったからだ。それまで黙って様子を伺っていた柊也が、ふいに口を開いた。「おかしいな。招待リストに権田氏の名前はなかったはず
外野がどれだけ騒ごうと、二人の絆には傷一つつけられない。柊也がどれほど彼女を大切にしているかを見せつければ、周囲の評価もおのずと改まる。くだらない噂など、一瞬で吹き飛ぶはずだ。会場には、譲と太一の姿もあった。二人が到着すると、太一が陽気に手を振ってくる。隣にいる譲は軽く会釈だけして、すぐに太一との会話に戻った。最近の『サカザキ・モータース』の勢いは凄まじい。自動運転車の市場投入を成功させた譲は、その功績でグループの役員入りを果たしたばかりだ。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いである。志帆は、この機を逃すまいと関係構築を目論み、二人の元へ柊也を促した。近づいた瞬間、譲が太一に尋ねる声が耳に入った。「で、今日は詩織さんは来るのか?」本来なら地方の工場で生産ラインの指揮を執っているはずの彼が、わざわざこの総会のために戻ってきたのだ。その目的が詩織であることは明白だった。ただ一目、会いたい。言葉を交わせなくとも、その姿を見るだけでいい――そんな切実さが滲んでいる。太一は首を横に振った。「さあな、俺の知ったことかよ」譲が呆れたように眉を寄せる。「彼女、今やあんたの上司だろ?少しは上司の動向くらい気にかけたらどうだ」太一は少し黙ってから、ぼそりと答えた。「あいつは上司っていうより、生活指導の鬼教師だぜ。好き好んで生活指導に会いに行く生徒がどこにいるんだよ」「……」譲も言葉に詰まる。確かに、一理あるかもしれない。太一は口にこそ出さなかったが、本音では詩織を避けて回りたかった。気にかけるどころの話ではない。詩織が『衆厳メディカル』の役員に就任して以来、彼女の容赦ない業務改革の嵐が吹き荒れているのだ。適当にやってきた太一のような『お飾り役員』にとっては、地獄の日々だった。提出する書類、報告書の類はことごとく突き返され、修正の山。句読点の位置一つにすらダメ出しが入る徹底ぶりだ。おかげで最近は、出社を考えるだけで頭痛がする始末だった。志帆は愛想よく挨拶しようと口を開きかけたが、二人が詩織の話題ばかり口にすることに苛立ち、瞳の奥に冷たい光を宿した。彼女は冷ややかに言い放つ。「この前、柊也くんに招待リストを見せてもらったけど、江崎さんの名前はなかったわよ」一拍置いて、さらに念を押すように付け加え
『江ノ本商工連合会』の年次総会を三日後に控えたある日、海雲の秘書が華栄キャピタルの詩織のもとを訪れ、招待客リストを提示した。リストの中にあの見慣れた名前を見つけても、詩織の視線が留まることはない。彼女は表情一つ変えず、そのまま淡々とリストの最後まで目を通した。「こちらは本会員様の招待リストになります。同伴者様のリストにつきましては、後ほど改めてお届けにあがります」時を同じくして――柊也もまた、志帆に総会へ出席する旨を伝えていた。志帆の目が輝く。見せられた招待客リストに名を連ねているのは、財界の大物ばかりだ。それはつまり、そこには無限の人脈とビジネスチャンスが転がっていることを意味していた。どうやって同行をねだろうか――そう志帆が言葉を選んでいた矢先、柊也の方から声をかけた。「午後にでも『Belle Fleur』のアトリエに行っておいで。自分用に、とびきり綺麗なドレスを選ぶといい」その言葉に胸を打たれ、志帆は甘く潤んだ瞳で柊也を見つめた。外野が何と言おうと、どんな事態になろうと、世間がどう噂しようとも関係ない。この人だけは、いつだって毅然として私の隣に立ってくれる。連日降り注ぐバッシングのストレスも、柊也の揺るぎない態度を前にして、嘘のように消え去っていった。この絶対的な偏愛こそ、詩織が七年かけても決して手に入れられなかったものだ。だから――勝負はすでについている。もはや江崎詩織など、眼中に置く価値すらないのだ。志帆が『Belle Fleur』のアトリエで有頂天になりながらドレスを選んでいる頃、詩織の手元には二通目のリストが届いていた。同伴者欄に志帆の名を見つけても、詩織は眉一つ動かさない。想定の範囲内だ。確認を終えると、彼女は親友のミキにビデオ通話をかけた。ドレス選びの助っ人を頼むためだ。重要なパーティだと聞くやいなや、ミキは胸を叩いて請け負った。「任せて!会場の視線を独り占めするような、最高の一着を選んであげるから!」「そこまで張り切らなくていいわよ。あくまで海雲おじ様の代理で出席するんだから、主役より目立つのはマナー違反だわ」「ちぇっ。じゃあ、シックで上品な路線ね」ミキのファッションセンスは抜群だ。詩織も全幅の信頼を置いている。むしろミキの方が、ドレスよりも別のことを懸念
母に言われるがまま、志帆は国内最大手のニュースサイトを開いた。トップに配信されていた記者会見の動画を再生した瞬間、権田の肉声が飛び込んできた。「今朝の一部報道は事実無根です。私共がエイジア・ハイテック社と提携するという事実は一切ございません。もちろん、エイジア社が優れた技術と市場を持つ業界のリーダーであることは認めますが……」それは、志帆の顔面に泥を塗るに等しい公開処刑だった。業界事情に通じている人間なら、今朝の記事が観測気球……いや、志帆による既成事実化を狙った飛ばし記事であったことは容易に見抜けるはずだ。彼女があんな無茶な手を打ったのは、「この業界でエイジア以上のパートナーはあり得ない」という絶対の自信があったからだ。あれはニュースという名の、権田に対するラブコールであり、同時に逃げ道を塞ぐための強要でもあった。権田が断れるはずがないと踏んでいたのだ。ところがどうだ。朝に記事が出たその日の午後に、当人がわざわざ会見を開いて「フェイクニュースだ」と断言したのだ。これを恥と言わずになんと言う。ネット上がどんな嘲笑で溢れかえっているか、想像するだけで吐き気がした。志帆の血の気が引いていくのを、悠人は見逃さなかった。「先輩、どうしたんだ?」心配そうに覗き込む彼に、志帆は真実を告げることもできず、凍りついたような表情で立ち上がった。「……ごめんなさい。今日はこれで失礼するわ。食事はまた改めて」「ああ、気にしないでいい。何かトラブルならすぐに行ってやってくれ」悠人は穏やかに頷き、さらに付け加えた。「会計は僕が済ませておく」「ありがとう」志帆は短く会釈すると、逃げるように個室を出て行った。残された悠人は、彼女の背中を見送りながら眉を曇らせた。あんなに取り乱すなんて、一体何があったのか。問い詰めることさえ憚かられるほどの切迫感だった。志帆と佳乃が帰宅したのは、ほぼ同時だった。志帆のランチは途中解散、佳乃のお茶会も険悪なムードで早々に散会したのだ。ダイニングでは、長昭が一人で夕食を始めようとしていたところだった。「あれ、二人とも食べてくるんじゃなかったのか?家政婦には私の分しか頼んでないぞ」その言葉を聞くや否や、佳乃は持っていたブランドバッグをソファに放り投げた。「食べてられるわけないでしょう
詩織は反射的に通話ボタンを押した。「はい、江崎です」……一方、志帆の機嫌は最高だった。今朝のニュース報道をきっかけに、風向きは完全に変わった。不祥事以来低迷を続けていたエイジア・ハイテックの株価はV字回復を見せ、今もなお上昇トレンドを描いている。志帆の手腕に懐疑的だった古参株主たちも、手のひらを返したように沈黙を守った。さらに、昨日門前払いを食らわせた例の町田部長からも、猫なで声で電話がかかってきた。「いやあ申し訳ない。急な出張から戻りましてね。昨日わざわざ足をお運びいただいたと聞いて、慌てて連絡した次第です」白々しい言い訳だとわかっていても、志帆はそれを咎めたりはしない。大人の余裕を見せつけ、あえて食事に誘ってやった。町田は二つ返事で快諾した。志帆は少し考え、ついでに悠人にも連絡を入れた。昨日の約束を果たすためだ。町田のような小物が志帆を見下していたなら、その目の前で悠人のような大物とのパイプを見せつけてやればいい。自分の背後には強大な人脈とリソースがあるのだと、骨の髄まで理解させてやるつもりだ。母の佳乃も同様だった。昨日あれほど冷淡だった婦人会のメンバーから、次々とお茶の誘いが入っている。もっとも、坂崎悦子の名前はその中になかったが、今の佳乃にはどうでもいいことだった。彼女は上機嫌でドレスアップし、出かける準備を整えた。ちょうど玄関を出ようとしたところで、夫の長昭が帰宅した。「あら、明日の戻りじゃなかったの?」「仕事が早く片付いたんでな」長昭は小脇に二冊の経済誌を抱えていた。妻の派手な装いを見て眉を上げる。「出かけるのか?」「ええ、少しお茶会にね」佳乃は鏡の前で髪を整えながら答えた。「行ってくるわ。夕飯は家政婦さんに頼んでおいて」「わかった」長昭は靴を脱ぐと、そのまま二階の書斎へ直行した。デスクの上に、持ち帰った雑誌を置く。表紙を飾っているのは、詩織だ。彼はゆっくりとページをめくり、彼女のインタビュー記事だけを熟読した。読み終えると丁寧に雑誌を閉じ、皺を伸ばしてから立ち上がる。本棚の書物を一度取り出し、新しく買った二冊をその最奥へ滑り込ませた。そこには既に、数冊の雑誌が隠されていた。どれも表紙は詩織だった。彼は再び分厚い専門書を前に戻し
「痩せたな。ちゃんと食ってるのか?」柊也の声は平坦で、そこに労りの色は感じられない。ただの社交辞令のように聞こえる。だから詩織は、その気まぐれな問いかけには答えなかった。答える気もしなかった。閉まりかけた扉をすり抜け、さっさとエレベーターに乗り込む。柊也も無言で後に続いた。箱の中を沈黙が支配する。途中、柊也のスマホが何度か振動した。誰かからのメッセージだろう。彼は画面に目を落とし、熱心に見入っている。詩織はこの時ばかりはエレベーターの遅さを呪いつつ、何気なく階数表示を見上げた。磨き上げられたステンレスの壁面が、鏡のように中の様子を映し出している。そこには、二人の姿と、柊也が見つめるスマホ画面がぼんやりと映り込んでいた。一瞬、視界の隅に馴染みのあるアイコンがよぎる。あれは間違いなく、志帆のものだ。一階に到着するや否や、詩織は振り返りもせずに足早にロビーを出て行った。柊也も少し遅れて後に続く。その入れ違いで、ホテルの車寄せに一台の車が滑り込んだ。神宮寺悠人だ。権田に会うためにやってきたのだが、車を降りるなり、彼の目は釘付けになった。ホテルから出てくる詩織と、そのすぐ後ろを歩く柊也の姿を捉えたからだ。悠人の足が止まり、眉間に深い皺が刻まれる。ホテルという場所柄、『密会』を疑うなという方が無理な話だ。数秒の逡巡の後、悠人は志帆に電話をかけた。「先輩、今どこにいる?」「家よ」志帆の声は明るかった。悠人は喉まで出かかった言葉を飲み込み、当たり障りのない話題に切り替えた。「江ノ本に来たんだ。近いうちに飯でもどうだ?」「明日なら平気よ。また連絡するわ」「ああ」手短に通話を終えると、悠人は再び詩織が去っていった方向を睨みつけた。その瞳には冷たい侮蔑の色が浮かんでいた。これまでは偶然や誤解だと思っていた。だが、今のはどうだ。他人の婚約者を狙って、ホテルから一緒に出てくるなんて。もはや「誤解」では済まされない。あれは、明らかな略奪行為だ。翌朝、詩織が出社するなり真田から電話が入った。今すぐ経済ニュースをチェックしてほしいという。PCを起動すると、デスクトップの右下に速報のポップアップが表示された。――【エイジア・ハイテック、半導体業界のドンと