Masuk坂崎の言葉に、その場にいた一同だけでなく、詩織も興味を惹かれた。坂崎はゆったりとした口調で続けた。「単なる秘書の一人なら、私もそこまで注目はしなかったでしょう。あの日、賀来社長が『どうしても紹介したい人材がいる』と私を離さなかったんですよ。彼は会場中を歩き回ってあなたを探し、最後には電話でわざわざ呼び出した。私は、あの彼がそこまで熱心に推す人物とは一体何者だろうか、と強く興味を惹かれたわけです」坂崎は穏やかな視線を詩織に向けた。「後に、あなたが『ココロ』のプロジェクトを抱えて私を訪ねてきた時、ようやく確信しましたよ。ああ、あの男がここまで惚れ込んだ才能は、本物だったんだな、と」坂崎の話に、詩織の思考は一瞬だけ止まった。――思い出した。あの日、祝賀会の運営に追われていた彼女は、胃の激痛に襲われていた。あまりの辛さに耐えかね、ラウンジの隅で白湯を飲み、身体を丸めるようにして休んでいたのだ。ところが、痛みが引く間もなく柊也から電話がかかってきた。その時の彼の声は、どこまでも冷酷で厳しかった。疲労困憊の彼女を気遣う素振りすら見せず、冷たくどこにいるのかと問い詰め、「今すぐここへ来い」と命じたのだ。てっきり、自分を酒席の相手か何かの穴埋めに呼び出したのだとばかり思っていた。今の今まで、そう信じて疑わなかった。坂崎の話は、以前、沙羅から聞いた話と奇妙に符合した。沙羅も打ち明けてくれたことがあった。最初の2億円は個人的な友情から出資したが、その後の巨額の投資に関しては、柊也の強力な後押しがあったからだと。坂崎が詩織への投資を決めた裏側にも、やはり柊也の影があったのだ。ようやく、隠されていた真実の片鱗が見えてきた。当時、彼女は彼に傷つけられた痛みゆえに、自分が見たい一面……「冷酷な彼」しか直視していなかったのだ。今や一流のヘッドハンティング会社を経営する城戸も、酒席で坂崎の話に乗っかってきた。「いや、それだけじゃないですよ」と手を振って笑う。「あの頃の投資界隈じゃ、江崎さんのプロジェクトが難航してるって噂でもちきりでした。みんな様子見を決めていて、手を出そうとはしなかった。それどころか、わざわざ賀来社長に探りを入れた奴らもいたくらいです」当時の柊也の返答は、実に明快なものだったという。『あれは素晴ら
妖しげなネオンが瞬き、喧騒に包まれたレストランの中にあってなお、彼の放つ圧倒的な魅力は少しも揺らぐことはなかった。こういうコンセプトのレストランを利用する客の九割以上は女性だ。しかも、最初から「目の保養」を目当てに来店している彼女たちにとって、店内にこれほどの『極上』が座っていれば、ステージの上の男たちなどもう眼中にない。中には度胸のある女性客が、直接彼の席へ向かい連絡先を聞き出そうとしていた。だが、柊也はそれらをすべて冷ややかにすげなく断っていた。その様子を横目で確認して以来、詩織はどうしても彼のほうを頻繁に見てしまうようになっていた。そして、視線を向けるたびに、必ず彼と目が合うのだ。そのたびに詩織は、居心地の悪さを誤魔化すように慌てて目を逸らした。――だが、そんなことを何度も繰り返していれば、いつかボロが出るのは当然のこと。何度目かに顔を上げた時、ぶつかったのは柊也の視線ではなく、ミキの鋭い眼差しだった。ミキは二人の視線の間に強引に割り込むように、長い首を限界まで斜めに傾けてこちらを覗き込んでいた。その顔にははっきりと、『ほら、やっぱりね』と書かれている。詩織はサッと視線を落とし、コップの水を飲んで動揺を隠そうとした。しかし、そんな小細工で誤魔化されるミキではない。彼女は姿勢を正して腕を組み、ふんぞり返った。「さあ、洗いざらい白状しなさい。一体どういうこと?私たちが店に入って十分もしないうちに、なんであのクズ也が現れるわけ?」「……ただの偶然じゃない?」ミキは鼻で笑い、口元を皮肉げに歪めた。「そんな都合のいい偶然がしょっちゅうあってたまるもんですか。私がそんな子供騙しを信じるとでも?」「江ノ本市なんて人口三千万人もいる大都市よ?ここでピンポイントに偶然鉢合わせる確率なんて、ほぼゼロに等しいわ。言い訳にするにも無理がありすぎる!」無理がある、か。だが、かつての自分は……あの頃、行く先々で柊也と志帆の二人に遭遇していた。接待やビジネスサミット、投資先の開拓、さらには立ち上げようとしている新規プロジェクトのジャンルまで、すべてが被っていたのだ。同じ市内はおろか、地方出張先で出くわすことすらあった。当時の詩織自身も「こんな偶然、あり得ない」と思っていた。それでも、それが現実だ
口を滑らせたことに気づいたミキは、咄嗟に出まかせを並べ立てる。「ほ、ほら、前に海に行ったじゃない!あの時、あの人が毎日泳いでたからよ。あんな極上の目の保養が転がってるのに、スルーするなんて女が廃(すた)るでしょ?」もっともらしい言い訳に、詩織はそれ以上深く追求することなく納得したようだった。ミキが退屈そうに欠伸を噛み殺していた、その時だ。視界の端に、あまりにも見覚えのあるシルエットが映り込んだ。同時によく知る声が響き渡る。店内に足を踏み入れるなり、その光景に度肝を抜かれた太一の声が裏返った。「おい柊也!お前、いつからこんなメンズパブみたいな店に興味持つようになったんだよ!?」わざわざ遠くにいた自分を呼び出し、「飯を奢る」と言われて連れてこられたのが、まさかのマッチョ・レストラン。もしや柊也は、江崎に振られすぎて絶望し、そっちの道に目覚めてしまったのでは……?必死に慰めの言葉を探そうとした太一だったが、柊也の冷徹極まる一瞥を食らい、その言葉を喉の奥に引っ込めた。太一は気まずそうに鼻を擦った。どうやら、そういうわけじゃないらしい……じゃあ一体何しに?ふと、嫌な予感がよぎり、太一は恐る恐る柊也を仰ぎ見た。「……待てよ。まさか俺に彼女がいないからって、お仲間だと勘違いしてないよな!?俺は鋼鉄のように真っ直ぐなストレートだからな!?」俺はただ、一人の女に執着して身を滅ぼしたくないだけなんだ。俺の何が悪い。「飯を奢ってやるって言ってるんだ。黙って座れ」柊也は太一のことなど眼中にないといった様子で、さっさと席についた。そこは、詩織のテーブルのすぐ隣。無視しようにも不可能なほどの、至近距離だった。太一はここでようやく詩織の姿に気づき、一瞬ぽかんとした後、すべてを察した。なるほど、目的は江崎の方だったというわけか。彼は律儀にも詩織に向かって声をかけた。「どうも、江崎先生」詩織は「???」と頭にハテナを浮かべた。先生って何よ?ミキは柊也のことを敵視しているため、その連れである太一のことも当然気に入らない。類は友を呼ぶ、というやつだ。あからさまに嫌そうな顔をして、チクリと毒を吐いた。「……食欲が失せるわ」太一はグッと堪えた。何せ、あの柊也でさえ詩織の手前、あえて逆らわずに一歩引
詩織はますます頭が痛くなってきた。 「……どっちでもいいわよ、別に」「じゃあ、『カイ』にしよう。俺の名字の『賀来』の、賀の字の下半分だ」朝食後、詩織はオンラインで会議を一件こなした。仕事がひと段落してリビングに出ると、柊也がいつの間にかキッチンに入り込み、昼食の準備を始めている。食材は彼がネットスーパーの宅配で揃えたらしい。肉に野菜にフルーツと、とにかく栄養バランスを重視したらしい豪華なラインナップだ。キッチンから漂ってくる美味しそうな匂いに、普段なら仕事にしか向かない詩織の意識が、ふと宙に浮いたように逸れた。どうしてだろう、言葉にできないほどの安らかな感情が胸を満たしていく。目の前でエプロン姿の彼が料理をしている――この日常的で温かな光景こそ、かつての彼女が喉から手が出るほど渇望していたものだった。だが……今はもう、純粋に彼を想っていたあの頃とは、何もかもが変わってしまったのだ。胸に押し寄せる感傷を振り払うように、詩織は気分を変えようと立ち上がった。しかし、コーヒーメーカーの前に立った瞬間、柊也が湯気を立てるマグカップを持ってキッチンから出てきた。「コーヒーはやめて、これを飲め」「……ただの眠気覚ましよ」彼女は毎日この時間になると、決まって氷をたっぷり入れたアイスのブラックコーヒーで気合を入れるのが日課だった。「日向先生が言ってたぞ。生理痛が酷かったり周期が乱れたりするのは、普段から冷たいものばかり飲んでるのも原因だから、体質を改善しろってな」そう言って、柊也は温かい黒糖ジンジャーティーの入ったカップを彼女のパソコンの脇に置くと、無言で詩織の手からコーヒー用のカップをあっさり奪い取った。さらにそのまま手を伸ばし、彼女の頬を軽くふにふにと摘まむ。まるで小さな子供を甘やかすような、どこまでも優しく響く声だった。「ほら、いい子だから言うことを聞け」そのあまりに柔らかい声と切なげな眼差しに絆され、詩織は完全に思考をショートさせられてしまった。促されるまま、無意識に温かいジンジャーティーを口に含んだ瞬間、ハッとして自分が手玉に取られたことに気づく。あの狡猾な男……!あろうことか、自分の顔の良さを最大限に利用して『色仕掛け』を使ってきやがったのだ。雑誌の編集者との打ち合わせを終えたミキから
「……ちょっと、あんた」じっと探るような目つきに、詩織は心細さを隠しきれず、思わず声が上ずった。「な、何よ……」「おかしいわね」ミキはまるでスパイを尋問するような鋭い視線を向けてきた。「なんであんたから、賀来柊也の匂いがするの?」「は……?柊也の匂いって、何のことよ」「とぼけないでよ。私、頭の回転じゃあんたに敵わないけど、鼻の良さだけは自信あるの。この香りは絶対にあの男のものだわ。しかも、これだけしっかり移ってるってことは、かなり密着しないとあり得ないわよ!」腰に手を当てて「さあ、洗いざらい吐きなさい」と迫りくるミキ。詩織はしどろもどろになりながら弁解した。「だ、だから、式典で席が隣同士だったのよ。ウソだと思うなら、大学の公式SNSを見てみなさいよ」実はミキも、その公式アカウントの写真をとっくにチェック済みだった。集合写真で柊也が詩織にぴったりとくっついているのを見ていたため、「まあ、そういうこともあるか」とあっさり納得してくれた。ちょうどそのタイミングで、仔猫が小さな肉球でミキの指にじゃれついたため、彼女の意識は完全にそちらへ移ってしまった。「ああもう、この子ほんとに天使ね……!」――その夜。シャワーを浴びてベッドに入ろうとした詩織のスマホが震えた。画面を見ると、柊也からのメッセージ。【子どもは寝たか?】「…………」どこまで父親を気取っているのだろうか。詩織は呆れて返信を打つのをやめた。数分後、再びバイブレーションが鳴る。【どうやら、ママの方も寝てしまったみたいだな】続いて、三通目。【おやすみ】画面に浮かんだその短い言葉を、詩織はじっと見つめ続けた。やがて小さく息を吐き、ずっと未登録のままだった彼の番号を、ついに連絡先に追加する。ただし、「賀来柊也」と登録すれば、鋭いミキに見つかった時に面倒なことになる。入力しようとした指を止め、詩織はバレないように、まったく別の名前を打ち込んだ。翌朝、ミキはいつもよりずっと早く起き出してきた。「ねえ聞いて! 超有名なファッション誌の編集長から、新年の表紙の件で打ち合わせしたいって連絡が来たの!」弾んだ声で報告してくる彼女の、久しぶりに見る生き生きとした姿を、詩織はもちろん全力で応援した。今日は自分は会社に行かないからと、自分の専属運転手に彼女
その微笑ましい光景を見て、柊也は思わず笑いを漏らしそうになった。視界の端でそれに気づいた詩織が、怪訝な視線を向ける。柊也は甘やかすような笑みを浮かべた。「君が動物と会話できるなんて、知らなかったよ」からかわれているのは明白だったので、詩織は綺麗に無視を決め込み、すっかり母親のような顔つきで仔猫の相手を続けた。仔猫のほうも完全に彼女を母親だと思っているらしく、小さな頭で手のひらに擦り寄り、時折ちろりと舌を出して彼女の指先を舐めている。すると、柊也が大真面目な顔をして口を開いた。「で、俺がパパだってことは、ちゃんとそいつに教えてやったのか?」詩織はなんと言っていいかわからず、冷ややかな目を彼に向けた。だが、柊也は独自の論理で堂々と推し進める。「そいつが君をママだと思ってるなら、順当にいって俺がパパになるだろう?」「……馬鹿じゃないの」マンションに着くと、病院で買い込んだ猫用品がかなりの量になっていた。詩織は運転手の小林に手伝ってもらおうとしたが、柊也がこの点数稼ぎのチャンスを部下に譲るはずがない。バックミラー越しの鋭い視線に気づいた小林は、しどろもどろになりながら言った。「あ、あの、私、手首が腱鞘炎でして……荷物はちょっと持てそうにありません」「腱鞘炎なのに運転してたの?そっちの方がよっぽど危なくない?」詩織には、柊也のわかりやすい魂胆などお見通しだ。「雇われの身の人間を、あんまりいじめないでやってくれ」こんな時だけ物分かりのいい上司を演じながら、柊也は軽く肩をすくめた。「俺にも少しは、いいところを見せるチャンスをくれないか?」「でも、今日はミキが家に来てるから」詩織の意図は明確だった。どうせ部屋には上げない、という牽制だ。柊也は小さくため息をついた。「わかってる。上の玄関先まで運んだらすぐ帰るよ。それでいいか?」親友であるミキという厄介な『門番』がいる以上、中に入り込めないことくらい彼も承知している。それならと、詩織もこれ以上は拒まず、大人しく彼に荷物持ちを任せることにした。エレベーターに揺られながら、柊也が唐突に問いかけてきた。 「なあ、君のところの『手厳しいお目付け役』は、何が好みなんだ?」 「……お目付け役?」 詩織が怪訝そうに聞き返すと、彼は平然と言ってのけた。 「彼女の親友ってい
だから詩織が姿を見せるなり、文武は手を変え品を変え、彼女を酔わせようと躍起になった。ところが、詩織はなかなかの酒豪で、たいして飲んでいないはずの文武のほうに、先に酔いが回り始めていた。ついに痺れを切らしたのか、彼は熱弁を振るう詩織の話を強引に遮った。「江崎さん、君のビジネスセンスや企画力を疑ったことは一度もない。君ならこのプロジェクトを見事にやり遂げられると信じてるよ」「では向井社長、ご出資いただけますか」詩織も単刀直入に切り返す。「ああ、いいとも。だが……条件がある」彼はそう言うと、テーブルに置かれた詩織の手に、ねっとりと自分の手を重ねた。「君は賢い人だ。俺が何を言い
坂崎と志帆の話が一段落すると、ようやく彼は詩織に向き直り、今回の目的を尋ねた。詩織にようやく口を開く機会が訪れる。もちろん、この好機を逃すまいと全力で熱意を伝えた。だが、詩織の目的が同じくデータベースだと知ると、坂崎は困ったように眉を寄せた。「それは少し、都合が悪いですね。申し訳ないが、先に柏木さんにお約束してしまいましたので」その言葉に、詩織の心に焦りが広がる。「坂崎社長、弊社は今、どうしても東華のご協力が必要なんです。以前、社長も我々のプロダクトを高く評価してくださいましたよね?ものはすでに出来上がっていて、あとは最後の一歩なんです。どうか、お力をお貸しいただけないでしょう
エイジア・キャピタルは多くのテクノロジー分野に投資しており、中でも最も成功しているのが、傘下の半導体企業だった。柊也自身、この半導体事業によって、エイジアを現在の地位まで押し上げたのだ。詩織が立ち上げた、まだ門を叩くことすら許されない小さなスタジオとは違い、エイジアほどの大企業ともなれば、こうしたトップレベルの業界サミットでは常に貴賓として迎えられる。彼らにとって招待状など、当たり前のように手に入るものに過ぎない。詩織も、その可能性を考えなかったわけではない。だが、柊也と再び接触し、関わりを持つことへの潜在的な抵抗感が、行動をためらわせていた。そんな彼女の背中を押したの
ペンを受け取った瞬間、詩織の目頭がじんと熱くなった。「念のために言っておくけど、サインしたらもう後戻りはできないわよ」「いいから、早く」智也はただ、そう言って彼女を促すだけだった。「それと……最初に私に声をかけてきた時、君は私の技術を信じてくれたんじゃないのか?私が、淘汰されるような男に見えるか?」自分の専門分野において、智也には揺るぎない自信とプライドがあった。詩織は、迷いのない筆致で自分の名前を書き記した。……物事は、順調なようで、全く順調ではなかった。起業に立ちはだかる困難の数々を、詩織は一つ残らず味わうことになった。だが幸いなことに、彼女にはどんな状況で







