Se connecter結果として、詩織がとっくに帰国してバリバリ働いている間も、悠人は独りキャンパスに残り、地道に単位を稼ぐ日々を送っている。父親の悠玄からも、先日電話でこう言われたばかりだ。「悠人、江崎さんはもう帰国したぞ。一体いつまで遊んでるつもりだ?」「……遊びたくて遊んでるわけじゃないよ、父さん」悠人は力なく、そう答えるしかなかった。このビジネススクールの単位取得がどれほど過酷か、知らないくせに。悠玄は苛立ちを隠さずに続けた。「情けないヤツだ。わざわざ海外まで彼女を追いかけておきながら、みすみす指をくわえて見ていたのか?『近くにいれば想いが通じる』なんて甘い考えじゃなかったろうな。せっかく同じ釜の飯を食うチャンスを与えてやったのに、お前ときたら……手ぶらか!」だが、その点に関して悠人は妙に達観していた。「父さん。はっきり分かったんだ。詩織先輩は、僕のことなんて男として見てないって」「なんだと?」「僕が彼女に抱いている感情も、恋愛というより……崇拝に近いんだと思う」息子のあっけらかんとした言葉に、悠玄はがっくりと肩を落とす気配がした。「……それでお前、一生そのまま彼女の金魚のフンでいるつもりか?」「うん。それが僕の生きる道かなって」「……」悠玄はあまりのことに返す言葉を失った。我が息子ながら、ここまで来るといっそ清々しいというか、開いた口が塞がらないというか。かける言葉が見つからないとは、まさにこのことだった。アシスタントの密が、小ぶりのみかんを籠に入れて入ってきた。「これ、秘書課の早川さんからの差し入れです。彼氏さんのご実家から送られてきたものらしくて、すごく甘いんですよ」詩織は一つ手に取り、皮をむいて口に運んだ。確かに、濃厚な甘みと適度な酸味が広がる。美味しい。「……で、そのみかんを食べたからには、責任取ってもらいますよ?この後の婚約祝いパーティー、詩織さんも強制参加ですからね」密が悪戯っぽく笑う。詩織は手の中の半分になったみかんを見つめ、苦笑しながら「はいはい」と頷くしかなかった。夜のパーティー会場。主役の早川とその婚約者は、なんと高校時代からの付き合いだという。まさに「制服からウェディングドレスへ」という王道の純愛ストーリーに、周囲は羨望のまなざしを向けていた。「いいなぁ。私なんて高校の頃といえば、『推
太一は一つの法則に気づいていた。詩織の話題を振ると、柊也は必ず反応する。だがそれ以外の話だと、大抵は無視するか、気のないそぶりを見せるだけだ。例えば、太一がこんな質問をした時もそうだった。「なぁ柊也。どうして新会社の名前を『栞(シオリ)』にしたんだ?やっぱり江崎から取ったのか?」「違う」柊也は即答した。「適当につけただけだ」適当につけた、だって?太一は心の中でツッコんだ。誰がそんなこと信じるかよ。彼は鮮明に覚えていた。かつて刑務所へ面会に行き、新会社の名前をどうするか相談した時のことを。あの時、柊也の瞳の奥を一瞬よぎった強い光。そして、『栞』という言葉を口にした時の、あの揺るぎない口調。前々から決めていたとしか思えないほど、迷いのない響きだった。ただ、その時はあえて突っ込んで聞く勇気がなかっただけだ。その後も太一は幾個か話題を振ってみたが、案の定、柊也からはまともな返事は返ってこなかった。それでも、太一は帰るわけにはいかなかった。柊也を一人にするのが怖かったからだ。「そうだ、明日の接待なんだけどさ……柊也、代わりに行ってくれないか?俺、どうしてもあの人だけは苦手でさ」太一は情けなくぼやきながら、明日の相手について愚痴り始めた。相手は『栞』社の重要な海外クライアントであるニーナという女性だ。もう五十近いのだが、会うたびに太一の体をベタベタと触ってくる。おかげで太一は、ニーナという名前を聞くだけで鳥肌が立つ体質になってしまっていた。ところが柊也は、そんな太一の悲鳴をすげなく切り捨てた。「問題に直面した時、解決しようとせずに逃げてばかりいたら、いつまで経ってもその壁は越えられないぞ」「だからって、対処法を覚える時間くらいくれたっていいだろ?」太一が恨めしげに反論する。「世渡りを手取り足取り教えてもらえる時間なんて、そんなに都合よくあるもんじゃない。人間ってのはな、過酷な環境に放り込まれて初めて成長するんだよ」言うが早いか、柊也は立ち上がり、コートについた埃をパンパンと払った。「俺は帰る。お前もさっさと帰って寝ろ」あっけにとられて、太一は開いた口が塞がらなかった。いやいや、ちょっと待て。俺は一晩中、この寒い中あんたに付き合って冷たい風に吹かれてたんだぞ?それなのに、そうや
「いいえ。少なくともここでは、あなたは彼ではありません」詩織の言葉は冷たく、そして明確だった。結局、真理子は顔を真っ赤にして憤然と席を立ち、ヒールの音を響かせて会議室を去っていった。彼女の姿が見えなくなるや否や、密が怒りを爆発させた。「信じられません!あれじゃ恩を仇で返すも同然じゃないですか!自分を何様だと思ってるんですか、詩織さんにあんな口を利くなんて!」密の憤りは収まらない。「創業当初、『ココロ』に投資してもらうために詩織さんがどれだけ頭を下げて回ったか……どれだけ泥水をすすって、お酒を飲んで駆けずり回ったか!どうしてみんな、喉元過ぎれば熱さを忘れるんでしょうか!」「人間なんて、そんなものよ」詩織の声は淡々としていた。かつての自分なら、密と同じように怒り狂っていただろう。だが、あまりに多くの裏切りと喪失を経験した今の彼女には、他人の醜悪なエゴイズムになど何の期待も抱けなくなっていた。そんな詩織の諦念を感じ取ったのか、密がふと不安げに尋ねた。「……久坂さんご自身も、同じお考えなんでしょうか?」「さあ、ね。それよりも、真理子が最近誰と接触しているか調べて」密の仕事は迅速だった。午前中に指示を出したその日の午後には、既に調査結果がデスクの上に置かれていた。「……『栞』?」報告書にあるその社名を見た瞬間、詩織の胸になんとも言えないざわめきが走った。自分と同じ読みを持つ会社名。単なる偶然だろうか。聞き覚えは全くない。けれど、なぜか奇妙な既視感のようなものが肌にまとわりつくのを感じた。「ここ二年ほどで急激に成長してきたテック企業です」密が補足する。「主力は高温超伝導技術で、その完成度は驚異的だそうです。国内市場を独占するだけでは飽き足らず、海外の大手とも次々と提携を結んでいるとか」「へえ……」「ただ、ここの本当のオーナーは謎に包まれていて、まだ一度も公の場に姿を見せていないんです」提出された企業概要書には、代表者名として「村田」という五十代の男の名前が記載されているだけだった。 だが、その男の名義には他に何の関連企業も見当たらない。いわゆる『雇われ社長』の匂いがぷんぷんする。もし真理子が、この正体不明の急成長企業『栞』と手を組んでいるのだとしたら……華栄キャピタルにとって、決して看過できる事態ではない。時を同じ
太一がようやく柊也を見つけた場所は、またしても南山湖のほとりだった。いつもと同じ、あの場所だ。「そんなに江崎がここに何を投げ捨てたか気になるなら、いっそ業者を呼んで湖の水を全部抜いて探させてやろうか?」言っている自分でも、その言葉の虚しさに呆れてしまう。そもそも詩織が具体的に何を捨てたのか、誰も知らないのだ。仮にそれが何か分かっていたとしても、あれから既に五年が経過している。広大な湖の泥底をさらって小さな何かを探すなど、雲をつかむような話だ。「なぁ、柊也。今どこに住んでるんだ?」太一はずっと気になっていたことを切り出した。心療内科医の掛川からは、一刻も早く柊也に専門的なセラピーを受けさせるよう忠告されていた。だが、治療を勧める以前に、まずは彼の居場所を把握し、いつ起きてもおかしくない自傷や自殺衝動を未然に防がなければならない。「聞いてどうする」柊也は水面を見つめたまま、頑として口を割ろうとしない。無理に聞き出すわけにもいかず、太一は話題を変えることにした。「それなら……『栞』に戻ってこないか?もともとあんたが作った会社だろ。あんたが復帰してくれれば、俺もようやく休暇が取れるってもんだ」「興味ない。それに、今の代表名義はお前だ。俺には関係ない」柊也の声は澱んでいて、生気がない。何に対しても関心を持てない、魂が抜け落ちたような状態だった。太一があの手この手で言葉を尽くしても、柊也の閉ざされた心を動かすことはできなかった。結局、彼が今どこで雨風をしのいでいるのかさえ聞き出せずに終わった。週が明け、月曜日。AIプロジェクト『ココロ』のチームが、定例報告のために華栄キャピタルを訪れた。しかし、会議室に現れたのはプロジェクトリーダーである技術者の智也ではなかった。現れたのは、智也の妻――そして『ココロ』の現副社長を務める、久坂真理子(くさか まりこ)だった。詩織の中に残っている真理子の印象は、まだ彼女が智也の秘書として働いていた頃のものだ。当時の彼女は、慎ましやかで分をわきまえた、実直な女性だった。だが今、ふんぞり返るように座っている目の前の傲慢な女は、かつての彼女とはあまりにかけ離れていた。同一人物だとは、到底信じ難い変貌ぶりだった。「何このコーヒー、ひどい味。まさかインスタントじゃないでしょ
あのとき、『一度だけでいい、彼女の運転手として一番近くで見守らせてくれ』と懇願されて、渋々了承したのはつい先日だ。それなのに、まさか今日もまた、本来の運転手である湊と入れ替わっているなんて。「彼女の邪魔はしない。ただ送るだけだ」マスク越しの声は低く、くぐもっている。「もう邪魔をしてるじゃないですか!」密の鋭い指摘に、柊也は二秒ほど沈黙した。「……これが最後だ。約束する」その悲痛な響きに、密は唇を噛んだ。本来ならここで警備員を呼ぶべきだ。けれど、彼の目に見える絶望と懇願の色に、どうしても非情になりきれない自分がいた。「……本当に、最後ですよ」密はため息交じりにそう告げると、助手席へと乗り込んだ。車は夕闇に包まれた街を、滑らかに走り出した。華やかに灯る街灯と流線型のネオンが、バックミラーの中に次々と現れては消えていく。車内は至って静かだ。不意にスマートフォンが震えた。柊也は瞬く間に着信を切った。そして、緊張を滲ませながらバックミラーへと視線を走らせる。後部座席の詩織は、幸いにも目を覚ましてはいなかった。迅速な反応が功を奏したのか、あるいは深い眠りに落ちているのか。彼女の穏やかな呼吸は乱れることなく続いている。マンションの前に到着し、エンジンを切る。走行音が消え、静寂が訪れると、その変化を察知したのか、詩織がゆっくりと目を開けた。「……ん」「……ん」頭が重い。久々の深酒で、すっかり弱くなってしまったらしい。窓の外には見慣れた我が家のエントランスがあった。けれど、すぐに降りようとはせず、詩織はこめかみを軽く揉みほぐした。「まだ少し酔ってるみたい。……南山湖まで行ってくれる?風に当たって酔いを覚ましたいの」運転席の男の手が、強くハンドルを握りしめた。しかし、彼は何も言わず、再びエンジンを始動させた。静かに、けれど確実に、車は南山湖へと向かって走り出した。湖畔に到着しても、詩織は車から降りようとはしなかった。ただ窓を半分ほど開け、そこから吹き込む夜風を全身で受け止めている。季節は初秋。夜気は適度に冷たく、それでいてどこか優しさを含んでいた。火照った頬を撫でる風が心地よく、アルコールで麻痺した思考を少しずつクリアにしていく。詩織は窓枠に頭を預け、数分間、ただぼんやりと湖面を渡る風を感じていた。「も
だが、その事実を知った途端、胸の奥で固く結ばれていた何かが、ふっと解けたような気がした。とにかく、無事に社会へ戻ってこられたのだ。それだけで十分だ。柊也について、それ以上の詮索はしなかった。それよりも、目の前のミキの憔悴ぶりが心配でならない。「ミキ、顔色が優れないわ。今日はもう先に帰って休んだほうがいい」詩織の心遣いに、ミキは素直に従うことにした。これ以上、あの不愉快なカップルと同じ空間に居続けるのは御免だった。ミキを見送り、会場に戻った詩織を待ち受けていたのは、その当事者たちだった。白彦と璃々子が、乾杯の挨拶の前に駆け寄ってくる。以前の詩織なら、この二人に含むところはなかっただろう。接点など皆無に等しい。しかし、つい先日、ミキが血の滲むような努力で勝ち取った映画のヒロイン役を、璃々子が白彦の威光を使って横取りした一件を知っている。だから、彼らに向ける詩織の眼差しは、どうしたって冷ややかなものにならざるを得なかった。挨拶を終え、演壇へと向かう詩織の背中を見送りながら、璃々子は眉を曇らせた。「ねえ白彦兄さん……今の江崎社長の態度、なんだかよそよそしくなかった?」「そうか?初対面なんだ、あんなものだろう」「ううん、違う。女の勘よ。私、嫌われてる気がする」璃々子には確信があった。ミキから奪ったあの役も、結局すぐに降板させられた。その理由を探ってみると、どうやら『華栄キャピタル』の上層部からの圧力があったらしいのだ。自分と華栄の社長には何の接点もないはず。それなのに、なぜ執拗に標的にされるのか。もしかして、ミキが華栄と繋がっている?一瞬そんな疑念が浮かんだが、すぐに否定した。そんなはずがない。あの女はただの身寄りのない小娘だ。白彦の祖母に気に入られているという、ただそれだけの理由で白彦の妻の座に居座っている寄生虫に過ぎない。そうだ、あのおばあ様だ。あんな女の何がいいのか、頑なに璃々子を受け入れようとせず、未だに「私が生きているうちは、絶対に離婚など許しませんよ」と白彦に圧力をかけ続けている。あの老婆の存在こそが、二人を隔てる最大の障害なのだ。「……おい、璃々子」白彦に呼びかけられ、璃々子はハッと我に返った。暗い思考の海に沈んでいたことに気づかれぬよう、瞬時に愛らしい微笑みを浮