ログイン「いいえ。少なくともここでは、あなたは彼ではありません」詩織の言葉は冷たく、そして明確だった。結局、真理子は顔を真っ赤にして憤然と席を立ち、ヒールの音を響かせて会議室を去っていった。彼女の姿が見えなくなるや否や、密が怒りを爆発させた。「信じられません!あれじゃ恩を仇で返すも同然じゃないですか!自分を何様だと思ってるんですか、詩織さんにあんな口を利くなんて!」密の憤りは収まらない。「創業当初、『ココロ』に投資してもらうために詩織さんがどれだけ頭を下げて回ったか……どれだけ泥水をすすって、お酒を飲んで駆けずり回ったか!どうしてみんな、喉元過ぎれば熱さを忘れるんでしょうか!」「人間なんて、そんなものよ」詩織の声は淡々としていた。かつての自分なら、密と同じように怒り狂っていただろう。だが、あまりに多くの裏切りと喪失を経験した今の彼女には、他人の醜悪なエゴイズムになど何の期待も抱けなくなっていた。そんな詩織の諦念を感じ取ったのか、密がふと不安げに尋ねた。「……久坂さんご自身も、同じお考えなんでしょうか?」「さあ、ね。それよりも、真理子が最近誰と接触しているか調べて」密の仕事は迅速だった。午前中に指示を出したその日の午後には、既に調査結果がデスクの上に置かれていた。「……『栞』?」報告書にあるその社名を見た瞬間、詩織の胸になんとも言えないざわめきが走った。自分と同じ読みを持つ会社名。単なる偶然だろうか。聞き覚えは全くない。けれど、なぜか奇妙な既視感のようなものが肌にまとわりつくのを感じた。「ここ二年ほどで急激に成長してきたテック企業です」密が補足する。「主力は高温超伝導技術で、その完成度は驚異的だそうです。国内市場を独占するだけでは飽き足らず、海外の大手とも次々と提携を結んでいるとか」「へえ……」「ただ、ここの本当のオーナーは謎に包まれていて、まだ一度も公の場に姿を見せていないんです」提出された企業概要書には、代表者名として「村田」という五十代の男の名前が記載されているだけだった。 だが、その男の名義には他に何の関連企業も見当たらない。いわゆる『雇われ社長』の匂いがぷんぷんする。もし真理子が、この正体不明の急成長企業『栞』と手を組んでいるのだとしたら……華栄キャピタルにとって、決して看過できる事態ではない。時を同じ
太一がようやく柊也を見つけた場所は、またしても南山湖のほとりだった。いつもと同じ、あの場所だ。「そんなに江崎がここに何を投げ捨てたか気になるなら、いっそ業者を呼んで湖の水を全部抜いて探させてやろうか?」言っている自分でも、その言葉の虚しさに呆れてしまう。そもそも詩織が具体的に何を捨てたのか、誰も知らないのだ。仮にそれが何か分かっていたとしても、あれから既に五年が経過している。広大な湖の泥底をさらって小さな何かを探すなど、雲をつかむような話だ。「なぁ、柊也。今どこに住んでるんだ?」太一はずっと気になっていたことを切り出した。心療内科医の掛川からは、一刻も早く柊也に専門的なセラピーを受けさせるよう忠告されていた。だが、治療を勧める以前に、まずは彼の居場所を把握し、いつ起きてもおかしくない自傷や自殺衝動を未然に防がなければならない。「聞いてどうする」柊也は水面を見つめたまま、頑として口を割ろうとしない。無理に聞き出すわけにもいかず、太一は話題を変えることにした。「それなら……『栞』に戻ってこないか?もともとあんたが作った会社だろ。あんたが復帰してくれれば、俺もようやく休暇が取れるってもんだ」「興味ない。それに、今の代表名義はお前だ。俺には関係ない」柊也の声は澱んでいて、生気がない。何に対しても関心を持てない、魂が抜け落ちたような状態だった。太一があの手この手で言葉を尽くしても、柊也の閉ざされた心を動かすことはできなかった。結局、彼が今どこで雨風をしのいでいるのかさえ聞き出せずに終わった。週が明け、月曜日。AIプロジェクト『ココロ』のチームが、定例報告のために華栄キャピタルを訪れた。しかし、会議室に現れたのはプロジェクトリーダーである技術者の智也ではなかった。現れたのは、智也の妻――そして『ココロ』の現副社長を務める、久坂真理子(くさか まりこ)だった。詩織の中に残っている真理子の印象は、まだ彼女が智也の秘書として働いていた頃のものだ。当時の彼女は、慎ましやかで分をわきまえた、実直な女性だった。だが今、ふんぞり返るように座っている目の前の傲慢な女は、かつての彼女とはあまりにかけ離れていた。同一人物だとは、到底信じ難い変貌ぶりだった。「何このコーヒー、ひどい味。まさかインスタントじゃないでしょ
あのとき、『一度だけでいい、彼女の運転手として一番近くで見守らせてくれ』と懇願されて、渋々了承したのはつい先日だ。それなのに、まさか今日もまた、本来の運転手である湊と入れ替わっているなんて。「彼女の邪魔はしない。ただ送るだけだ」マスク越しの声は低く、くぐもっている。「もう邪魔をしてるじゃないですか!」密の鋭い指摘に、柊也は二秒ほど沈黙した。「……これが最後だ。約束する」その悲痛な響きに、密は唇を噛んだ。本来ならここで警備員を呼ぶべきだ。けれど、彼の目に見える絶望と懇願の色に、どうしても非情になりきれない自分がいた。「……本当に、最後ですよ」密はため息交じりにそう告げると、助手席へと乗り込んだ。車は夕闇に包まれた街を、滑らかに走り出した。華やかに灯る街灯と流線型のネオンが、バックミラーの中に次々と現れては消えていく。車内は至って静かだ。不意にスマートフォンが震えた。柊也は瞬く間に着信を切った。そして、緊張を滲ませながらバックミラーへと視線を走らせる。後部座席の詩織は、幸いにも目を覚ましてはいなかった。迅速な反応が功を奏したのか、あるいは深い眠りに落ちているのか。彼女の穏やかな呼吸は乱れることなく続いている。マンションの前に到着し、エンジンを切る。走行音が消え、静寂が訪れると、その変化を察知したのか、詩織がゆっくりと目を開けた。「……ん」「……ん」頭が重い。久々の深酒で、すっかり弱くなってしまったらしい。窓の外には見慣れた我が家のエントランスがあった。けれど、すぐに降りようとはせず、詩織はこめかみを軽く揉みほぐした。「まだ少し酔ってるみたい。……南山湖まで行ってくれる?風に当たって酔いを覚ましたいの」運転席の男の手が、強くハンドルを握りしめた。しかし、彼は何も言わず、再びエンジンを始動させた。静かに、けれど確実に、車は南山湖へと向かって走り出した。湖畔に到着しても、詩織は車から降りようとはしなかった。ただ窓を半分ほど開け、そこから吹き込む夜風を全身で受け止めている。季節は初秋。夜気は適度に冷たく、それでいてどこか優しさを含んでいた。火照った頬を撫でる風が心地よく、アルコールで麻痺した思考を少しずつクリアにしていく。詩織は窓枠に頭を預け、数分間、ただぼんやりと湖面を渡る風を感じていた。「も
だが、その事実を知った途端、胸の奥で固く結ばれていた何かが、ふっと解けたような気がした。とにかく、無事に社会へ戻ってこられたのだ。それだけで十分だ。柊也について、それ以上の詮索はしなかった。それよりも、目の前のミキの憔悴ぶりが心配でならない。「ミキ、顔色が優れないわ。今日はもう先に帰って休んだほうがいい」詩織の心遣いに、ミキは素直に従うことにした。これ以上、あの不愉快なカップルと同じ空間に居続けるのは御免だった。ミキを見送り、会場に戻った詩織を待ち受けていたのは、その当事者たちだった。白彦と璃々子が、乾杯の挨拶の前に駆け寄ってくる。以前の詩織なら、この二人に含むところはなかっただろう。接点など皆無に等しい。しかし、つい先日、ミキが血の滲むような努力で勝ち取った映画のヒロイン役を、璃々子が白彦の威光を使って横取りした一件を知っている。だから、彼らに向ける詩織の眼差しは、どうしたって冷ややかなものにならざるを得なかった。挨拶を終え、演壇へと向かう詩織の背中を見送りながら、璃々子は眉を曇らせた。「ねえ白彦兄さん……今の江崎社長の態度、なんだかよそよそしくなかった?」「そうか?初対面なんだ、あんなものだろう」「ううん、違う。女の勘よ。私、嫌われてる気がする」璃々子には確信があった。ミキから奪ったあの役も、結局すぐに降板させられた。その理由を探ってみると、どうやら『華栄キャピタル』の上層部からの圧力があったらしいのだ。自分と華栄の社長には何の接点もないはず。それなのに、なぜ執拗に標的にされるのか。もしかして、ミキが華栄と繋がっている?一瞬そんな疑念が浮かんだが、すぐに否定した。そんなはずがない。あの女はただの身寄りのない小娘だ。白彦の祖母に気に入られているという、ただそれだけの理由で白彦の妻の座に居座っている寄生虫に過ぎない。そうだ、あのおばあ様だ。あんな女の何がいいのか、頑なに璃々子を受け入れようとせず、未だに「私が生きているうちは、絶対に離婚など許しませんよ」と白彦に圧力をかけ続けている。あの老婆の存在こそが、二人を隔てる最大の障害なのだ。「……おい、璃々子」白彦に呼びかけられ、璃々子はハッと我に返った。暗い思考の海に沈んでいたことに気づかれぬよう、瞬時に愛らしい微笑みを浮
霜花との再会は、詩織にとって少々面倒なものだった。彼女の人懐っこさは昔と変わらない。良く言えば社交的だが、悪く言えば距離感が近い。夫の京介に伴われて挨拶に来たかと思うと、そのまま詩織を捕まえて話し込んでしまった。「詩織さん、また綺麗になったんじゃない?」「仕事も順調だし、素敵な婚約者までいて羨ましいわあ」褒め言葉もそこそこに、話題は自然とノロケ話へとシフトしていく。京介がいかに自分を大切にしてくれているか。自分がまだ若いからという理由で、子供はもう少し待とうと言ってくれていることなど、夫婦円満ぶりを滔々と語り始めた。他人の家庭事情、それも幸せ自慢に付き合わされるほど退屈なことはない。詩織が内心でうんざりしていたその時、タイミングよくスマートフォンが震えた。親友のミキからだ。詩織は救われた思いで、「ごめんなさい、友人を迎えに行かなくちゃ」と霜花に断りを入れ、足早にエントランスへと向かった。回転ドアを抜けて飛び込んできたのは、空港から直送で駆けつけたミキだった。ドレスアップはしていないものの、その洗練されたカジュアルな装いは、隠しきれない女優オーラを放っている。「詩織!間に合ったわよ、私ってすごくない!?」ミキは勢いよく詩織に抱きついた。「わざわざバカンスを切り上げてまで来ることなかったのに」「バカンスなんていつでも行けるけど、華栄キャピタルの移転パーティーは一生に一度きりでしょ?私だって一応、この会社の出資者なんだから!」調子の良いことを言うミキに、詩織は苦笑した。ふと、彼女の輪郭に違和感を覚える。「ミキ、あなた……少し太った?」「グハッ!いきなり殺傷力の高いセリフ吐かないでよ!」ミキが大げさに胸を押さえて後退る。「だって、前が痩せすぎだったから。少しお肉がついただけでも目立つのよ」「ま、まあね。海外のご飯はおいしいし、開放的になっちゃってさ。あっちのメンズも凄かったわよ~、詩織も一度くらい味わっとけばよかったのに」詩織は呆れて言葉も出なかった。その後、高村教授が到着し、詩織は彼を案内して貴賓室へ。一人残されたミキは、気ままに会場を散策し始めた。色とりどりのスイーツをつまみ、フレッシュジュースで喉を潤す。久々のパーティーの空気を楽しんでいた、その時だった。「なんであんたがここにいんの?」
松本千代子――それは、賀来家で長年仕えている家政婦、松本さんのフルネームだ。ただの家政婦である松本さんが、これほどの巨額を用意できるはずがない。つまり、答えは明白だった。「詩織さん、どういうことですか?」傍らで不思議そうにする密の声も、今の詩織には遠くのざわめきのようにしか聞こえない。思考が千々に乱れ、ざわざわと胸が騒ぐ。「……ここの賃貸件、もう心配しなくていいわ。契約は二十年になってたから」「えっ、二十年?そんなに長くですか?」詩織は返事もせず、上着をひっつかんでオフィスを飛び出した。「詩織さん、どこへ行かれるんですか!」背後から投げかけられた密の問いかけも、耳には入らなかった。詩織は車を飛ばし、再び賀来邸の前へとたどり着いた。しかし、いざ重厚な門扉を前にすると、ブレーキを踏む足に力がこもった。ここに入れば、間違いなく今の均衡が崩れる。ようやく、本当にようやく、泥沼から這い上がり、手に入れた平穏な日々だ。その静けさを自ら壊しに行くような真似をしていいのか。過去の傷を掘り返す勇気も、覚悟も、今の彼女にはない。詩織はハンドルを切り返した。まるで最初からここになんて来なかったかのように、彼女は静かに車を発進させ、その場を離れた。華栄キャピタル本社移転の祝賀パーティー当日。会場のホテルには、江ノ本市の政財界の重鎮たちがこぞって顔を揃え、立錐の余地もないほどの盛況ぶりとなっていた。きらびやかなシャンデリアの下、詩織は懐かしい顔ぶれと再会した。譲の姿があり、智也の姿もあった。少し意外だったのは、智也が一人で現れたことだ。密が招待状を送った際、宛名は彼と奥様、夫婦連名にしていたはずなのに。とはいえ、何か事情があるのだろう。他人の家庭の事情に立ち入るほど、今の詩織は無神経ではなかった。予想外の来客があった。賢だ。一年ぶりの再会となる彼には、いよいよ官僚としての風格が備わっていた。噂によれば、また一つ出世の階段を上ったらしい。それからもう一つの噂――彼は未だに独身を貫いているらしい、とも。「江崎社長、ご移転おめでとうございます。華栄キャピタルのさらなるご発展と、輝かしい未来を心よりお祈り申し上げます」流暢な祝辞に、詩織はフォーマルな笑みで応える。「ありがとうございます、篠